東大経済学部の問題
 粛撃と再建の方針
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 東大経済学部の問題は決して簡軍なものではないであらう。それは今日の日本とその文化の現
状を象徴する重要な事件である。ただ若干の教授に封する好意の感情に駆られて、その本質的な
意義を理解することを忘れてはならぬ。
 平賀総長の解決の仕方は常識からいへば安富であり、一般の常識はこれを支持してゐるやうで
ある。しかし常識にはおのづから限界があるのであつて、常識のみでは片付けられないところに
今日の非常時或ひは轄換期といはれるものの性格があるのである。
 今度の事件の薔端は河合教授の問題であつた。そしてそみは思想問題であつた。この鮎につい
て平賀総長は、停へられるところに依ると、河合教授の思想でなくその表現方法が悪いといふ裁
断を下した。これは形式的に見れば巧妙であり、そこに河合教授に対する或る思ひ造りを考へる
こともできるであらう。けれども学者において思想と表現とを直別することができるかどうかが
東大経済学都の問題
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疑問であるのみでなく、その場合果して清爽のことが十分に考慮されてゐたであらうか。河合間
超といふ輿へられた閏超を虞理することに心を奪はれて、今日の大学間超をその全面的な廣さと
深さとにおいて把握するに軟くるところがあつたといふ憾みがなかつたであらうか。
例へはもし清爽他の教授に同様の思想間超が起つた場合、思想の善意は別にしてその表現方法
が適格でないから鮮職して貰ひたいといふことであれば、如何なる教授が絶封に安全であらうか。
表現方法の可否が間はれることになれば、さうでなくても近来研究や意見の頚表に封して次第に
臆病になつてゐる大挙教授は更に扁臆病にならざるを得なくなるのではなからうか。大学教授
が功利的な立場から現資を回避した陰小なアカデミズムに閉ぢ寵ることの改革されねはならぬの
が今の時代である。
 東大経済学部に多年派閥の争のあつたことは世間周知の事資である。その渡閥の清掃が大挙の
明朗化にとつて必要なことは異論のないところであり、この鮎については誰も平賀総長の粛撃方
針に賛成することができるであらう0ただその際問題を根抵から考へることが大切である。派閥
の存在は東大経済学部にのみ限られてゐない0派閥は他の虞にもあるのであるが、それが特に此
虜において激化した理由は畢にその若干の教授の人柄にのみ依るのではなからう。人間は組合的
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に規定されてゐる。我々はその派閥の杜曾的原因を考へなければならぬ。これに繍聯してとりわ
け重要なのは学園や学問の政治化の問題である。その派閥が杜禽的に見て単純なものでないこと
を考へれは、いはゆる喧嘩両成敗といふ常識的な考へ方は問題の根本的な解決にとつて不十分で
あるといはねばならぬであらう。大挙の学問が現安から渉離することなく、しかもそれを無用な
政油化から防衛するには如何なることが必要であらうか。この間超の解決のうちに粛撃と再建の
方針が求められねばならぬ。
 もしも学園が外部の政治的勢力に封して自主性を保持し得ないならば、東大経済学部の再建も
困難に陥らねはならぬであらうし、その閏超がいつたん解決したにしても動揺はやむことなく、
且つ同じ種類の混乱がやがて他にも波及する危険がある。問題は根本において一二の教授の虞分
にあるのでなく、近年絶えず外部から不安に脅かされてゐる学園に如何にして最後的な安定を輿
へ、教授も畢生も落付いて研究に徒事することができるやうに為し得るかといふことにある。
 侍へられるところに依ると、荒木文相の大挙改革案に封して学園の自治の立場を最も強硬に主
張したといふ東大において、今度教授曾の自治が最初に放棄されたといはれてゐるのは、皮肉で
ある。平賀総長の虞断の経緯については審にしないが、仮に経済学部の教授曾が自治の能力を喪
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失してゐるにしても、何等かの方法によつて大学の自治の面目を立てることも可能であつたらう
に、絶革と一二のアドヴァイザーとの専断であるかのやうにいはれてゐるのは遺憾である。これ
が前例となつて、昨日は人の身の1の明日は我が身にふりかかる不安を感じてゐる者がないであ
らうか。
平賀総長による霊丁と再建が如何なる結果になるかは、今日の日本の政治的思想的情勢を判断
する一つの指標として深い興味がある0そして我々の関心は、これを限りに大挙が今後安定する
かどうかといふことである0考へてみれは、大学の再建は容易ならぬ課彗ある。それを本質的
にいつて、選拳法の改正とか貴族院の改革とか、今日いはゆる圃内改革の問讐同様の困難を有
してゐる0大挙の問題も国内改革の問題の一環であり、大挙の再建にとつての新しい理念は他の
圃内改革の指導原理を何に求めるかといふことと決して無関係ではない。新しい理念の上に立つ
改革が行はれない限り、大学の不安動揺は今後も何等かの形で績くものと見なけれはならないの
ではなからうか。