講義録狂


 ドイツ語の一初等講義録を編輯してゐる或る語学者の或る時の話に、讃着から来る通信などを
見ると、其中には既に他の同種の初等ドイツ語講義録を一つならずとつてゐる者が意外に多いこ
とが分つて驚かされるといふことであつた。さういふ讃者はその一つの講義録でも始から絡まで
勉強したわけでなく、大抵第一巻を、しかも多分その三分の一ほどをやつて放つてしまつて、何
か新しい講義録が出るとまたこれを買ふのだらうと思ふ。途中で面倒なことに出合つてやめてし
まふ、そして他のものに移つてまた始める。然しどれだつて何の面倒もなしに絡まで行けるもの
はない。そこでさういふ讃者はドイツ語の初等文法の最初の同じ箇所を幾度も繰り返してゐるだ
けなのである。こんな讃者があるので出版屋も裔資になるといふものだらうが、常人にとつては
色々な難から考へてずゐぶん不経済な話である。さういふ人も、もとは或る語学を習得する目的
で講義録をとるのであるが、同じやうなことを繰り返してゐる間にいつのまにか、攻から次へ出
る講義録のどれにも手を出すといふ、講義録ファンといふか、寧ろ講義録マニアともいふべき者
講義録狂

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になつてゐるのである。
 この種の病気は決して稀ではない。例へば、哲学をやらうといふので、凡そ「哲学概論」とい
つた名のつく書物なら何でも買ひ込んでゐる人もある。つまらぬことをするものだ、と笑つては
いけない。自分で学者をもつて任ずる人でさへ、存外同じやうなことをしてゐるのである。例へ
は、カント研究者がカント自身の著作を繰り返して讃むといふことをしないで、カントに就いて
の後から後へ際限なく現はれる文献をばかり漁つてゐるが如きはその頚である。それが学問的だ
といふのなら、学問とはつまらないことではないか。このやうな病気に擢つてゐる人の最大の不
幸は、自分がそもそも不可能なこと − なぜなら彼が一筋の参考書を播いてゐる閥に世界ではそ
れの幾倍、幾十倍もの同種のものが書かれ、出版されつつあるだらうから1を求めてゐること
に気附かないといふことである。
 かういふ病気は特に好奇心と併番するとき悪化する。好奇心は昔の思想家、アウグステイヌス
やパスカルその他によつて、人間の主なる悪徳の一つと見られたが、好奇心が最大の意であると
いふことはまさに現代に於て最も明瞭である。現代人はこのことに少しも思ひ及ぶことの出来な
いほど全然好奇心といふものに支配されてゐる。いはゆる知識階級はさうである。パスカルなビ
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は好奇心の根原を生の不安に見出したが、今日知識階級が特に甚しく好奇心に囚はれてゐるのは、
この階級の組合的位置の不安定、生活の不安にもとづき、それの現はれであると云はれることが
出来よう。かくして新刊書の後ばかり追つて古典など一向願みない学者、雑誌はかり見て単行本
なビ殆ど手にしない讃書人がある。
 我々は毎朝新開を讃む。.ヒルティは新開は朝謹むべきものでないと云つてゐたが、さういふ我
慢の出来る人は今日極めて稀だらうと思ふ。ところで新聞を見て何も攣つた記事がない場合、我
我はなんだか客虚な、つまらないといふ気持になりはしないか。攣つた事件がなけれは世の中は
平和で喜ぶべきわけであるに拘らず、反封にそれを不満足に感ずるといふのが今日我々の普通の
心理になつてゐはしないであらうか。好奇心は人間の生の不安の現はれであり、不安な心は何か
珍しいこと、攣つたことに封して愈々多く好奇の眼をみはるのである。物を讃むといふことは現
代のインテリゲンチャにとつてかくの如き意味のものとなセつつある。学問でさへもが次第にさ
ういふ意味のものとなりつつある。
一つの語学を習得するための近路は、相首によく出来た一筋の文法書にかぢりついて、それを
始から絡までやり上げるといふことであらう。学校で学ぶことが猫習するのにまさると考へられ
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る理由は、他の鮎を除いても、学校では教師が最悪の場合でもとにかく一筋の文法書を強制的に
やり上げさせられるやうに出来てゐるといふところにある。幾筋もの概論に手を出すよりも、立
波な哲学者の書いた一筋の本を精出して勉強するといふことが、哲学を理解するための近路であ
る。古典は捷径である。このことは少くとも哲学や杜曾科挙などの場合には云はれ得ると思ふ。
これらの学問に於て新刊書ばかり漁つてゐるのはかの講義録狂の場合と大差はないのである。
 よく云はれる平凡な眞理だが、美術についてしつかりした鑑定眼を養ふためには、先づ本宮の
好いものだけを何遍も見るといふことだ。さうしておけは、今度慣のもの、悪いものに出合つた
場合すぐにそれと鑑別することが出来る。最初から好いもの悪いものの差別なしに見てゐたので
は正確な鑑定眼は養はれない。学問の場合でも古典を勉強するといふことは同じやうな意味をも
つてゐる。それで「眼」が出来るのである。償のもの、悪いものが多くなれはなるほどさういふ
「眼Lが必要になる。本が多く出るといふことは或る人々の云ふやうにそれほビ欺くべきことで
はない。悲しむべきことは「眼」を失ふといふことでなければならぬ。
 現代の知識階級の悲哀は彼等が次第に自分の本質を失つて無識になりつつあるといふことであ
る。なるほビ彼等は物を讃む、けれどもそれは彼等の生の不安に原因を有するところの好奇心に
、軍三。j題岳
・刺戟されてのことであり、さういふ夙にして唯新しいものを漁つてゐたのでは好いものと惑いも
のとの直別も出来なくなり、知識は結局無識に等しい。杏、彼等は新しいものと古いものとの直
別さへ出来なくなりつつあるのである。問題はレッテル、廣告、宣侍だけのことになり、いはゆ
る評判だけのこととなる。杜曾的といふことは今日の合言葉であり、それは全く重要なことであ
るに相違ないけれども、さういふ合言葉に威歴されてしまつて、個人があまりに意気地なくなり、
一無確信になり、奴隷根性になつてしまひつつありはしないであらうか。自分の眼で物を見ること
をやめて世間の評判にだけ頼るといふのであれば、知識も学問もないに等しい。然るに本営を云
へば、唯徒らに杜禽に姻びることによつては眞に杜禽的にさへなり得ないのである。
 渾山の講義録に手を出すよりも一つの講義録にかぢりつくのが語学習得の近路だ。徒らに新奇
なものを気にすることをやめて、とにかく自分の思想を行きつくところまで蓉展し展開してみる
といふことが眞理への捷径である。眞理は混乱からよりも誤謬から生れる、といふベーコンの語
は正しい。日本の現在の学界や思想界の不幸は、ひとがあまりに誤謬を、寧ろ世間から誤謬と云
はれることを恐れて却て混乱をかもしてゐるといふことである。批判があり、批判の批判があり、
‖評論があり、評論の評論がある。「哲学時評」まで出来た世の中では批判や評論には事を軟かな
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い。かういふ世の中では「われ敢て誤謬を意欲する。Lといふやうな、確信のあり、度胸のある、
徹底した人間がもう少しあつてもよかりさうに思ふ。