自由主義以後  10.4.26〜28 読売新聞

 最近、美濃部学説問題を一契機として自由主義の再検討が行はれてゐる。そして「没落自由主義」などと云はれる如く、自由主義は無力であり、やがて没落して行くべきものであるといふのが、一般の意見のやうである。然しながら今日、自由主義の問題はそれほど単純でなく、その複雑な意味を分析することが問題の正常な取扱ひのために必要であらうと思ふ。
 我々は先づ「自由主義の二世代」とも云ふべきものを区別しなければならぬ。その一つは、ことわるまでもなく、近代社会の支配的な原理であつた自由主義即ちブルジョワ自由主義である。これは年齢から云つて、比較的古い世代に属する自由主義者によつて代表されてゐるのが通例である。然るに比較的若い世代、特に若い世代のインテリゲンチャのうちにおける自由主義は単純にこれと同一視し得ないものがある。新世代の自由主義は決してブルジョワ自由主義をそのまま認めるのでなく、種々の点でそれに反対してゐる。この自由主義と古い自由主義との間には、普通その担ひ手についても世代の相違があるやうに、性質上の相違がある。両者を同じに見、自由主義と云へばブルジョワ自由主義であるとして概括論を行ふことは、今日の実状に即したものと云ひ難いであらう。我々の関心するのは、資本主義社会の「古典的な」自由主義でなく、寧ろいはば「自由主義以後の自由主義」である。
 没落自由主義と云はれる場合、それの華かであつた時代の存在したことを予想しての言葉である。かく云はれ得る自由主義は、もちろんブルジョワ自由主義にほかならず、事実、それは没落すべき性質のものであらう。然るに新世代の自由主義はそのやうな想ひ出を有することなく、そのやうな過去に束縛されることを要しない自由主義である。特に我が国においては従来ブルジョワ自由主義も十分に開花しなかつた。このことは、一方、新世代の自由主義がブルジョワ自由主義の伝統に圧倒されずに新しいものとして成立するために好都合な事情であると共に、他方、それがもとより自由主義と云はれる以上ブルジヨワ自由主義の一定の要素を継承する限りにおいてもなほ、我が国の文化発展に対して重ねて特殊な意味を有することを語るものである。
 確かに自由主義は現在無力である。然しそれが無力であるからと云つて、何でも社会的に強力なものに従ふといふ態度こそ自由主義の排斥するものである。自由主義に対する批判において、それは無力であるから無価値であるといふやうな考へ方が知らず識らず前提されてゐる。これは現代の政治主義的な見方に伴ふ危険であつて、とりわけ封建的な事大主義の残つてゐる我が国では警戒を要することである。真理は永久に無力である筈はないが、然し必ずしもつねに有力であるわけではない。現在有力なのは国家主義であらう。然るに世界の各国が凡て国家主義を主張し、国家主義が世界的になるに従つて、自由主義は寧ろ新しい展望を得るのである。自由主義は相対立するマルキシズムとファシズムほど有力でないが、然し両者の対立が激しくなるに徒つて自由主義は却つて新しい意義を得るのである。それでは新世代の自由主義とは如何なるものであらうか。
 新世代の自由主義は現在主としてインテリゲンチャのものである。事実、現在自由主義が問題にされるとき、たいていの場合、知識階級の問題と関聯させて論ぜられてゐるが、そのことはこの自由主義が単なるブルジョワ自由主義と同一視され得ないことを示してゐる。自由主義について論ずる場合、この問題を知識階級の問題と結び付けながら、この自由主義がブルジョワ自由主義と同じものであるかのやうに議論するのは、自己矛盾であると云はねばならぬ。
 インテリゲンチャの特性がそのインテリジェンスに、知識人の特性がその知識にあることは明かである。そして知識の特性はその国際性にある。ラスキは云つてゐる、「近代科学は世界市場を意味する、世界市場は世界的相互依存を意味する、世界的相互依存は世界的政治を意味する。この恐しい三段論法の諸帰結の上に行動することが我々の安全にとつての唯一の道である。」 単に知識そのものが国際的であるのみでない、かかる知識にもとづく技術、かかる技術にもとづく交通、生産等の諸関係も、国際的な性質を有し、国際的関係を密接にすることに役立つてゐる。ひとは「政治的」事件の喧噪に心を奪はれて、科学や技術が世界歴史における如何に大なる勢力であるかを忘れてはならない。電気の後見はアンペールから我々に至るまでに起つた一切の政治的事件よりも重大な帰結を有する、とヴァレリイも書いてゐる。
 尤も、自然科学や技術とは異つて、文学、哲学等は、国民的色彩を一層濃厚に有することは争はれない。けれどもこのことは、単に国民主義に動機を与へ得るものでなく、また自由主義の動機となり得るものである。なぜなら、そのやうな文学や哲学にも国際的なところがあるといふことは別にしても、それらは軍に国民的なものでなく、又個人的色彩を濃厚に有する性質のものであるからである。
 なほ知識の国際性は我が国のインテリゲンチャの場合、特殊な意義をもつてゐる。現代日本の社会及び文化の重要な基礎をなしてゐる科学は、もとより日本伝来のものでなく、西洋から輸入されたものである。単にそれに留らない。我々の生活や意識においてこのやうに西洋流の科学や文化が大きな位置を占めるやうになつた以後は、我々の文学や哲学の如きものに関しても、日本の伝統的なものに満足できなくなり、西洋的な乃至科学的な思想や様式の塀り入れられることが要求されるに至るのは自然である。このやうなことは、日本主義者の云ふ如く、決して単なる西洋崇拝によるのでなく、我々の生活、交通、生産等の仕方が我々の経験する通り西洋化してゐるといふことにもとづく現実的な要求に由来するのである。
 このやうな事情は、我が国においては自由主義の伝統の強力でないに拘らず、知識人に自由主義的傾向を与へてゐる。もちろん、ただそのことからだけでは新世代の自由主義を説明することはできないが、然しまた知識の有する批判的性質を離れてこの自由主義は考へられない。この自由主義はファシズムに対してはもとより、ブルジョワ自由主義に対しても、マルキシズムに対しても批判の自由を要求する。それでは批判の立場は如何なるものであり、知識人の階級的性質と如何に関係し、如何なる将来を有するであらうか。
 そのやうな自由主義は知識階級のイデオロギーであると云はれるであらう。そして知識階級は中間階級であり、やがて没落すべきものであるから、そのイデオロギーたる自由主義も没落するのほかないと云はれるであらう。知識人が自由主義を抱き得るのは、ブルジョワジーになほ自由主義の有し得る余地のある限りにおいてであると考へられるであらう。
 然しながら知識人が自由主義的であるのは、単に彼等が中間階級であるといふ故のみでなく、知的活動そのものが本性上自由主義的なところを有するためである。そのことは今日、同じ小ブルジョワ階級の中でも知識人以外の層がファッショ化の傾向を現はしてゐるに拘らず、知識人が、また同じ知識階級の中でも文藝家、学者、ジャーナリスト、学生等、知的活動の活発な層に比較的自由主義者が多いといふ事実によつても示されてゐる。知識人の自由主義には単にその階級の中間性からのみ導いて来ることのできぬものがある。人間の知的な、文化的な活動をしてその機能を十分に発揮せしめるためには自由が認められねばならず、そのことがまた歴史の発展、その意義の実現のためにも必要である。新世代の自由主義は単なる文化主義に立脚するものではないが、凡てを政治に従属させようとする政治主義に賛成することができない。或ひは寧ろ、そのやうな政治主義の欠陥の経験と観察とからこの自由主義は生れたのである。
 もちろん知識はその所有者の社会的規定に制約されるが、単にそれのみでなく、自己を客観的に、批判的に眺め、かくて自己をも否定することができる。人間が解放を要求するのも、人間の本質に自由が属するからであり、そして自由は否定の契機を除いて考へられない。人間性のうちに自由を認めない自由主義はなく、そのやうな人間性の把握において、新世代の自由主義は、ブルジョワ自由主義の合理主義とも、またマルクス主義とも同じでない。この自由主義者は広義においてヒューマニストであると云ふことができるであらう。然し彼等は以前のヒューマニズムの個人主義や合理主義に、人間中心主義にすら反対するであらう。もちろん、彼等はヒューマニストとして圧迫された人間の解放の協力者たらうと欲するのでなければならぬ。
 自由主義者の個人的な要求も社会的な要求も、マルクス主義によるのでなければ決して充足され得ない、とマルクス主義者は云ふ。よしその通りであるとしても、自由主義者は彼等自身であることをやめないであらう。単なる統一でなく、多様の統一が統一をして豊富ならしめ、生命あらしめる。自由主義はマルクス主義に対しても批判の自由を要求する。批判の自由がなければ人間を動物から区別するものと云はれる知的活動の意義は十分に発揮されず、公式化、独断化、固定化は進歩発展に有害である。その発展がマルクス主義内部におけるものであるにしても、それは丁度カントから出たドイツにおける自由の哲学がへーゲルにまで発展したといふやうな意味における根本的な変化を含むものであらう。新世代の自由主義はこのやうに歴史的立場を最も重要視することにおいてフルジョワ自由主義と異つてゐる。それはなほ体系として存しないが、このことをもつて直ちにそれの無意味無価値を考へるのは、既に体系的独断論の偏見にとらはれたものにほかならぬ。現在自由主義が左右両翼から否定されてゐることは、やがて否定の否定としての自由主義への道を示してゐる。