大学の問題

 

      一

 今度の大学の問題において考へさせられることは、大学を支持するやうな評論が殆ど現れないといふことである。これは従来の場合と比較してかなり著しい相違である。これまで大学に問題が起ると多くの評論は大学に同情的であり、大学を擁護するのがつねであつた。しかるに今度の場合は逆である。時世の変化の大きさが感ぜられる。
 先づ気付くことは、以前には問題が起ると早速意見を発表する大学教授があつたのであるが、今度は何か申し合せでもあるかのやうに皆がロを緘して語らないといふ風である。これにはこの非常時においてはなるべく紛争を避けようといふ考へもあるであらう。確かにこの時局においては無用の葛藤は避けなければならぬ。けれども他方から考へると、問題はすでに起つてゐるのであり、すでに世間を騒がしてゐるのであるから、大学教授が以前のやうにその所信を発表することは当然の義務であるやうに思はれる。しかるにそのことをしないのは、大学がこの問題に対して結局消極的なのでないかと察せしめるものがある。
 今度の問題の核心は大学における研究の自由にある。ところがこの問題はその本質において文化一般の問題に関聯してゐる。文化の自由といふことは既に大学以外においても大きな問題となつてゐる。しかるに近来大学教授はこのやうな問題については何も云はないやうになつてゐたのであるが、今自分の足元に火がつくに至つて漸く口を開くやうになつたのである。そこに時代に対する大学の消極的な態度が認められる。
 この頃大学の権威を失墜するやうな事件が多いと云はれてゐる。大内問題を契機として爆発した東大経済学部の内紛、京大における山本事件、清野事件等、大学の信用を下落させたことは確かである。しかし大学の権威を失墜させてゐる最も大きな原因は、それら個々の事件以上に、時代に対する大学の一般的に消極的な態度である。
 日本の文化がどうなつてゆくのかといふことは我々がいつも心配してゐる問題である。また日本の教育がどうなつてゆくのかといふことも我々がいつも心配してゐる問題である。これらの問題について大学は指導的な地位に立つべきであるにも拘らず、つねに甚だ消極的な、受動的な態度を示してゐる。世間は大学からもはや何等の指導性も期待することができなくなつたのである。そしてそれが大学の権威を失墜させてゐる一般的な原因であると思ふ。時局に協力することが時局に追随することであるとは我々はもちろん考へない。しかしこの重大な時機において回避的な態度を取ることは許されないであらう。
 大学に研究の自由が必要であることは我々も認める。しかしその自由は時局を正しく指導するために用ゐらるべきであつて、現実の問題を回避するための研究の自由であつてはならぬ。この革新の時代において研究の自由を要求する大学は自己の内部を改革する義務を有してゐる。しかるに大学は自分自身の改革についてさへ極めて消極的であつたのである。そのことが今度の問題において大学に対する同情の意外に少い理由であらう。


      二

 今日の大学において問題になつてゐるのは総長の官選か公選かといふことのみではない。学生の問題も極めて大きな問題である。しかるにこの問題についても大学はすでに久しく全く消極的な態度をとつてきてゐるやうである。大学はその学生に対してさへ指導性を失つてゐる。いな、学生については文部省にも指導性はなく、内務省に委ねられてゐるやうに見える。
 今日の学生については色々なことが云はれてゐる。近年学生はただ非難されるために存在するやうなものである。学生を信頼してはいけないといつたやうな議論がずゐぶん盛んである。しかしいつたい、学生を信頼するなとか、インテリゲンチャを信頼するなとかといつたやうな議論がいはゆる日本主義者によつてなされるのは妙なことである。日本はドイツとは違ふ、ユダヤ人はゐないのである。学生も日本人であり、インテリゲンチャも日本人である。日本主義は凡ての日本人が信頼できるといふ前提の上に立たなければならぬ。かう云へば、大衆とインテリゲンチャとは違ふと云ふのであるが、しかし大衆とインテリゲンチャとを抽象的に対立させることは大衆の知的水準を不当に低く評価するといふ誤謬に陥つてゐるのである。
 学生を信頼するなと云ふ者は、逆に考へると、自分らの思想が学生から信頼されてゐないといふことを云つてゐるのである。学生を信頼することができないといふのは、学生から信頼されてゐるやうな思想がないといふことである。あらゆる革新に青年の力が必要であることは歴史の示すところである。革新を信ずる者は青年学生を信じなけれはならぬ。そしてそのためには学生から信頼されるやうな思想を作ることが肝要である。
 大学が学生に対して指導性を有しない一つの理由は、彼等の問題に対して大学が余りに消極的であるためである。例へばいはゆる学生狩りについて大学教授は意見を殆ど全く発表しなかつたのである。学生の問題を内務省の手に委ねてゐるやうな大学に指導性があるといへるであらうか。次に更に大きな理由は、学生を引摺つてゆくことができるやうな思想が大学にないといふことである。そしてこの点においては文部省も同様であり或ひはそれ以上であるやうに思はれる。
 学生の指導は直接には大学の責任である。しかるにこの全く簡単な事柄が近年の学生論においてはとかく忘れられてゐる。しかも文部省にも学生を心服させ得るやうな思想がないとすれば、大学自身にそのやうな思想が作られるやうにしなければならぬ。そしてそのためには大学に研究の自由を与へることが大切であり、大学は何よりもこの時代を指導し得るやうな思想を作るためにこの自由を活用しなけれはならぬ。
 凡ての国民が納得して従ひ得るやうな思想が現にあるのならば研究の自由は必要でないかも知れない。それがないのならはそれを探究するために研究の自由が必要である。そしてまた凡ての国民が納得して従ひ得るやうな思想がある場合には研究の自由はすでに問題なくあるのである。

        三

 いつたい改革などといふものは内部からはなかなか出来にくいものである。国民に対してはいろいろ革新の注文を出しながら官吏自身はどれほど革新を行つてゐるのかといつた声が聞かれるのもそのためである。革新には外部からの圧力が必要であるといふ意味において、今度文部省が大学の革新に手を着けたのも適切なことであると考へられるであらう。大学の自主的改革といつても、容易ではないからである。
 しかし、仮りに大学総長の官選が善いにしても現在の文部省の有様では却つて弊害があると見る者が少くない。大学を改革しようといふのなら、先づ文部省自身を改革しなけれはならぬ。それが文教の刷新にとつて急務であるといふのが既に久しく世間の常識となつてゐるのであるが、この方の改革は行はれさうにない。荒木文相の英断に期待するところが多いのである。
 今度の改革案は大学教授が官吏であるといふことの筋を通さうとするものであると声明されてゐるが、問題は単にそのやうな法律的形式的なことに止まるのでなく、一層根本的な思想問題であることは誰も考へることである。それでは如何なる思想に基いて改革を行はうとするのであるか。それは自由主義排撃であるとは普通に云はれてゐることであるが、しかしその自由主義排撃の思想とは積極的には如何なるものであらうか。それは日本精神であると云はれるであらう。ただその際我々の疑問とするのは、近年日本精神と云ひながら現実に行はれてゐるところを見るとナチス模倣が余りに多いといふことである。日本精神と云ふ以上、その実際の政策においてももつと日本独自のものを示さねばならぬ筈である。翻訳的でなくて創造的であることが大切である。我が国の思想政策に創造性の乏しいのが遺憾である。日本主義といはれてゐるものの内容も一般的に把捉し難く種々雑多であり、それを組織し体系化したものに至つては全くないといつて好い状態である。
 文部省には教学局とか国民精神文化研究所とかがあり、また日本諸学振興のために年々多額の金が支出されてゐる。しかしそれらの思想機関は国民大衆と接触がなく今ではその存在さへ忘れられようとしてゐる。教学局その他ではかなり多くの出版がなされてゐるのであるが、それらのものは社会の一般人には眼に触れることができないのである。そこに官僚的高踏主義が見られる。その学問が非現実的であつて、今日の現実の問題から遊離してゐるといふことは大学に対する改革の要望の一つの理由であるが、このやうな高踏主義は別の仕方で文部省にも存在してゐる。文部省の手で出版される研究報告その他がもつと国民に近づき易くせられなけれなならない。その思想や思想政策がもつと公共的にならなければならない。思想は元来公共的であるべきものであり、国策といふものも公共的なものでなければならぬ。公共性のない官製思想によつて国民を指導してゆくことはできぬ。
 そして思想の公共性の意義が真に理解されるならば研究の自由の真の意義もおのづから理解される筈である。研究の自由の意義が誤解されてゐるのは思想の公共性の意義が正しく把捉され且つ実行されてゐないためではないかと思ふ。