大学改革への道

 大学の改革が新たに問題になつてゐる。今日の大学に改革の必要なことは誰も認めてゐることであるが、それが今度文部省の改革試案と称するものによつて現実の問題になつてきたのである。私の遺憾に思ふのは、大学の改革が大学自身によつて著手されなかつたことである。大学の自治を主張する者は大学の自主的改革を夙に断行しなければならなかつた筈である。自主的改革を行ひ得るものにして初めて自治の資格を有するのであるから。とりわけ近年社会のあらゆる方面において革新が唱へられてゐる。この時代の風潮から云つても、大学は逸速く先づみづから改革を実行し、それを通じていはゆる革新の原理乃至方向が如何なるものであるべきかを一般に示さねばならなかつた筈である。そのことが文化社会において占める大学の地位に従つて望ましいことであつたと云へるであらう。尤も東京帝大では大学制度検討の委員会を設けて調査を行つてゐたやうであるが、その成案を得るに先立つて今度の問題が生ずるに至つたのは多少気の毒である。しかしこれも時代のテンポと大学の歩みとの差を現はすものと見ることもできるであらう。
 今度の問題の根本にあるものは、これを深く認識するならば、単に大学にのみ関係したことでなく、広く社会の文化のすべてに関係したことである。ところが大学教授たちは社会の他の方面、文化の他の部門における出来事については無関心であるかのやうに看過し、今自分の足元に火がついた時に漸く起ち上ることになつた。そこに時代に対する大学の消極的な態度が認められる。大学はその研究の自由を主張してゐる。社会においては文化の自由がすでに久しく問題になつてゐる。社会における文化の自由が決められてゐる場合、これを傍観しながらただ大学においてのみ研究の自由を要求するかのやうな態度は、大学を社会の特等席と考へる意識があるからではないかと疑はせるものがある。大学は先づその残存してゐる封建的な特権意識を清算しなけれはならぬ。そして社会における一般文化の問題と大学における学問の問題とが決して無関係でないといふ自覚の上に立つことが大切である。
 世間の一部の人からは大学は自由主義の府であるかのやうに云はれてゐるが、私の見るところでは必ずしもさうではない。むしろ大学の改革にとつて差当り必要なことは、その一切の封建的なものの打破である。その教授団のギルド的性質、その学者養成における親分乾分的関係、各大学間における教授任用の封鎖性、派閥的諸関係、その他これに類する一切のものの改革が要求されてゐる。この種の改革が行はれない限り、研究の自由と云つてもほんとのものであり得ないであらう。大学の自治を主張する者は大学教授の他の官吏とは異る特権を云ふのがつねであるが、その教授たちには果して官僚主義がないであらうか。世間のいはゆる官僚主義はむしろ大学教授において甚だしいとは考へられないであらうか。
 大学における研究の自由を論ずる場合に忘れられ易いのは、アカデミズムがその自然的傾向として有する伝統主義である。文化の歴史においてアカデミズムといふ語は伝統主義の別名の如く用ゐられてゐる。大学の学問も、少くとも文化科学の方面においては、伝統的な概念と伝統的な方法とによつて伝統的な問題を論ずるといふことが多いのである。私はもちろんアカデミズムの有する種々の美点を否定するものではない。しかしその伝統主義が研究の自由といはれるものに大きな制限を与へてゐることは争はれない。従来の学問及び藝術の歴史を見れば分るやうに、研究の自由を欲する者は度々アカデミズムに反旗を翻したのである。現在に於ても大学の伝統主義が研究の自由を妨げてゐる例は尠くないのである。大学にどれほどまで自由精神が生きてゐるか問題である。むしろアカデミズムに対する闘争のうちに自由精神があるかのやうである。かやうにして今日の革新時代において問題になるのは、大学における研究の自由であるよりもそのアカデミックな伝統主義であると云ふこともできるであらう。
 尤も我が国の大学はその歴史が比較的新しく、その伝統主義も比較的強くはない。それは或る場合には「進歩的」でありさへした。しかし時代の波が荒くなつて来るに従つて、アカデミックな伝統主義は大学にとつて避難の場所となる傾向を示してゐる。それ故にもし大学が真に研究の自由を要求するならば、大学はいはゆるアカデミズムの静かな美しさのうちに遁れることなく、進んで今日の時代の荒々しい動きが課してゐる問題に身をもつてぶつつかる勇気をもたなければならぬ。研究の自由といふことが現実の問題の研究を回避する自由であつてはならない。大学の学問の非現実性は近年しばしは非難されて来たのである。自由探究の精神の生命は現在の歴史的瞬間に与へられてゐる問題と真剣に取組むところにある。そしてかくの如く日本の現実の課してゐる問題を熱心に研究することが国策に沿ふ所以である限り、研究の自由は国策の立場と矛盾しないであらう。研究の自由を要求する大学はアカデミズムの弊風とされてゐるものを脱ぎ棄てて真の自由探究の精神に還り、その研究と学問とのために時代的な意義を獲得しなけれはならぬ。かくして初めてアカデミズムの長所とされる技術も活きることができるのである。
 現実的な研究にとつて問題は現在の歴史によつて必然的に与へられたものである。それは実践によつて必然的に課せられたものである。それ故に研究の自由と云つても、問題は自由であるのでなく寧ろ歴史的に実践的に必然的なものである。過去の伝統的な問題の研究も、現在の問題との生命的なつながりにおいて捉へられねばならぬ。しかしながら問題はこのやうに必然的なものであるにしても、これが研究そのものは自由でなければならぬ。さもなけれは研究は客観的真理に到達し難いからである。問題は国策に沿うたものでなけれはならないが、これが研究は自由であることによつて科学性を獲得し得るのである。真理は実践にとつて大切であり、科学的な理論なしには国策の確立も、発展も、実現も期し難いであらう。国家は真理の研究の機関として大学を必要とする以上、その研究に対して自由を認めなければならぬ。研究の自由といふものを自由主義と混同してはならない。研究の自由は研究そのものの内面的な制約であり、科学的認識そのものに本質的な前提であるのである。
 しかしながらこの際特に注意すべきことは、研究の自由は研究の共同を俟つて初めてその意義を十分に発揮し得るといふことである。単なる研究の自由では研究の無政府状態、従つてまた理論の無政府状態に陥る危険がなくはない。各人の自由な研究は研究の共同において弁証法的に綜合されて真に具体的な認識に達することができる。大学は研究の共同のための機関であり、それが綜合大学の組織を有するのも研究の共同を目的とするからでなければならぬ。単に研究の自由のためならば大学といふが如き研究機関を要しないのであつて、大学制度の意義はむしろ特に研究の共同に存しなければならぬ。しかるに我が国の現状において極めて遺憾なことは、この研究の共同において最も欠くるところが多いといふことである。大学の各学部の間の共同はもとより、一学部の内部においても共同が不完全である。そして何よりも派閥の存在、教授間の反目等がこの研究の共同にとつて妨害となつてゐるのであつて、その打破が今日の大学の改革における急務である。ただ研究の自由のみを云つて研究の共同を顧みないならは、研究の自由は悪しき意味における個人主義や自由主義の弊に陥ることになるであらう。研究の自由を要求する大学は研究の共同について深く反省するところがなければならぬ。研究の自由と研究の共同とが結び付いた研究共同体としての大学において真の自治が可能である。研究の共同が存しない場合、大学の自治は却つて派閥を作る原因ともなり得るであらう。実際、従来いはゆる大学の自治が派閥のために利用せられたことは尠くないやうである。大学の自治は単に研究の自由のためのものでなく、また特に研究の共同のためのものでなければならぬ。
 かやうにして私は、一方において、国家が大学に寄託してゐる真理の研究といふ大学の使命から云つて大学の自治が法律的形式的には如何なる形をとるにせよ実質的には必要であると考へると共に、他方において、大学もこの際改革すべきものは速かに改革を断行する必要があると思ふ。現在の大学における自治が種々の弊害を有することは明かであるが、その自治が形式的にはともかく実質的にも否定される場合、更に新しい弊害を生ずる危険が多いのである。今日の状況においてその場合特に恐れられることは、大学の内部が徒らに政治化されるといふ危険である。大学の政治化は新しい派閥の発生の原因となり、そのために研究の共同が乱されることになるであらう。社会のあらゆる方面において共同の最も必要な今日、大学はその社会的地位に鑑みて先づ共同の実を示すべきである。