試験制度について

 毎年試験の季節になると試験制度が種々問題にされる。このやうに試験制度が繰返し問題にされるといふことは、それが単純な問題でないことを示してゐる。実際、試験制度は現在二重の見地において、即ちその教育的意義と社会的意義とに関して問題を含んでをり、これら二つの見地が相互に一致しないで交錯してゐるところに問題の複雑性がある。教育的価値の見地からは現在の試験制度が改善もしくは廃止さるべきものであるとしても、かかる改善もしくは廃止も試験制度が現在有する社会的意義の見地から不可能にされるところに矛盾があり、問題があるのである。
 試験制度の有するかやうな二重の意義は、試験そのものの二重性となつて現はれてゐる。試験は現在殆ど凡ての場合二重化されてをり、そのために青少年に対する試験の負担も倍加されてゐるわけである。
 先づ、小学から大学に至るまで毎学期或ひは毎学年に試験が行はれる。このやうな試験は主として教育的意義のものであつて、一層高級な階梯の学習にとつて必要な一層基礎的な学習が完成してゐるか否かが試験されるのである。しかるにそれのみでなく、他方において中等学校から(時には小学校から既に)大学に至るまで入学試験が行はれ、その他にも高等文官試験等の如きものがある。この種の試験は教育的見地から必要であるのではない。教育的見地からいへば、小学校の卒業生は凡て中等学校に入学し得るはずであり、中等学校の卒業生はいづれも高等学校乃至専門学校に入学し得る資格を有するはずである。それらの卒業生について更に入学試験の如きものが行はれねばならないのは、現在ではそのやうな学校の設備が十分でなく、彼等の幾バーセントしか収容し得ないといふ社会状態に制約されてゐるのである。試験の負担は今日の社会的条件によつて加重されてゐる。
 試験の有する二重の意義のうち支配的であるのは殆どつねに社会的意義であることは注意されねばならぬ。仮に教育的見地から試験が必要であるとしても、それはその独自性もしくは固有性において認められず、却つて社会的見地に従属させられ、或ひは犠牲にされてゐる。小学校や中等学校は上級へ入学するための準備の場所に過ぎなくなり、その試験も初年級から既にかかる入学試験準備の目的に捧げられてゐる。人間の一生においてそれぞれの時期は、もとより後の時期に対する準備の意味を有するが、同時にそれはまた自己自身の目的であつて、教育もこの見地から行はれねばならぬに拘らず、ただ入学試験準備に力が注がれ、従つて現在では多くの人間は真に少年時代も青年時代も持たないで過ぎるといふ不幸な状態に置かれてゐる。教師は上級の学校への入学率の高いことのみを誇りにする。かくて上級の学校へ進むことのできない貧しい家庭の生徒は、高等教育を受けようとする富裕な家庭の生徒のために絶えず犠牲にされるといふことが生じてゐる。
 小学校や中等学校が入学試験準備のための学校となつてゐるやうに、専門学校や大学は就職のための学校となつてゐる。そして大学生は大学内の試験を受けねばならぬことは勿論、官吏志望者は、その他場合によつては実業家志望者の如きも、その上更に国家試験を受けねばならず、試験はこのやうに絶えず二重化されてゐる。かくの如き二重化をなくする方法は、純粋な教育的見地において試験が必要であるか否かを検討し、もし不必要であれば、断然廃止することである。そしてもし社会的関係において試験が必要であるとすれば、現在の国家試験の如き制度を拡張して法科関係以外、経済科、文科等々についてもそれぞれに施行し、その代り学校内部の試験は全く廃止してしまふがよくはないかと考へる。その際なほ入学試験の問題が残されるであらう。これには内申制度などもあるが、多くは試験の参考に供せられるに留まり、また種々の弊害も伴つてゐるやうである。
 今日の学校生活を甚だしく憂鬱にしてゐる試験制度が教育上から見てどれほど必要であるかは疑問である
むしろその弊害の方が大きくはないかと思ふ。
 平素生徒(学生)に始終接触してゐる教師は、彼等の学力がどのやうな程度のものであるか、判つてゐるはずである。それが判らないとすれば、現在の学校においてしばしば見られる如く、一つの学級或ひは、一つの教室における生徒の教があまりに多く、彼等に親しく接触することが教師にとつて実際上不可能にされてゐるからにほかならない。そこで試験による考査が必要になつて来るとすれば、そのことはつまり試験制度が社会的に制約されてゐることを示すものである。教師の手にあまるやうな人数を一学級或ひは一教室に収容しなければならぬといふことは、現在の社会的条件にもとづいてゐる。
 もちろん何点何分と採点し、また幾十人幾百人の生徒を一番二番と厳密に順位をつけるためには、試験によるのほかないであらう。しかしそのやうなことが教育上何等か必要であらうか。それは教師自身にとつてさへ有害である。凡ての人間に一律の試験問題を課して採点し、席次を決定するといふが如きことに知らず識らず影響されて、教師は生徒のそれぞれの個性を無視することに陥り易い。試験制度は個性教育に悖り、個性教育が発達しないのは試験制度の結果であるとさへいふことができる。尤も社会上の一定の制度の維持のためには、あらゆる人間に対して一律の試験を行ふといふことも必要であらう。日本の教育は従来主としてそのやうな制度主義に立ち、従つて個人の個性の教育において大きな故障を有した。そのことは試験制度とも関連してゐるのである。試験制度は学生をして教師の言葉を鵜呑みにする習慣を作らしめ、彼らの知的好奇心、探究心、独創力、直観力、批判力などを減殺する。近頃しきりに日本主義者によつて西洋崇拝が非難されてゐるが、そのやうなことがあるとすれば、それは東洋古来の試験制度の弊害の結果であるともいへるのである。
 試験制度は生徒の競争心を喚起し、学業の進歩に役立つと考へられるであらう。確かにそのやうな方面がある。しかしそのことも彼らの虚栄心を刺戟することになるばかりでなく、寧ろしばしば彼らの親の虚栄心を刺戟し、子供が親の虚栄心の犠牲に供せられるといふことが生じてゐる。学校の点数や席次により多く関心するのは、殊に中流以上の家庭においては、子供よりも親である場合が多い。親の虚栄心から子供は無理な勉強を強ひられ、自分の学力に相応しない学校の入学試験などを受けさせられる。敏感な都合の子供にあつては、試験における成績の競争のために友達の間の交情も冷やかになる。また特に上級の学校においては、試験制度はドイツ人のいはゆるシュトレーバーを多く作つてゐる。試験制度は単に知的方面においてのみでなく、道徳的方面においても種々の弊害を醸してゐるのである。
 青少年の健康に対する試験制度の害悪はいふまでもない。わが国の生徒及び学生の健康がいかに憂慮すべき状態にあるかは統計的調査によつて示されてゐるが、その原因の重要な一つは試験にあるであらう。教師また或る親たちは子供が平素怠けておいて試験勉強することを非難する。しかし試験制度が存在する以上、いはゆる試験勉強が存在するのは当然である。平素怠けてゐると否とに拘らず、試験にとつては試験勉強といふものが必要であり、またその効果もあるのである。殊に大学などにおいては、平生自分の好きなことを研究してゐるやうな熱心な勉強家は却つてそのために平生聴講してゐない科目の受験にあたりプリント或ひはノート借用によつて試験勉強だけですまさねばならぬ必要をもつであらう。試験制度を認める以上、平生の聴講の有無をやかましくいふことはむしろ道理に合はないことになる。
 かやうにして試験制度が教育上から見て種々の弊害を有することは多くの人々によつて認められてゐる。勿論あらゆる種類の試験に教育的価値がないといふのではない。否、ある種の試験は教育上必要であり、有効であるけれども、それは決して今日普通に行はれてゐる試験の如きものではないであらう。しかるに既に述べたやうに、現在試験は純粋に教育的見地から行はれてゐるのでなく、却つて学校は入学牢試験準備機関となり就職機関と化してゐるといふのが実情である。
 もつとも試験制度がどのやうなものであるにしても、学校を出ることが直に社会における大きな特権を意味する場合には、それも我慢すべきであるかも知れない。昔は実際その通りであつた。だから試験制度にも社会的価値があつたわけである。しかるに事情が甚だ変化した今日では、試験制度はただ昔の「遺風」に過ぎないといつてよいほどである。小学から大学に至るまで幾十回かの試験を受けて漸く学士になつたとしても、それで安全に就職することができるわけではないし、また漸く就職したにしても昔のやうな特権的地位に昇り得る機会は著しく減少してゐる。そればかりでなく、昔のやうに就職の心配がなかつた時代には、試験制度が存在しても、その弊害は比較的少なかつたに反し、今のやうに就職が困難になると却つてその弊害がますます大きくなつて来る。昔は「点取り虫」といつて軽蔑されたけれども、今では殆どすべての学生がその点取り虫に化してゐる。我が国では次第に人間の型が小さくなり、大きな人物が少くなるといはれてゐるが、そのやうに人間の型が小さくなるといふことには我が国の教育が大いに関係してゐる。また日本人には学校を出てから勉強する者が少いといはれてゐるが、学問に対する興味を失はせるのは試験制度である。試験制度は学問を単なる功利主義に堕落させるものである。
 しかし学校内部の試験制度は廃止し得るとしても、入学試験の如きものを廃止し得るであらうか。現在の如く大量の入学志願者が殺到する場合、試験制度は避け難いやうに見える。何故にかくも多数の入学志願者が存在するのであらうか。それが純粋に我が国人口の智的向上と経済的余裕とを語るものであれば、まことに喜ぶべきことである。しかるに事実は単純にさうであるのではなく、むしろ反対に中産階級の没落、農村および小商工業者の窮迫を語るものでなからうか。今日の社会において中産階級は没落の傾向甚だしく、かかる没落を何とか防ぐために彼等はその子弟を学校へ送る。学校を出ることが社会的特権を意味した時代の夢がいまだに覚め切らないといふこともあらう。また我が国になほ著しく残存する官吏崇拝の風に感化されてゐるといふこともあらう。農村の窮乏はその人口の一部を都会へ送る必要に迫られ、そのために彼等の子弟を学校へ入れるであらう。小商工業者の窮乏は、彼等の子弟を大会社のサラリーマンとするために学校に入学させる。かやうにして志願者は増加し、入学試験は激烈になる。試験制度は嘗て特権制度であつたが、その特権的意義が次第に減じて来た今日においても、なほ僅少な特権を求めざるを得ない階級の存在によつて苛酷にされてゐる。ここにも試験制度の社会性がある。
 試験制度はまた我が国における教育機関の画一化によつて強化されてゐる。これは我が国の教育が制度主義であるといふこととも関係するであらう。各学校の特色がもつと明瞭であり、各々その特色を発揮することに努力するならば、試験の激烈さも緩和され、その弊害も減少するであらう。ところが現在では、例へば官立学校と私立学校とにおいて教授内容は同一であり、ただ後者は設備その他の点で劣つてゐるといふだけで前者と相違するといつた状態であるために、試験制度も強化されるのである。画一主義の教育と試験制度とは相互に関連してゐる。そして今日我が国の風潮が教育における制度主義、画一主義を強化しつつあることは見逃せない