謙譲論

                                                                                                    小
                                              ド
人と人との交際において祀儀が大切であることは誰も知つてゐる。祀儀は道徳の基礎である.
とりわけ東洋においては古来最も祀儀を重んじてきた。†のやうに祀儀を道徳の根本と考へるこ
とは、東洋の道徳が個人的なものでなくて元兎杜曾的懲軒のであることを示してゐる。穐儀は人
と人との間に存在するものである。社曾の道徳的秩序は祀儀によつて維持される。祀儀を排へな
い者は杜曾の道徳的秩序の破壊者である。祀儀はかやうに杜禽的な道徳として、畢に個人と個人
との間においてのみでなく、囲と囲との間においても存在しなけれはならない。囲と囲との間の
道徳的秩序も祀儀を基礎として成立するのである。
祀儀といふものの特色は、先づそれが杜曾的慣習的なものであるといふところにある。祀儀は
個人がめいめいに作るものではなく、歴史的に倖へられたもの、侍統的なものである。祀儀の道
徳は畢なる個人的良心の道徳とは異つてゐる。その根抵には侍統に封する尊敬がなけれはならぬ。
次に祀儀といふものの特色は、右のこととも関聯して、それが畢に主観的なものでなくて客観的
謙 譲 論
四六九

四七〇
なものであるといふところにある0祀儀は主観的道徳に属するものでなく、客観的道徳に属して

ゐる0祀儀は杜曾的なものであるといふ意味において個人的主観的にとどまらないで客観的であ
るのみでなく、それはまたつねに形として外に表現されるものであるといふ意味において内面的
主観的にとどまらないで客観的である0形として外に表現されないやうな祀儀といふものはない。
祀儀においては畢に心情が閏超でなく、
それが外に形としで表現されるといふことが重要である。
                                             ヽ呈..11
祀儀のこのやうな性質が同時に危険を伴つてゐることも明かである。それは先づ畢なる因襲に
堕する危険をもつてゐる0祀儀はつねに何等か侍統的なところがあるであらう。しかし停統と因
襲とは直別されねはならぬ0因襲は死んだものであり、侍統は生きたものである。侍統が生きた
ものであるのは、それが軍に過去のものでなく、現在の精紳によサて活かされるためである。ど
のやうな祀儀も、眞の祀儀であるためには、我々自身の道徳的意識によつて轡スず新たに活かさ
                                            ヽ′lI
れなければならぬ0しかるに次に祀儀は外に形として表現されるものであるところから、また単
なる形式に堕する危険をもつてゐる0単なる形式に堕したものはもはや道徳的意味をもつことな
く、眞の祀儀ではないであらう0道徳はどのやうに客観的なものであつても単なる形式ではなく、
 ▲11■音一l
外に現はれる形は内なる魂の表現でなければならぬ。侍統的な祀儀において活かさるべきものは
■▲
形式でなくて精神である。かやうにして祀儀は民族の道徳的意識の表現でなければならぬといひ
得るであらう。民族はどこまでも侍統的なものであつてどこまでも現在に生きてゐるものである。
祀儀の形も生々沓展する民族の道徳的意識に基いて歴史に創造されてゆくべきものである。
 もとより祀儀は叩単に民族的のものでなく、同時に民族を超えて普遍的なものでなけれはならぬ。
                                             f一l一
軍に民族的特殊的であつて世界的普遍的なところのないものは道徳とは考へられない。祀儀は侍
一.阜
統的なもの、従つて歴史的なものであるが、眞に歴史的なものは畢に特殊的なものでなく、特殊
的であると同時に普遍的なものである。道徳がこのやうに歴史的なものであることは何よりも祀
儀といふものにおいて示されるであらう。祀儀は軍に一民族の内部において行はれるのみでなく、
他の民族に対しても行はれなけれはならぬ。それは民族的仝憶としての囲と囲との間に存在する
のみでなく、両民族の個人と個人との間においても存在しなければならぬ。囲と囲との交際にお
いて祀儀が大切であるのみでなく、雨囲民の個人的な交際においても祀儀は大切である。自己の
同国人に封して祀儀正しいのみでなく、他の民族に属する者に封しても祀儀正しくなけれはなら
ないのである。日本人は祀儀正しい囲民として知られてゐるが、それが日本人同志の間だけのこ
とにとどまつて、満洲人や支邦人などに封しては祀儀を炸へないといふやうなことであつてはな
h謙 譲 論
四七一

                                            四七二
らないであらう0図と囲との交際がどのやうに祀儀正しいものであるにしても、その囲民が個人
的行動において他民族に封する祀儀を知らないといふやうなことがあつては、囲と囲との交際に
おける祀儀も軍に形式的なものになつてしまふであらう。ところで祀儀は杜曾的慣習的な性質を
もつてゐる鮎から理解され得るやうに、外国人とあまり接したことのない囲民はとかく外囲人に
封する祀儀を排へないといふことが生じ易い。これは従来比較的囲内にとどまつてゐた日本人が
大陸に出て活動する場合特に注意しなけれはならないことである。
\ぎ,一l盲lI ll−−1          −     −.1
祀儀は形式に流れがちな性質をもつてゐる鮎から考へて強調されねばならないのは祀儀の精神
ヽIf▼
である0祀儀が道徳的内容をもつもの即ち道義でなけれはならぬことは、鎧儀を道徳の根本と考
へる東洋の倫理においては常然のことである。祀儀は道義であることによつて普遍性をもつもの
になるのである。他方道義もまた、個人と個人との間においても囲と囲との間においても、軍な
る心の問超、精紳の問題にとどまることなく、外に形として現はれなければならない。言ひ換へ
ると、道義は祀儀になければならない。どれほどその精紳において道義的であるにしても、それ
            .暑ll■盲】1 − ■ ■■..ノ一11
が祀儀として客観的に形に現はれるのでなければ不十分であるといはねはならぬ。
とりわけ今日
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民族と民族との間の道義は新しい稽儀として創造されてゆくことを要求されてゐる。これによつ
て民族間の道徳的秩序は客観的な基礎を得るのである。
ところで祀儀の精神は特に謙譲の精紳でなけれはならぬ。謙譲は祀儀の精神であり、穫儀の根
砥には謙譲の徳がなけれはならぬ。これは個人の交際における祀儀においてはよく知られてゐる
ことである。祀儀は謙譲の現はれでなければならず、謙譲でない老は祀儀を知らないと考へられ
る。祀儀正しいといはれる日本人はこの謙譲の徳を具へてゐるのでなければならぬ0頑儀を重ん
じる東洋の道徳はまた謙譲を重んじるものである。そこに西洋の道徳、特に権利といふものを重
んじる道徳とは異る東洋の道徳の特色がある。西洋においては個人の権利を重んじるのみでなく、
また囲の権利をも重んじてゐる。
かやうな樺利思想と謙譲の道徳は異つてゐる。権利思想が根本
にある限り穫儀も軍に形式的なものになつてしまふであらう0眞の祀儀は謙譲でなければならぬ0
                                                                                                                                                               ヽ一l
これは個人間の祀儀においてさうであるのみでなく、囲と図との祀儀においても同じである0
西
洋の道徳、特にその権利思想が自我の思想を根本とするのに反して、謙譲の道徳の最も深い哲学
的基礎は東洋的な無我の思想にある。西洋の道徳においては、特にキリスト教的道徳において、
ぁる。しかるに謙譲といふものは軍に心の問題でなくて本来祀儀として必ず外に現はる吋きもの
ヽ′l
謙虚といふことが説かれてゐるが、
謙 譲 論
謙虚といふものは本来全く内面的な問題、純粋に心の問題で
四七三

                                              四七四
                                                      ヽ音
■lll一一lヽ■
である・そこに西洋の主観主義的な道徳に対して、物心一如内竺如を根本の哲学とする東洋の
謙譲の道徳の特色があるのである。
謙譲は窮さを意味するのではない。眞に自信のある着で
                                .Lll▼〜ill一丁I
なけれは眞に謙譲であることができぬ。
.…転臣臣 L
謙譲が弱さを意味するのでないことは、祀儀が弱さを意味するので
ないことと同じである。想い
者に対してのみ祀儀を守るといふことは阿訣に過ぎず、卑属なこと、従つて道徳に反することと
いはねはならぬ0謙譲は阿訣でもなければ卑屈でもない。強い者に封してよりも寧ろ易い者に封
ヽ阜
して祀儀を守ることが大切であるやうに、強い者に封してよりも寧ろ弱い者に封して謙譲である
ことが大切である0祀儀においてと同様、眞の謙譲においても、勇気を要するのである。しかも
その勇気は自己の権利を主張するためのものでなく、祀儀を行ふためのものでなければならぬ。
1荘公日く、古へ亦徒だ勇カを以て世に立つものあるか0鼻子封へて日く、嬰之を開く、死を軽
んじ以て祀を行ふ、之を勇と謂ふ0暴を誅し彊を避けず、之を力と謂ふ。故に勇力の立つや、其
祀儀を行はんが痛めを以てなりO」鼻子のいつてゐるやうに、個人としても囲としても、勇力の必
要なのは祀俵を行はんがためである○祀儀は道義である。日本が今支那に封して武力を行使して
ゐるのも道義のためでなけれはならぬ○しかもその道義は軍に精紳の間超にとどまることなく、
祀儀として客観的に形において現はれなければならぬ。勝つた者が勝つた者の樺利を主張すると
いふことは西洋の道徳であつて東洋の道徳ではない。東洋の道徳は謙譲である。権利が行はれる
ことを求めるのでなく、鼻子のいはゆる祀儀が行はれることを求めるのである。これによつて眞
の民族協和が可能になる。謙譲は民族協和の基礎である。
かやうに謙譲を基礎とすることによつて、そこに西洋流の指導者の観念とは異る東洋的な指導
老の新しい観念が生れなけれはならぬであらう。
謙譲といふことは指導といふことと矛盾するも
のではない。むしろ謙譲は何よりも指導者に大切な徳でなければならぬ。眞の指導者はさうある
べきではないにしても、指導者と構するものはとかく優越感をもち易いものであり、騎慢になり
易いものである。それでは眞の指導を行ふことができないであらう0指導者は謙譲の徳を具へる
ことによつて初めて眞の指導者になり得るのである。謙譲といふことは軍なる卑下でないことは
もちろん、慈しき平等をいふのではない。謙譲は祀儀の精神であるが、祀儀といふものは慈しき
中等によつては成立しないものである。恋しき平等は道徳的無秩序を結果するものであり、しか
るに祀儀は道徳的秩序そのものである。謙譲は慈しき平等観を超えた最深の平等観ともいふべき
もの、即ち東洋道穂の根抵にあるところの無我の思想の上に立つてゐる。我執を去るといふこと
鎌 譲 論
四七草

四七六
は道に従ふことである。造に生きる者であつて眞に詮議であることがある。道に生きる者は卑屈
でもなく、臆病でもなく、無気力でもない。謙譲は道義そのものである。世に道義を行はうとす
る者は謙譲でなければならない。謙譲は無我であり、無我にして眞の和がある。個人間の和のみ
でなく、民族の間の和も謙譲によつて得られるのである。そこに東洋古来の哲学と道義を根抵と
する民族協和の基礎があるといはねはならぬ。東洋の道徳において祀といふものが根本であつた
のは、その杜曾が個人的な杜曾でなく、協同杜禽であつたことと密接な関係を持つてゐる。謙譲
を重んじるといふことは新しい協同杜曾の建設を目標とするものである。
もとより今日封建的な
協同杜曾を復活させることは無意味であるのみでなく、不可能で沌ある。
新しい秩序には新しい
壬盲l幸一ヽ
頑儀がなければならず、謙譲のとる形も新しいものでなけれはならぬ。
 民族と民族との関係は二重に考へることができるであらう。それは一方各々の民族的仝燈とし
ての囲と囲との関係であると共に、他方それら異る囲に属する個々の人間と人間との関係である。
                                                             ヽf
前者として、囲と囲との間の外交とか戦争とかいふやうなものが考へられ、後者として、両国民
の間の個人的な生活諸関係、社交とか商取引とかいふやうなものが考へられる。これら二重の関
係はもとより密接に関聯してゐるのであるが、今日特に後者の重要性に留意することが肝要では
ないかと思ふ。民族と民族との関係を規定するものは囲家的活動のみでなく、また各々の国民の
個人的活動であるといふことが理解されねはならぬ0囲と囲とが親密にしてゆくことを政府にお
いて宣言し約束するにしても、その囲民が個人として互に親密にすることがなけれは、かやうな
宣言も約束も客語に等しくなるであらう。各人は囲家的活動に参加する囲民、例へば軍人として
                                          ぎ
他の民族に対して立派に行動するのみでなく、例へは商人としての個人的活動においても彼等に
対して同様に立派に行動することが大切である。
他の民族に封する場合、各人はその個人的活動
においても畢なる個人でなく、つねに囲を代表するものと見られるといふ事賓に注意しなければ
ヽきJ■}一lヽ−
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ならぬ。進んで考へると、
公と私とを抽象的に磯濁と分離することは自由主義の道徳である0東
洋の道徳にはそのやうな抽象的な分離は存在しない♪謙譲は個人の道徳であつて囲家の道徳でな
  . 1..〜、j一一jlI・・・■・・妄一−
いと考へることも、その逆を考へることも共に誤であ冴といはねはならぬ0
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七っ仁こ巧利発
謙 譲 論
四七七

帆m