現代日本に於ける世界史の意義

 世界史的見方の必要を私が述べるのは今が初めてではない。この事変の当初にも私はそれにつ
いて既に論じておいた筈である。その後支那事変の発展に伴って日本に現われた思想の情況を私
は努めて虚心坦懐に観察してきたつもりであるが、今に至っても私は私の見方を変更すべき理由
を認めない。むしろ私は世界史的見方の必要を益々痛切に感じるのである。
 現在日本が大陸において行いつつある行動がどのような事情から生じたかについては種々の批
判があり得るであろう。しかし時間は不可逆的であり、歴史は生じなかったようにすることはで
きぬ。そしてもし出来事が最後まで傍観していることのできるような程度のものであるならば傍
観していることも好いであろうが、もしそれがあらゆる傍観者を否応なしに一緒に引摺ってゆく
ような重大な帰結を有すべき性質のものである場合、過去の批判にのみ過すことは我々には許さ
れない。それがどのようにして起ったにせよ、現に起っている出来事のうちに我々は「歴史の理
性」を探ることに努めなければならぬ。歴史の理性は当事者の或る個人、或る集団、或る階級等
の主観的意図から独立に自己を実現する。マケドーテの王アレタサンドロスの遠征は彼の功名心
から出たことであったかも知れない。しかしそれは彼の崇拝していたギリシア文化の世界化を結
果し、ここにヘレネドムからヘレニズムヘの、即ちギリシア文化から世界文化への、或いはギリ
シアの古典文化から現代文化への展開という世界史的意味を実現したのである。ケロネーアの戦
争はかくの如き時期を画する出来事であった(坂口昂著『概観世界史潮』四〇頁以下を看よ)。現在
起っている出来事のうちに我々は歴史の理性を発見し、これに従って出来事を指導してゆくよう
にしなければならない。かような理性的意味は直接には発見することができず、その出来事が無
意味に見えるということも可能である。しかしそのような場合には尚更それに対して歴史の理性
の立場から新たに意味を賦与することに努力する必要がある。テオドール・レッシングの言葉を
転用すれば、歴史とは「無意味なものに意味を与えること」である。新たに意味賦与がなされる
ことによって不可逆的な時間も可逆的になされる。支那事変に対して世界史的意味を賦与するこ
と、それが流されつつある血に対する我々の義務であり、またそれが今日我々自身の生きてゆく
道である。
 支那事変を契機として従来の日本精神論に新たな転回が必要であることを私は種々の機会に述
べてきた。しかるに事態は少しも改善されていないように思われる。日本精神の世界的意味を問
うことは自由主義者の迷妄に過ぎないかのように云って排斥される。日本が初めて世界史の舞台
に進出した明治時代 ― 世界史的眼光を有した歴史家坂口昂博士の言葉に依れば、ジャパンドム
からジャパニズムヘの飛躍の時代 ― は単なる欧化主義の時代に過ぎなかったかのように云って
非難される。私は単に知性の普遍性、学問の国際性というが如き見地から世界史的見方の必要を
説くのではない。かような抽象的な論理の立場においてでなく、むしろ現実の具体的な歴史の立
場において私は世界史的見方の必要を主張するのである。日本文化の特殊性を力説するのみでは
支那における日本の行動の基礎は与えられないであろう。日本文化の特殊性に対して支那人がこ
れを尊重することを求めるのは正当である、けれども同時に我々は支那文化の持殊性に対してこ
れを尊重しなければならぬ。日本固有のものといわれるものを支那人に強要することは無意味で
あるのみでなく不可能でもある。特殊なものと特殊なものとが結び附くためには一般的なものの
媒介が必要である。日本と支那とが結び附くためには東洋というものが考えられるであろう。日
本精神の問題は東洋精神の問題を離れて考えられない。支那の研究は日本の研究に欠くことので
きぬ条件である。しかるに歴史的に見れば、東洋というものはこれまで、西洋がギリシア文化と
キリスト教以来一つの内面的統一を有する世界を形成しているのと同様の意味において一つの内
面的統一を有する世界を形成していなかった。これは津田左右吉博士の明瞭に論ぜられている
ところである(岩波講座『東洋思潮』中「文化史上に於ける東洋の特殊性」を看よ)。かくして、まさにそ
こから、支那事変を含む世界史的意味は「東洋」の形成であると見ることができるであろう。日
支提携といい日支親善というのは、これまで世界史的な意味においては実現されていなかった東
洋の統一がこの事変を契機として実現されてゆくという意味でなければならぬ。この場合、東洋
の統一ということは東洋における日本の制覇というが如き帝国主義的観念と混同されないことが
大切である。更に東洋の形成という世界史的意味は、日本の世界史の舞台への登場が西洋の近代
文化との接触によって可能になナたように、西洋との関係を無視しては考えられない。西洋の統
一が東洋で生れて西洋へ入ったキリスト教に媒介されて可能になったように、ここに実現さるべ
き東洋の統一は西洋で生れて東洋へ入ってきた科学的文化に媒介されて可能になる。「東洋」の
形成される日は真の意味において「世界」の形成される日である。この真の意味における世界の
形成から離れて東洋の形成は考えられず、そしてそこに我々は現在の事変における世界史的意味
を認めることができるであろう。
 ランケに依れば、「世界史とはあらゆる民族及び時代の出来事を、それらが相互に影響しつつ、
前後して(また同時に)現われ、相共に一つの生きた全体を形作る限りにおいて、包括するもの
である」。ランケはかような世界史を叙述しようとした秀でた歴史家であるが、彼のいう「世界
史」が「ヨーロッパ主義」(オイロペイスムス)に局限されていることは今日の西洋の学者も認
めていることである。西洋人のいわゆる世界史がヨーロッパにほかならないことは、あの「世界
戦争」後に至って初めて広く認識され初めたことである。このときシュペングラー流の『西洋の
没落』の思想が伝播された。この思想は元来、西洋文化が没落して東洋文化が繁栄するというが
如き意味を有するのでなく、むしろ従来世界史そのものと見られていたものが単にヨーロッパ主
義に過ぎなかったということの悲劇的自覚を現わしている。かくしてシュペングラーは、世界の
諸文化は普遍的な統一を形作ることなく、恰も種々なる地域に分布された植物のように、地球上
のそれぞれの地域において芽生え、成長し、開花し、凋落してゆくものと考えた。彼の文化形
態学は世界史の統一の意識の破綻から生じた観照である。それ故に今日、真に行動的な民族は世
界史の新しい統一の意識をもって現われて来なければならぬ。
 ヨーロッパ主義の観念を普及させたトレルチは云っている、「我々にとつてはただヨーロッパ
の世界史が存するのみである。世界史の古い思想は、新しい一層謙遜な形を採らねばならぬ」
(『歴史主義とその諸問題』参照)。「全体としての人類は何等の精神的統一を有せず、従つてまた何
等の統一的発展を有しない。ひとがかやうなものとして挙げる一切は、決して実在しない主体に
ついて形而上学的お伽話を物語るロマンである。」トレルチがヨーロッパ主義の傲慢に対して警
言しているのは正当である。我々東洋人は尚更ヨーロッパ主義が世界史そのものと同一視される
ことを認め得ないであろう。しかしトレルチが世界史の概念はヨーロッパ主義以外においては不
可能であると云っていることは認められ得るであろうか。これまで東洋が西洋と同様の意味にお
ける統一を有しなかったことは事実である。けれどもそれは永久にそうであるとは考えられない。
トレルチが世界史の概念をヨーロッパ主義に限定しようとしたことは、世界史をただ過去におい
てのみ見て将来に向かって見ようとはしなかったことに基づいている。東洋の統一もいずれは実
現され、真の意味における世界の統一に対する重要な契機となるに相違ない。しかも、もしヨー
ロッパ主義によって世界史を考えることができないとしたならば、ヨーロッパ主義と抽象的に対
立させられた東洋主義によっても世界史を考えることができない筈である。世界の新しい秩序の
構想なくしては東洋の新しい秩序の構想も不可能である。世界の統一ということは世界が唯一色
になることでないように、東洋の統一ということも東洋が唯一色になることではない。「征服者、
植民家、伝道家はすべてのもののうちにヨーロッパ的思惟を差込む。それは彼の実践上の力と効
果との源泉ではあるが、しかしまた多くの理論上の誤謬や誇張の源泉でもある」とトレルチは書
いている。世界史の統一の名のもとに働くヨーロッパ的思惟はこの場合実は帝国主義と結び附い
ていたのである。今日においてはもはやかような思惟によっては世界の統一も東洋の統一も考え
られない筈である。日本の世界的使命が東洋の統一の実現であるとしても、それは「すべてのも
ののうちに日本的思惟を差込む」ことであるのではない。かような思想は「多くの理論上の誤謬
や誇張の源泉」となるのであって、理論上の誤謬はまた究極において実践上の成功を斉し得るも
のではない。
 もし東洋の統一が真に世界史的な課題であるとするならば、それは今日極めて重要な課題を合
んでいる。即ちそれは資本主義の問題の解決である。資本主義の諸矛盾を如何にして克服するか
ということは、今日の段階における世界史の最大の課題である。この課題の解決に対する構想な
しには東洋の統一ということも真に世界史的な意味を実現することができない。東洋の資本主義
的統一というだけならば真に世界史的な意味を有する出来事ではないであろう。
 かようにして現代の日本が直面している問題は世界史的な観点からのみその意味を完全に理解
し得るものである。日本精神といい東洋精神といっても、世界史の立場から把握さるべきであり、
単に日本の特殊性や東洋の特殊性を解釈するに止っている限り、日本の行動の原理となるには不
十分である。日本の行動にとって要求されているのは世界史の哲学でなければならぬ。