日支思想問題

 最近の北支事件を通じてわが国民に強く印象づけられた日支問題は、それが政治的経済的問題であることは云ふまでもないが、同時にそれはまた思想問題としても我々の反省を要する重大性を種々もつてゐる。両者はもとより相互に関連した問題であるが、ここでは思想問題の方面から二三の点を取り上げて考へてみよう。
 第一に、今度の北支事件そのものが直接に思想問題の意味を含むことは、赤化共同防衛といふ点が数次の声明において強調されてゐることによつても知られ得る。事実、支那における所謂共匪の勢力には侮り難いものがあり、マルクス主義思想は今日の支那において他のいづれの思想よりも広汎な影響を持ち、知識的青年の多くはその信奉者乃至同情者であると云はれてゐる。支那の中でもこれに対して孔子教の復興その他さまざまの思想対策が講ぜられてゐるやうである。この場合に日本が赤化共同防衛に乗出すといふことは、およそ如何なる意味のものであり得るであらうか。
 先づ思想は思想によつてのみ克服され得るといふ原則を認めるとせよ。そのとき日本は、如何なる新しい思想、如何なる有力な思想を持ち出して赤化防衛に関して支那と一致し支那を助けることができるのであらうか。日本内部においては、日本の国民的歴史の世界に比なき特殊性のために一応マルクス主義を思想的に、よし理論的にではなくても感情的に乃至信仰的に抑止し得るものが存在するとしても、かかる日本固有の精神は支那人にとつては何等の力、何等の意味も持ち得ないといふこともあるであらう。この頃日本精神として力説されてゐるのはちやうどかかる思想であるやうに見える。所謂日本精神は日支共存共栄の原理として不十分である。それ以外のものと云へば、却つて伝来の支那思想が日本精神として説かれてゐる。ここに保守的竝びに進歩的両見地から見て問題がある。
 次に思想の克服も権力の行使によるのほかないといふ見解を認めるとすれば、どうであらうか。かかる手段も一国の内部においては或る程度、或る期間は有効であるとしても、国外に向つてはそのやうな手段は制限されざるを得ない。もしそれを国外にまで及ぼさうとすれば、自己の権力の及ぶ範囲を無際限に拡張せねばならなくなるであらう。例へば満洲の赤化防止のために北支の分離独立が必要な条件であるとせよ、この条件としての北支の赤化防止のためには更により広汎な地域の分離独立が必要となるであらう。だから権力の問題も思想の問題として考へ直す必要が出て来る。ウェルズが云つたといふ、日本は満洲を護るために北支に進出せねばならぬ、北支を護るために中支を支配せねばならぬ、そして結局アジア全体を、更に世界全体を支配せねばならなくなる、つまり不可能を行はうとするもので、みづから負ふた重荷に圧倒されてしまふであらう、と。赤化といふ一つの点について云へば、日本のみでなく、蒋介石政権ももとより関心するところでありイギリスもまた然りである。この一点を境としては相対立し相拮抗するやうに見える諸勢力も結局は共同戦線に立つてゐるものである。このことは最後に対立するものが何であるかを考へさせると共に、今度の北支事件がそのものとしては単なる赤化共同防衛の見地から理解できぬものであることを示すのでなければならぬ。
 かくて支那問題を契機として我々に反省を要求されてゐることは、日本精神と云はれるものの国際的普遍性の問題である。かかる日本精神への反省にあたり今我々が考へてみなければならぬことは、日本精神と支那思想との関係である。
 この関連において我々にとつて問題となるのは、特に儒教である。日本思想と支那思想との関係はもちろん遙かに広汎で、多様であるが、しかし現在日本精神として強調されてゐる方面から見れば、また明治以来教学の指導精神となつてゐる点から見れば、儒教が圧倒的な重要性をもつてゐる。
 『日本精神と儒教』の著者諸橋轍次博士によれば、儒教の眼目は修養、正名、経綸の三つに存する。論語などに現はれた孔子の思想には単にこれに尽きぬ深さも拡がりもあるやうに思はれるが、ともかくこれら三つの点が儒教の重要な特徴と見られてゐることは注目に値する。それは先づ、儒教が純粋な宗教でないのは固より純粋な道徳でもなく、却つてその根本的特質において政治的イデオロギーであること、或ひは道徳的で同時に政治的なイデオロギーであることを示してゐる。正名とか経綸とかいふことが政治的意味を有することはもとより、修養といふことも政治的意味を離れたものではない。儒教の政治的性格は一般的には多くの支那学者によつて認められてゐる。次に諸橋博士の指摘された修養、正名、経綸の三つは特に今日云はれる日本精神の儒教的要素が何であるか、或ひは進んでかかる日本精神が如何に儒教的であるかを明瞭に示してゐる。また、その見地から見て就中重要な関係があるのは朱子学、特に朱子の綱目の学であると云はれる。
 ところでこのやうな儒教の本質的な政治的性格は、特に明治以後において資本主義的に発展した日本にとつては、一方倫理そのものの形式化を導き、他方政治に関しては封建的要素と結び付いた官僚政治の倫理的合理化に仕へた。言ひ換へれば、我々にとつて倫理をヒユーマニティから離れたものにした。政治的イデオロギーとして特色があるだけ、儒教には倫理としてはこの欠点があり、そしてそれは精神的文化の問題にとつて重要な関係がある。
 このことは儒教が封建的官僚的政治の目的に多く利用されたにも拘らず、文藝、美術、哲学等に対する関係においては稀薄な影響しか有しなかつたといふことによつて示されてゐる。古来日本のすぐれた文学、美術、哲学等に大きな影響を及ぼしたものと云へばむしろ仏教であつて、儒教ではなかつた。それは支那思想にしても、仏教的なところを含むものであつた。哲学的な宋学は仏教の影響を受けてゐる。この点において、日本の官学的政治的道徳的イデオロギーの組織にあづかつて力のあつた朱子の如きは、仏教哲学的に見て不徹底であつた。今北洪川は『禅海一瀾』の中で「世に伝ふる所の集注、或問の類は乃ち其の中年未定の説」と評してゐる。このやうに文学、美術、哲学等に対する内面的関係の稀薄な儒教が政治的イデオロギーの見地からなほ今日においても国民道徳の中心的要素として教学を指導してゐることは、日本文化のことを考へる場合大きな問題である。所謂「教学の刷新」はこの根本問題に触れる必要があらう。日本精神と仏教との関係は別個の問題であるが、徳川時代の国学者の支那思想批判には考ふべきものが多く含まれてゐる。
 尤も、支那文化のうちに多くのすぐれたものがあること、また支那文化の影響の恩恵なしには現在の日本の発達もあり得なかつたであらうといふことは認められねばならぬ。誰がこのことを否定し得るであらう。いな、支那に対するかかる文化的恩義は、逆に日本が東洋の先進国となつた今日においても、我々の忘れてはならないことである。
 支那の社会は実に永い歴史の間根本的な変化をしなかつた、それが支那の社会の一つの特徴であつたとさへ云へる、けれども其の支那もかの辛亥革命の前後から大きな変化動乱の中におかれるやうになつた。伝統的支那の近代的世界への転換が行はれてゐるのである。
 この場合日本は支那に何を提供し得るのであるか。有史以来支那から受けた文化的恩義に対して日本は今何をもつて報いようとするのであるか。いつたい日本が東洋の先進国となつたのは何によつてであらうか。明かに西洋文化の移植によつてである。そして現在支那が日本から学ばうとしてゐるものも、在日留学生についても知られるやうに、日本が西洋から伝承してこれと接近するまで日本において発達した西洋的なものにほかならない。日本主義者がかかる西洋的なものを排斥しようとする場合、支那は現在自分の為に日本から何を学んでよいのであらうか。
 すべて歴史的なものは空間的であると共に時間的である。例へば「ギリシア的」といふことは空間的意味を現はすと同時に「古代的」といふ時間的意味をもつてゐる。同じやうに今わが国において普通に「西洋的」と云はれてゐるものは「近代的」といふ意味をもつてゐるのであつて、東洋の諸国にしても近代化されること、時間的に若返ることが要求される限り、かかる西洋的なものをともかく伝承しなければならぬ。所謂「西洋の没落」が仮に存在するとしても、「東洋的」といふことが「将来的」といふ意味をもつてゐると主張するためには、別個の証明が必要である。なぜなら今日通俗的に西洋的と云はれてゐるもののうちにはソヴェート・ロシヤの如き全く新しい文化も含まれてゐるからである。もし「日本的」といふことが世界文化の歴史において一つの新しい時期を現はす名称となるべきものとすれば、日本文化におけるそのやうな世界史的イデーは何であるのか。
 かかる世界史的イデーを提げて現はれるのでなければ、我々は支那に対してさへ思想的な支配を及ぼすことができないであらう。日支親善と云ひ、大亜細亜主義と云つても、かかる地域的な名称は世界史にとつて新しい時期を現はし得るやうな時間的意味を有する思想を根柢とするのでなければならぬ。王道政治といふが如き、過去の支那の特定の社会組織と結び付き、しかも支那の近代的発展そのものによつて歴史的に批判されつつある思想が日支親善の原理となり得るものとは考へ難い。
 私は日本文化の、延いては東洋文化の特殊性を否定する抽象的な見方に同意しようとは思はない。けれどもかかる特殊性は世界史的見地から理解されること、しかも単に空間的意味においてでなく時間的意味において理解されることが大切である。しかるに現在の日本主義者はかくの如き見地から日本歴史を理解する代りに、それを自己の政治的道徳的イデオロギーの見地からこのイデオロギーの「かがみ」として解釈しようとしてゐる。「日本歴史」と云ふことさへ好まないで殊更に「国史」と呼ばれてゐるものの多くは、ちやうどこのやうな「教訓的歴史」である。このやうに歴史をかがみと見ることがまた支那から受けつがれた支那思想である。西洋にも類似の歴史観が存在したが、近代歴史学の発達はそれを超克した。そして吾々の文化を世界史的に、且つ特に時間的に考へるとき、日本は支那に最も近いかどうかといふことでさへ問題になつて来る。