文化の根源と宗教

 宗教が衰へてその価値が疑はれるやうになつたとき、宗教についての哲学的反省を通じて一つの道を開くことが考へられる。私はここに特に文化の問題を取り上げることによつて宗教への関係を考へてみようと思ふ。
 もちろん文化といふものが我々にとつて問題になるのは、文化の概念そのものが矛盾を含んだものであるためである。文化の概念に本質的な矛盾がそれの哲学的考察を促すのである。「人間の生活から結合の力が消え失せ、対立するものがその生ける関係と相互作用とを失つて独立性を得るとき、哲学の要求が生ずる。」とへ−ゲルは云つてゐる。即ち何等かの哲学は、それが活きたものである限り、偶然に生れて来るのでなく、我々の生活の中に統一の力がなくなり、分裂したものが相互に無関係で、単に排斥し合ふものであるかの如き姿を現はすに至つたとき、哲学の要求が現はれるのである。かくて文化といふものに内在的な矛盾を知ることが我々の考察の出発点でなければならぬ。
 文化における矛盾は、いつたいどこに存するのであるか。文化とは人間の作つたものである。文化の概念は自然の概念に対して用ゐられる。自然に土地から生長するものは自然物である。然るに人間が耕作(カルチュア)するとき、田畑のもたらすものは自然物とは言はれない。そのやうに文化とは人間の手に懸つたもの、人間によつて生産されたものである。文化が人間的なものであるといふところに文化に本質的な矛盾は宿されてゐるのである。
 この場合よく考へられることは文化は人間の作つたものでありながら、これを作る人間に対立したものになるといふことである。かやうな意味での文化の悲劇については既にジンメルなどが述べてゐる。それは文化と生との間における矛盾をいふにほかならない。即ち文化は生の作る「形式」であるが、かかる形式は固定したもの、それ自身の法則を含む独立のものとなり、かくして本来動的な生に対して矛盾するに至る。生は自己の発展において文化といふ形式を作り出す。然るに文化は作られるや否や生とは離れた独立のものとなり、その形式性と固定性とによつてやがて生に対する桎梏となり、生を圧迫するやうになる。文化と生との間にはかかる内在的な矛盾があると考へられる。

      二

 マルクスの如きも同様の思想を述べてゐる。人間の生産物が生産者たる人間を圧迫するに至るといふことは、彼の思想の一要素となつてゐる。然し我々は今かくの如き文化と生との間の矛盾についてではなく、却つて文化そのもののうちに含まれる矛盾について考へようと思ふ。そして文化が矛盾のものであるのは人間そのものが矛盾のものであるからであり、この矛盾が文化のうちにも現はれるにほかならない。生と文化とが矛盾するといふのも、根源的には生そのものが矛盾のものであるからでなければならぬ。
 すべて文化といふものは「意味」を持つてゐる。もちろん自然とか物質とかを離れて文化はないけれども、併し文化は意味を担ふ物質である。意味といふものと全く無関係に文化は考へられない。ところで文化の担ふ意味において二つの、しかも互に対立する意味を区別することができる。先づ簡単な例によつてそれら二つの意味の区別を明かにしてみよう。
 私がいま手をあげて指さすとき、それは「そこに本がある」といふことを意味する。そのとき指は、「そこに本がある」といふ客観的な事態に対する記号といふやうな役目をもつてゐる。ひとはそれの指すところに従つて純粋に客観的な関係をそのものとして理解するのである。然るに私の前にゐる人が手を振りあげて拳を握るとき、それはその人の怒を意味する。固められた拳を私は主観的な感情の表現として理解するのである。前の場合と後の場合とでは意味された意味に相違がある。
 言語は一つの文化であり、文化の最も基本的なものである。言語は単なる音と異り、有意味的な声である。そして言語学者は言語の意味に区別を考へる。普通に言語は概念に対する記号であると云はれる。即ち言語は「概念的内容」を有し、言語の意味と普通考へられるのはそれの概念的内容のことである。それは対象的意味、客体的意味であつて、我々はそれを記号的意味、寧ろ一層適切にロゴス的意味と呼ぶことができる。併し次に言語は「感情価値」もしくは「気分的内容」と云はれる意味を含む。例へば「祖国」、「死」、「革命」などといふ語にあつては、単にその概念的内容のみでなく或る感情が一緒に表現されてゐる。言語の感情価値は、それについて語られるものを示すといふよりも寧ろ語る人を示すのである。従つてそれは主体的意味であり、記号的意味に対して表現的意味、ロゴス的意味に対してパトス的意味と名付けられ得るものである。


        三  

 どのやうな文化の担ふ意味においてもかくの如き二つの意味が区別される。ただ或るものは一方の意味を、他のものは他方の意味をより多く現はすといふ差があるのみである。尤も客体的意味と云つても既に意味である限り、単に外的なものでなくて或る内的なもの、イデーの如きものであると考へられるであらうが、併しイデーといふものはロゴス的なものである。また言語は記号といふが如き外的なものでなく、寧ろ「思想の身体」として凡て表現的なものであると見るのが正しいとしても、そこに表現される意味に、なほロゴス的意味とパトス的意味との区別がある。更に文化といふのは科学、藝術、哲学等の如きものに限らず、国家とか社会とか家族とかも文化であるといふ風な考へ方があるにしても、それらのものについてロゴス的意味をより多く担ふものとパトス的意味をより多く担ふものとの差を認めることができる。
 いづれの文化も根本において二つの意味を何等かの仕方、何等かの程度で同時に担つてゐる。然るに現代の「文化哲学」として知られる新カント派の哲学は、文化において唯その一つの意味をのみ抽象して考へた。この派でいふ「文化価値」の概念は文化の担ふロゴス的意味を指すものである。これと反対に文化を「表現」として理解することに功績のあつたディルタイの哲学においては、文化に附着せるロゴス的意味は後に押し込められて、他方の主体的意味が強調されてゐる。共に一面的たるを免れないであらう。
 ロゴス的意味は一般的な意味である。文化をそれの生産者から独立にそれ自身において理解することができるのは、かやうな意味によつてである。かやうな意味を担ふことによつて文化は或る客観的なものであり得る。ロゴス的意味はそれを誰が見出したか、それを誰が理解するか、などといふこととは無関係に成立してゐる。然るにパトス的意味は特殊的なもの、性格的なものである。一定の藝術作品は藝術として客観的な関係を含むと共にそれの製作者の「人間」、個性とか民族性とかの意味を含む。パトス的意味は文化に「性格」を与へ、それの「スタイル」を形成する。どのやうな文化もスタイルをもつてゐる。右の如き意味において文化は一般と特殊との結合であると考へられる。

       四

 パトス的意味は文化にとつて構成的である。そこからしてかの「文明」と「文化」との区別といふがごときものも考へることが出来る。例へば、自然科学の如きは文化といふよりも文明であるとひとは云ふ。自然科学においてはロゴス的意味が支配的であり、パトス的意味は含まれるにしても稀薄だからである。これに反して藝術や哲学などにおいて、パトス的意味が濃厚であり、主体の拘束性が現はれ、性格とかスタイルとかいふものが明瞭に見られるところから、それらは文明に対して文化として区別されるのである。
 併しながらロゴス的意味は文化にとつて決定的である。単に個人的、国民的であつてそれを作るものから独立な一般的意味を含まぬものはもはや文化として認められ得ないであらう。かやうな客観的意味は文化に欠くべからざるものであり、それが本来「文化価値」をなすものであつて、これに対してはパトス的なものは文化的なものでなく、寧ろ或る自然的なものとも見られ得る。パトス的なものはかくの如く文化に対し自然的なもの、併し外的自然的なものでなく、内的自然的なもの、根源的に自然的なものといふ意味をもつてゐるにしても、重要なことは、かかる意味において自然的なものこそ実は文化の「創造」にとつて根源的なものなのである。
 ロゴス的意味は「発見」されるものである。或る科学者が一定の科学的真理を見出したとき、彼は既に存在せる客観的な関係を派見したに過ぎないと云へる。発見されたものは既にあつたものであつて彼の創造したものではない。従つてロゴス的意味は誰によつて発見されるかには関はりがない。これに反してパトス的意味は創造されるものである。それは一定の人間による文化の生産と共に初めて創造されるものであり、この意味の理解もまたそれ自身創造的理解である。パトス的意味はいつでも現在的に成立する。普通に科学は創作とは云はず、藝術の如きは創作と云はれるのは、後者が前者に比してより多くパトス的意味を表現するためである。固よりこのやうな区別は文明と文化との区別と同じくどこまでも相対的なものと考へられねばならぬ。


        五

 既に述べた如く、文化はロゴス的意味を離れて有しない。併しクリューゲルが感情はあらゆる意識を包み、それに構造を与へると云つてゐるやうに、パトスはロゴスよりも深く、発見の根柢には創造がある。ロゴス的なものが文化的なものであるとすれば、パトス的なものはそれに対する関係では自然的なものとも云ひ得る。かかる自然的なものが文化の創造の根源であると共に、それはまた文化を超越したものである。それは文化を作るとともに文化を齎すことのできるものである。しかも文化の担ふロゴス的意味は我々の創造するものでなく、却つてただ発見するものである。そこに人間の有限性が認められる。無限なる神においてはいはば創造と発見とが一つであるに反して、人間にとつては二つのことである。ただ稀なる天才においてのみそれが一つであり得るやうに見える。天才は神の如く創造するとか、自然の如く創造するとか云はれるのはこのことでなけれはならぬ。
 パトス的なものは文化の創造の根源である。併しながらパトスはかやうなものとしてヴィンデンバントが「文化意識」と云つたやうなものではない。パトスは「文化価値」もしくはロゴス的意味の側から解釈されて文化意識として見られるべきものではないのである。我々は寧ろ「生産的精神」と「創造的精神」とを区別せねばならぬ。文化的精神は生産的精神であつて、客観的意味に向ひ、そこにはジンメルの云ふ如き「イデーへの指向」従つて「生より以上」に対する要求が現はれる。しかるに創造的精神の求めるのはジンメル的に云へば「より多くの生」である。もちろんそれは単に生物的な生のより多くを求めるものではない。「より多くの生」を求めることは「文化より以上」を求めることである。それは同じ生の延長ではなく、絶えず全く新たなる生である。「文化より以上」のものはロゴスの方向において、対象的意味、イデーへの方向において求められない。却つてそれはパトス的意味を限りなく深めることによつて、主体の方向において達せられる。主体とは真に働くものである。


       六

 例へば宗教が求めるのは「生より以上」ではない。却て宗教は「より多くの生」、いな、限りなき生命を求めるのである。宗教はそれをイデーへの方向において得るのでなく、逆にパトス的なものの方向へ突き抜けることによつて達するのである。宗教は決して単に文化のひとつと見らるべきものではなからう。
 歴史上ルネサンスとして知られたる時期において希求され努力されたのは、決して単にギリシァ的、ローマ的「文藝の復興」ではなく、根本において「人間の再生」であり、このものはまた社会の革新と一緒に要求された。ルネサンスとは「再生」の義であるが、それはひとの想像し得る如くもと宗教的、キリスト教的のものであつた。そして現在の文化史家が確かめてゐるやうに、ルネサンスの大いなる文化運動の動力となつたのはアッシシのフランチェスコの如き人である。フランチェスコは一の創造的精神であつた。この創造的精神は文化的な生産的精神の根源となつたのである。
 今の時代、多くの人々は外部において、社会において抑圧されて内へ、内へと追込められつつあるやうに見える。彼等は次第にパトス的になり、そして不安のうちにおかれる。ひとはこの道は宗教に到るほかないと云ふ、そしてそのやうなものとしてひとが考へる宗教は自己逃避的性質のものである。併しながらパトスの方向において飽くまで深まり「パトス的無」が飛躍的に「絶対的有」として体験され、真に宗教に達したとするならば、人間は創造的精神として生れなければならぬ。
 現在多くの人々がほんとに深くパトス的になりつつあるとすれば、そのことは人間の再生の根源に接するに至るものとして意義があるのである。創造的精神は固より文化的精神(生産的精神)と等しくはなく、文化を否定するものであるけれども、また文化の創造の根源ともなるものである。今日それによつて旧き文化は否定され、新しき文化への道が準備されねばならぬ。
 パトス的意味は特殊的な、性格的なものであると云つた。そこに一定の文化の生産者の「人間」が表現される。かやうな意味は単に個人的、又国民的であるに限らずパトスの深まるに従つて人類的となる。真に人類的なものは人類創造の根源である。パトス的意味が人類的になることは単に一般的になることではない。それの一般性はロゴス的意味の有する一般性とは異り、どこまでも性格的で歴史的である。文化はそのロゴス的意味において高まるばかりでなく、パトス的意味において深まつてゆくべきものである。かくの如き深き文化の根柢には創造的精神がはたらいてをり、宗教につらなるものと云へる。
 顧みて今日の宗教界において真に創造的精神は生れつつあるのであるか。宗教は自己逃避の方便でなければ、いはゆる文化的となつて、古き文化、現存の社会と全く妥協的となつてゐるのである。いはゆる「心境的」宗教と宗教のファッショ化がその現状であり、共に宗教の本質の否定である。