政治の哲学支配

 ドイツの本屋からとっていた『ロゴス、文化の哲学のための国際的雑誌』が『ドイツ的文化哲学雑誌』と名を変えて送り届けられたので驚いたのは、すでに三年以上も前のことである。世界的権威を有した他のいくつかの学術雑誌がドイツにおいて強制的乃至自発的に廃刊されたのも、その頃のことであったと思う。『ロゴス』もそのように世界的名声を享受し、日本においても哲学に多少関係を有する誰もが知っていた哲学雑誌である。この名称変更は云うまでもなく政治の圧迫に依るものである。理性或いは道理を意味するロゴスという雑誌は合理主義の響きがあってナチスの政策に合しないであろうし、また国際的雑誌であることを標楊したその副題もナチスの政治的主張と相容れないであろう。「ドイツチェ・クルトゥルフィロゾフィー」という語をここに特に「ドイツ的文化哲学」と訳したのは編集者の意志を専重したことになるであろう。なぜなら、それは文化哲学のためのドイツの雑誌でなく、ドイツ的(民族的)文化哲学のための雑誌であろうと欲しているのであるから。世界的な文化哲学というものは存しない。ドイツにおいてはただドイツ的な哲学が存し得るのみであり、またそれのみが許され得るのである。従って国際的雑誌というものは不可能であり、また無意味である。ドイツ人の哲学が世界の学者をどれほど裨益し、人類の文化にどれほど貢献するかは問題でない、決定的に重要なことは、その哲学がドイツ的であるか否かということである。一民族の哲学が世界的になるとすれば、それはその民族の権力の世界支配によってのみ可能である、政治的支配が哲学の支配の前提でなければならぬ、ということになるであろう。哲学は自分を普及させるためにも政治的権力に追随しなければならぬわけである。
 改題された『ドイツ的文化哲学雑誌』 の第一号には果して、哲学者としては殆ど問題にならず、文献学者乃至歴史家としてまず三流どころであるヘルマン・グロツタナーが例の長広舌を振って、『ドイツ的哲学』という巻頭論文を書いた。かようなドイツ的哲学はその時分から俄然多量の生産を見るに至った。ドイツにおける哲学的著述の出版が増加したというのではない、「ドイツ的」哲学の生産が増加したというのである。それとこれとは別のことである。哲学書の出版について云えば、いま数字を挙げることができないけれども、近年減少していると見て恐らく間違いなかろうと思う。そして附け加えて云っておけば、哲学が政治に屈服してドイツ的になればなるほど、我々日本人には通用しないもの、役に立たぬものとなる心配があるということである。外貨の吸収を必要とする国家にとってそれが一つの矛盾でなければ幸いである。
 ひとは問うて云うであろう、 − 哲学が民族的であろうとすることは何故に哲学の政治に対する屈服であるのであろうか、と。もとより単純にそうであると云うことはできぬ。先ず、哲学の政治への従属は単に民族主義乃至国民主義の方向においてのみ考えられることではない。現在ファッシズム国家と対立しているソヴェート連邦においても、別の形式、別の意義における政治の哲学支配が見られるようである。ここで我々はその点に立ち入ることができないし、また我々にとって差当りそのことは必要でもない。なぜなら我が国において政治の哲学支配の危険があるとすれば、それは民族主義的傾向のものであるからである。次に、民族ということも二つの意味を有している。それは実証的乃至科学的概念としての民族的と政治的概念としての民族的とに分って考えることができる。いま問題であるのは云うまでもなく後者である。
 民族的ということは先ず我々の生活及び文化のうちに事実として存在するものとしての民族的なものを意味している。かようなものの存在することを全部否定することはできないであろう。しかしかような民族性は歴史の事実として、その意味の確定は科学的研究の結果に倹たねばならぬ。およそ民族とは何かということが既に簡単な問題でなく、文化の民族的特殊性という問題に至っては更に複雑である。その場合、科学的研究の結果として、或る民族に固有のものと思われていたものが実は固有のものでないということが明らかになることも可能である。また民族性は文化にとってそれほど重大な意義を有するものでないということが明らかになることも可能である。また民族も民族性も歴史において変化するものであるということが明らかになって来ることも考えられる。更に何よりも文化の民族性の強調されること自体が一定の歴史的条件に基づいているということが明らかになって来なければならぬ筈である。いずれにしてもその場合、民族とか民族性とかは学問の対象でこそあれ、学問の前提ではない。
 しかるに今日、民族や民族性が問題になっているのは、かような実証的乃至科学的概念としてではない。この場合、民族的ということはもともと政治的意味のものである。それは単に「民族的」というのでなくて、寧ろ「民族主義的」ということであり、しかも一定の政治思想、つまりファッズムの別名なのである。この場合、何が民族的であるかは自由に検討することを許されず、却ってただ一定の政治的傾向に従ってのみ理解することを要請されている。民族的と個人的、民族的と世界的との文化における意義の比重を問題にすることは許されず、寧ろ最初から民族的なものは絶対的なものと認められねばならぬ。民族に関する諸問題を科学的に究明しようとすることすら、自由主義的であるとして排斥されるのである。民族は政治的に絶対化され、学問に対して欠くことのできぬ「前提」となることが強要されている。かくして、民族に関する科学的哲学的論述に対しては政治的に予め一定の限界が設けられ、一定の目標が示されている。言い換えれば、この場合、民族は一つの神話である。民族主義者は、人類とか人間性とかというものは抽象的なもの、空想的なものであると云って非難するが、よしんばそれが一つの神話に過ぎないにしても、彼等のいう民族もまた同様に神話に過ぎないのではないかということを考えてみようとは欲しない。しかも二つの神話のうちいずれを取るかは哲学的反省によって決定されるのでなく、政治的に予め命令されているのである。人類と猿類との差異は日本人とイギリス人との差異よりも大きいかどうかということを考えてみようとは欲しないのである。人類と猿類との差異は自然的なものである故に問題でなく、民族的差異は歴史的なものとして重要であると云うならば、民族よりも一層歴史的なもの ― 民族が一層自然的なものであるに対して一層純粋に歴史的なものであるところの階級の方が民族よりも更に重要な問題ではないかについて考えてみる必要があるであろう。しかるにそれらのことが十分問題にせられないのは、この場合、民族的ということが政治的概念であり、哲学が政治に隷属しているからにほかならない。哲学は政治に対して「護教的な」関係に立っている。「神学の奴婢」と称して中世哲学を嘲った哲学は、今では自分が「政治の奴婢」の位置に堕したように見える。
 民族的ということの二つの意味即ちその実証的概念と政治的概念とを区別しなけれぼならぬ必要は、今日の状態における政治と科学乃至哲学との関係を通して明瞭になって来る。私は今この関係を一つの実例について、即ちシュプランガー教授の哲学について、一層具体的に説明しようと思う。それは私がこの教授の哲学を特別に重要と考えるためでなく、教授が最近まで日本に滞在して諸所において講演を行い、その名前と思想とが専門の哲学研究者以外にも広く知られているという便宜があるためである。そのうえ、それらの講演の翻訳を集めた『文化哲学の諸問題』という書物は、自由主義的であった哲学者が如何にして政治に支配されたかを示している点においても、特に興味があるためである。
 シュプランガー教授の哲学はもと自由主義的なものであった。その自由主義的傾向はなお元のままでこの書物の中にも残存しているのである。教授は「現代文化に於ける精神科学の運命」という極めて徴候的な題を附せられた一章に於て、「イデオロギー」と「学問」とを区別している。かように区別することが既に自由主義的な考え方を現わしていると云われるであろう。イデオロギーというのは政治的に規定された思想のことであり、とりわけ政治的イデオロギーを指している。政治的イデオロギーは主として「権力ヘの意志」から生れると教授は見ている。これに対し学問は「真理への意志」から生れるのである。かような見方のうちに我々はまた既に教授の思想を以前から特徴付けていた折衷主義的傾向を認めることができるであろう。
 ともあれ、学問は真理への意志から生れるのである。それには異論はない。シュプランガー教授は学問の立場をイデオロギーに対して擁護するものの如く次のように述べている。「真理への意志は先づ瞑想的態度として作用する。換言すれば客観的見方、客観的態度として現はれるのである。この客観的瞑想的態度は、決して性格のない(性格を欠いた)中立的態度ではなく、判断の公正を求むる態度である。そしてこの公正を求むる態度には、強固なる性格と自己統御との二つのものはこれを欠く事が出来ないのである。一人の学究者が、事実かくの如き態度を取り、又厳粛なる気持を持つてこの法則に従ふや否やは、外部から支配する事の出来ない深い学的良心の問題である。かくの如き誠実さの中に、かくの如き清廉さの中に、学問本来の道徳的本源が横はつてゐるのである。若しこの心根(エートス)が破壊せらるるならば、一民族の真の学問的精神は死滅して了ふのである。」この言葉は真理への意志を明らかにしたものであり、我々はこの哲学者の態度に対して敬意を表せざるを得ない。哲学者の意志は真理への意志でなければならず、真理への意志の強烈であるか否かが哲学者の本質的な資格を決定するのである。更にシュプランガー教授は政治的イデオロギーに対して挑戦的な口吻をすら漏らしている。「現に生々と存在してゐるイデオロギーは、学問をなまぬるいもの、中立的のもの、従つて又非行動的、非効果的のもの、無用のものと考へるのである。イデオロギーは、学問を自己の勢力下にひきずり込み、武器として役立つやうに作り直すであらう。これに対し方法論的に厳密なるべき学問は、イデオロギーには論理的基礎付けが欠けてゐることを直ちに見出すのである。特に政治的イデオロギーの中に、単に党派的ドグマの仮装した姿を、一面的・党派的関心の仮装した姿を見て取るのである。そこには学よりも意が動いてゐる。ウィッセンシャフト(科学)よりも寧ろウィルレンシャフト(我学)である。学問は、その時々のイデオロギーと論争を繰返さなくてはならぬであらう。学問はイデオロギーの中から研究題目を見出し、又新なる研究の領域を与へられるであらう。然し学問の基本的構造は、戦の福音の持つそれとは異るものであり、その方法も亦本質的に全く異つたものなのである。」この言葉のうちに我々は政治の支配から独立であろうとする学問の意志の一つの現われを認めることができる。
 ところでシュプランガー教授は学問的精神について右のように述べた後、更に考うべきこととして次の三つの点を挙げている。
 第一に、認識の仕事には、その研究方法の上に伝統というものがある。即ち人々から承認された試験済みの方法が次々に伝えられているのである。例えば手工業などにも伝統的な方法、遣り方があって、徒弟はこれを習わねばならぬように、学問にも全く同様のことがある。学問においても長い歴史的過程を経て初めで見出された内的法則 ― 学問独自の法則がある。シュプランガー教授のこの説に対して誰も異議はない筈である。学問について論ずるためにはそのような方法乃至法則を先ず習得しなくてはならない。教授の云うように、「よくあり勝ちの事ではあるが、素人や非専門家がそれに口ばしを入れるやうな事があつてはならないのである。大工仕事に対してさへ、全くの素人のくせに権威ある判断を下さうと試みるやうな大胆な人間はゐないであらう」。しかるに事実は反対に、今日においては、学問については素人に近い筈の政治家や官僚が学問や思想の問題に容喙し、権力をもって干渉を行うということがないであろうか。学問の権威は政治の権力によって侵害されている。かような事実を学者が黙認しているとすれば、それは学問の政治への屈服を意味することになるであろう。右のシュプランガー教授の説は政治の哲学支配が如何なる性質のものであるかを示すものである。ファッシズムは伝統主義であると云っても、学問の伝統を決して専重するのではない。伝統もまた政治の支配を免れないのである。
 第二に、 ― 教授は云う ― 「学問的見解の多様性、即ち様々の学派、学説が分れるといふ事は、決して真理探求の障害とはならない。何故ならば認識の対象それ自体が、既に我々の考察、研究に対して様々の面を提供してゐるからである。更に又かくの如き矛盾、反対、或は緊張の中に学問の生命が−他の方面に於けると同様に−存するのである。」この言葉は学問の自由、研究の自由の精神において語られている。もしこの言葉が正しいならば、ただ一定の思想の存在をしか許さず、学問に対して統制を行おうとする政治的権力ヘの屈服は学問の自殺を結果しなければならぬであろう。自分の思想が容認されているからと云って、他人の思想の弾圧されている場合、これを黙視するというが如き利己主義は、学問的協同の精神に反し、学問そのものに忠実でないことにならねばならぬであろう。シュプランガー教授のこの説もまた政治の哲学支配が如何なる形で現われるかを示すものである。
 しかるに教授が第三の点として挙げているものは特に注目を要する。なぜなら以上の二つの点において学問的精神を擁護しているように見える教授は、ここに至ってひそかに政治への妥協乃至屈服の道を用意しているように思われるからである。「学問は(人々が欲するが如く)全然前提を持たないと云ふやうなものではなく、学問は理論的の、又超理論的の前提を持つたものなのである。人々は繰り返し繰り返し純粋経験といふやうなまぼろしを追つてゐるが、最も本源的の理論的前提はこれを欠く事が出来ないのである。如何なる学問も一つのア・プリオリを持つてゐる。換言すれば、範疇の体系と、単に相対的意味でア・プリオリなる概念の体系と、仮設の体系とを持つのである。個々の学問(個々の科学)がこの理論的前提、或は基本的前提を明かならしめようと努力するのは極めて当然の事である。 ― 然しながらこの外になほ超理論的の、理論以外の前提が不可避的に存在するのである。そしてこの種の前提は、精神科学に於て特に重大なる役割を演じてゐる。何故ならば精神科学に於ては、精神が自己自身の形態に就いて思索してゐるからである。」すべての学問に前提があることは争われないであろう。無前提的であろうとする哲学ですら前提を有している。しかし学問は先ず前提をできるだけ少なくすることに努めねばならず、また次に自己の前提に対して絶えず反省を加えてこれを出来るだけ客観的なものにすることに努めなければならぬ。学問には前提があるからと云って、どのような前提でも勝手に取ることが許されるわけではない。まして哲学は従来そのような学問の前提を吟味することを自己の固有の仕事と考えて来たのであり、その意味において哲学は無前提的であるとも云われたのである。哲学は如何なる場合においても自己自身の、更に他の諸科学の前提について検討を加えるという任務を放棄すべきではない。しかも問題は、シュプランガー教授のいわゆる「理論的」前提と「超理論的」前提というものにある。教授はそれが共に「前提」であるということから、それらを同格的に取扱い、そして学問には一般に前提が必要であるということに結び付けて、「超理論的」前提を弁護しようとしているように見える。そこに危険が含まれている。いわゆる超理論的前提とは、就中、「人間はある(特定の)国民の中に、ある国語の中に、ある時代の中に、ある社会層の中に自己の位置を有してゐる」ということである。他の箇所で一層簡単明瞭に述べているところに依れば、「我々は全然最初から国民的性質を担つたものである。我々は国民的個性を担つた人間なのである。そして我々は世界人、国際人である前に、国民の一人なのである」ということである(前掲書「文化と国民性」)。即ち学問は一般に前提を欠き得ないという教授の哲学は、いつしか学問は国民性乃至民族性を前提としなければならぬという哲学に転化してゆき、そしてこの前提の上に立った議論が教授の右の書物を全体として濃く彩っている。それは哲学の政治への妥協乃至屈服を意味しないであろうか。なぜなら先ず、かような事柄を認めるならば、教授が自由主義者らしく折角区別したイデオロギーと学問との区別は抹殺されてしまわねばならなくなるからである。国民性或いは民族性を学問に欠くことのできぬ前提として前提する学問はウィッセンシャフト(科学) であるよりも寧ろウィルレンシャフト(我学) であり、イデオロギーにほかならないであろう。このことは一面においてイデオロギーと学問との区別がもともと抽象的なものであったことを示すのである。政治は哲学に対して民族主義的前提を要求するにしても、この前提が真に前提たるの資格を有するか否かを飽くまでも吟味することが哲学の任務であるべき筈である。
 前提という言葉に操られて、理論的前提といわゆる超理論的前提とを同じに考えてはならぬ。幾何学における公理体系の如きものと、人間は全然最初から国民であるというが如き前提とは、学問に対する意義、性質を異にしている。前者は学問的には客観的前提であり、故に幾何学は民族を越えた学問として成立しているのである。範疇の体系の如きも決して単に主観的なものでなく、それ故に「理論的」前提と云われ得るのである。しかるに民族性の前提の如きいわゆる「超理論的」前提は学問的には主観的前提であって、もしこれを前提として認めるならば、幾何学の如きも「ドイツ的幾何学」、「日本的幾何学」といったものになってしまい、学的普遍性を有し得ないであろう。かような主観的前提を出来るだけ除去するということが、教授も認めるように「客観的見方、客観的態度」を本質とする学問の目的でなければならぬ。理論的前提と超理論的前提とは同格でなく、寧ろ後者を否定することによって前者は生れるのである。尤も、我々の主観が現実において民族的に規定ざれていることは何等かの程度事実である。しかしそれは民族性の実証的概念であって、それを学問に欠くことのできぬ前提であると考えるとき、それは民族性の政治的概念へ移行することになるであろう。我々の認識が、特に精神科学の場合主観的制約を有することは疑われないにしても、そしてこの主観が現実において民族的規定を有することも否めないにしても、もしこの主観が全然最初から民族的なものであるとしたならば、学問というものは一般に不可能でなければならぬ。我々の主観には現実においても民族を越えたところがあり、それ故に学問も成立し得るのである。かように現実的主観には民族的なところと超民族的なところとがあると見る場合、その民族的なところを一面的に強調することは学問の立場にとってでなく特定の政治の立場にとってのみ重要であることができる。我等の思惟に免れ難い主観的制約は、これを自覚的に反省し客観的に認識することによって除去して汐かねばならぬ。固より超理論的制約はまさに超理論的なものとして単に理論的にのみ排除され得るものでなく、実践的に排除されてゆくことが必要である。そして人類の歴史の発展における人間の現実の生活の発展は従来その方向に向かって進歩を遂げて来たのである。学問の立場から要求される我々の実践の方向は、我々の主観が民族的制約から実践的に解放されてゆく方向でなければならぬ。その実践において民族的特殊性に固執することは学問の要請でなくて特定の政治の命令であり、かような政治は学問を破壊する危険を有している。
 「若しも我々が学問の政治化と、社会学的整備の道を更に先へと進むならば、我々は極めて近き将来に於ける学問一般の死を予想しなくてはならぬのである。」「これこそ今日の西欧の学問が直面してゐる危機である。それは単なる危機ではなく、明かに恐るべき死の危険である」とシュプランガー教授は云っている。まさにその通りであろう。しかるにそれに勧りず教授は民族性について、「我々はこの事実を承認しなければならない。それと共に我々は学問の前提をも承認しなければならない。これ等の前提は決して欠陥と云はるべきものではなく、それ等は皆内的の合目的性を持つたものである」、と述べている。ここに民族性の実証的概念とその政治的概念とのすりかえられる道が準備されている。個人性や民族性が文化の生産にとって内的の合目的性を有することを我々も決して否定しない。しかしそれは普遍性や人間性(人類性、世界性)を予想しての上のことである。この基本的予想を抜きにして特に民族性のみを強調するということは学問の政治への屈服である。更に教授は、イデオロギーの政治性を宗教性と見傲すことによって政治への妥協の道を用意しているように思われる。教授に依れば、「学問は何処に於ても宗教の胎内から生れて来たものである」そして「イデオロギーは宗教性の一形式である、或は少くとも宗教の補充物である」。しかし単に民族的であって人類的でないような真の宗教が存在するであろうか。人類の理念の発達にとってキリスト教は重要な貢献をなして来た。イデオロギーは宗教の補充物ではなくて寧ろ対立物である。宗教がこれを補充物と見るとき、宗教そのものがすでに政治の支配下にあると云わなければならぬ。「イデオロギーと学問」との対立は教授の云うように「信仰と知識」との対立という従来の問題の新しい形でなく、従って前者を後者と同様の仕方で、例えば凡ての知識の基礎には信仰があるといった風に、学問の前提は民族性であると云って、解決することは許されないのである。
 真理を愛する者は政治を単に「権力ヘの意志」に委ねることを許し得ないであろう。政治もまた真理の立場に立たねばならず、哲学者の任務は政治を真理の立場に立たせることにある。政治の権力は如何なる権威を有するか、と哲学者は問わなければならぬ。単なる権力は権威を有しない。権力は真理と結び付いて初めて権威を有するのである。「思索を欠いては真理に到達する事は不可能である。而し真に深く正しき思索は、又正しき行為を生み出すべきものである」、とシュプランガー教授は云っている。まことにその通りである。しかるに真の思索は政治によって強要された前提を前提としてそのまま受け容れることができないであろう。「真正の知識のうちには正しき行為へと導く絶対的のカが横はつてゐる」ならば、真理への意志は権力ヘの意志の前に屈することができない筈である。