類似宗教と仏教

 


      一

 いはゆる類似宗教に対する批判は既にずゐぶん多く現はれてゐる.それは仏教家以外の社会批評家によつても、また特に仏教家自身によつてもなされた。しかるに、そのやうな仏教家自身によつてなされた批判を見るに、そのうちに仏教特有の立場を明際に前面へ押出して、そこからなされた批判が、私の寡聞の故か、あまり見当らないのである。そこで類似宗教の代弁者の或る者から、仏教家は類似宗教の批判において無神論的なマルクス主義的批評家と同様の態度を取るといふ矛盾を冒してゐると反駁されても、或る意味では致し方がないやうな状態である。仏教家が類似宗教の批判と克服とに努力することはもとより正当である。されどもその場合どこまでも仏教自身の特有な立場が含まれてゐなけれはならぬに拘らず、そのことがあまりに少いのは、如何なる理由によるのであらうか。
 これを他の方面から見れば、仏教そのものに自己批判が欠乏してゐることを意味する。一二年来喧伝されたいはゆる宗教復興において、実際に勢を増したのは類似宗教であつて、その間に仏教の力がどれほど拡張されたかは寧ろ疑問である。かくの如く類似宗教が「新興宗教」と称せられるまで勢力を獲得したといふことは、実は、仏教の如き既成宗教がこれまでのままでは民衆に対して無力であるといふことを示すものとも見られ得るのであつて、その意味において類似宗教の擡頭は、このもの自体が虚妄であるにしても、既成宗教にとつて自己に対する一つの批判として受取らるべき意味を含んでゐる。しかるに仏教家はそのやうに考へず、またその批判のうちにも仏教独自の立場を現はすことなく、寧ろ官憲の弾圧に期待してゐるといふ風がないであらうか。従つてまた仏教自身の興隆に関しても同様に政府の力に頼り過ぎるといふことがないであらうか。政府が反動的な政治的意図から仏教を利用しようとしてゐる場合にも、仏教家は無批判的にそれを歓迎し、恰も仏教そのものがファッシズム的なものであるかのやうに云ひ、喜んでその手先となつて働くといふ態度が見られないであらうか。もしかくの如くにして既成教団が利するとしても仏教そのものは何等得るところがなく、却つて失ふところが甚大であらう。今後仏教が何等か新生面を拓き得るものとすれば、それは何よりも教団内部の批判から出発せねばならないであらうと思はれる。しかるに現在どこに教団の自己批判が現はれてゐるか。以前マルキシズムの潮が高まつたとき、教団の自己批判の必要はその関係者自身によつてさへ或る程度まで感ぜられたやうであつた。ところがその後反動期に入ると共に、教団はもはやそのやうな自己批判の必要を忘れてしまひ、ただ他の批判にのみ関心してゐる。かくの如き態度で行はれるいはゆる邪教撲滅運動に我々は多くの進歩性を期待することができるであらうか。そこに何の権威が存在するであらうか。寧ろ仏教家は邪教撲滅運動をば真に必変な自己批判を糊塗するために行つてゐるかのやうにさへ見られるのである。


      二

 すでにこれまで度々述べたことであるが、私の見るところによれば、現代仏教はつねに社会情勢に追随して行くといふ傾向をもつてゐるやうである。マルキシズムの反宗教運動が盛んであつた時分には、仏教は無神論であるとか、唯物弁証法を含むとかと称せられた。しかるにこの頃のやうにファッシズム的思想が勢を得て来ると、仏教は恰も何か国家主義乃至民族主義であるかのやうに吹聴されてゐる。かくの如く現代仏教は時世に迎合し追随することが著しく、そして現実に対する批判力を欠いてゐる。
 尤も仏教のかやうな態度は、その思想が極めて包含的で、具体的で綜合的であるといふ特徴に基くもののやうに云はれる。具体的綜合的であるといふことは確かにすぐれた性質であるに相違ない。しかしそれはしばしば折衷主義に陥り易く、無批判的な妥協に傾きがちである。寧ろ反対に真の宗教はすべて現実に対する最も厳しい批判を含んでゐるのではないかと思ふ。この批判乃至否定の厳しさに触れることなしに真に宗教を語り得るか否か、私は知らない。近来我が国の哲学においても、物質と精神、個人と国家、一の階級と他の階級、等、あらゆるものの性質的区別を抽象的として排斥することによつて具体的綜合的であらうと欲する傾向が認めれる、これなども恐らく仏教に影響されたものであらうが、その結果は現実に対して批判的でなくなり、弁証法はただ現実のそのままの承認に仕へてゐることが多い。さうなれば宗教も哲学も畢竟不要であつて、通俗の見解と選ぶところがなくなるであらう。この点において私はキェルケゴールの、性質的区別をどこまでも重んずる。「性質的弁証法」の含む深い宗教的意味を考へてみることが大切ではないかと思ふ。もとより究極的なものは批判乃至否定でなくて、綜合もしくは否定の否定としての肯定であるにしても、それは批判乃至否定の険しい道を通じてのみ真に到達し得るものである。ところが批判や否定は真面目に行はれず、或ひはただ観念的に頭の中で行はれるだけであつて、実際にはただ現実の直接的な肯定に留まつてゐるとすれば、その絶対肯定といふものも真の絶対肯定であり得ない。現実に対する原理的な批判を有することなしに、如何に邪教撲滅を叫んでも真の効果は期待し難いであらう。批判はまさにかかる邪教が横行するに至つた現実の理由を宿してゐるところの現実そのものに向けらるべきである。類似宗教の流行はこの方面において仏教の自己反省を迫つてゐるものと見らるべく、この機会に仏教が現実に対する批判の原理を自覚し確立することが最も望まれてゐるのである。一方において仏教は包含的であるといふ名目のもとに現実に妥協し追随しながら、他方において邪教征伐を絶叫しても、そこに何の権威が認められるであらうか。


       三

 もちろん今日の仏教の現実に対するかくの如き態度が仏教そのものの本来の立場であるか否かは疑問である。この点に関して私は仏教教理の更に進んだ歴史的批判的研究を希望したい。由来東洋においては歴史的意識が十分に発達してゐないために、長い間の歴史的成果として蓄積された厖大な教義の中から、その時期、その層などを厳密に区別することなく、自分に都合の好い思想を勝手に取出して来て、仏教のうちには何でも含まれてゐるといふ風に述べてゐる始末である。もしかやうな仕方を認めるならば、包含的綜合的であるのは単に仏教のみでなく、キリスト教にしても同様にあらゆるものを含んでゐると云ひ得るであらう。
 私は仏教の歴史について詳しくは知らないが、しかし恐らく仏教も、各々の時代において特定の現実に対し、いはば特定の戦線を有し、かかる戦線においてその思想を展開したのではないかと思ふ。言ひ換へると、仏教の思想も、それぞれの時代にそれぞれの面が強調され、発展させられた筈である。各々の時代における仏教の生ける力はかかる特定の戦線に向つての力である。しかるにそのやうな歴史的な肉附けから抽象して、種々場当りの思想を勝手に引出して現代にかつぎ廻り、それで仏教思想は具体的であると述べても殆ど全く無力でなければならぬ。仏教思想が具体的現実的であるか否かは、一定の時代の現実に対する関係において定まることである。従つて今日の仏教家の任務は、今日の現実に対して仏教思想の如何なる要素が特に重要であるかを真面目に研究することでなければならぬ。今日の現実に対する戦線において、仏教は宗教として如何なる決定的なことを語り、如何なる決定的なことを為し得るかが問題である。その場合我々が知りたいのは、仏教の真の信仰から送り出た決定的な言葉である。政府の役人のやうな時局論、修養団長のやうな国民道徳講話などを我々は仏教家の口から聞かうとは思はない。仏教団体が在郷軍人分会や地方青年団などと同様の仕事を如何に熱心にしても、我々はそれをもつて仏教の興隆とは考へ難いのである。
 今日この社会において仏教、そして一般に宗教が、嘗て如何なる時代も知らなかつたほど根本的に「問題」となつてゐるとき、仏教家はこの危機を自覚し、その信仰の根源から発した仏教の革新について真剣に心を悩ましてゐるであらうか。仏教家が邪教撲滅に乗り出すことはよい、それはその立場において全く当然であり、必要である。しかしもし仏教家がかくの如き邪教撲滅運動をもつて自分自身に対して根本的に要求されてゐるところの自己の存在理由についての反省にすりかへようとするならば、間違ひである。蓋しいはゆる宗教復興が仏教復興であるよりも類似宗教の流行であつたといふ事実によつて仏教は自己批判を要求されてゐるのみでなく、今日の社会においては単に類似宗教に限らず或る意味では仏教も一緒に問題となつてゐるのである。他を問題にすることによつて自己の問題性を忘れ、もしくは自己の問題性を意識的乃至無意識的に蔽ひ隠すといふやうなことがあつてはならない。


            四


 今日の社会は仏教の存在理由を根本的に問うてゐる。しかるに多くの仏教学者は現在もなほ従らに訓話註釈の中に埋れて、現代に活かさるべき仏教の本質についての深い信仰と新しい認識とを欠いてゐるやうに思はれる。仏教の煩瑣哲学は人々を類似宗教に趣かせる一つの理由である。単に註釈的でなく、現代意識と正面から取組み或ひは取結んだ新しい仏教哲学が組織されねばならぬ。類似宗教は迷信であると云ふのはよいが、これを克服するためにも仏教は単に訓話的でなく、現代の科学や哲学の批判に堪へ得る体系を現代人に理解され得る言葉をもつて確立しなければならぬ。とりわけ必要なことは、仏教が客観的現実に対し得るために、客観的現実の要求するやうに仏教的学問が分化発展せられることである。仏教社会学の樹立の努力の如きも、その従来の方向及び業績には批判の余地が多くあるにしても、かくの如き意味において歓迎さるべきことである。仏教社会学の任務は、単に仏教についての社会学的研究に有するのでなく、仏教からの、仏教の原理に基いての社会の研究でなければならぬ。単に仏教社会学のみでなく、仏教経済学、仏教政治学、仏教心理学、仏教的藝術論、等々にまで、仏教的学問は分化されることが必要である。仏教が現実と交渉しようとする限り、それは現実そのものによつてかやうな分化を要求されてゐるのである。しかるに現在多数の仏教大学が存在するにも拘らず、仏教的学問のかくの如き分化発展は殆ど全く存在せず、またそれに対する努力も行はれてゐないやうに見える。キリスト教が超越的信仰を説くに反し、仏教の信仰は知識的理性的であると云はれるにも拘らず、その点においてキリスト教が却つてキリスト教的経済学、キリスト教的社会学、等々の組織を有するに対して、仏教の現状は如何であらうか。このやうな事実に向つて、私は現代の仏教には倫理がないと云はうと欲するのである。なぜなら、それらもろもろの仏教的学問の根柢となるべきものは仏教的倫理にほかならないからである。仏教的立場における客観的現実に関する諸科学の組織の欠如は、現実に対する仏教の態度をつねに曖昧なものにしてゐる一つの理由であるとも見られ得るであらう。
 現実への追随によつて仏教の復興は期し難い。例へば、今日仏教が時世に従つて民族主義、精神主義などを説くとき、それは仏教の本質を発揮するよりも、寧ろ仏教を類似宗教と同様の位置に堕落せしめる危険がある。なぜなら、民族的宗教であり、皇道主義を標榜し、愛国心を強調して来たのはそのやうな類似宗教である。そして大本数の如きが、皇道主義を唱へながら今日却つて不敬罪に擬せられるやうになつたといふことは、甚だ教訓的である。日本を愛するとみづから称する者が必ずしも最も日本を愛してゐる者でなく、日本を絶えず批判する者が必ずしも真に日本を愛してゐない者でもない。自称者は多くは似而非者流である。今日仏教はその世界的宗教としての本来の立場を力説すべき場合ではなからうか。このことは仏教が自己を類似宗教から区別する上においても必要である。同じやうに、仏教が東洋主義を強調することによつて一国の帝国主義の代弁者となることも危険である。仏教が東洋主義であるべき筈はない、仏教には世界的宗教としての仏教本来の立場がなければならぬ。宗教的良心から発した真の言葉の聞かれることが今日如何に稀になつたか。