汪兆銘氏に寄す

 中央公論記者の度重なる勧めによつて玄に私は貴下に一書を呈することになりました。私は一介の書生にして政治に関はりなく、複雑微妙な政治の実際については固より深く知る者でありませぬ。しかし私は、政治の技術は如何に複雑微妙なものであるにしても、政治の精神は単純明瞭なものでなけれはならぬと信じてゐるのであります。その精神において単純明瞭でなけれは政治は大衆に理解されず、大衆に理解されなければ政治は強力であることができませぬ。政治の要諦は民心の把握にあるのであります。そして単純明瞭な政治とは公道に基く政治をいふのであります。
 貴下は和平救国を掲げて蹶起されました。貴下のこの決意に対して我々は大いなる尊敬の念を懐かざるを得ませぬ。蓋し我々は貴下の和平救国運動が孟子のいはゆる惻隠の心に発するものと信ずるからであります。嘗て貴下が初めて中国の革命に身を投ぜられたる時、貴下はかの民報紙上において『革命の決心』を論じ、孟子の句を引いて、惻隠の心をもつて革命的行動の原動力となすべきことを訓へられたのでありますが、貴下今回の行動もまたその心に出づるものであり、これ則ち我々がヒューマニズムをもつて新東亜建設の基礎と考へるのと軌を一にするものであります。東亜古来の道徳のうちには実にヒューマニズムの精神が脈々として貫いてをり、その根柢に還つて日本と中国との善隣の関係が結はれねはなりませぬ。
 今日の和平はもとより従来の戦争における媾和の如きものと根本的に意味を異にしなければならないのであります。従来の媾和においては、戦争にとつては如何にして相手に自己の意志を押し付けるかが問題であり、戦敗者にとつては如何にして相手の要求を割引させるかが問題であつたのであります。日本は今日ただ利己的な目的を能ふ限り中国に強要しようと欲するものではありませぬ。和平は中国にとつてまた如何にして能ふ限り利己的に取引するかといふことであつてはなりませぬ。歴史を支配する理性は紆余曲折を経るにしても結局自己の普遍的な目的を実現するのであり、個人も民族もすべて世界史の審判の前に立つてゐるのであります。歴史の理性的な目的を洞察して歴史の進歩に志することが我々の義務であります。これ日本のインテリゲンチャが今次の事変以来熱心にこの事変の「世界史的意義」を追求してきた所以であります。その結果が「東亜共同体」の思想となつて現はれたのであります。和平の目的は日本にとつてはもとより中国にとつても決して消極的なものでなく、「東亜新秩序の建設」といふ積極的な目的に向つて両国が相携へて邁進することにあるのであります。和平は単なる妥協とは根本的に区別されねばなりませぬ。東亜新秩序の建設は日本と中国とが協同して負担すべき共通の世界史的課題を意味するのであります。
 貴下の和平運動に動機を与へたいはゆる近衛声明は、日本は中国に対して割地賠償の如き要求は行はず、ひたすら両国の善隣関係と共同防共竝びに経済合作の三項を要求するのみであることを明かにしたのでありますが、近衛前首相は最近東京日日新聞紙上において、この声明の最初これに対する全国の反響が或ひは重大な事態を招来するのではなからうかと虞れてゐたところ、意外にも全国これに異議を挟む者一人とてもなかつたことは真に慶事の至りであると述べられてをります。日本の国民は今次の事変が従来の戦争とは全く性質を異にするものであることを能く理解してゐるのであります。また本年初夏貴下との会談において平沼前首相は貴下に対し次のやうに述べられたといはれてをります。即ちベルサイユ条約はすべてこれ私的偏見をもつて満たされたものであつて、その責めは実に戦勝者によつて担はるべきであり、欧洲大戦後戦勝国によつて組織された国際聯盟が崩壊したのもそこに一因がある故に、今次の事変に対する日本の処置は中国と苦楽を共にするの計をもつて行ふことに決定してをり、戦勝者といふ一方的な偏見を棄てて東亜永久の和平を保つにあると述べられたのであります。実に戦勝者といふ一方的な偏見を棄て、平等互恵の原則に立つて計ることが東亜永遠の平和を実現する所以であります。日本と中国とは協同者であるのであります。日本は独善的であつてはならず、中国は猜疑的であつてはなりませぬ。
 和平は中国にとつて則ち救国であるとは貴下の主張されるところであります。中国の民族主義が中国の独立を求める正当な理由は我々も能くこれを理解してゐるのであります。中国を滅ぼして何の東亜共同体ぞやと我々は言ひたいのであります。独立なものの協同であつて真の協同と言ひ得るのであります。東亜新秩序の建設に対する責任分担として中国の独立と繁栄とは日本の関心するところでなければなりませぬ。侵略主義を排斥するのでなければ東亜新秩序の建設は不可能であるのに、東亜新秩序の建設を意図する日本がもしみづから侵略主義であるとすれば自己矛盾であると言はねばなりませぬ。しかし中国の民族主義が自己を誤解して排日主義になることは許されないのであります。中国はその独立自由を求めることに急であつて東亜協同体の建設といふ共同の目的を忘れてはならず、却つて東亜協同体の建設こそ中国の独立自由を確保する道であることを知らねばなりませぬ。また日本の民族主義は利己的であつてはならず、東亜新秩序の建設の名の下に侵略主義を蔵するが如きことは許されないのであります。かくして貴下の中央公論誌上の寄稿において適切に言はれたる通り、「日本が中国に責任分担を期待するならば、中国の独立自由の不可侵なることを忘れてはならず、中国が日本にその独立自由を妨害せざらんことを期待するならば、共同の目的の忽せにすべからざることを忘れてはならない」のであります。日本が東亜の先進国として新東亜の建設を指導せんと欲することは侵略主義でなく、却つて侵略主義を抑へんがためでなけれはなりませぬ。
 しかるに現在中国人が日本の真意を理解することなく、その侵略主義を恐れてゐる状態について貴下は次の如く言はれてをります。「古人も言ふ如く『地を易ふれば皆然り』であつて、日本は今や強国であり、日本人は今や強国の民であるから、更に一歩進めて東亜を改造しようと欲するのは誠に当然のことであるが、しかし中国人の身になつてみれば、今やその国の亡びんことを憂へて暇のない際に更に東亜のことまで憂へ得るであらうか」と。中国人のこの真理は我々も理解し得ないのでなく、寧ろ深く同感しさへするのであります。日本が中国に対するに最も懇切でなければならぬ理由もそこにあるのであります。その際私はかのパリ媾和会議直後貴下の著はされたる『パリ媾和会議後の世界と中国』なる一文が凡ての中国人によつて想起されることを望まざるを得ませぬ。そこにおいて貴下は「人類共存主義」の思想を論じて次の如く書かれてゐます。「非難する者は次のやうに言ふかも知れない、『それは我にとつて何するものぞ、今日の中国は国家全く亡ぶやも知れないのに、何ぞ世界を云々せん、国民の存亡も測り知るべからざるに、何ぞ人類を云々せん…』と。かかる言葉を聞くに、余は悲しさを覚える。中国の土地は世界の土地の一部分ではないか。中国の人類は世界の人類の一部分ではないか。既に一部分の人類であり、」部分の土地でありながら、『世界が我にとつて何であらう、人類が我にとつて何であらう』といふのは、自暴自棄といふものである。自ら自暴自棄すれば人もこれを暴棄するであらう。かくするときは中国の人類は世界における屈辱の民となるも、視然として天地の間に俯仰するやうでは、余は何の故なるやを知らないのである。かかる言辞を弄しながら自ら愛国者をもつて任ずるが如き人々は、中国を盲者盲馬を深夜深い池の中に導かうとするのか、それとも中国を烈火積薪の上に置かうとするのかも知れない。さうでなければ必ず中国を光明の道に導き中国を安寧の域に置かなければならない。しかしていはゆる光明と安寧のためには人類共存主義以外には如何なる道もないのである」と。今や中国人も日本人も、日本と中国が共に東亜の一部分であることを知つて東亜協同体といふ全体のために尽さなければならないのであり、さもなければ似而非愛国者か自暴自棄の徒であると言はねばなりませぬ。しかも東亜協同体の建設は単に日本人の主観的な意志に過ぎぬものでなくて世界史的必然性を有するものであり、その原理と我々の考へる「協同主義」は世界的普遍性を要求し得るものであつて、貴下のいはゆる人類共存主義と矛盾するものではないと信ずるのであります。
 あらゆる言説にも拘らず中国人によつて日本がなほ侵略主義と看做されてゐるとすれば、日本としてもみづから反省すべきものがあることと思ひます。すべての場合において言説が事実と一致してゐるのでないことは率直に認めなければなりませぬ。思想は高尚であつても現実がそれに達しなかつたり、目的は純粋であつても手段が拙劣であつたりすることがあるでせう。かくして我々は東亜新秩序の建設のためには日本国内の革新が必要であると考へてゐるのであります。東亜の新秩序とは単に東亜の外形が変ることでなくその内実から変ることでなけれはなりませぬ。中国が元の儘であつて、日本が元の儘であつて、東亜協同体といふ全体が形成され得る筈がありませぬ。この新しい全体が形成され得るためには、中国が変化しなければならぬのみでなく、日本もまた変化しなければならないのであります。殊に日本は東亜新秩序の建設に対して道義的責任を有するものであり、日本のイニシアチヴによつてこの新建設がなされねばならぬとすれば、日本は国内においても東亜協同体の東亜であるところのもの、我々が協同主義と称するものを実現しなければなりませぬ。これ我々が国内改革なくして東亜新秩序の建設なしと言ふ所以であります。蓋し東亜協同体の原理は単にいはゆる東亜の原理でなく、また日本そのものの原理でなければなりませぬ。東亜協同体の問題は同時に
国民協同体」の問題であると我々は考へてゐるのであります。嘗て今日ほど日本において革新の要求が普遍的になつたことはありませぬ。そしてこの革新の要変求がつねに東亜における日本を目標としてゐることも特徴的なことであります。中国人の恐れる侵略主義は帝国主義であり、帝国主義は則ち自由主義の発展にほかならないのであります。営利主義であるところの自由主義が無制限に認められる限り、今日の状態において日本と中国との真に協同的な経済合作は不可能であると言はねばなりませぬ。しかるにこの自由主義の問題に対する新しい解決こそ日本における革新の対象となつてゐるのであります。そしてその解決を共産主義はもとより西洋流の全体主義とも異る新しい方向に求めようとしてゐるのであります。今やその弊害が何人の眼にも顕著な資本主義の問題を解決することは今日の世界史的課題であるのであります。東亜協同体の建設はこの問題に新しい解決を与へることによつて真に世界史的意義を獲得し得るのであります。独立な民族と民族とを結ぶものは文化であり、日本と中国とは文化を媒介として結び着かねばなりませぬ。しかも日本はその文化を中国に強要するものであつてはならないのであります。新しい東亜文化の創造こそ東亜新秩序の建設の基礎となるものであり、ここにもまた中国と日本との協同が必要であると思ひます。そして東亜がその独自の文化を形成するといふことは世界文化の発展に貢献することであります。もとより我々は世界文化とはヨーロッパ文化であると考へた従来のヨーロッパ主義を認めないのでありますが、しかしヨーロッパ文化を単に排斥して、それに抽象的に対立した東洋文化を考へようとするものではありませぬ。貴下はその人類共存主義において西洋の侵略主義を攻撃しつつもその科学文化が中国に致した有益な影響を強調されてゐるのであります。新しい東亜文化は何よりも科学によつて媒介されたものでなければなりませぬ。西洋の自由主義にしても単に否定するのでなく、その長所を摂取した一層高い文化を作ることが我々の目標でなければなりませぬ。
 今や欧洲は再び戦乱に見舞はれてゐるのであります。このとき速かに「東亜の悲劇」を終結せしめて新秩序の建設を発展せしめることは世界史的にも極めて意義深いことと思ひます。貴下の健闘を切に冀望する次第であります。