「昭和塾」創設について

 昭和塾の活動も漸く軌道に乗つてきたやうである。塾関係者の意向では極めてつつましく発足するつもりであつたのであるが、各方面に意外な反響があつたので却つて驚いてゐるやうな有様である。
 塾長は後藤隆之助氏、理事は伊藤述史、蠟山政道、橋田邦彦、大塚惟精、平貞蔵、永井松三、松井春生、後藤文夫、後藤隆之助の諸氏、幹事は市川清蔵、尾崎秀実、村上敦、佐々弘雄、岸道三の諸氏であり、別に顧問と評議員がある。講師には右の名前の他から挙げても、市村今朝蔵、堀江邑一、東畑精一、笠信太郎、大西斉、大河内一男、風見章、渡辺佐平、和田耕作、勝間田清一、加田哲二、高島辰彦、多田督知、内田繁隆、野崎龍七、矢部貞治、山崎清純、是松準一、三枝博音、西園寺公一、岸本誠二邸等の諸氏があり、私もその一人である。その他の人々からも随時話を聴くことになつてをり、現に実行してゐる。
 塾の目的は、簡単にいへば、現代日本の要求する人間を作るに必要な再教育を行ふにあるといふことができるであらう。今日の日本は内的にも外的にも非常に大きな変化発展を遂げつつある。このやうな時代に要求される人間を作るには従来の固定した教育機関では不十分になつたことは明かである。もちろん我々は決して学校教育が無意義であるなどと考へるのではない。塾が今日その性質上与へることのできぬものは学校に期待しなけれはならぬ。しかし現在の学校が固定してしまつて新しい時代に適しなくなつてゐることは事実であつて、学制改革の必要もすでに以前から唱へられてゐることである。昭和塾は、そのやうな学制改革の問題とは別に、日本に目下必要な人物の養成をともかく我々で始めようではないかといふので出来たものである。
 塾は教育の革新に対して熱意を有する者の集りである。教育は学校にのみ限られてゐない。人間は絶えず自分を教育しなければならぬ。殊に今日のやうな時代においてはその必要も大きいのであつて、昭和塾はこれに応じて生れたものである。
 塾は決して学校に対立しようとするものではないが、今日の学校に欠けてゐるものを補はねばならぬと考へてゐる。教師と学生との人格的な接触の不足、講義と筆記とによる学修の機械化、試験制度に基く詰込み主義等、今日の学校には種々の欠陥があり、学生は人間的にもその悪い影響を受けてゐるのであるが、昭和塾ではこれに対して体当りの教育を行はうとしてゐる。
 昭和塾はもとより教育団体であつて政治団体ではない。しかし今日学校を出てくる多くのインテリゲンチャが無信念な、行動性に乏しい人間になつてゐるのに鑑みて、塾は信念をもつた、行動的な人間を作ることを目的としてゐる。従つて塾は単に知識を詰込む所でなく、人間を作る所であらうとしてゐるが、しかしまた塾は単なる修養団体でなく、知識は塾においても大いに重んぜられるのである。
 現在塾には学生から三十五名、卒業生から二十五名が選ばれて入つてゐる。学生は一週に三回、卒業生は二回集まることになつてゐる。一人の人間を中心に集まつた昔の塾とは異なる点からいつても塾は固定したものではない。講師にしても自分の思想を押しつけようとするのではない。塾は講師にとつても自分の再教育の場所である。塾生と講師とが互に腹蔵なく語合つてゆくうちに次第に統一した共通の思想が生れてくることが求められてゐる。
 特に今後、一定期間塾に入つてゐた者が塾友として永く塾と関係をもち、その中には直接に後進の塾生の指導に当る者もできてくるやうになつた場合、そこに真の昭和塾の精神といふものが確立されることになるであらう。
 昭和塾は最初から一定の思想的立場に立つて開かれたものではない。講師にしてもその思想的立場は区々であつて、むしろ一つの立場に偏することのないやうに努めてゐる。問題は塾生自身である。塾生自身の中から一定の思想や意慾の形成されて来ることが期待されるのであつて、塾の関係者はみな若い世代に希望をつないでゐるのである。
 塾は塾長に対する信頼に基いて成立するものであるが、特に塾生の間における友情が大切である。今日の学校においては失はれがちな真の友情によつて結びつかなけれはならない。とりわけ学閥といふものによつて種々の学校の出身者が互に疎隔してゐる現状において、その属する学校の如何を問はず集まつた塾においては学閥を克服して新しい友情が生れなければならぬ。
 第一同の塾生募集において特に気付いたことは、学生でも卒業生でも技術関係の人の志望が意外に多かつたといふことである。これは今日の日本の教育について、更に一般に今日の社会の動向について一つの象徴的な事実として注目すべきものではないかと思ふ。
 現代の日本にとつて国民の教育、その再教育の問題は極めて重要である。国民再組織の問題も根本においては国民教育の問題にほかならないと考へることができる。かくして教育の革新は今日の政治にとつて重大な関係を有してゐる。昭和塾の活動が教育の革新の問題、国民再教育の問題に対して何等かの示唆を与へることができれば、その存在の意義はあるであらう。もしこれを国民再組織の見地から見れば、昭和塾はその最も遠い道を選んだものといへるであらう。しかし最も遠い道が却つて最も近い道であるといふことになるかも知れない。