新日本の指導力としての宗教

 支都事攣はなほ蓉展の途上にある。今日その結果、その影響を見究めることは不可能であり、
従つてその意義を完全に理解することも困難であらう。しかし、日本の大陸政策がどのやうなも
のであり、またどのやうなことになるにしても、この事攣と共に日本が世界的にならねばならな
くなつたことは明かである。爾後、日本の政治は世界的にならねはならないし、日本の文化も世
界的にならねはならぬ。かやうに日本が世界的にならねばならぬ必要はもちろん支那事欒以前に
ぉいても存在しなかつたわけではないが、今度の事攣を機曾としてその必要が一段と現責的にな
ったのである。支邸事攣の一般的意義はそこにある。いはゆる躍進日本とは世界の舞真に出た日
本のことであり、世界的になつた日本を意味してゐる。この事資は同時に要求であり、また責任
である。日本がこの責任を十分に轟すのでなけれは、日支間の諸問題の教展的解決も望まれない
であらう。
 かくの如く日本の政治も日本の文化も世界的にならねばならぬとすれは、日本にとつて最も必
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要なのは世界的な思想である0思想のない政治も文化も今日考へることができぬ。思想は政治や
文化の指導力である0ところで日本の侍統的思想のうち世界的性格を最も明瞭に具へてゐるのは、
何と云つても俳教である0彿教がキリスー教などと並んで世界宗教であることは世界的に認めら
れてゐることである0尤も、これまで日本においては併教の世界的性格はあまり閏超にせられな
かつた0従来の日本の闘際的地位に従つて、その必要があまり存在しなかつたからである。併教
は日本においていはゆる大乗相應の地を見出したと云はれるが、逆に、・その日本の併教の世界的
性格は根本的に問超にせられたことがなかつた0しかるに現在支郷事攣を機禽として、日本の政
治も文化も世界的になることが現賓的に必要になつた場合、日本の俳教はまさに自己の世界的性
格を徹底的に閏超にすることを要求されてゐる0併教は如何なる意味において世界的であるか、
併教が世界宗教である本質は何虜に存するか、といふ問題は、現在併教の研究に課せられた新し
い問超である0この鮎について併教の本質が新たに究明され、それを通じて併教は今日我が国の
政治や文化を指導してゆかねはならない0併教が世界的であることは誰も漠然とは感じてゐるこ
とである0けれどもその世界的性格の本質が何であるかについての根本的な憶系的な認識はこれ
まで存在しないやうに思はれる〇      .
一ヨ
 過去二毒の間、教囲は俳教の日本的性格を明かにすることに努めてきた0この努力の政治的
意味は別にしても、それが俳教自身にとつて全く無意味なことであつたとは云はれないであらう0
しかし今日、日支親善の基礎となるべき思想が現賛的に問題になつて来ると共に、従来の日本主
義とか日本精神とかいふものについても新たな原理的な反省が要求されてゐるのである0軍に日
本的であつて世界的な意味を有しない思想は日本においては通用しても支那においては通用しな
いであらう。躍進日本の指導力としての彿教の指導性は、彿教の世界的性格、更に今日の世界文
化に相應したその現代的性格についての根本的な認識の中から出て来なけれはならないのである0
 それでは世界的とは一般に如何なることを謂ふのであるか。またそれは民族的といふことと如
何なる関係にあるのであるか。
 いま先づ、世界的といふことは軍に地域的に考へられてはならない0それは畢に地球上の地域
の仝憶を意味するのではない。民族といふものは地域的であり、一民族は集囲的に一定の地域に
根をおろして生活してゐるのがつねである。民族は畢に地域的なものでないと云つても、それは
地域と同様の自然的なものを基礎として成立してゐる0血縁は地縁と同じく自然的なものである0
世界がかくの如く地域的に考へられるものであるならは、一民族の思想が世界的であるといふこ
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とは不可能でなけれはならぬ0その場合には、シュペングラーの考へたやうに、一定の文化はそ
れの生れた土地に固着し、その土地において生長し、開花し、やがて凋落してゆくと云はねばな
らぬであらう。
口妄間の間遠についても今日なほ種々の地域的な考へ方が支配してゐる。日本と支琴とは隣国
である故に親善の関係を結はねはならぬといふやうな考へ方はその一つである。なるほビ隣国が
親密であることは確かに望ましいに相違ない0けれども二つの囲の間の親善の基礎は畢にそれら
の囲が隣同志であるといふことに求めることはできぬ0ドイツとフランスとは隣同志ではあるが、
久しい開戦宰を繰り返して来たのである0隣同志である日本と支却とは現在戦争をしてゐるので
あるが、この戦争の重要な目的は今後再び両囲の間に戦争が繰り返されないやうにすることでな
ければならぬ0それには南囲の親善が琴に地域的な考へ方以上のものを根抵として考へられるこ
とが必要である0その基礎は世界的な思想に求められねばならないのであつて、この場合世界的
といふことは畢に地域的な意味のものであることができない。
 日東翌日の基礎は併教に求めねばならぬとする者の中にも、併教は日本と支郷とを包括して東
洋的である故にそれに適してゐるといふ夙に論ずる老が砂くない。確かに俳教は、印度、支郷、
                                                              ゃ男Jr「Z。..凄√諾∃.、1 J∃八。一`カ 」イ
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日本の三園に博統的に通じ、その意味において東洋的である0しかしかやうに考へられる東洋的
といふことは矢張り地域的な概念である。もし畢に地域的に考へるならは、日支彗口の基礎とし
ては日本と支那とに倖統的に通ずる思想、例へば儒教の如きで十分であり、或ひはその方が東洋
仝慣に亙る併教よりも一層通常であるといふこともできるであらう○彿教の方が儒教よりも地域
的に廣い故に一層通常であると云ひ得るとするならば、現在東洋にまで接がつてゐる西洋文化の
方が更に地域的に廣く、従つてその方が彿教よりも更に通常でなければならぬわけであつて、俳
教が最も通常であるといふ絶封的な信念は出て来ないであらう○日本的と云ひ、東洋的と云つて
も、畢に地域的なことである限り相封的に止まつてゐる0日支親善の基礎は世界的な思想に求め
られねはならぬと云つても、畢に世界的といふことが東洋的といふことよりも地域的に廣いとい
ふことに依るのではない。彿数は畢に東洋的な思想でなく、まさに世界的な思想である故に、日
本に渡来して柴えることができたのであるし、また将来甘支翌日とか東洋平和とかの基礎をなす
思想ともなり得る可能性を有するのであるが、そのとき世界的といふことは畢に地域的な意味の
ことであることができぬ。日支間の諸問題を解決するに雷つて最も大切なことは軍に地域的な考
へ方以上のものに立つことである。しかるに今日なほ依然として地域的な考へ方が流行してゐる
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のは、宗教が政治の支配下、影響↑にあることを示すものである。民族的といふことは地域的に
考へられねばならぬにしても、世界的といふことは根本的には地域的に理解せらるべきことでは
ない0それでは地域的でない世界の意味は如何なるものであらうか。
凡て生命を有するものは自己を中心として生きてゐる○それは周囲のあらゆる物を中心である
ところの自己に関係付けることによつて生きてゐる0例へば、水を飲み、客気を吸ひ、土地から
養分を探るといふが如きことは、それらのものを自己を中心として関係付けることである。この
やうな自己に封してその周囲は項境と呼はれる0植物や動物はかくの如く自己中心的な生き方を
してをり、人間も自然的生命としては全く同様である0そのとき環境は自己を中心として成立す
るものである故に、ちやうビ一つの中心を有する囲のやうに1閉ぢたもの」である。凡て生命を
有するものはかくの如くに生き、民族の如きもその意味において閉ぢたものである。しかるに人
間にとつて特有なことは、かやうな項境が同時に世界の性格を有し得るといふことである。世界
は閉ぢたものとは反封に1開いたもの」である0人間にとつて世界が開いてゐるといふことは如
何にして生ずるであらうか0項境に封して人間はどこまでも自己が中心であり、そのために環境
は閉ぢたものと考へられるのであるが、それが開いたものとなるには、かやうに中心であるとこ
ろの自己を離れること、中心的でなくて離心的になるといふことが必要である。人間は自己自身
をも封象として見ることができ、自己の心をすらいはゆる内界即ち一つの世界として見ることが
できる。世界が成立するためには、このやうに人間の生き方が離心的であつて、自己が環境のう
ちにおいて中心でないといふことが必要である。環境のうちには中心があるに反して世界のうち
には中心がない。もし世界を囲に喩へるならば、それは唯一つの中心を有する園でなくて到る虞
が中心であるやうな固である。かやうなものとして世界は閉ぢたものでなくて開いたものである。
世界を有するといふことは人間に固有なことであり、人間は世界に向つて開かれてゐる0
 しかるに地域的に考へられる民族の如きものは開ぢたものである。その地域を、日本、日本と
支那、更に東洋、更に東洋と西洋といふ夙にどれほビ接げて行つても、閉ぢたものはどこまでも
閉ぢたものであつて決して開いたものとはならない。その差異は同じ閉ぢたものの中における相
対的な問題に止まつてゐる。しかるに閉ぢたものと開いたものとの相違は程度上のものでなくて
性質上のものであり、それは秩序の相違、草花の相違を現はしてゐる。雨着の間の距離はただ飛
躍によつてのみ達せられることができる。
 人間が世界を有するといふことは人間の存在の超越性に基いてゐる。人間が世界を有するとい
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ふことは客観的に物を見ることができるといふ一つの意味を含んでゐるが、このやうに客観的に
物を見ることができるのは人間が眞の嘉となることができるからである。言ひ換へれは、それ
は人間における客準から壷への超越に基いてゐる0眞に壷的になるのでなけれは、眞に客観
的になることもできぬ0しかるにそのことは人間の存在の超越性によつて可能である。人間が客
観的に物を見ることができるのは人間が知性を有するからであると云はれるであらう。しかし人
間の超越性は人間の存在の仝憶に開はることであつて、嬰に知性にのみ開はることではない。我
我の感情や意欲の性質も我々の存在の超越性によつて規定されてゐる0人間の存在そのものが超
越的である故に人間の知性も客観的になることができると云はねはならぬであらう。
 かくして世界的と民族的とは次元乃至秩序を異にしてゐる0もとより人間は完においては自
己中心的でなけれは生きることができぬ0民族にしても同様である三ピノザの云つた如く、凡
てのものは自己を保存しょうとする根本的な衝動を有してゐる0しかし畢に自己中心的に生きる
といふことは動物と等しく、眞に人間的なこととは云はれない0我々も民族も世界的にならねは
ならぬ0ところで世界は開いたものとして到る虞が中心であるやうな囲の如きものである故に、
到る虞において賓現され得るものである〇一個の人間も扁の民族も自己において世界を賓現す
                                                              ′
ることができる。また個人や民族を離れて抽象的に世界があるのでもない。閉ぢたものと開いた
ものとの差異は軍に地域の席次に関することではない。世界が地域的に廣いものと考へられると
いふことも、世界は閉ぢたものでなくて開いたものであるといふ世界の根本的な性格の象故に過
ぎないと云はれ得るであらう。そしてかやうに民族的と世界的とは全く次元乃至秩序を異にする
ものである故に却つて民族的と世界的とは結び付き得るのである。一つの民族は地域的に全世界
を被ふことを要せずして世界的になり得るのである。世界的性格を有する文化は、一小民族の作
り出したものであるにしても、地域的にも全世界に接がり得る可能性を有するのである。
 宗教はかくの如き人間の存在の世界的性格、その根抵としての人間の存在の超越性そのものを
中心的な問題にするものである。そこに世俗的文化と宗教との差異がある。この超越性は人間の
存在の仝憤に閑はるものであつて畢に知的な意味のものではないけれども、世界的であらうとす
る宗教は知性的にも普遍性を有し得るもの、即ち自己のうちに合理性を含むものでなけれはなら
ぬ。宗教は人間の世界的性格に最も深く解れるものとして世界的な文化の基礎となり得るもので
ある。日本の文化が日本的であり、東洋の文化が東洋的であることは、人間が項填的な生き方を
しなければならぬことと同様、明かであるが、更に必妥なことはその文化が世界的性格を有する
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                                               ∧○

.といふことである0世界宗教といはれる併教の任務は日本の文化に世界的性格を輿へることにあ
るのであつて、併教自身がその世界的性格を失ふやうなことがあつてはならぬ。日本の文化がど
れほビ世界的であるかといふことにおいて、我々は世界宗教としての俳教の本質的なカがどれほ
ど日本の文化に浸潤してゐるかといふことを量らねはならぬであらう。併数は東洋的であるとい
ふ理由のみで東洋の将来の文化の基礎となり得ると考へることはできぬ。東洋で生れたものは東
洋に適するといふことは確かにある0しかし東洋といつても歴史的に攣化してゆくものである。
俳教はその世界的性格によつて初めて眞に東洋の文化の基礎となり得るのであり、またそれによ
つて初めて今日東洋においても全く重要な地位を占めてゐる西洋文化との関係に入り込むことも
可能になるのである。
 教囲は時局に封して協力することを言明してゐる。それはもとより嘗然のことである。しかし
協力は眞の協力でなければならぬ0時流に追随し、時の政治的権力に迎合するといふことは眞の
協力ではない0俳教は政治に封して指導的に働き掛けることによつて時局に協力しなけれはなら
ぬ0世界的に見て今日の不幸は、政治が絶封的な力としてあらゆる文化、あらゆる宗教をも支配
し、しかもそのやうな政治の絶封性の樺威が何虞に存すfかが問はれず、また間ふことも許され
.ないむいぶことであるごボ教は政治と同一の平面にあるものでなく、政治と同一の平面にない故
に却つて宗教は自己の権威に従つて政治を指導し得るのである。宗教の権威が失墜してしまつて
はならぬ。宗教の従ふべき権威は政治ではない筈である0宗教が政治的になるとき、宗教の指導
力は失はれねはならず、宗教は宗教の本質に還ることによつて政治に封する指導力ともなり得る
のである。宗教の宗教たる所以はその世界的性格を離れて存しない0宗教は自己の権威に従ひ、
その世界的性格によつて政治を指導してゆかなけれはならない0彿教にしても、軍に日本的とか
東洋的とかといふことのみを問題にしてゐる限り、賓は政治に屈服してゐるのであつて、時代を
指導してゐるなどとは云へないのである。俳教の世界宗教としての本質は何虞に存するのである
か、−この、これまで理論的にも賛成的にも十分に開明されなかつた根本問題を、現代の世界
文化の水準に相應して理論的にも賓蹟的にも新たに開明してゆくことが、今日、時代の指導力と
ならうと欲する彿教の任務でなけれはならぬ。
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