理解者谷川徹三君



 谷川徹三君の本質は良き理解者といふことである。その理解が完成したものに対してはより積極的であり、新しく生成しつつあるものに対してはより消極的であるといふことはあるにしても。
 ことさらに異をたて、とにかく自分を主張せずにはおかぬ者のあまりに多い今の世の中では、出来るだけ公平な理解者であらうとする谷川君の如き存在が却つて異彩を放つこととなるのである。物をそれの含むそれぞれの角度から、通常な距離に於て眺めて、それぞれの捨て難いところを見出だすといふのが谷川君の批評の方法である。彼は批評に於てつねに角度と距離とを重んずる。それが彼の批評の勝れた点である。それだからまた彼の批評は決して公式的とならない。
 切り込みや掛り込みは彼の気質に合はなからう。彼の批評が或る人々には平凡と感ぜられるのもひとつはそのためである。然し分りきつたことを彼の如く親切に、行届いて、読者をそらさないやうに書くといふことは想像されるほど容易なことではない。理解の深さがなくては出来ないことだ。彼の書いたものには少しも生硬なところがない。ほんとに理解したもののほか書かうとはしないからである。彼は決して無理をしない。
 文藝批評家として谷川君は恐らくいづれの党派にも属しない。藝術派とプロレタリア派とを分つならは、彼はより多く前者に属するであらうが、それとても何等党派的でない。谷川君は闘士ではなく理解者である。彼にとつては原理や体系よりも角度と距離とが間超なのである。批評家のうちにより多く享受の立場に立つ人とより多く創作の立場に立つ人とを区別することが出来るならば、彼は明かに前者に属する。しかも彼は創作に対する享受の立場の限界といふやうなものを心得てゐる。批評家としての思ひ上りの見えないのも谷川君の好いところだ。
 谷川君の文肇批評は文化的批評として特色付けられるであらう。文化とか教養とかいふとかく臭のしたがる代物が谷川君に於ては臭気をもつてゐない。彼の趣味もなかなか広い。哲学の教師であるばかりでなく、また単に文蛮の方面に限られず、美術、映画、或は陶器のやうなものにも趣味をもち、或は食物通でさへある。服装などにも凝つてゐる。谷川君の思想はだいたい生の哲学に近いが、理解の人としてリベラリズムの傾向もある彼に最も多く影響を与へた人は有島武郎、志賀直哉、西洋人ではジンメルでありはしないかと思ふ。
 谷川君は声を大にして叫ぶやうなことをしない。気が弱いといふのだらうか。けれども最近ではジャーナリズムが彼の為にだいぶん度胸を作つてくれたやうだ。この度胸をもつて従来少し消極的に過ぎた憾みのある彼の批評に大いに積極性を出すやうに我々は願つてゐる。