無力なる宗教

、ひとのみち故国に対して第二次坪野が下つた.さきには大本教に封して大枚挙が行はれ、遼に
故国の解散を命ぜられるに至つたが、今やひとのみち数囲も同様の運命に禽はうとしてゐる。
 近年いはゆる類似宗教の進出には目覚ましいものがあつた。類倣宗教の氾濫はもとより宗教の
興隆を意味せず、反対に宗教の貧困を意味してゐる。大本教やひとのみち教囲のみでなく、多く
の類似宗教が勢力を得たことは、杜合的原因に基くのであるが、宗教そのものの立場から見れば、
既成宗教が無力化してゐることを示してゐる。あの「宗教復興」もジャーナリズムの上における
一時の流行に絶つて了つた。今日の彿数もキリスト教も杜合的事情に基いて不安にされた人間の
心を救ふカを失つてゐる。しかもそれらの既成宗教は迷信や邪信に趨るかくも多数の人間を作り
出しっつある現代杜合の不安そのものに就いて根本的な認識を有せず、若しくは有しょうと欲し
ないことによつて自己を愈々無力化してゐるのである。
 類似宗教の駆逐は理由のあることであらう。ただ我々の遺憾とせざるを得ないことは、類似宗
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教の駆逐が宗教自身の力によつてなされるのでなく、却つて官憲のカによつてなされてゐるとい
ふことである○眈成救国も迷信や邪信の排撃を唱へた0けれども之によつて自己け敵とする類似
宗教のカを減ずることは出来なかつた0囲家権力の教動のみが漸く新興教囲を潰滅せしめ得たの
である○かやうなことは既成宗教に封して轟々官憲依存の胤を助長せしめることになりはしない
であらうか0そしてそのことの結果は宗教を盆々貧困ならしめることとなるのである。宗教がそ
の貧困から救はれるためには、最定款第に甚だしくなりつつある官憲依存の凪が先づなくならね
ばならぬであらう。
 新興数園が弾歴された場合、その幾石高といふ信者の行方が最も重大な問題である。あの大本
数の信者はどうなつたか。また今度ひとのみち数囲の信者はどうなるであらうか。彼等は衷心か
ら改心するであらうか。信仰を失つて宗教的ルンペンとなるであらうか。それとも彼等の生活上
並びに心理上の諸條件に相臆して一つの邪教から他の邪教へ移つてゆくのであらうか。何れにし
ても、この場合眈成宗教はそれらの信者に対して何等積極的に軌き掛けょうとしてゐないやうで
ある。邪教に対する官憲の弾歴を期待することは好いとしても、野庭後におけるその信者の魂の
救済に封して既成救国が手を差し延べょうとしないのは何故であらうか.
                                                        句一jリ・ヨ。」。Z習憎碓▲】ヨ。山1旬刊ヨ」1箋召1.1 パ竣d加ハH…畑還和杓。
 「大本教解散のとき、東北のある信者が俳教に蹄供し某寺院の檀徒たらんとしたが、寺では入
檀料として多額の金を要求したため、その信者は非常に憤慨したと云ふ。之は畢にこ例に過ぎな
いが、寺院は今少し考へて衆生済度の建前からあらゆる階級の人々を引入れ、十分に安心立命を
輿へるやうに努力されたいものである。大本教に入るのも、ひとのみちその他のいかがはしい宗
教に走るのも、眈成宗教に糠らないからである。此鮎既成数囲が考へなければならない」。之は
今岡ひとのみち教園に対して解散命令を教するといふ内務省首局の談として侍へられる言葉であ
る。信者をただ搾塀の対象としてしか考へない寺院に宗教があるのであるか。既成宗教の無力は
今や官憲さへも認めざるを得ない状態である。
 新興救国はその教義において日本主義的である。かかる日本主義的な数園がどうして禁座され
るやうになるのか、不審である。その理由として停へられるものも臆測の範囲を出でず、眞相を
捕捉し難い。聞く析に依ると、今岡槍畢されたひとのみち教組は「教義のどこに不敬があるのか、
私は全く不可解です」と云つてゐるさうである。更に不審なことは、それらの教園に対して弊歴
を加へる政府自身が次第に極端な日本主義、非合理主義、紳秘主義を宣博して何等の矛盾も感じ
てゐないといふことである。かやうな葺侍が人々を大本数やひとのみち数に類する邪教に趨らせ
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ることに夢響が無いとは云へな筈あらう0葦併教の教典の中にも畏明敏の立場から改警
命ぜられたものが砂くな・い0我々にとつて理解し難いことは、その場合併敬家が官憲の命を奉じ
て宗組の哀的な文章にさへ抹警加へて障らないといふ態雪ある0併教の日本主義化は墓
に急速度をもつて進行してゐる0これはキリスト教においても同様である。
宗教の貧困の大きな原因の一つはかやうにして宗教の是主義化のうちに認められる。なぜな
らそのことは宗教が自己の猫自の原理を自ら地来することであるからである0眞の宗教は本来世
界的なものである0家族主義の道徳、国民主義の道徳等を超えたところに宗教の世界がある。も
しも宗教が修身教科書的道徳の宣停者、いはゆる思想善導の手先に過ぎないならば、宗教とは名
のみのものであり、我々は特別に宗教を必要としないのである0そのやうな機関はすでに管に
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多いのである。
 もとより是併数が日本的であるのは常然であらう0併しそのことは併教の本質的な世界性を
抹殺し得るものでない0世界的なものであればこそ、インドで興つた併数も是へ渡つて琴姦
たのである0今日この国民主義的風潮の中において宗教が自己の本質に徒つて敢然として叫ぶべ
きものはその世界主義ではないか0また日本的と云つても、時の樺力者の唱へる日本主義に追随
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サることではないであらう。宗教は宗教として狩自の立場から現音に封する批判を有するのでな
ければならぬ。然るに現在の宗教は何等かやうな批判を有せず、ただ時の権力者に迎合すること
にのみ腐心してゐる。政府が日本主義と云へばそれに徒ひ、祭政一致と云へばそれに徒ひ、かく
してただ世俗的権力への妥協、追随に寧日なき惨めな状態に自己をおいてゐるのである。日本的
と稀する宗教も、その日本的といふことについて何等濁自の見解を有するわけではない。宗教は既
に自己の原理を放撼して了つてゐるのである。日本的といふこともそれにとつては宗教的乃至思
想的問題であるのでなく、現音への際限なき追随を意味するに過ぎないのである。
 軍なる現賓主粛の立場からは宗教は出て来ない。却つて宗教はその本質において現音に対する
最も深刻な批判着である。現青の混乱が斯くも甚だしく、文化のあらゆる領域において摩擦が斯
くも激しい時代に、我が国の宗教家の間に一人の殉教者も生じないのは寧ろ不思議である。世俗
的華南が眞の幸福でないことを説く宗教家が、現青への際限なき安協によつてひたすら自己の世
俗的辛繭に配慮するといふことは宗教の自殺を意味するであらう。
 かやうにして宗教の日本主義化は宗教そのものの教展のためにでなく却つて現有の救国制度維
持のためにのみ考へられることである。しかもこの制度の利害は現在の紅合の支配的勢力の利害
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と一致してゐることが愈々明瞭に示されつつあるのである。
 かやうにして今日の宗教における著しい傾向はその現音追随であり、権力への迎合としての事
大主義である。この傾向は箆諦と俗諦の理論、いはゆる大乗精紳の理論などによつて思想的に説
明されてゐるにしても、その根本に意囲されてゐるのは宗教的信仰の擁護ではなくて教囲制度の
現状維持である。この「改革」時代、「庶政一新」の時代において、宗教家は教囲改革の根本問題
に手を解れようとはしてゐないのである。時世に随順する為にその教義を様々に改攣して悼らな
い宗教家も、教園組織の襲革の一鮎になると現状維持沃なのである。教義や信條の改攣もみな現
存教園の維持の為になされてゐる。現在の数囲組織が宗教にとつて樫待となつてゐはしないかに
‥就いての根本的な批判は有しない。本山の募財はあらゆる機合を利用して行はれ、末寺の窮乏は
次第に甚だしくなりつつある。宗教の名による信者からの搾坂は据えない。宗教の日本主義化が
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制度の改基丁を意味するものでないことは誰れの眼にも明かであらう。
 宗教と錐も時代によつて襲化するのは首然である。併し乍らそれは宗教が宗教として存立する
本質を地菓することであり得ず、宗教の生命をなす教義や信條を放埼することであり得ない。然
るに今日の宗教にとつては自己の本質、自己の生命はもはや重要な問題でないやうに見える。併
:彗
数においては聖徳太子の篤敬三賛の読が今日最大の操り析とされてをり、繹迦も宗組も太子の前
には影が薄くなつてゐる。あの「宗教復興」の頃には1宗組に還れ」といふ標語が掲げられたが、
今やこの標語も推し退けられるに至つたのである0
宗教の日本主義化はその生命である教義の地粟であつても、教義そのものの改革を意味しない・
教義も歴史において改革されねばならぬであらう0併し如何に改革されるにしてもその信仰の本
質的な内容を抹殺することは許されない0ところが現在の宗教は完全に国民道徳論に化し、信仰
はもはや重要な閏超でなくなつてゐる。宗教的信仰が無くても今日の宗教家の詮いてゐるやうな
通俗倫理は立浜に説くことが出来るであらう0もし眞にその教義を改革しようと欲するならば、
宗教家は生きた信仰に基いて「新しい耗典」を書くほどの気塊を有しなければならぬ0この場合
絶封に必要なのは熱烈な信仰である。然るに今日の宗教家にあつては信仰は形骸となり、巧に時
世に順應した説教をする人間もその信仰内容においては依然として
に諦へるに足るものを有しないのである○宗教の現代化は全く外面
数が盛んになつたといふこと、しかもその信者の中には知識階級の
奮態を

に まつて

 ふ間が多い
ず、新時代の人間
ゐる。あの類似宗
といふことは、眈
成宗教の説く教義が清新なものを有しないことを示してゐる0宗教的教義としてはそれは何等本
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I落を意味する0日本主義への追随でなければ、宗教に封して無関心であるといふのみでなく、学問
の研究としても何等清新な方法も篭丁も有しないところの経典の文戯寧的研究と濁断論的解稗と
である0宗教の貧困は信仰の貧困にとどまらず、料率と哲撃との貧困としても現はれてゐる。