新性格の創造

 すべて存在するものには存在する理由がなければならない。翼賛会には翼賛会の存在する理由があるべき筈である。物の存在理由はその端初に還つて考へることによつて明瞭になることが多い。元来大政翼賛会が作られるやうになつたのは、支那事変遂行のために政治力を強化するといふことからである。これが翼賛会の出来るに至つた根本動機であり、つねに想起されねはならぬものである。政治性を持つといふ点で翼賛会は以前の国民精神総動員とは異るものであり、後者に代つて前者が現はれねばならなかつた理由もそこにある。大政翼賛会は誕生の後間もなく改組になつたが、政治性をなくするやうなことがあつてはその存在理由を失ふことになるのであつて、近衛総裁が改組後においても翼賛会は飽くまで「高度の政治性」を保持するものであると言明したのは当然である。さきの精動に対する翼賛会の新しい性格は高度の政治性といふことになければならない。しかもその後の国際的並びに国内的諸事情は今日、翼賛会のこの性格について何等変更を必要としないのみか、反対にその性格の愈々発揮されることを要求してゐるのである。緊迫せる国際情勢の中にあつて「政治力の強化」が絶えず叫ばれてゐる。翼賛会はかかる政治力の強化に対して重要な役割を演ずるのでなければならぬ。
 政治力の強化といつても種々のものが考へられるであらう。そしてこの場合にも翼賛会の成立の当初に還つて考へることが必要である。当時いはゆる新体制の中心的な問題になつたのは、国民再組織とか国民再編成とかいふことであつた。翼賛会は元来この問題から出発して生れたものであつてそこに議会新党の如きものでなくて大政翼賛会が作られた理由があり、そこにまたこのものの新しい性格があるべき筈である。即ち翼賛会は国民組織的な性格のものでなければならない。それが従来の政党の如きものとも異り、更に精動の如きものとも異るのは、この新しい性格のためである。その協力会議が「家族会議」といふやうに呼ばれる理由も、単にそれが形式張らずに和気藹々のうちに運ばれるといふことにのみあるのではなく、根本的には翼賛会の国民組織的な性格に依るのでなけれはならぬ。しかもそれが家族会議といふやうに考へられるのは、日本のくにがらに基くことであつて、この点からいつても、翼賛会は全く独自の性格のものであるべき筈である。
 改組後の翼賛会は過般第一回の中央協力会議を持つた。その機能は「上意下達、下意上達」にあるといはれてきたのであるが、改組後の翼賛会に対して多くの人々が懸念してゐたことは、それが単に上意下達の機関となつて、下意上達の面をなくしはしないかといふことであつた。しかるに事実はむしろ反対の感を与へた。第一回中央協力会議が一般に「好評」であつたといふのも、これに依るであらう。即ち改組によつて翼賛会が精動化してしまひ、単なる上意下達の機関になるものと思はれてゐたところ、必ずしもさうでなく、或る程度下意上達の機能を果したやうに感じられたのである。そして逆に、協力会議の論議に対する政府側の答弁不足、説明不足が指摘され、何故に政府側が委員会などにもつと多数出席して、真摯な質問応答を展開しなかつたかといふ批評があつたのである。政府としてはその政策を国民に徹底させるために協力会議を一層有効に活用する必要があるであらう。ともかく或る程度の上意上達の目的が達せられたといふことは第一回の会議としては相当の収穫であつた。
 中央協力会議において議せられた問題は一応整理されたとはいへ多種多様であつた。しかるにそのために焦点がはつきりせず、国民に対する印象が幾分ぼやけた憾みがなかつたであらうか。これは重点主義の立場において更に集中され、統一さるべきものである。地方代表といひ、各界代表といつても、単にその地方、その職場の利益を代表するといふが如き性質のものでない以上、その議案についてもつと重点主義を採用すべきであると思ふ。元来、翼賛会は支那事変遂行の必要から生れたものであるが、それはともかくとしても、現に日本が戦ひつつあるといふことは厳然たる事実であり、かかる戦時下の協力会議は重点主義でゆくことが当然である。もちろん、高度国防国家体制といふものの内容は多方面であるが、それにしてもおのづから重点的な問題と必ずしも急を要しない問題との区別がある筈である。率直な言葉でいふと、現在必要なのは「戦時意識」の昂揚である。爆弾の一つも落ちてこない日本に生活してゐることは我々の大きな幸福であるが、そのために戦時意識が乏しくなるといふ危険もあるのである。協力会議の議題も事変処理の立場における重点主義が一層徹底さるべきであつて、あらゆる問題について各人が銘々の意見を述べるといふことになれば、国民に対して一種の雄弁大会の如き印象を与へることになるであらう。
 末次議長は次のやうに述べた。「世間ややもすれば一億一心を要請されてゐる故にいひたいこともいへず、無理にも我慢してついて行くといふやうなことを以て時局柄已むを得ぬことと心得てゐるものが無いとは限らないが、かくの如きは一億一心の履き違ひである。国家興廃の岐路に立ち国のためにこれが善いと思ふことを発言するに何の憚るところがあらう。」これは極めて適切な言葉である。挙国一致といつても個人の創意を活かしてゆくことが大切であり、そのためにはいひたいことがいへないやうなことであつてはならぬ。協力会議における言論の尊重が大切である。衆智を集めるといつても言論の尊重がなけれは不可能なことである。第一回中央協力会議において言論尊重の傾向が認められたのは宜いことであつた。
 しかるに言論の尊重といふことには、言論によつて得られたものを実践に移すといふことが含まれねばならぬ。言論は実践に移されることによつて真に尊重されることになるのである。協力会議における言論から得られたものを政府はどれだけ実践に移してゆくのか、それについて国民の納得し得るものを示さなければならぬ。協力会議後多くの人が問題にしたのはその点であつた。もちろん翼賛会は一定の政策を持つて、その実行を政府に迫るといふが如きものではないであらう。しかしその言論が何等かの効果を持つことは国民の期待するところであり、協力会議としてもその言論の実践性について強い関心をもつてゐるのでなけれはならぬ。実践性のない政治性といふものは考へられない。翼賛会には運営委員会といふものが出来たやうであるが、その言論を実行に移してゆくことについては翼賛会としても十分に考へなけれはならない。協力会議は議会とは異るにしても、会議である以上、何等か結論のやうなものがあるべきであり、それを明示して国民に呼び掛けるところがなけれはならない。その言論が従来の議会におけるいはゆる土産演説とか自己宣伝演説とかのやうなものになつては協力会議も意味がないであらう。
 協力会議における言論が実践性を持ち得るためには、会議における代表者が国民の組織と密接な関係をもつてゐるのでなけれはならない。しかるに「代表」とはいはれても、どのやうな意味で実際に代表であるのか不明なところがあるのではなからうか。もちろん翼賛会の代表は国会議員の如きものとは異り、選挙によつて選出される性質のものではないであらう。従来のいはゆる選挙によつて真に代表が得られるかどうかも疑問である。真の代表は国民の組織と密接なつながりを持つものであるべき筈である。単に個人的意見を述べるといふのでは、協力会議も雄弁大会の如きものに終る惧れがある。ともかくその「代表」といふものの意味が不明であるところから折角の協力会議も国民に何か自分たちには関係の薄いものであるかのやうな印象を与へるやうなことになつてはならない。翼賛会の出発点が国民再編成とか国民再組織とかいふ問題に関連してゐたことを考へると、協力会議の代表もこの再編成或ひは再組織の線に沿うて選ばれ、それによつて翼賛会の政治的実践的性質が明瞭になつてこなけれはならないのでないかと思ふ。
 大政翼賛会は従来の議会とも精動とも異る新しい組織であり、それらに対して新しい性格のものである。この新しい性格が具体的に如何なるものであるかは、まだ十分に明かでない。翼賛会は自己の活動を通じてその新しい性格を創造してゆくことが必要である。いはゆる新体制の名のもとに従来いろいろ新しい組織が作られてゐるが、一旦作られてしまふと在来の何等かの組織と同じやうな性質のものであることが多い。新体制の名のもとに作られる組織はその性格において根本的に新しいものでなければならぬ筈である。翼賛会は精勤化したとか内務省の外局のやうなものだとかいふ批評を蹴破つて、真に新しい自己の性格を創造してゆくことが期待されるのである。