戦時認識の基調

      一

 今や支那事変は決定的な段階にまで飛躍した。事変の遂行を絶えず妨害してきた米英に対して、日本は遂に戦争を決意するに至つた。皇軍の威力は猶予なく発揮され、全世界を瞠目せしめる驚異的戦果は着々拡大されつつある。すでに絶対に信頼し得る陸海軍を有することを誇り得る国民は、不敗必勝の信念を堅め、国内における諸般の整備の完成に邁進し、皇軍のめざましい活躍に呼応しなければならない。
 支那事変の当初よりつねに言はれてきたことの一つは時局認識の徹底といふことであつた。その必要は今日もちろん少しも減じてゐないのみか、却つて倍加されてゐるであらう。今や一切が決戦態勢にまで飛躍しなければならぬとき、時局認識もまた戦時認識にまで強化されねばならぬと言ひ得るのである。時局認識といふ言葉はいはば支那事変といふ言葉に相応するものであつた。しかるに支郡事変が大東亜戦争にまで発展した現在、時局認識もまた戦時認識にまで飛躍しなければならないのである。これはもとより単なる言葉の問題ではない。時局認識といふ言葉に我々が戦時認識といふ言葉を置き換へるのは、これによつて認識における意志の意義を強調せんがためである。戦争は最高度の行動である、国民的意志の最も強化された発現である。戦時認識は単なる認識であり得ないのであつて、その根柢に意志がなければならない。今日特に力説を要するのは、この意志である。それが決戦態勢の要請である。支那事変の当初より言はれてきた如く、東亜新秩序建設のための戦争は道義戦争である。戦時認識の根柢には道徳的意志がなけれはならない。
 ここに先づ一つの哲学的問題として、認識と意志の問題が存在するであらう。従来多くの場合この問題は、認識と意志とを全く分離する抽象的な見方は論外とすれば、単純にいはゆる理論と実践の問題として考へられてきた。認識は認識に止まるのでなく、実践に移されねばならぬ、と言はれる。更に進んで、認識は実践の基礎であり、逆に実践は認識の基礎である、といふやうに言はれてゐる。かやうな見方はもちろんそれ自身としては間違つてゐないのみか、極めて重要である。戦時認識は単なる認識に止まるのでなく、直ちに実践に移されなければならない。実践されないやうな戦時認識はなんら戦時認識ではないであらう。また戦時認識の上に立つて真の戦時的実践は可能である。逆に真の戦時認識は戦時的実践の中から得られるのである。かやうに考へることはすべて正しい。それにも拘らず我々はそこに止まることなく、更に一歩を進めねばならないであらう。右の見方に欠けてゐるのは道徳的見方である。一般的にいへば、認識の問題を道徳の問題から抽象して考へることは近代思想の一つの特色である。かくして近代思想においては、認識と意志とが分離されたのみでなく、認識の根柢に意志があると考へられた場合にも、その意志といふものは全く形式的に考へられた。実践は認識を前提し、逆に認識は実践を前提すると述べて、認識と実践との統一が考へられた場合においても、その実践といふものは道徳と没交渉に考へられてゐるのである。かくの如きことは、その認識といふものの見方が近代自然科学の没価値的な認識に定位をとり、これに関係してその実践といふものも真に主体的に把握されてゐないことに依るであらう。しかるに歴史的世界の中で見るならば、自然科学に基づく技術の如きもののうちにも人間の意志が入つてをり、従つてその技術的実践も一つの道徳的行為と見ることができる。自然科学的認識そのものも歴史的世界における一つの歴史的行為と見られるであらう。歴史的世界は単に客観的に見てゆくことができないのであつて、どこまでも主体的に捉へてゆかねばならぬものである。歴史的世界は道徳的世界である。かくの如き歴史的世界の出来事として知識にも知識の倫理がなければならぬ。戦時認識において強調されねばならないのはかかる倫理である。古い哲学の伝統はつねに認識のための道徳的条件について語つてきた。認識に達するためには道徳的努力が必要である、道徳的に向上するに従つて、我々は絶えずより高い認識に達することができる、といふやうに教へられてきた。かやうにして得られる認識が直ちに道徳的意義を有し、実践的価値を生ずると考へられたのは当然である。そこに求められたのは単なる知識以上の叡智といふものであつた。かやうな叡智においては認識と道徳とは深く結び附いてゐた。認識の問題を具体的に歴史的世界において捉へる場合、認識はかくの如き叡智の性格を具へて来なけれはならないであらう。戦時認識は叡智の性格のものにまで高まらなけれはならぬと言ひ得るであらう。
 しかしながら他方嘗て叡智といはれたものに制限があつたことにも注意しなければならない。しかもこの制限はほかならぬ実践上の制限であつた。そしてこの制限を破つたのは近代科学である。近代科学はその客観的な認識方法によつて人類の実践を限りなく拡大し、高度化することができた。近代技術の発達がそのことを証明してゐる。先づ自然科学として確立された近代科学は、やがて社会並びに歴史の領域に入り、ここにおいても人類の実践の発達に大きな貢献をなしたのである。今日の戦争はこれらの科学に依らなければならぬ。科学技術の発達は戦争遂行のための絶対的な要請である。しかもその科学や技術は、単に自然に関するものに止まることなく、また社会並びに歴史に関するものでなけれはならない。戦時認識の基礎にはこのやうな科学的認識が必要である。昔ながらの叡智を持ち出すのでは、今日においてはもはや不十分であり、消極的に止まらざるを得ない。近代科学並びにその上に立つ技術の有する実践的な積極性を理解することが肝要である。戦争は最高度の実践としてかくの如き科学や技術を必要とするのであつて、我々の戦時認識もまた科学的基礎に立たなければならぬ。もとより我々の戦争は単なる科学戦争ではなく、道義戦争である。その根柢にはどこまでも道徳的意志がなけれはならぬ。そこに科学の上に立つ新しい叡智が要求されてゐる。この新しい叡智は科学を排斥するものでなく、却つて科学の媒介を経たものでなけれはならない。一般に新しい文化の理念は科学の力を認識しつつこれを自己に止揚した叡智にあると言ひ得るのであつて、戦時認識において達せらるべきものも、それである。ここに認識と道徳とのより高い統一が求められるのである。戦時認識は道徳的実践と深く結び附いたものでなけれはならない。

   ニ

 戦時における国民に必要な認識として種々のものが考へられるであらう。国民生活のあらゆる場面においてそれぞれ必要な戦時認識といふものがあるであらう。ところでそのやうな多種多様な認識において、基調として指導的意味を有するのは如何なるものであらうか。これを把握することが肝要である。我々はこれを秩序の観念において見出し得ると思ふ。東亜新秩序の建設が今次の戦争の目的であることは誰も理解してゐる。それは世界史的なものである。しかるにそれに対していはば日常的なものにおいて、秩序の観念がもつてゐる重要性については、それほど深く理解されてゐないのではあるまいか。新秩序を言ふ者は先づ一般に秩序そのものの重要性を、とりわけ日常的なものに関して、理解しなければならぬ。また今日他方、伝統といふことが頻りに言はれてゐる。しかるに伝統とは何であるか。秩序にほかならない。それ故に伝統を言ふ者も先づ一般に秩序の観念の重要性を理解しなけれはならないのである。
 第一に、歴史的に見れば、自由主義文化の行き着いたところは無秩序といふことであつた。それは外的にも内的にもさうであつた。例へば、自由主義経済は生産のアナーキーといふことによつて特徴附けられる。これに対して今日の統制経済の目差すところは、経済の計画化によつてこのやうなアナーキーを克服すること、秩序を再建することである。全体主義といふものは一般的に考へて秩序の観念を基礎とするものでなけれはならない。自由主義はその個人主義乃至主観主義のために精神的にもアナーキーに、かくしてまたニヒリズムに陥つた。これに対して新しい文化は何等か秩序の観念を基調とするものでなけれはならないであらう。
 第二に、我々はすでに認識と道徳との統一について述べた。しかるに秩序の観念は、認識の観念であると共に道徳の観念であると言ふことができる。認識とは一般に物の秩序を捉へることである。一見無秩序であるかのやうに見えるものの間において秩序を発見するといふことが我々の認識の努力である。この努力そのものもまた秩序に従つて行はれることを要求されてゐる。無秩序であつては、どれほど探求を進めても認識に達することができぬ。日々報道される個々の出来事を無秩序に見てゐては、時局認識も得られないであらう。すべての認識は方法的でなければならぬといふことは、秩序に従はねばならぬといふことを意味してゐる。かやうなものとして認識は道徳的効果を持つてゐると考へることができる。なぜならそれはかやうなものとして精神のうちに秩序を作り出すことに役立つのであるから。そして徳とはまさに精神における秩序にほかならないのであるから。情念や欲望の無秩序な活動を制御して、精神のうちに秩序を作り出すといふことが我々の道徳的努力である。もとより道徳は主観的道徳(モラリテート)に止まるのでなく、客観的道徳(ジットリヒカイト)でなければならないであらう。しかるにその客観的道徳といふものは社会における秩序を意味してゐる。近代の自由主義の道徳において、その主観主義の帰結として失はれたものはこのやうな秩序の思想である。しかるに実際において、自由とは何であるか。秩序にほかならないのである。秩序のないところに如何なる現実的な自由も存しない。秩序の観念が新しい道徳の基礎でなけれはならないであらう。この観念において認識と道徳とは結び附くことができる。認識の道徳的条件と考へられるものは精神における秩序である。
 ところで先づ日常的なものに関していへは、戦時下の生活において最も大切なのは秩序である。例へば、警戒管制時においては交通道徳が厳守されなければならぬ。その交通道徳といふのは順序よく一列にならぶといふが如き秩序の形成である。かやうな秩序の重要性は、万一空襲を受けた場合を仮定すれば、十分に理解されるであらう。空襲に対抗すべきものは秩序の精神である。これに反して混乱が敗戦の徴候であるのみでなく、むしろ敗戦の原因であることは、あの広く読まれたモーロアの『フランス敗れたり』を想起すれは理解されるであらう。すべて秩序の重要性を理解しない者は、戦時認識における最も大切なものの理解を欠いてゐるものといはねばならない。日常的なものにおける秩序を瑣事として軽蔑するものは、今日の戦争の本質を理解しないものである。日常的なものも歴史的意味を持つてゐるのである。
 ところで外部に見られる秩序乃至無秩序は内部における秩序乃至無秩序の表現である。精神に秩序を有する者は如何なる場合においても平静に、秩序をもつて行動することができる。例へば、戦時下において特に警戒を要するものは流言蜚語である。このものは如何にして生ずるのであるか。精神の秩序を失ふところから流言蜚語は作られ、そして伝へられるのである。万一何等かの目的をもつて流言蜚語を流布する者があるにしても、自分の心に秩序があるならば、それに迷はされるやうなことはないであらう。しかるに流言蜚語の場合において明瞭である如く、そのために混乱が生じるといふことは科学的認識を欠いてゐるためである。もし科学的な物の見方をしつかり掴んでをり、科学的な知識を十分に持つてゐるならば、流言蜚語の如きものに脅かされることはない筈である。かやうに科学的認識を持つといふことは心に秩序を保つために重要な意味を持つてゐる。真の認識は物の秩序を究めることによつて心に秩序を与へるものである。心の問題をのみ考へて、物の秩序の認識を無視乃至軽視する者は、真に心の秩序を得ることができないであらう。認識の道徳的効果を理解することが大切である。時局認識といふものの重要性は何よりも先づかくの如き道徳的効果にあるといひ得るであらう。時局認識の十分でない者は、その日その日の出来事にさまぎまの情念を動かし、それが習慣になることによつてやがて何かセンセーショナルな事件を聞知することなしには暮らせなくなり、かくして神経衰弱症に陥つてゆく。近代戦は神経戦であることを考へねばならぬ。今次の戦争が長期戦になり得る可能性のあることを考へれば、時局認識の徹底は戦時下の国民に最も大切なことである。時局認識とはニュースを漁り廻ることとは反対に ― 好奇心は真の認識欲とは相反する悪徳である ― 歴史に対する大きな見通しである。見通しとは新秩序の認識である、その世界史的必然性の認識である。認識は精神に道徳的秩序を与へることによつて信念となる。信念とは独断でもなければ独善でもなく、道徳化された認識をいふのである。東亜新秩序の建設は国民の信念である。この信念こそ戦時下におけるあらゆる国民生活の不動の支柱でなけれはならぬ。


        三

 かやうにして秩序の再建は新秩序の形成であつて、現存秩序の固執でもなければ、旧秩序の単なる復活でもない。このことは今日の戦争の現実によつて最も明瞭に示きれてゐる。この戦争はその本質において新秩序建設のための戦争である。戦時認識の基調が戦争の理解に存すべきことは言ふまでもないであらう。戦争に対する理解を有たないやうな戦時認識はあり得ない。しかるに一見奇妙なことであるが、これまで時局認識といはれてきたものには、戦争そのものについての理解が乏しかつたのではなからうか。もちろん、戦争に関係する事柄については、十分に認識を持たねばならぬことが説かれてきた。そして今日の戦争が国家総力戦である以上、それら政治、経済、産業、文化等に関する事柄も戦争に対して密接な関係をもつてゐる。これは戦時認識に欠くことのできぬ重要な認識である。国家はそのすべての力をもつて戦つてゐるのであり、国民はそのあらゆる職域における活動を通じて戦争に対する責任を分担してゐるのであるといふ総力戦的認識は、戦時認識の基調でなければならない。しかし更に必要なのは直接に戦争そのものの理解である。簡単にいへば、軍事知識の普及が大切である。
 軍事知識の普及は、戦時下の各国において重要な問題となつてゐる。これは戦線と銃後との区別が分明でなく、いつ如何なる場合に外敵が国内に侵入してくるか判らないやうな危険のある国においては、当然であるといはねばならぬ。しかるに我が国は幸にもこれまでかくの如き危険から免れてゐた。戦線と銃後との区別が截然と分明であつたのである。かやうな幸福な状態に狎れて、国民が軍事知識の習得にあまりに無関心であつたといふことがないであらうか。近代戦における飛行機の機能を考へるとき、今後我々が空襲を蒙ることが絶対にないとは保証し難い。我々は空襲に対する準備をつねに整へておかねばならぬ。すでにその点から考へても、国民の各自が軍事知識を戦時の常識として具へる必要が理解されるであらう。
 皇軍は前線において赫々たる戦果を挙げてゐる。これは国民の斉しく感激措く能はざるところであるが、単にそれに止まるべきではないであらう。もちろん、戦争のことについては皇軍に絶対に信頼することができる。しかし感謝にしても信頼にしても、認識が伴ふことによつて真の感謝となり、真の信頼となる。皇軍の輝かしい戦果を単に外部から眺めるのみでなく、いははその内部に入つて、そこに如何に優秀な科学技術があるか、如何に卓越せる用兵作戦があるか、等について、軍事科学的に一通りは理解し得るといふことが望ましいであらう。皇軍のめざましい戦果のかげに、如何に多くの軍事的困難と戦はねはならぬ苦労が存したかを理解することができれば、皇軍に対する感謝も信頼もいよいよ増してくるであらう。一般的にいつて、政治のことは政治家に、産業のことは産業人に、任せておけば宜いのである。しかしそれだけではまだ十分でなく、国民の各自が政治のこと、経済のことをよく理解し、それに協力することが大切である。協力は理解によつて完全になる。軍事に関しても同様に考へることができるであらう。
 かくして軍事科学の普及は戦時下における国民的認識の重要な要素である。それは兵器に関する知識の如きものから初めて、戦略、戦術、戦史等の基礎的知識に至るまで、軍事科学の全般に亙ることが望ましいであらう。しかるに従来わが国においては、このやうな軍事的教養が不十分であつたのではあるまいか。一般知識人はもとより、政治家などにおいても ― 戦争は他の手段をもつてする政治であるといふのは、有名なクラウゼヴィツの定義である ― 軍事科学的教養が乏しかつたといへるであらう。この欠陥は、実は、自由主義の思想に基づくものである。自由主義の思想は戦争について一面的な浅薄な考へ方しか持つてゐなかつたのであり、そのために軍事科学的教養を無視乃至軽視してきた。そしてこのやうな無視乃至軽視は、専門の事柄は専門家にのみ関することだといふ、間違つた専門思想によつて至当附けられてきたのである。今や戦争についての自由主義的見方が根本的に修正され、高度国防国家の理念が掲げられてゐる時にあたつて政治家はもとより一般国民においても軍事科学についての関心が喚び醒され、その基礎的知識を得ることが大切である。これが戦時認識として特に注意を要する一つの点ではないかと思ふ。

      四

 しかるに戦争に対する理解は戦争の理念に対する認識に高まらなければならない。この理念はすでに東亜新秩序の建設とか大東亜共栄圏の確立とか称せられてきたものであつて、支那事変を含めての今次の戦争が大東亜戦争と呼ばれるやうになつた意味もそこに存してゐる。この理念の把握が戦時認識の基調をなすべきことは論ずるまでもなく明瞭である。あらゆる戦時認識はこの一点に集中して来なければならない。東亜新秩序の建設が英米の帝国主義勢力といづれは衝突しなければならぬことは、支那事変の当初よりいはば約束されてゐることであつた。それは英米の帝国主義の東亜における侵略の現実から考へてさうであるはかりでなく、支那事変の遂行はその理念においても英米の帝国主義と相容れないものである。今次の戦争が帝国主義戦争にあらざる新秩序戦争であるといふことは、日本政府の屡次の声明において明白にされてゐるところである。このやうな戦争理念が世界史的立場において把握されなけれはならないといふことも、これまで繰返し言はれてきたことであり、今日においては殆ど自明のことに属してゐる。いま我々は特に次の諸点を強調したいと思ふ。
 東亜新秩序の建設は世界史的意義を有するものとして、我々はあらゆるものをこれとの関聯においてつねに世界史的立場から考へてゆかねばならない。世界史的な物の見方を身につけることが肝要である。しかしそのことは世界史の上にあぐらをかいて空想に耽ることではない。世界史は単なる博識の実庫でもなけれは、徒らに美しい思弁のための場所でもない。我々は歴史的現実の厳しさを理解しなければならぬ。「世界歴史は幸福な土地ではない。幸福の時期は世界歴史における書かれざるページである。なぜならそれは調和の、対立の欠乏の時期であるから。」とへーゲルもいつた。歴史的現実は危機的現実である。大いなる世界史的出来事は悲劇的精神から生れるといふこともできるであらう。日本民族に負はされてゐる東亜新秩序の建設といふ世界史的大事業は、決して甘い考へ方でやつてゆけるものではないのである。幾多の苦難を身に名ふ覚悟なしに世界史について語ることは現実の烈しさからの逃避に過ぎないであらう。現に今度の米英に対する戦争は、或る意味においては、世界史どころの騒ぎでなく、日本民族の興亡の岐れ目であるやうな退引ならぬ戦争である。日本民族の自存と権威とのために、全国民は立ち上つたのである。それは既に忍ぶべからざるを忍んで遂に起たざるを得なかつた戦争である。長期戦は覚悟の上でなければならぬ。この危機の中を戦ひ通してこそ世界史的栄光は我々の上に輝いてくるのである。「汝は為し得る、汝は為す可きである故に。」世界史的思弁がともすれば浪漫的な甘さに障り易い性質をもつてゐることに対して注意を要するであらう。ただ世界史について考へるのでなく、世界史の中にあつて、世界史を作る立場において考へなければならない。
 どのやうな世界史的出来事も一定の民族に担はれて出現する。歴史はつねに個性的なものである。世界史といふものも抽象的一般的に考へらるべきものでなく、現実の民族の歴史的実践を通じて理解されなければならない。例へば自由主義的秩序といふものは、実は英米的秩序であつたのであつて、従つてこれに対する新しい秩序の英米の帝国主義勢力の打倒なしには考へられないであらう。我々は自己を歴史の主体として把握しなければならない。このやうに民族を歴史の主体として把握することが大切であると同時に、他方客観的に民族によつて創出さるべき「秩序」の重要性を理解することが肝要である。英米の制覇は単に英米民族の制覇であつたのではなく、自由主義的秩序の制覇であつたのである。この秩序の、或ひはこの機構の、或ひはこの制度の力によつて、英米の制覇は可能であつたのであつて、単にいはゆる民族の力にのみ依るのではない。従つて英米の民族的勢力の行詰りもまた、自由主義的秩序、機制、制度の行詰りに基づいてゐる。世界史の現実の中に深く楔を打ち込まうとする者は、この見地において、如何なる点に楔を打ち込むべきかを考へなければならない。自由主義が秩序であつた時代は過ぎ去りつつあるのである。世界史を単に民族の見地からのみ考へて、秩序或ひは制度の見地から考へることを忘れてはならないであらう。もとよりこの秩序は一定の民族の活動を通じて創出されるものである。かくして我々は英米の帝国主義的秩序に対する新しい秩序の構想をもつて戦争に臨まなければならない。そこに新秩序戦の意義がある。この秩序の構想と実現には我々自身の新しい世界観、科学、技術、その他の文化が要求されてゐる。単に民族によつて民族を率ゐるといふに止まることなく、新しい秩序そのものの力によつて東亜の諸民族を率ゐてゆかなけれはならぬ。
 世界史の現在の段階においては、世界のどこで戦争が起つても、やがて全世界に波及するに至るといふことは、現に支那事変の発展が、そして独英戦争の発展が示してゐるところである。そのやうに世界は世界的になつてゐるといふ事実に注目しなければならない。そこに今日の戦争が以前の民族戦争とは異る新秩序戦争である理由が横たはつてゐる。もちろん、新しい秩序は一定の民族を主体として、これに担はれて現はれてくるものである。しかし世界が世界的になつてゐるといふ事実は、客観的な秩序の問題が次第に重要性を増してゐるといふことを語るものでなければならぬ。ここに客観的といふのは歴史的に客観的といふ意味であり、従つてそれは単に客観的なものでなく、むしろ主観的・客観的なものである。故に新秩序は自然的に与へられたものではなく、歴史的に作られてゆくものである。それが単に民族的に止まらない世界的意義を有するものでなければならぬことは、世界が世界的になつてゐるといふ事実によつて明かであらう。新しい秩序は主観的肆意的なものでなく、世界史の動向に沿ふものでなければならない。今日我が日本民族に要求されてゐるのは世界的な新秩序の構想である。もとより戦争の直接の目的は東亜新秩序の建設である。しかしながらこのものは世界新秩序の構想を離れては思惟されることも実現されることも不可能である。これは支那事変が英米に対する戦争にまで発展したといふ事実のものによつて証明されてゐることである。東亜新秩序の建設は東亜だけの問題に限られるのでなく、全体の世界に関係してゐる。かやうにして我々の戦時認識の中にはつねに世界認識が含まれなければならないのである。
 既に我々は戦時認識において秩序の観念が指導的であるべきことを述べておいた。この秩序はもとより単に現存秩序を意味するのでなく、むしろ新秩序を意味するのである。国内においても新しい秩序が着々と形成されてゆかなければならぬ。これは外における新秩序戦に呼応するものである。新しい秩序は外においてのみ作られるのでなく、内においても、むしろ内において先づ作られねばならない。新秩序建設は内外相応のものでなければならぬ。外からは新秩序戦の赫々たる戦果が頻りに齎されてくる。捷報に酔うて各自の為すべき任務を少しでも怠るやうなことがあつてはならない。一面戦争一面建設を意味する新秩序戦がその性質上長期化すべきことを覚悟して、あらゆる場合に臨んで大国民の落着きをもつて自己の任務を完遂しなければならないのである。各人が自己の任務に最後まで忠実であることによつて勝利が得られるといふことは、戦場が我々に与へる教訓である。