動物精気

 いまはなき深田康算博士は言葉をほんたうに愛されたかたであつた。先生のところへ遊びに行つたとき、いつも出たのは言葉や文章に関する話であつた。あるとき、さういふ深田先生が云はれた、「西田さん(西田幾多郎博士のこと)といふ人にはエスプリ・ザニモオ(動物精気)がたいへん多いやうに思はれる。」西田博士につねに師事してゐる私にはこの言葉がひどく面白く感ぜられた。哲学者と動物精気、その量、まことに面白い言ひ表はし方であつて、いまだに忘れられず、西田博士にお目にかかるたびに私はそれを想ひ起すのである。深田先生自身にもこの表現がよほど気に入つたものとみえて、談偶々西田博士のことに及ぶとき、よくそれを繰り返された。エスプリ・ザニモオ(動物精気)といふ語はデカルトの『激情論』(一六四九年)のなかに出てゐる。これはまた実に面白い書物だ。そのなかでデカルトの説明したところによると、動物の精気といふのは血液の最も細微な、最も動き易い、最も熟した部分であつて、心臓の熱気により蒸溜せられて生じ、他の部分とは達ひこの部分だけは、非常に次い路を通つて脳髄の中へはいることができる。動物精気は特に人間の激情(パッション)と関係がある。すなはちデカルトによると、視覚、聴覚などの外的感覚や飢渇などの自然的衝動は身体の機関に関係するものであるが、喜び、悲しみ、愛、憎みなどいふ激情はどのやうな身体の機関にも関係なくむしろ精神そのものの感動である、しかしこの精神の感動は精神みづからの能動作用にもとづいて起るものでなく、かへつて精神の受動状態であつて、肉体ことに動物精気の影響の結果であるといふのである。激情は人間の生活のなかなか大きな部分を占めてゐる。昔の哲学的心理学ないし人間学が激情の説明に力を尽したのは当然であらう。しかるに今の哲学では人間の生活のこの方面の問題があまりに顧みられなさ過ぎる。とにかくデカルトの動物精気の説は、それが血液の最も細微な、最も清澄な部分と見られたといふことを除けば、いろいろ面白い意味をもつてゐるやうに思ふ。
 激情は一方では視覚や聴覚や飢渇やなどとは違つて或る内的なものと見られてゐる、それは精神の感動である、しかし激情は他方では純粋な精神活動でなく、外的感覚や自然的衝動と同じく身体に依存するものと見られてゐる。けれどもそれは後者のやうに身体の機関、すなはち或る「外的身体」に依存するのでなく、かへつていはば「内的身体」に依存するのである。激情がそれに依存するとせられ、眼や耳、胃腸などいふ身体の機関とは異つた機能を有すると考へられた動物精気は、普通にいふ身体即ち外的身体に対する、内的身体といふ意味のものでなければならない。それを血液の或る部分といふ風に考へたのでは、結局それも外的身体の一部となつて了ひ、激情が外的感覚や自然的衝動とは違つて、身体に依存しながらなほ或る内的なものであるといふ意味が失はれてしまふことにならう。
 そこで人間は二重の意味において身体をもつてゐるといはれることができる。我々が喜び、悲しみ、愛、憎みなどのさまざまな激情に動かされるものであるといふことは、我々が外的身体とは違つた意味の内的身体を有するしるしであると解することができる。人間の外的身体に個人によつて強弱の別があるやうに、人間の内的身体にも個人によつて強弱の別がある。そして両者の強弱は必ずしも平行し、一致してゐない。いはゆるからだの悪い人にも動物精気のなかなか多い人があるのである。
 およそ「純粋性」といふことが問題になり、また問題にされねばならぬやうな人間の活動の領域においては、特に、その人の動物精気の量が問題になるのではないかと思ふ。文学や哲学などにおいては純粋性といふことが問題になる。諸科学の場合には固有な意味での純粋性の問題は有しない。文学や哲学などの領域における活動は内的身体の問題であるやうに考へられる。純粋なものの問題は動物精気の問題であり、従つてなんら精神の問題でなくて身体の問題であり、しかも形ある身体ではなく形なき身体の問題である。かういふものに根差してゐるが故に純粋性が問題になるのだと考へられると共に、さういふものの中からこそ純粋といはれるものも生じ得ると考へられるのである。内的身体は形なきものとして外的身体よりもより質料的、より物質的である。愛や憎みは盲目であるといはれる。しかしそれらの激情と雖も、それが依存するところの動物精気に比してはなほ光あるものであらう。ゲーテは天才の活動のうちにデモーニッシュなものを見たが、さういふデモーニッシュなものとは動物精気のことであらう。ギリシア人の考へ方とは反対に、形あるもの、イデア的なものよりも質料的なもの、物質的なものが原理的なものである。人間の形ある身体よりも動物精気はより物質的なものである。このものの根源の上にイデア的なもの、即ち文学における表現、哲学における思惟は生れる。「文は人なり。」といはれてゐる。しかし、文は動物精気である、といはねばならぬ。ただ感性的なもの、身体的なものの基礎の上にあるもののみが、このものの物質的な圧力を通して、人間に訴へること、迫ること、人間を捉へることができる。だが多量なエスプリ・ザニモオを感ぜしめるやうな人間にも、書物にもさうたびたび出合ふものでない。「人間的な、あまりに人間的な」のが歎かれるのである。