ヒューマニズムの現代的意義
  − 西田幾多郎博士に訊く −


三木 近頃いろいろな方面でヒューマニズムが問題になつてをりますが、今日はひとつそれに
ついて先生の御意見を伺ひたいと思ひます。

西田 ヒューマニズムといふのは歴史的に見れは近世の初めに現れたもので、中世のカソリシ
ズムの文化に対するクラシックの文化の復興であるが、人間性を圧迫したものに対する人間性の
反抗がヒューマニズムの問題の起つてくるところだ。

三木 それが現在において問題になるのはどうしてでせうか。

西田 今日ヒューマニズムの問題が取り上げられてゐるのは、取り上げる必要があるからだと
思ふ。ルネサンス時代のヒューマニズムは中世の宗教的な統制とか権威とかに反対し、人間が人
間の立場に還るといふことであつた。それが近世文化の根柢となつてきた。ところが今日はさう
いふ文化が行詰り、また統制の必要が起つてきた。ファッショとかマルキシズムとか、どちら
にしても統制が文化の中心問題になつてゐる。統制が強くなつてくると、人間を、個人の自由を
圧迫する。世界がさうなつてゆかねばならんと云ふとき、そこに何かヒューマニズムの問題が起
つてくるんぢやないか。
 一方ファッショの考へでは個人の自由が否定される。マルキシズムも単なるマテリアリズムで
は人間を否定することになる。マルキシズムの理想は必然の王国から自由の王国へゆくことにあ
るやうだが、すべて物質的なものを実在と考へ、イデーの意味を認めないのでは、根本において
人間否定になると思ふ。ルネサンスのヒューマニズムは非人間的なものに対する人間性の反抗で
あつたが、今日はさういふ人間中心の近世文化が人間否定の方へ向つてゆくやうになつたので、
これに対し人間は否定さるべきかどうかといふ問題が起る。そこにヒューマニズムの問題がある。
非人間的、非人格的なものに統一されてゆかねばならぬとすれば、人間の文化は否定されねばな
らぬ。それならはルネサンス時代からの個人的自由を中心に考へたヒューマニズムにまた戻るか。
私の考へでは、もうこれまでのヒューマニズムに戻ることはできない。さうすると、ヒューマニ
ズムといふものはすべて否定されるか。新しいヒューマニズムは見出されないか。今日のヒュー
マニズムの問題はつまり新しい人間の意味を発見することだと思ふ。

三木 そのヒューマニズムはこれまでのヒューマニズムとどういふ点が違ひますか。

西田 これまでのヒューマニズムは個人の自由を中心に考へてゐる。それはつまり個人主義な
んだ。ところが本当の人間はそんなものでなく、人間といふものは歴史の創造的エレメントであ
つて、そのオペレーターの意味をもつてゐる。むろん人間には個人的自由がなくてはならず、今
日一派の人が云ふやうに単にそれを否定するのは人間を否定することであるが、併しそれのみか
らは本当の人間は考へられぬ。人間は歴史的世界のモメントとして働くものである。これまでの
人間の観念はアトミスティックであつた。けれども本当の人間はアトムのやうなものでなく、歴
史的世界から生れるものである。我々はこの世界から生れ、働き、死んでゆく。今迄の哲学はこ
の「生れる」といふことを考へてゐない。我々は自由に働く。その自由の働きは孤立した人間の
意識から出てくるのでなく、歴史的世界から生れてくる。自由に働く人間そのものがそこから生
れてくるところが歴史的世界なんだ。新しいヒューマニズムはこのやうな人間を考へてゆかねは
ならぬ。

三木 さういふ人間を考へてゆく哲学は…。

西田 それは、これまでの世界の考へ方は自然科学的であつた。自然科学的に考へると、その
世界から個人的自由を持つた人間が生れるといふことはどうしても考へられない。そこで、世界
といふものはどう云つてよいか…。世界は創造的なものと考へねばならぬ。我々人間はこの創
造的世界の創造的なエレメントなんだ。人間は世界から生れるもので同時に個人的自由がその本
質だと云へる。さう云ふことはつまり、この世界が弁証法的だといふことだらう。世界はただ自
然科学的に考へられるやうな単なる法則的な世界でなく、創造的な世界であるが、それは主観的
であると共に客観的、時間的であると共に空間的といふやうに弁証法的なものであつて、さう云
ふ世界は自分自身を形成してゆく世界であり、自分自身を表現的に限定してゆく世界である。こ
のやうな世界のエレメントとして人間を考へねばならぬ。新しい人間性の意味はさう云ふところ
に発見されねばならない。
 かういふと何かアイディアリズムであるかのやうに考へる者もあるかも知らぬが、却つて本当
の歴史の世界は今云つたやうなものでなくてはならん。世界を人間的に考へるのでなしに、人間
を創造的世界のエレメントとして考へるのである。これまでのヒューマニズムでは人間は内在的
に考へられた。それは内在的、意識的人間の人間学の上に立つてゐた。これからのヒューマニズ
ムは歴史的人間の人間学を根柢とせねばならぬ。人間はこの世界に生れ、働き、死んでゆく。そ
れはつまり世界が弁証法的に自己自身を形成し、表現することである。表現することは形成する
ことである。かやうな歴史的世界から人間が考へられる。
 これまでのヒューマニズムは人間を単に内在的に見てきたが、人間の存在はトランセンデンタ
ルなものだ。むろん単なる超越でなく超越的であると共に内在的、内在的であると共に超越的で
あるといふところに人間の本質がある。超越と云ふと、これまでのヒューマニズムでは直ちに人
間否定と考へられてきたが、さうではなく、超越的が内在的、内在的が超越的といふところに深
い意味の人間がある。今日はさう考へられねばならぬので、だから例へば弁証法神学とかT・S・
エリオットの文学とかはヒューマニズムに反対してゐるやうだが、実はそこに新しいヒューマニ
ズムのモメントがあると思ふ。しかし単に超越的であつて内在的でないと云ふのぢやない。内が
外、外が内といふのが人間の本質で、そのやうな人間を新しく見出してゆかねはならぬ。
 それはどう云ふのであるかと云へば、創造性が人間の本質になつてゆくだらうと思ふ。それは
個人が世界の中心になるといふ個人中心の見方でなく、却つて人間がその中に入つてゐる、全体
自身が創造的なもので、人間はその中のエレメントとしてクリエートしてゆく。そこが生態主義、
人間否定的な全体主義と違ふ。世界は弁証法的な形成的な、表現的な世界として創造的であつて、
人間はその創造的なエレメントである。非創造的といふことは人間を否定することだ。人格の中
心は単に主観的な自由にあるのでなく客観において自己を見出すことによつて人間は生れる。人
間が客観的に物を作るといふことは、人間が物から生れるといふことである。人間が客観から生
れると云つても、その客観は自然科学的に考へられる自然のことではない。

三木 東洋思想は一般にヒューマニズムの要素に乏しいと云はれてゐますが、そのことは如何でせう。
またそれは今後どうなつてゆくべきものとお考へになりますか。

西田 さう…。東洋と西洋とを比較すると、西洋の文化は大体ヒューマニズムが中心で、そのも
ととなるのはギリシア文化だらう。近世の文化はギリシア文化と違ふがバーソナリズムでそ
の意味においてヒューマニズムと云つてよからう。東洋文化は非人格的だと云はれるが、東洋で
も特に老荘の教へとか仏教などはヒューマニズムと反対のものだらう。儒教は比較的ヒューマニ
ズムに近いが、それにしても西洋のヒューマニズムのやうなものではなからう。そこで西洋文化
は個人主義で、東洋文化は全体主義であると云はれてゐる。
 ところが今日では西洋的なヒューマニズムが行詰り、非人格的、全体的のものが中心とならね
ばならぬとなつて、そこに東洋的なものが新しいヒューマニズムにとつてひとつの要素となると
考へられる。ともかく、これまでの西洋的なヒューマニズムはひとまづ否定され、新たに東洋的
なものが現れるといふことはあらうと思ふ。併しそれだけでは単に昔に還ることで、新しい人間
を発見することにはならぬ。
 今云つたやうな新しいヒューマニズムの人間観においては、超越的と内在的との弁証法的な結
び付きに人間の本質がなければならぬ。そこで東洋文化の特色とされる非人格的なものに単に還
るといふのでなしに、寧ろさう云ふ立場においてヒューマニズムが認められ、自由の王国といふ
ものが考へられねばならぬ。超個人的、全体的なものは人間を否定するのでなく、却つてそこか
ら人間の本当の個性と自由とが出てくる立場でなけれはならぬ。
 だから、東洋では「無」が原理とされたが、無はただ否定的でなく、創造的と考へられねばな
らぬ。無は何も無いといふことでなく、現実が無なんだ。創造と云ふと、何も無い処から物が出
ることで偶然といふことと人は一緒に考へるが、併し創造は、現実が弁証法的なもので自己矛盾
を含み、自分自身のうちに自分自身を形成してゆくといふことである。つまり現実の動きといふ
ものが余程問題だ。現実の動きは非合理的だとよく云はれる。併し我々自分が居るところが現実
なので、それは人間を否定したものでなく、ヒューマニズムと容れないやうなものでない。ラヂ
オを含まぬものでない。現実が現実を限定してゆくことが無の論理なんだ。無の論理は論理でな
いと考へる者もあるが、私は却つて本当の論理はさう云ふところにあるのだと思ふ。
 普通の形式論理は本当の論理でなく、知識に対して新しいものを齎らさない。現実そのものが
論理的なので、自然科学の基礎とされる帰納法にしても、現実が現実を限定してゆくといふ意味
がある。単なる思惟でも感覚でもない、我々がその中にゐて表現を持つ、それが現実であつて、
我々は表現的な現実のうちにゐて科学的研究をなし、実験に基いて知識を得てゆく。それは現実
が真理を決めるのであつて、ドグマは実験に合はぬと捨てねばならぬ。現実の論理は行為的直観
の論理と云つてよい。その直観は非合理的でなく、働きによつて見、見ることがまた働きを起す。
現実は時間的即事間的、主観的即客観的、つまり弁証法的であつて、自分で働いてゆく。人間は
その中にゐる。現実が現実を限定することが論理になると思ふ。現実は非合理的なものでなく表
現的なものである。現実が絶対的意味を持ち、絶対に触れるといふのが表現的といふことで、そ
のやうな考へは東洋にもとからあつたのでないか。論理はさう云ふ現実から組立てねはならぬ。
 これまでのヒューマニズムが行詰り、東洋的なものが現れてくると云つても、ただ東洋的なも
のに還るといふのでは何にもならん。そこに新しい人間が生れるのでなけれはならず物の考へ方
にも新しい論理が出来ねばならぬ。「無の論理」は創造の論理であつて、弁証法的で、現実的な
感覚的なものを否定しない。感覚そのものが「絶対」に触れたもので普通の心理学で考へられる
感覚の如きは抽象的なものに過ぎぬ。感覚は行為的自己の対象としての感覚として実在である。
感覚は歴史的現実の実在として過去未来がそこに同時存在的だといふ意味において絶対に触れる
といふ意味を持つてゐる。さう云ふ感覚、特殊が絶対である、一般であるといふのが弁証法で、
無の論理である。西洋の考へ方は非現実的なものから現実的なものを考へてゆく。東洋には現実
即絶対といふ考へがあるが、併しその論理はこれまで十分明かにされてゐなかつたと思ふ。東洋
的立場で新しいシステマティックな考へが出来てこないと、東洋はどこまでも非人格的で、それ
では文化の否定となり、人間は滅びてくるだらう。

三木 ヒューマニズムに反対する者は、ヒューマニズムの立場では我々の行為に対する権威の
問題が考へられないと云ひ、ファッシズムなどでは特にこの権威の問題をやかましく云つてゐる
やうですが…。

西田 歴史的世界は創造的であるが、創造的といふのは自分自身を形成してゆくことで、形成
的といふことはまた表現的といふことである。表現は我々を動かす命令の意味を持つてゐる。形
成作用の内容として現れるイデーはそのやうなものだ。つまり形成、表現、創造といふ三つのも
のが一つであるところにオーソリティの問題も考へられるので、人間はその場合この創造的世界
の創造的エレメントと考へねばならぬ。行為的直観と云ふのは見ることが働くこと、働くことが
見ることで、さう云ふ行為的自己に対して見られる形は命令の意味を持つてゐる。大工が家を建
てる、家を建てるとき、単なる命令では動かず、材料だけでも出来ぬ。物が変じ、家が生じてく
るにはギリシア哲学で云ふ、イデーみたいなものがなけれはならぬが、さう云ふイデーにおいて
絶対の命令が現れる。表現といふのは何か客観的なものが出てくることだと思ふ。ディルタイや
ハイデッガーなんかのやうに、表現を単なる理解の立場から考へると命令するやうなもの、客観
的な権威といふものは考へられない。オーソリティは単なる内在の立場からは考へられず、また
単に超越的なものでなく、超越的で同時に内在的なものだ。権威がヒューマニズムと結び付くに
は、創造と形成と表現とが一つであるといふことから考へてゆかねばならぬ。

三木 これまでのヒューマニズムは主観主義的で、カントあたりもさうでせうが、人間の行為
といふものは外にバラバラに与へられたものを纏めてゆくだけのもののやうに考へてゐましたね。

西田 さう、それではいかん。我々は世界の中にゐるので、そのエレメントとして存在してゐ
る。世界が単なる一般者の世界であるなら行為はなくなるが、世界は弁証法的で、一即多、多即
一といふ弁証法的なものだと思ふ。カントでは、その世界のうちに自分といふものがどうして成
立してゐるかが考へられてゐない。カントの云ふ物自体にしても、否定的な概念に留つてゐる。

三木 つまり先生のヒューマニズム論では創造といふことがよほど重要な意味をもつてゐるの
ですね。

西田 さうだ。オーソリティといふことでも、ただ外的な命令的なもの、法則的なものでは創
造といふことがない。新たなものが出来てゆくかどうかが問題だ。表現は絶対的意味を持ち、そ
こにオーソリティがあるので、表現は意識から出てくるのでない。

三木 ヒューマニズムは教養といふものを重んずるのですが、その教養もピルドゥングの元の
意味に従つて創造的な形成作用の意味を持たねはならないのでせう。ルネサンス時代のヒューマ
ニストの考へた教養にはさう云ふ意味があつたので、またゲーテなどもそのやうな創造的な形成
作用を重く見てゐるやうですね。近頃の教養論にはそんなところが欠けてゐます。それに主観主
義的な考へ方によるのでせう、行為といふことと物を作るといふこととが抽象的に分離されてゐ、
ます。先生の云はれるやうな表現的行為の考へが足らないのでせう。

西田 さう、作るといふことが問題にされてゐない。

三木 問題にされても、それが主として美学の問題になつてしまつて、一般に行為とか道徳と
かと別に考へられてゐます。

西田 歴史の世界がよく考へられてゐないからだ。これからのヒューマニズムはポイエシス
(制作)を中心とし、制作的人間の人間学の上に立たねばならぬ。歴史的人間のヒューマニズム
はさう云ふものになると思ふ。

三木 ジイドが倫理の規則と美学の規則とは同じだと云つてゐますが、面白いですね。

西日 ジイドの云ふ意味はよく知らないが、さう云ふ考へは私も賛成だね。私は歴史を藝術で
考へると云つて批評されるが、さうではなくて、歴史の世界から藝術を考へるんだ。歴史の世界
は本来創造的な、形式的な、表現的な世界なんだが、そこから藝術も考へられる。表現的な世界
の我々にアッピールするものが道徳法、ゾルレンである。むろん藝術と道徳とは同じでないけれ
ども、共に歴史の世界から見でゆくことが大切だ。いつたい歴史の世界は根本的に技術的だと云
ふことができる。さう云ふところから考へると、一方藝術なんかもそこに考へられるし、またマ
ルキシズムのやうなものもその中に入つてくる。

三木 先生のお考へは東洋の「無」を新しく理解して、その中へヒューマニズムの思想を敲き
込まれたものと思ひますが、これまでの東洋の「無」の思想は一種の心境のやうなものになつて
ゐたといふことがありますね。その原因は何でせう。

西田 さう云ふことがあつた。西洋文化は第一に戦つた。心境だけでなく何か客観的に理論が
できぬと存在し得ないといふことから発達した。も一つは西洋の物質文明の発達といふことと関
係があるだらう。支那の思想も孔子春秋の時代は心境だけのものでないやうだが、以後はその形
態の単に精神的なものだけを伝へてゐるんだと思ふ。さう云ふことになつてゐるだらうが、その
原因はよく研究してみないと難しい。禅などは西洋の神秘主義と一緒にされるが、あれはもつと
現実的なものだと思ふ。あまりに現実的な位で素人の云つてゐるのとは違ふ。あれは大分変つた
もので、マテリアリズムにもなれる。ともかく今日は心境だけではゆかない。それには論理的な
システマティックな考へが出来てこなければならんと思ふ。