貧困と危機

 

 日本の貧しさといふことが云はれるのは比較の問題でなからうと思ふ。比較の問題であるならは、すべて相対的なことである。例へば、仮に日本の文化はヨーロッパ諸国に比較しては貧しいにしても、シャムに比較しては豊かであることは確かである。また例へば、日本の内部においても、今日の文化は十年前の文化に比較して、個々のものに就いて云へば、少くともそのすべてが貧しくなつてゐるわけでなく、むしろ反対に豊かになつてゐるものが多いであらう。更に個々の文化を一々比較して見れば、日本の文化の中にも西洋に劣らない或ひは西洋以上のものを見出すことが必ずしも不可能でないであらう。日本の文化と西洋の文化とを比較して考へることが、そもそも無意味なことであるかも知れない。しかるに現在、日本の貧しさが感じられてゐるといふことは、すべてかやうな比較の問題でなく、却つて日本の文化が全体として、絶対的に貧しく感じられてゐるのである。言ひ換へれは、今日の文化の貧困の意識はその本質において文化の危機の意識である。そこにその意識の根本的な特徴がある。
 もしただ一般的に云へば、日本の貧しさが感じられるのは単にこの数年来のことでなく、明治大正の時代においても絶えずさうであつたであらう。あの時代に洋行した者は今日洋行する者よりも遙かに甚だしく日本の貧しさを感じたであらう。しかしあの時代の人々は決して我々の感じてゐるのと同じ性質の貧しさを感じたのではない、彼等には我々にとつてのやうに日本の文化の危機といふものが感じられてゐなかつたからである。そこに根本的な相違がある。今日では西洋人自身も、少くとも彼等のうちのヒューマニストは、自分の国の文化の貧しさを感じてゐる。彼等も文化の危機の意識においてそれを感じてゐるのである。かやうな意味で文化の貧困の意識は現在の日本にのみ特有なものではない。西洋と比較して日本の貧しさを云つてゐるやうに見える者も、今日においては、比較的な相対的なものを特に問題にしてゐるのではなく、却つて絶対的な危機の意識を根柢とし、それに基いていはば第二次的に外国と比較して自国の文化の貧しさを語つてゐるのである。従つて彼等と雖も、西洋文化をそのまま理想として日本文化を批評し、日本は全く西洋の通りにならねばならぬと必ずしも考へてゐるのではない。そのやうな意味での西洋崇拝は我が国にはもはや殆ど存しないと云ふことができる。この点、日本主義者も安心して好いと思ふ。西洋と比較して日本の貧しさを云つてゐるやうに見える者も、実は、西洋文化をそのまま理想として考へてゐるのではなく、何か自分自身のイメイジを描いてゐるのであり、もしくは描かうとしてゐるのである。西洋とは彼等にとつていはば一つの神話である。そして同じやうに、西洋文化の危機を叫び、救ひは東洋にあるかの如く云つてゐる西洋人が存在するにしても、彼等は東洋の現実をよく知つてゐるわけでなく、むしろ東洋の名のもとに何か彼等自身のイメイジを描いてゐるのであり、もしくは描かうとしてゐるに過ぎない。東洋とは彼等自身の感情から生れた神話である。それ故に或る種の日本主義者のやうに、彼等の言葉を文字通りに理解して、日本の、いな、世界の救ひが過去の日本もしくは東洋の文化にあるかの如く己惚れることは間違ひであると云はねばならぬ。
 今日の日本の貧しさが、浅野氏の云ふ如く、その文化に統一的な形態がないところに存するのは事実である。これは確かに、「日本文化の重厚性」などと云つて済ますことのできぬ重大な問題である。しかしながら、もし比較的に相対的に見るならば、林氏の云ふ如く、かやうに混沌とした文化の中にも次第に或る形態が生じつつあるのを認めることもできるであらう。また浅野氏の云ふ如く、今日の日本のうちに封建的な頽廃的な文化が残存してゐることも事実である。けれどもかやうな残滓も比較的相対的には次第に消滅しつつあるであらう。中島氏の挙げてゐる日本の貧しさの様々は一々尤もであるが、同氏にしても日本が西洋の通りにならねばならぬと考へてゐるわけではないであらう。むしろ中島氏が実際に感じてゐるのは文化の危機そのものなのであつて、この危機の意識に立つていろいろ日本の貧しさを述べてゐる筈である。だから中島氏は「自由を」と叫ぶのである。貧困は中島氏も認める如く相対的である。しかし危機は絶対的である。或ひはむしろ、文化の貧困そのものが今日においては絶対的なものとして感じられてゐるのであり、即ち危機として感じられてゐるのである。かやうな危機の意識において我々は林氏ほど楽観的になれないのであり、しかも他方林氏同様に或ひは以上に楽観的でもあると思つてゐる。危機の意識は単なる絶望とは区別されねばならぬ。絶対的な絶望と同時に絶対的な希望を含む終末観的意識が危機の意識のいはば原型である。日本の貧しさを一々数へ立ててみたところで、またそれに対抗して日本の豊かさを一々数へ立ててみたところで、また両者を加減乗除してみたところで、どうにもならないことである。文化の単なる貧困が問題であるのでなく、文化の危機が問題であり、貧困の意識も今日根源的には危機の意識によつて担はれてゐるからである。
 日本の貧しさに対して我々自身に責任があることは明らかである。この責任は絶対的である。自分の負うてゐる責任を考へず、恰も自分はそれに対して何の責任もないかのやうに、即ち「ひとごと」であるかのやうに日本の貧しさを数へ立てることは慎しむべきことである。批評家はとかくかやうな態度になりがちであつて、その点において林氏が「論壇」や「文壇」を非難してゐるのには尤もなところがないでない。自分が当事者であるにも拘らず傍観者であるかのやうに振舞ふといふことはインテリゲンチャの陥り易い独善主義である。例へば、現代の学生は駄目だと云はれる、さう云はれて学生はみな喝采してゐる、誰も自分だけは別だと思つてゐるのであり、学生が駄目であるといふことを「ひとごと」のやうに考へてゐるのである。かやうな状態である故に、批評に積極性が求められない。この独善主義から脱却して、日本の貧しさに対して銘々が責任を感じ、能動的になることが大切である。
 しかしここに困ることは、我々の文化意志がどれほど積極的であるにしても、その発現と発展とを阻止する力が存在するといふことである。浅野氏の挙げてゐる博覧会の会館建築の例にしても、先般パリの博覧会における日本館の建築に関して、専門の建築家と当局との間に対立が生じた。また林氏の挙げてゐるメーデーの廃止にしても、なるほどそれは日本的なものであるに相違ないが、日本の労働者の自由な意志に基くとは認め難く、政府の弾圧によつて生じた「日本的なもの」であるのではないか。我々は日本的なものを一概に排斥するのでなく、外的強制によつて作られる「日本的なもの」に反対するのであり、かやうな「日本的なもの」においてこそ日本の貧しさを感じるのである。今日いはゆる思想の統制や言論の自由の抑圧によつてかくの如き「日本的なもの」が強要されつつあるといふ事実に我々は文化の危機を感じるのである。それ故に中島氏が日本の貧しさを述べて「自由を」と叫ぶのは当然である。どれほど自由にしておいても日本人の作る文化が日本的であることをやめるとは考へられない。我々が自由に作る文化のうちに却つて真の日本的なものが現はれるであらう。自由に作るといふのは西洋文化をそのまま模倣するといふことでないのは勿論である。日本の貧しさがこの国の文化に「穴」の存するところに認められるといふ浅野氏の説も間違つてゐない。しかし我々にとつてもつと現実的な問題は文化の危機の問題である。この問題から抽象して文化の貧困を論ずることはできない。今日において文化の危機を感じない者は真実にその貧困を感じてゐるとは思はれぬ。文化の「穴」の問題は特に今日初めて生じた問題でない。一般的な問題に逃れて現在の瞬間に課せられてゐる生命的な問題を避けることはできぬ。しかし文化の危機の問題が中島氏の云ふ如く「自由を」といふことだけで解決されるか否かはもつと深く考へてみなければならぬことではないかと思ふ。