生活文化と生活技術


生活文化といふのはこの噴多少目につくやうになつた新しい言葉である0これまで文化といふ
と、すぐ毒とか美術とかいつたものが考へられ−生活文化などいふものは殆ど全く閏超になら
ないのがつねであつた0科挙の如きでさへ、従来は、文化とは異る文明に苧るといはれ、物質
文明と椅紳文化などと稲して−何か惑いものの如く考へられたのである0かやうな見方が今

の特徴的な事賓のうちに含まれてゐるのであつて、すべての人々において現音的であるわけでは
ない0新しい文化概念をほんとに掴むためには覿引引割引引引
       Iゝ・1.III
能的に含蓄されてゐる思想を現青的に展開することが必要である.
 】
F
 先づ生活文化といふ言葉のうちに含まれてゐるのは、生活に対する積極的な態度である。文化
を意味する英語のカルチェアまたはドイツ語のクルトウールといふ言葉がもと耕作を意味する言
菓から出てゐるやうに、輿へられた自然に働き掛けて人間の作り出すものが文化である。輿へら
れたものをそのままにしておくとか、或ひは畢に消極的にそれに封するとかいふのでは、文化は
ない」我々の生活もまた或る自然のものである。これに積極的に働き掛け、これを攣化し改造し
てゆくところに、生活文化といふものが考へられる。生活文化といふ言葉は生活に封するこのや
うな積極的な態度を現はすのでなければならぬ。その根砥には「文化への意志」がなければなら
ぬ。もちろん我々の生活は最初から畢に自然的なものでなく眈に文化的なものである。我々の生
活は、その内容においても、その形式においても、過去からの文化的停統によつて浸透されてゐ
る。例へば我々の生活に日常故くことのできぬ言語である。これは我々が初めて作るものでなく、
我々の民族の速い過去から我々に停へられたものであり、我々はその中に産れ落ちるのである。′
あらゆる他の文化と同じく、生活文化もまた停統的である。停統といふのは過ぎ去つたものでな
く、生きて働くものである。ところで俸統が生きたものであるのは、我々がこれを生かすに依る
生活文化と生活技術
三入五

                       三八六
のである0過去の停統が我々に働き掛けるのは−我々の現在の行革がそれに働き掛けるに依るの
である0即ち侍統といふものも我々の働き掛けによつて眞に停統となるのである。「汝の先組か
ら譲り渡された物を、汝が占有するには、更にそれを蔵ち得ねばならぬ」、とゲ主は書いてゐる。
                     一∫l音
盤活に封する積極的な意慾がなければ、過去の生活文化の停統の美しいものも活かされない。創
造を通じて停統も初めて停統として有在し得るのである。
次に生活文化といふ言葉は文化があらゆる人間に関はるものであることを示してゐる。文化は、
少数の天才にのみ関はるものでなく、また1文化人」と呼ばれる一部の人間にのみ属するもので
                                          育
もなく、すべての人間に関係するものである0どのやうな人間も生活してゐることは確かであり、
そしてその生活が即ち文化であり、文化であり得るのであり、文筆なければならないのである。
自然人もしくは原始人に封して文化人といはれる意味において、すべての生活者が文化的人間と
題は善い奉術家になるといふことである0記念碑的な文学や美術を作ることは少数の雲イにのみ
考へられねばならぬ0蛮術家が奉術作品を作るのと同じやうに、
我々は我々自身と我々の生活と
                         −  ■r.巨   i_
‘L 巨.巨.邑−【
を作るのである。
すべての生活者は奉術家である、彼の人間と彼の生活とは彼の作品である。閏
輿へられることであらう。
深遠な哲学や精密な科学を理解することは一部の知識人にのみ許され
一周」当。
′浬
ることであらう。
しかるに生活文化はあらゆる人間に関はるものであり、
しかもこれにおいて創
造的であることは他のいはゆる文化の創造に劣らぬ債値のあることである0わけても婦人は生活
文化に対して密接な関係を有し、一国の生活文化の状態は何よりもその婦人の文化的水準を示す
とさへいひ得るであらう。生活文化の重要性を考へるとき、これまで文化及び文化的活動に何等
関係がないかのやうに見られてゐた婦人も、文化に封して重要な関係があり、徒つてまた着任の
あることが理解されるのである。
 ここに生活文化といふものの本質が誤解されないために、それをいはゆる1文化生活」から一
應直別して考へることが必要であらう。文化といふ言葉はもと大正時代に、以前の文明といふ言
葉に封して流行したものであるが、その頃、例へば1文化住宅」とか1文化柑」などいふ如く、
文化といふ言葉を冠した多くのものが現はれた。その場合文化といふのは先づ舶来鬼どといふの
と同じく何か洋風のもの、バタ臭いもの、また最新流行のもの々意味したやうである。日本的な
もの、停統的なものの美しさはその際殆ど全く顧みられなかつたのみでなく、西洋的なものにし
てもその本質的な深みから捉へられることなく、かくて文化生活の名のもとに恰も植民地的文化
が出現したのである。文化生活といふものは軽桃浮薄なものとして心ある人から攣壁された。こ
生活文化と生活技術
三人七

                    三入入
のh舶卦引叫斗剤耐潮
引引引引引0眞の生活文化は単に表面的なものでなく、内容的なもの妄質的なもの
                                                                 iI
でなければならぬ0ただ表を飾ることでなく、内から書させてゆくことが大切である。竺に
黎叫封別封劉もしくは生活精紳の間超である○いはゆる養生活が欧化主義の弊に染
りがちであつたのに対して、新しい生活文化は我々自身の自主的な立場において作られなければ
ならない0もちろん偏攣讐的な排外主義に陥つてはならぬ去洋の纂文化から学ぶべきも
のは寧び、探るべきものは採つて−そこに習の生活文化を形成してゆくことに努力しなければ
ならない0計乳巾如帥鮒
削い割引別封のである0今日新しい生活文化の創造にあたつて我が国の侍統が衰く
顧みられねばならぬことは言ふまでもないであらう。
肺弼
つた0いはゆる文化生活の様式は自由主義的、個人主義的であつた0しかも封建的な潰の慧
       ヽfl
を克服することが我が国の生活文化の黎展にとつて必要であつた限り、いはゆる文化生活にも重
要な意味があつたのである。殊に従来その生活において特に多く封建的なものに縛られてゐた婦
人にとつて文化生活といふものに対する憧れは大きかつたのは常然である。しかし今日の新しい
生活意識乃至生活精紳は針はや畢なる自由主義に止まることができぬ。もちろん封建主義に逆持
するやうなことがあつてはならぬ。自由主義の長所を生かしっつこれを超えた協同主義が新しい
生活文化の基調とならねばならない。従来の個人主義的な生活様式に封して、協同主義の生活様
式が新たに形成されてゆかねばならないのである。この新しい生活文化の形成にとつて現在何よ
りも肝要なのは杜禽的訓練である。日本人は立渡な国家道徳をもつてゐるけれども、杜合道徳に
おいては甚だ劣つてゐるといはれる。そのことは例へば今の交通道徳の状態をひとつ見ても明瞭
である。新しい生活文化はさしあたり交通道徳の向上の如きことから始まらねばならぬであらう。
ところでかやうに日本人の間に杜禽道徳が蚤達してゐないといふのは、歴史的に見ると、この囲
における自由主義の教達が†分でなかつたといふことに基いてゐる。自由主義は杜合といふもの
を全く考へなかつたのではなく、却つてそれはいはゆる杜合道徳の教達に輿つてカがあつた。今
日この杜禽的訓練といふものが協同主義の立場から新たに行はれることが必要である。新Lい生
生活文化と生活技術
三八九

らぬ○蓋一主義は生活文化に関しても文化の貧困を結果する。
三九〇
めいめいが自分の個性的な生活様
                  宅▲ill−一lI
式を重んずることになつて初めて模倣とか流行とかの弊害もなくなることができる。
ちろん畢に特殊的なものをいふのでなく、却つて特殊的なものと表的なものとの綜合において
             ヽ与・▲−ミ
眞の個性は成立するのである0我が国における生活文化或ひは風俗の改善にあたつて個性の纂、
徒つてまた人格の辛苦いふ観念から出教しなければならぬものは甚だ多いであらう。
竺に、いはゆる文化生活において文化と見られたのは、藁であるとか美術であるとか、文
学であるとかであつて、それらのものを生活の中へ持ち込むことが文化生活であると考へられ、
生活そのもの、この全く日常的なものもまた一つの文化であるといふ観念がそこには紋けてゐた。
                                 ‡一_lモlrI
例へば言葉、炊事、交際、風俗、このいはば全く平凡なものが人間の作る文化の婁な、基礎的
活文化は協同生活の種々の様式T隣組の如きもその一つの例である1を創造してゆかねばな
らないが、その際また各人の生活様式における個性の革重といふことを忘れてはならぬ。静岡と
重言は同じでない0仝彗義と苧るものが彗主義の弊に陥らないやうに注意しなければな
個性とはも
な部分である。
しかるにいはゆる文化生活において主として関心されたのは、レコードをかける
とか、ラヂオを聴くとか、本を讃むとか、映童を観るとかといふことであつた。そめことがもち
ろん決して悪いのではなく、否そのことは生活文化の向上にとつて極めて大切なことである。し
かしながら、いはゆる文化生活においては文化といふものが生活の低地に求められないで高析に
尋ねられたために、そこにおのづから種々の弊害を生じたのである。先づ文化生活は鎮のかかる
こと、賛澤なことになりがちであつた。そしてそれは消費的な文化に一層多く関心した。文化と
いふものは家庭生活においてよりも家庭の外において求められねばならなかつた。そこにはまた
一種の文化主義が現はれて、生活と文化とが瀦離し、文化に対する関心が生活に封する関心から
帝離することになつた。生活と文化とは統一されねばならぬ。文化を生活的に考へるといふこと
は来洋古来の停統でもある。生活文化の思想は、文化と生活との統一を、生活も即ち文化である
といふ根本観念から出費して、いはば下から求めてゆくのである。いはゆる文化生活においても
その統一が求められたとすれば、それは上から求められたのである。日常的なもののうちに文化
的意味を認め、その文化性を高めてゆくことが生活文化の思想であり、いはゆる文化もかやうな
生活文化の見地から生活の中へ砺り入れられ、これによつて文化と生活との帝離を克服してゆく。
いはゆる文化生活が消費的な文化に一層多く関心する傾向があつたのに対して、新しい生活文化
の立場においては生産的な文化が問題である。

    生活文化と生活技術
文化は国民をあらゆる意味において生産的にする

                 三九一

                    三九二
やうなものでなければならない01生産的なもの、それのみが眞である」、とゲ主はいつた。い
はゆる文化生活が少数の拳術家や学者の作つた文化を享受するといふ立場に立つてゐたのに反し
て−生活文化においてはすべての者が誰でも文化の創造に参加してゐるのであるといふ自慧深
められ、かやうにしてまた峯術とか科学とかいふものに封しても畢なる受用の立場に止まること
                                                             ヽl享
なく、それぞれに生産乃至創造の立場に立つといふことにならなければならない。拳術的精紳や
料率的精紳が各自の生活の設計において、その個人生活においても、その家庭生活においても、
             ▲ll■■ll■l1.11〜ll−
その国民生活においても、生産的に、創造的に働くやうになることが大切である。文化生活とい
ふものが少数のいはゆる文化人のみのものであるかのやうに考へられたのに反して、生活文化は
全国民的な閏超である〇一国の文化的水準は少数の天才の業績によつて定まるのでなく、賢の
生活文化の水準によつて、測られるのである0国民の生活文化の水準が高まることによつて、そ
の他の文化にしても、国民的な基礎をもつた文化が作られ得るに至るのである。
 もちろん既に解れたやうにいはゆる文化、これを仮に精秤文化と呼ぶならば、その精紳文化と、
生活文化とを抽象的に分離することはできない0生活を一つの文化として捉へるところに、生活
                         ■.1,・・\lI
文化の観念がいはゆる文化生活の観念と異る鮎があり−それによつて生活と文化と姦一的に見
  ミ1一l
ることも可能になるのである。生活文化にしても精紳的でないのではない。他の文化と同じやう
に生活文化もまた精紳の産物であり、その民族の民族精紳を表現してゐる。生活文化の蚤達向上
                                                                                   ..′■1−■■■ヽ
のために精紳文化が生活の中に取り入れられねばならぬことは論ずるまでもないであらう。音欒
や美術や文学、そして何よりも科挙と技術が生活の中に持ち込まれて、生活化されなければなら
∫一lヽI
ない。それらの要素を除いて生活文化を考へることはできぬ。それらのものの生活化はまたそれ
らのものの教達のために廣い豊餞な地盤を作ることになるのである。かやうにして生活文化の観
念は究極において文化生活の観念を否定するのでなく、ただそれに歴史的に結び附いてゐる間建
つた前提を頼り去つて、眞の文化生活の教達を囲らうとするのである。

      ニ
新しい生活文化の形成には生活に対する積極的な態度がなければならないが、それは何よりも
生活に封する愛といふものである。生活に対する愛、Iこのヒューマニズムがあらゆる生活焚
化の根砥になければならぬ。この愛は生活をより善く、より美しく、より幸福にしてゆくことを
求めるであらう。封建的な忍従の道徳に止まることなく、あらゆる状況の中にあつて生活を向上
生活文化と生活技術
三九三

                      三九四
させてゆかうとするヒユー…ズムの精紳から新しい生活文化は生れてくる0しかし生活に写
る愛は文化、とりわけ生活文化といはれる種類の文化に写る正しい理解と結び附かなければな
らない0その文化は生誓明朗に、健康に、また能率的にするものである0晋除くべきものは、
     、も.1一

文化を何か装飾的なもの、笹渾なものとする思想である。
例へば娯欒である0娯欒は生活文化における一つの婁な要素であるが、娯欒といふものを何
か徐分のもの、等なものの如く見る考へ方が今も存在してゐる0しかし娯欒は生活に紋くこと
のできぬものである0娯奨の意味を正しく理解するためには、生誓欒しむといふことの意味が
          首l一一−
正しく理解されねはならぬ0日本人は生活を楽しむことを知らないといはれてゐるのである。こ
も111一1.11
なかつたといふ事情にも依るであらう0また芸人のうちに今もなほ苧立身出豊義が存在し
てゐるといふことも、その生活をゆとりのないものにしてゐる大きな原因であると考へることが
できるであらう0生活を繁しむことはただ少数の人間、金持のやうな生活に鷺のある老にのみ
可能であり、許されてゐると考へるのは間違つてゐる0すべての人間がそれぞれの仕方で生活を
欒しむことができ1生活の餞裕」をもつことができる0そのことは例へば嘉人の貰を注意し
                                一首
れは、一つには、
明治以後の日本の杜合が管月の間に駈足で極撃多くのことを為さねばなら
て観察した者には容易に理解されるであらう。娯楽といふものを最初から賛渾なもののやうに極
めてしまふ間違つた観念から出教すれば、それを銭のかかる方面、贅澤な方面に求めることにな
るのは自然であり」貧乏な者は最初からそれを断念するのほかない。その間違つた観念を先づ破
棄して、その上で探求が始まらなければならぬ。娯欒といふものが日々の食事と同じやうに生活
に必要なものであるといふ観念があつたならば、すべての人は、自分の経済に應じて毎日自分の
食事を用意する如く、それぞれ自分の娯欒を工夫するやうになるであらう。娯欒といふものは生
活にとつて餞分のもの、生活の外にあるもの、単に生活に附け加はつてくるものではなく、生活
の中にあつて生活を構成すべき一つの要素である。娯繋は「生活の一つの形式」であるといふこ
ともできる。このやうにすべての生活文化は生活に対して外部から附け加はつてくるものでなく
て我々が生活を形成してゆく形式にほかならず、しかもこの形式は内容を離れたものでなく、む
しろ新しい内容を生産してゆくものなのである。娯楽といふものは、生活の一つの形式として我
我のカを普通に使用されてゐるのとは達つた方面に働かせ、或ひはまた我々の普通は使用されて
ゐないカを働かせる。欒しむことは怠けることではない。怠けることによつて人は眞に欒しむこ
とはできぬ。ただ娯欒には平生とは達つたカの働き或ひは同じカの達つた働きがあるのである。
生活文化と生活技術
三九五

三九六
そこで娯架は我々がいはゆる1仝人」となるために必奔なものであり、かやうな意味においてそ
れは;の立誓教養である○教養のために娯讐求めるのでなく、娯繋がおのづから教養にな
るのである。
専門的でない表的教養は娯欒の形式で生活の中に入つてゆくといつても好いであ
らう0娯奨は生活の一つの形式として、生活の基調にはつねに或る娯欒的なものがなければなら
ない0基れによつて生活は明朗になり、健康になり、また能率的にもなるのである。芸人が長
期的のことに向かず、文化↓の仕事においても大きなものが少いといはれるのは、生活を欒しむ
といふことを知らないためではなからうか0永続的な活動のためには生活に娯欒の要素が必雫
あるといふことは、今日特に我が国の状況において考へねばならぬことである。もちろん娯欒は
目的のないものである0目的のある娯楽は眞の娯奨にはならない、娯柴には目的がなくて、しか
lミ一11I↑l一lI   −  1 一
もそれは生活にとつて合目的的なものである。
それはいはば1無目的の合目的性」であり、この
鮎においてそれは萎術に顆似し、一種の拳術であるともいひ得るであらう。娯欒を欝なものと
を1II    ・−11篭..11.I
考へる観念を棄てて掛りさへすれば、娯奨は到る虞に各人にとつてあるのである。ただそれには
             l〜l・・I一・・Ill′1ミ・■11をlll一
美が必要なだけである0しかもこの工夫そのものが一つの大きな奨しみである。
ところで他のすべての文化においてと同じやうに、生活文化の形成においても技術が必要であ
る。生活文化もまた技術的なもの、技術的に作られるものである。そこには生活技術ともいふべ
きものがなければならぬ。徒つて生活文化にとつても知識と訓練とが大切である。生活文化につ
いて語る場合、特にその技術的意義に注意されねばならない。ここに生活技術とは、畢に金銭の
造繰算段とか或ひはいはゆる世渡りの術とかをいふのでなく、生活文化を作つてゆくことに関す
るすべての技術をいふのである。技術は窮迫から生れるともいはれる。物資の窮迫から物資を作
る技術が要求されてくるやうに、生活の窮迫から生活技術が要求されてくる。もしも文化が蟄澤
なものに過ぎないならば、現在の事情において文化について考へることは許されないであらう。
しかるにあらゆる技術は物を作ることによつて地上を豊かにすることができる。現在縮小を飴儀
なくされてゐる我々の生活は、それが却つて新しい生活技術に動機を輿へ、新しい生活文化の生
産によつてその駄乏が補はれるのみでなく、更に豊富にされなければならぬ。これが生活に対す
る積極的な態度といふものである。娯欒の如きにしても、今日ともすれば暗くなり、消極的にな
らうとする生活に明るさを輿へ、積極性を斎すために重要なのである。
 生活文化もまた技術的に作られるものであるとすれば、その基礎に知性的なものがなければな
らぬことは明かである。技術は知性によつて存在する。近来しはしば現はれてゐる知性に封する
生活文化と生活技術
三九七

                                              三九∧
                                            ヽも・
非難は全く不常である0知性をもつて翠に批評するものの如くいふのは正しくない.知性とはむ
‥引例引引引引、叶山臥引馴引い引引引。知識人とは寧に物
を知つてゐる人間のことではない0元来−知識人とか文化人とかいふものは物を作り得る人間の
                                         ′
ことであつた0この観念が今日すべての知識人の間に再生しなければならない。我々が知つてゐ
るどのやうな小さな物も、もと翼或ひは笥されたものであり、その中には嘗て極めて大きな
               一1111−葺Il▲■−11−−1−11− − 11111
量の知性のカが使用されたものも砂くないのである○すべての生活文化を生産乃至創造の立場か
ら新たに見直すことを学ばなければならぬ0風俗とか道徳とかいふものも元来笥に属してゐる。
                                  ′\.−
生活文化もまた技術的に作られるものであるとすれば、そこに料率との結び附きが考へられる。
この場合においても技術は科挙によつて蓬することができる0科畢的技術によつて作られた生
産物即ちいはゆる文明の利器が生活の中に利用されるといふのみでなく、生活技術そのものが科
挙的にならなければならない0生活文化の形成は工場における生産と全く同じに考へることはで
きないであらう0しかもそこにも科挙が浸透しなければならぬ0風俗の如きものも科学的知識と
科学的思考方法とに基いて改善されねばならぬところが多いのである0かやうにして合理性が生
要化の中に行き亙ることは生活を明朗に、健康に、また能率的にする所以であるq
 i  ̄≡
 しかし生活文化は機械的技術とは異るといはれるであらう。その技術は各人において人間化さ
れ、個性化されたものでなければならない。なるほどさうであるとするなら、そこにはしかしま
た手工業の職人に似た知性と技術があるべき筈である。更に生活文化には感情的なもの、美的な
もの、趣味的なものがなければならぬといはれるであらう。確かにその通りであり、それは強調
されねばならないことである。けれどもその際先づ考ふべきことは、合理的なもの、徒つてまた
能率的なものの持つ美しさである。美しいものは贅澤なものでなく、却つて最も合理的なもので
ぁる。機械にしても、能率的な機械ほどその形においても美しい。生活文化の基調に趣味的なも
の、感情的なものがあることは極めて大切であるが、しかし次に考へねばならぬことは、垂術の
如きにしてもただ感情や趣味だけで生れるものではないといふことである。そこには技術がある。
率術的創造にも技術が必要であるやうに、生活文化の形成にもその技術がなければならぬ0どの
ゃぅな物にしても、物にぶつつかつて仕事をする人は皆、孜術が大切なことを理解してゐる0そ
の封象が物質であらうと、人間であらうと、そのことには攣りがない。我々は我々の生活におい
て自分では意識しないでそのやうな技術を使つてゐるといふのが普通である。既に歩行といふこ
とが一つの技術であり、我々はこの技術を習得するために過去において多くの訓練を経て来たの
生活文化と生活技術
三九九

四〇〇
である0計引引引馴引るところに生活文化の改善の璃慧
掴まれるであらう0生活は我々が形成してゆくものであり、そしてすべての形成には技術がなけ
ればならぬ、との考へ方が基本のものである0生活技術に必要なのは畢なる知性ではなく叡
智であるといつても、叡智もまた技術的である0西欧的知性に封して畏的叡智といはれるが、
その鹿洋的叡智といふものは賓に叡智が技術的なものであることを最も深く理解したのである。
「掛
                                       ヽ与一l
桝封馴引引ワ0そのものもまたそれ自身技術的である0それは技術の技術ともいふべ
                                                                     l
.艶銚…粥……粥粥粥……州粥醐g
                                                           イヂ1

                               ヽ  − ・11・・11−・1I・11.1
る0かやうに生活纂の金管統轄する技術、技術の技術ともいふべきもの、この理念的技術的
なものが叡智にほかならない0それは技術の技術として寧なる技術望のものであり、それ故に
叡智と呼ばれるのである0個々の生活文化の改良はもちろん必要なことであるが、そこにはつね
にかやうな意味における叡智がなければならない0生活文化の開祖においても仝憶吋な見方に立
つことが大切である.
…袖、∴、
a1稚 W




 ̄1粛=TT ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ i
生活文化と生活技術
四C l

四〇ニ