知性人の態度



 物を書くことが次第に難しくなつてきたが、いつたいこの時代に我々はどのやうな心構へをもてば好いのか、と私は屡々質問されます。これに対する私の答へは簡単です。お互に支那人に笑はれないやうな物を書かうではないか、と私はいつも答へます。
 それはまた私が現在他の人の文章を評価する基準でもあるのです。それは簡単な基準ではありますが、しかし近来新聞雑誌等に現れる文章の中には、支那人がこれを読めば軽蔑されさうなものが尠くないやうに思はれます。まことに因つたことです。
 事変前には非常に多くの支那人が我々の書くものを読んでゐました。現在では減つたに相違ありませんが、それでもいくらかは読まれてゐることでせうし、そしてその場合にはきつと以前よりも注意深く読まれてゐることであらうと思ひます。否、そのことに関はりなく我々はいつでも支那人から軽蔑されないやうな物を書くことを心掛けねばなりません。
 支那の読者を念頭において物を書くなどと云へば、我々を叱る愛国者もあることであらうと思ひます。けれども愛国心がこのやうな仕方でのみ現れるのは善いことではありません。今度の事変の目的は日支の間に究極的な親善の関係を確立することにある筈です。そしてこの事変の唯一の解決の道は「長期建設」にあるとも云はれてゐます。我々が協力すべき、また協力し得ることは実にこの長期建設の方面であつて、それには差当り支那人から軽蔑されないやうにするといふ心構へが大切です。我々が日本の立場に立つて物をいふのはもとより当然のことですが、しかしそれは支那人を納得させ得るやうな議論でなけれはなりません。支那人に笑はれるやうな物を書くことは決して「国策の線に沿ふ」所以ではありません。しかるに国策の線に沿ふと称する人々が支那人から軽蔑されさうな文章を平気で書いてゐるのはどうしたことでせう。
 いつたい日本の著述家は読者を念頭において物を書かない風があるといはれてゐます。そのやうな態度が彼等を独善的にするのです。それは著述における官僚主義とも呼ぶことが出来るでせう。読者を念頭において物を書く場合にも、これまでその読者は日本人だけに限られてゐました。そのことが日本人の思想や藝術を狭いもの、小さいものにしてゐたといふことがあつたともいへるでせう。しかし今後我々は少くとも支那人を念頭において仕事をするやうにしてゆかねばならぬと思ひます。それは日本文化の発展にとつて大切なことです。
 支那人から軽蔑されないやうにするといふ心構へは、単に物を書く上だけでなく、我々のすベての行為にとつて大切なことであります。荒木文相は「世界的日本人」になれと云ひましたが、支那人をチャンコロ扱にしてゐるやうでは到底世界的日本人になることができません。他人を軽蔑することは自分を軽蔑することです。世界的日本人となるためには先づ支那人に笑はれないやうにしなけれはなりません。支那人をほんとの意味で愛することを学ぶのは、従来日本人の意図とされてゐる西洋崇拝を打破する上においても役立ち得ることであると思ひます。

             (八月二十五日)