ジャーナリズム


     一

 学生の第一の任務が学校で教授される学問を習得することであるのは云ふまでもない。学生は
学校で学ぶために学校へ入つたのである限り、学生が学生として先づ学校の与へる知識を身につ
けることに務めなければならぬのは当然である。
 しかし学生は学生であると同時に社会人である。学校そのものも固より一つの社会ではあるが、
それは全体の社会における部分社会に過ぎず、その周囲には大きな社会が横つてゐる。学校は社会といふ環境においてある。従つて学生は自己の属する学校にとつて環境であるところの社会に
ついて知らなければならぬ。すべてのものはその環境から影響され、その環境によつて規定され
るとすれば、学校について認識をもつためには社会についての認識をもつことが必要である。そ
れのみでなく、学生はまた社会に属し、社会の一員である。従つて学生も社会人としての自覚を
もたねばならず、社会人としての自覚をもつためには社会についての知識をもつことが必要であ
る。ジャーナリズムはその場合学生にとつて社会への窓である。ジャーナリズムを無視しては社会についての十分な知識をもつことができない。
 固より学校においても社会についての知識が与へられるであらう。学校の学問も社会について
種々の方面から研究してゐる。学生がそのやうな研究を深め、そのやうな学問を獲得することは
云ふまでもなく大切である。しかしながら学校の学問は、学校の学問として、一方長所をもつて
ゐると共に他方おのづからまた制限をもつてゐる。学校の学問はアカデミズムとして特徴附けら
れるが、アカデミズムの制限は社会に関する場合特に大きい。アカデミズムに欠けてゐるものを
補ふために、またアカデミックな学問の意義を正しく理解し評価するために、学生はジャーナリ
ズムに接触することが必要である。それではアカデミズムとジャーナリズムとは如何に異つてゐ
るのであるか。それぞれの特色、長所、そしてその反面におけるそれぞれの制限、欠点が明かに
されねばならぬ。
 普通にジャーナリズムといはれるのは新聞と雑誌とである。或る意味ではラヂオや映画を現在
これに加へることもできるであらうが、今はその点には触れないことにする。ここで謂ふ雑誌か
らは学会などで発行してゐる専門学術雑誌は除外される、なぜならそれは元来アカデミックな活
動の継続であるからである。ジャーナリズムに属するのは、一般雑誌といはれてゐるもの、特に、
『中央公論』、『改造』、『日本評論』、『文藝春秋』等の如きいはゆる綜合雑誌である。そこからす
でにアカデミズムとジャーナリズムとの区別が認められるであらう。即ち前者が専門的であるに
対射して後者は一般的である。ジャーナリズムが一般的であるといふ意味には、専門家のみでなく
一般人に理解されるといふことが含まれてゐる。従つてそれは通俗的である。通俗的といふこと
は善い意味にも悪い意味にもなることができる。それは学問の俗流化ともなり、真の啓蒙性とも
なるのである。前の場合は軽蔑すべきであるが、後の場合は尊重されねはならぬ。ジャーナリズ
ムに対するに当つて先づ注意すべきことは、このやうな俗流化と真の啓蒙性との区別である。こ
の区別をすることができるためにはアカデミックな知識をもつてゐることが必要であるが、アカ
デミズムに囚はれて通俗性を一概に排斥することは学問の社会的機能を理解しないものである。
学問は決して専門家の独占に帰すべきものでなく、一般人の間に解放されて社会的力となるので
なければならぬ。学生もジャーナリズムを通じて自己が学校で学びつつある専門外の知識を吸収
することに心掛けるやうに勧められる。これによつて学生が社会人としてもたねばならぬ常識を

62

 

もつことがができ、そしてそれは自己の専門の意味を正しく理解するために必要であるのである。
 ジャーナリズムの特色としての一般性は軍に通俗性を意味するのみではない。それは寧ろ一般
人の日常の生活に直接に関係するといふことを意味してゐる。アカデミズムが専門的であるに封
してジャーナリズムは日常的であ副。ジャーナリズムは一般人が関心してゐる間超或ひは関心し
なければならぬ問超を取上げる○現賓の関心がある問題については、その内容が必ずしも通俗的
でなくても、ひとはこれを何とかして理解しょうと努めるものである。従つて眞の通俗性はこの
やうに一般的な関心がある間超を取上げることによつて、或ひは問超を一般的な関心がある側面
から取扱ふことによつて生じる。畢に通俗的であることがジャーナリスナツタであるのではない.
眞の通俗性は日常性を離れて存せず、現賓の生活と結び附くことによつて眞に通俗的になること
ができる○アカデミズムは自己の専門に閉ぢ寵つて非常識になり易いものであるから、これに封
して学生はジャーナリズムによつて杜曾的常識を養ふやうにしなければならない。常識とは日常
性と結び附いた知識であるが、アカデミズムは日常性から離れて非常識になりがちである。日常
的とは畢に通俗的といふことではない0日常的とは資生活に関するといふことであり、従つて行
為的といふことである0常識といはれるものもこのやうな日常性における知識、それ故に行為的
な知識のことである。然るにアカデミズムの関心するのは理論的な知識であり、またアカデミズ
ムは賓践でなくて観想の立場に立つのが普通である。理論は直接に行為の立場から作られるもの」
でなく、却つていつたん行為の立場を否定するのでなけれは理論的になることができぬ。理論と
賓践との間には一定の封立が存してゐる。固より理論は行鳥の立場において再び具慣化さるべき
ものであるが、この具饅化においてジャーナリズムはアカデミズムに封して方向を示し、示唆を
輿へ得るものである。
 更にジャーナリズムが専門的でなくて一般的であるといふことは、その綜合性にある。かやう
な綜合性は畢にそれが何でもを含むといふこと、言ひ換へると、一枚の新開、一筋の雑誌の中に
は政治論もあれは経済論もあり、また随筆や小説の類もあるといつたやうなことのみを謂ふので
はない。この意味における綜合性ももちろん無意義であるのではなく、杜曾人としての一般的教
養を得るためには必要なものである。しかしジャーナリズムは一層本質的な意味における綜合性
を具へてをり、また具へなけれはならぬ。即ちそれはどのやうに特殊な問題を取上げるにしても、
これを軍に特殊的専門的見地からのみ取扱ふのでなく、却つてこれを一般的綜合的見地から取扱
はうとするのである。例へは哲学の問題に就いて通俗的に書いたからといつて、それだけでジャ
ジャーナリズム
一一七

                                           一一入

−ナリスチックであるのではない。ジャーナリズムの立場においては、哲撃の問題も日常的な問
題との聯関において論ぜられなけれはならず、従つて軍に哲学の見地に止まることなく、哲学以
外の間短との聯関において論ぜられなければならない。専門家の立場を離れて物を一般的綜合的
に見てゆくといふのがジャーナリストの本領である。アカデミズムが専門に囚はれて狭い見方に
・障り易いのに封して、ジャーナリズムは廣い聯関において物を見てゆくところに、専門的研究に
従事する者のジャーナリズムから学ぶべきものがある。しかし、アカデミズムと艶も諸文化の聯
比関に注目し、これを究明することに努力する、と云はれるであらう。それにしてもアカデミズム
とジャーナリズムとの間には性格的な差異がある。この差異は、主として、ジャーナリズムにあ
                                                                              ヽ一′ll■■一_
づてはすべての問題の取扱ひが廣い意味において政治的であるといふことに関係してゐる。ジャ
・1ナリズムが一般的綜合的であるといふのは、軍にそれが諸文化の聯関を考へるといふことにあ
・るのでなく、寧ろ政治といふものがその性質上一般的綜合的であり、かやうな政治的見地からあ
与ll一・・l_一ll▼1宅‡
らゆる閏超を考察するといふところにあるのである。そしてそのことはジャーナリズムが日常性
の、従つてまた行為の立場に立つといふことに関係してゐる。ここにおいてアカデミズムに封す
るジャーナリズムの特赦が.更に明瞭に規定されねはならぬ。
       ニ


 ジャーナリズムにおける日常性は一層厳密に云へは時事性のことである。日常的といふ言葉は
日々繰返されるもの、習慣的になつたもの、従つて或る意味では自然的なものを意味することが
できる。然るにジャーナリズムが関心するのはかやうなものでなく、寧ろ新しいもの∵新しい事
斉、新しい出来事、即ち1ニースである。ジャーナリズムはかやうな時事、ニュースの報道を第
一の任務としてゐる。その限りジャーナリズムの本懐は雑誌ではなくて新開である。ジャーナリ
ズムがつねに求めてゐるのは新しさである。一ケ月前の新開はもはや新開でなく、一ケ年前の雑
誌はもはや雑誌でないと云はれるであらう。ジャーナリストはその日の讃者、その月の讃者のた
めに書くのである。ジャーナリズムは報道するのみでなく、また解説するが、その解説は根本に
おいて1ニ・−スの解説であり、時事解説である。ジャーナリズムはつねに新しいものに関心する
ことによつて日常的なものよりも非日常的なものに関心するとも見られることができるが、しか
しその新しいもの、謂はは非日常的なものも、若干の少数者のみの関心するやうなものでなくて
杜曾の誰もが一般に関心しなければなすぬやうなものであるといふ意味において矢張り日常性の
ジャーナリズム
一一九

                     一二〇
立場に立つてゐるのである0常識とは慣習的といふ意味における日常的な知識であるとすれば、
ジャーナリズムは常識の立場に立つとは云へないが、しかしジャーナリズムは新しい常識の基礎
となるものである○ジャーナリズムを通じて我々の住む世界における新しい出来事を知り、この
l音−▼
環境の攣化に封して邁應してゆくことが我々の生活には必要である。この必要は学生も鉄骨のう
ちに生活してゐるものである限り学生にとつても存在する0アカデミズムも我々の環境である世
界について知らせなくはないであらう0けれピもその仕方はジャーナリズムにおけるのセは性格
的に異つてゐる0ジャ↓ノリズムは時事性の、絶つて時間の見地に立つてゐる。時間の感覚、時
間の攣化と新しさとに封する感覚がジャーナリズムには大切である。ジャーナリズムの関心する
のはつねに現在である0然るにアカデミズムの関心するのは多くは過去である。ジャーナリズム
の方法ボ現在に封して力を有するに反して、アカデミズムの方法のカは過去、肯いもの、停統的
なもの、比較的に攣化なく持漬するものに封して蓉挿される。
ところで我々の生活は現在におい
て行はれるものであり、そこに現在に関心するジャーナリズムの重要な意義が存してゐる。
                                                                                           ヽ‡■・
既に云つたやうに、ジャーナリズムの第一の仕事は報道である。
それは絶えず條件を新たにし
て生ずる事物の動きを、その日その日の特殊な出来事を讃老に俸へる。この報道は、項頓におけ

る欒化を人々が逸速く知り、これに間に合つて邁應し、時宜に邁ふた態度を取り得るために、迅
速をたつとぶのである。ジャーナリズムが定期刊行として現はれるのもこれに関係してゐる。次
                                                                        ヽ■ill■
にジャーナリズムは個々の出来事、特殊なニュースの意味を理解させるために解説を行ふ。解説
は云ふまでもなく個々の現象の間の聯関を示し、特殊な出来事に封して展望を輿へることを目的
としてゐる。事件が一般讃者にとつて突薔的であるかのやうに見える場合、この解説はとりわけ
必愛であらう。しかしジャーナリズムの他の、特に大切な任務は批評である。ジャーナリズムに
おいては、すべてが − 解説でさへもが、いな廣告でさへもが − ニュース的、時間的、時事的
意味をもつてゐるやうに、すべてが、論説は固より、報道でさへもが批評的意味をもつてゐる。
或る事賓を選んで報道し、或ひは特別に強調して報道するといふことはすでに批評を行つてゐる
ことである。批評はジャーナリズムの重要な機能である。ジャーナリズムは近代における批評精
紳の薔達と共に薔達してきたのである。批評性を失ふとき、ジャーナリズムはその本質の主なる
ものを失ふと云はねはならぬ。とりわけ報道の迅速さにおいて新開と競零し得ない雑誌にあつて
は、批評がその最も大きな任務でなければならない。
 固よりアカデミズムも批評を行ふであらう。しかしその批評はジャーナリズムにおける批評と
ジャーナリズム

は性格を異にしてゐる。
アカデミズムの批評の多くが過去の批評であるに封して、ジャーナリズ
ミ11′1Ill壬1−′l音1・i・1I.・1I
f■
ムの批評はつねに現在の批評である。
アカデミズムの批評は停統に頼るのが普通である。それが
如何に侍統に依存してゐるかは、停統のないもの、即ち新しいもの、生成しっつあるものに就い
ての批評においてそれが殆ビ無力であり、かやうなものに封しては寧ろ或る自然的な嫌悪を感じ、
それらをすべて何か軽桃浮薄なものとして排斥するに過ぎないのが度々であるといふことを見て
も分るであらう。
アカデミズムのいはゆる撃者的良心はジャーナリズムの批評を性急な、尚早な
     ー
判断であると云つて非難したがる0ジャーナリズムの批評は、資際、日々の喧騒の中に混つてゐ
ヽ′, 享1亨・〜・−!1Il−壬lIl〜11III
る0しかしこの批評は歴史がそこにおいて新たに作られつつある現在に属してゐる。ジャーナリ
ズムの批評は今日の閏超を封象とすることによつて、現に生起してゐる若しくは婿に生起しょう
とする出来事に封して絶えず影響を輿へ、この出来事に合燈するのである。その場合批評家は賓
践家の協力者である0然るにアカデミズムの批評が忘れ易いのは、歴史とは畢に過去のものでな
く却つて現在の出来事が歴史であるといふことである。
細心や慎重をたつとぶ学者的良心は度々
生活の良心に反することになる0ジャーナリズムは生成しっつある現在の歴史の出来事の中に混
ヽ幸一I    ・・書I・!1一字11I
入することによつてアタチェアリティ(現資行動性)をもつてゐるところにその重要性がある。
穎周一】】用】月勺題召儀表.≠箋一。
 凍ハにアカデミズムの批評が主として請書を基礎としてゐるに反して、ジャーナリズムの批評は
もと談話を基礎としてゐる。日々の出来事、ジャーナリズムを通じて報知される時事や意見に就
いて、学者でもなく著述家でもなくジャーナリストでもない一般杜舎人は談話によつて批評する。
ジャーナリズムはこのやうな話される批評に封して謂はば書記の役目を勤めるの⊥である。新開の
讃者は公衆を形成する、近代におけるジャーナリズムの薔達が公衆の薔達を規定した。新開は公
衆に封してその話される批評の題目となるやうな事賓や意見を停へる。彼等の談話の中から生れ
る批評が輿論を形作つてゆく。公衆とはこのやうな輿論の槍ひ手を謂ふのであるが、輿論の形成
においてジャーナリズムは極めて重要な役割を演じてゐる。ジャーナリズムは輿論の出費鮎とな
iJIT一t.■き_一l
る話される批評に封して材料を輿へ、この批評を記録し或ひは更に批評することによつて輿論の
番展を助成し、また指導するのである。輿論は一つの杜曾的力として働く。公衆、輿論、ジャー
ナリズムの三つは分離することのできぬ関係に立つてゐる。学生も公衆の一人であり、彼等は輿
論に影響することができ、また輿論から意識的に或ひは無意識的に影響されてゐる。輿論の力の
・′盲一l・号.1.1.
無祀すべきでない限り、輿論の器官であるところのジャーナリズムを無祀してはならぬであらう。
 しかしながらジャーナリズムはただ新しさを求めて、眞に新しいものとさうでないものとの直
ジャーナリズム
一二三

一二四
別を見失ふといふ危険を絶えずもつてゐる0物の眞の新しさが分るためには古いものを知つてゐ
音l一一−
なければならぬ0然るにジャーナリズムは過去や侍統を殆ど意に介することなく、ただその日そ
の日の出来事の目新しさに注目する。個々の出来事の聯開を示し、その背景を明かにするために
ジャーナリズムも解説を行ふことがありはするが、解説はその主要な仕事でなく、解説の能力は
寧ろアカデミズムに属してゐる0また歴史とはまことに畢に過去のものでなくて現在の出来事が
寧ろ眞の歴史であるのではあるけれども、現在は過去との関係から全く切り離されて存在するも
盲−一−・−書l111−‡I
のでなく、却つてつねに過去に封して一定の関係を有する故に現在は歴史的であるのである。

           l▼          ′書I〜.I
つてジャーナリズムがただ目前の出来事にのみ関心して、これを過去と打聯関において考察する
首.葺−葺
ことを忘れる限り、それは現在を正確に理解することができず、現在を現賓的に歴史的に把握す
ることができない0ジャーナリズムはその性質上かやうな弊に流れ易い自然的傾向を具へてゐる。
更にジャーナリズムの批評は今日の事件、今日の問題に就いて、今日の讃者に向つて今日行はれ
る批評であるから、勢ひその日暮しの批評になりがちである。
現在の批評に従事するジャーナリ
ストは無原理、無原則に障り易い危険をもつてゐる。
この鮎においてアカデミズムが原理や慣系
を重んじてゐる限り、アれ升ミツタな態度には重要な意味があると云はねはならぬ。一般的なイ
デーなしには眞の批評は行はれ難いであらう。
しかしながら一般的規則を重んずるアカデミズム
書きき▼
の批評がまた障り易い故鮎は類型的になり、公式的になり、
かくして批評そのものが自働的にな
るといふことである。しかるに批評の意味はこのやうな精神の自働性に封して職ふところに存す
るのであつて、この見地からは逆に絶えず新しさを求めるジャーナリズムに意味が認められるの
である0
 アヵデミズムとジャーナリズムとはかやうにして精神の二つの型、方法の二つの型を現はして
ゐる。けれども両者は互に補ひ合ふべき性質を有し、互に統一されることを求めてゐる0すでに
述べた如くジャーナリズムの特に関心する現在の歴史もアカデミズムの主なる対象であるところ
の過去の歴史との関係から抽象されては眞に現賓的に理解され得ないのであるが、他方において
過去の歴史も現在の歴史との聯関において生命的な歴史となるのであり、すべて過去は現在のう
ちに活き、現在から活かされてゐる限りにおいて歴史的であるとすれは、現在の歴史に就いてジ
ャーナリスチックな感覚と理解とをもつといふことは眞のアカデミズムにとつても必要である0
ジャーナリズムが現在性、日常性、時事性を重んずるのは、それが行為の立場から沖離すること
を欲しないためである。けれども眞の行為は理論をもたねはならぬとすれは、アカデミツタな抽
ジャーナリズム
一二五

                                        一二六
象論、一般論も無意味であるとは云ひ難く、他方においてアカデミツタな理論も現資であるため
には行為の立場に立ち、現在の現資の特殊的なもの、具憶的なものとの関聯を含まなけれはなら
ず、その限りアカデミズムの学者にもジャーナリスチックな意識と認識とが必要である。また批
評は無原理、無原則のその日暮しのものであつてはならぬと共に、特殊を表の軍なる事例とし
て示すに過ぎぬやうな公式論となつてはならず、特殊と一般とのそれぞれの場合における生きた
l音111‡I
具慣的な関係を薔見すべきものであるとすれば、
眞の批評はジャーナリズムとアカデミズムとの
持讃法的統一によつて注せられると云ふこともできるであらう。賓際、畢にアカデミックである
のは最上のアカデミシアンでなく、また畢にジャーナリスチックであるの・は最良のジャーナリス
トではない○彼等のうち眞に卓越してゐる者はいづれもアカデミズムやジャーナリズムを超えて
                                                                                      l一蔓l▼−
                             1
立ち、これらをそれぞれの仕方で綜合してゐる者である○尤も、かやうな辛頑な結合は極めて稀
な場合であつて、普通にはアカデミズムとジャーナリズムとは人間の異る才能に属してゐる。そ
れ故に両者の気質、メカ1妄ム、方法の特珠性を理解しておくことは、アカデミーにおいて学び
ながら同時にジャーナリズムに接解することを要求されてゐる学生にとつて必要である。

 アカデミズムは侍統のうちに生き、停統を重んずるのがつねである。そこにおいて学生は学問
の停統を身につけなけれはならない。なぜなら侍統を離れて眞の創造はなく、侍統を無税しては
新しい蓉展も不可能であらうから。かやうな停統として先づ挙げられるのは、拳闘の研究と構成
とに関する技術である。この技術はアカデミーがその永い侍統のうちにおいて薔逢させて来たも
のであり、そして技術はその本性上或る侍統的なものである。学生は学校において差富りかやう
な技術を習得すべきであつて、それはあらゆる場合にとつて有用で大切なことである。次に侍統
を重んずるアカデミズムにおいて特別に尊重されるのは過去の古典である。古典は云ふまでもな
く現在においても生命を有する著述であり、挙間の研究に封して重要であるのみでなく、一般的
教養としても基礎となるものである。自己の専門とする研究が如何なるものであるにせよ、学生
は自己の教養として人類の古典を身につけることが望ましい。古典の教養は教養に品位を輿へる
ものである。
しかしながら学生の教養にとつてはジャーナリズムも軟くことのできぬ意味をもつてゐる。固
ジャーナリズム
一二七

‡11一1音
一二八
ヽ1′1〜l一1一一1I一11−1一−− −
より学生は現に学校において勉強してゐる着であり、その撃業を怠つてまでジャーナリズムに熱
中することは善くない0学生の本分から云へは、学校がどこまでも主であつてジャーナリズムは
                     1.一lllll一盲
従でなければならぬ0学校の教育にはジャーナリズムによつて代へることのできぬ猶自の債値が

ある0教師との人格的接鱗もその一つであらうし、
また学校といふ学問的停統の醸し出す雰囲気、
学校といふ園饅が学生に輿へる訓練などもそれである0けれども一般的教養の見地から見れば、
ジャーナリズムはまた学校の輿へ得ないものを輿へるのである○教養はそ.の性質圭般的である
 l▲l蔓11Il−
ことを要求してゐる0専門家が専門家として、職業人が職業人として有する知識は教養とは云は
れず、専門家や職業人の立場を離れて人間が人間として有しなければならぬ知識が教養となるの
ヽj‡}1Il一1111Illll一一111一l一一ll、 一 一■
は専門的研究を深めてゆくことほど教養にとつて大切なものはないのである。教養とは単に多く
である0そのことは勿論、専門的研究が教養に役立たないといふ意味ではない。
によつて人間そのものが鍛へられ、出来上ることを意味してゐる。
ヽ享一■・‡ll一一l一I■..一
の知識を有することでなく、
却つてその知識を眞に身につけること、
寧ろ或る意味で
知識を眞に身につけること
従つて専門の道をどこまでも
究めてゆくことが眞の教養に逢する最↓の方法であると考へることもできる。技術的訓練そのも
のがその際重要な教養的意義をもつてゐることも忘れてはならぬ。ただ軍に廣く物を知るといふ
                                                                                               、り.t − 1。戎書
ことは却つて教養の反封であり、俗物を作り易いものである。何等かの専門に通じないで眞の教
養を得ることは不可能である。その意味においてまたアカデミツタな専門的な研究は教養にとつ
てジャーナリズムによつては達せられないものを輿へることができる。しかし凡ての人間は専門
家である以外もしくは以前に人間であり、また特に杜合人である。そして杜舎人七しての教養に
とつてジャーナリズムはとりわけ重要な関係をもつてゐる。固より学校が学生に祀舎人として必
要な教養を輿へないと云ふのではない。しかし学校の輿へる教養とジャーナリズムの輿へる教養
との間にはおのづから差異があり、両者は相補足すべき性質のものである。
アカデミツタな教養は主として古典的教養である。これに反してジャーナリズムの輿へる教養
は現代的教養である。ジャーナリズムは専門的でなく一般的であるといふ鮎において人々の教養
に賓するに適しょうとしてゐるのであるが、この教養は先に述べたジャーナリズムの特性から考
へられる如く現代的であるといふことを特色としてゐる。学生もまさに現代人として現代杜禽に
                                                                   l▼
生活してゐる者であるから、現代的教養を具へることは学生にとつても大切である。しかも現代
的であるといふことは決して想像される如く容易なことではないのである。「私には古代人であ
るよりも近代人であることが造に困難に思はれるL、とジユーベールは書いてゐる。モーターン
ジャーナリズム
一二九

一三〇
であることがクラシックであることよりも容易であるかのやうに考へるのは講壇人の偏見である.
現代的教養は古典的教養と同様に重要であるが、ジャーナリズムは特に現代的教養の機関である。
賓際、ジャーナリズムは公衆の教養に備へてゐる0それは日常性の立場から、あらゆる種類の教
                                                                              ll
養を提供しょうとしてゐる0文化的教養も固より除外されてゐない〇一日の新開は内容的に報道
                〜■
と文叢とに直分され、、文叢は先づ論説、解説、注樺を、次に評論、批判及び紹介を、
                        ヽき
を含むとせられてゐる○第一のものは主として教導の機能を、第二のものは主として許償の機能
                  ヽl盲l
を、第三のものは主として娯楽の機能を果すのである0ところで既に云つた如くジャーナリズム
においては凡てが時間性の見地に立ち、
第三に文蓼
一切がニュースと見られるやうになつてゐる。そのあら
ゆる部面において重んぜられるのは今日の精神、現代人の感覚である0アカデミツタな教養の或
l盲ll・11・一11−盲I・}−
るものが趣味的であるに封してジャーナリスチックな教養の或るも打は娯楽的であると云ひ得る
                                 /ll与1.
ところにも、両者の差異が認められるであらう0即ち趣味は懐古的であるに反して娯禁は現在的
である。
娯楽は一般的、生活的であり、アグチェアリティを含んでゐる。しかもジャーナリズム
において特赦的なことは、その凡てがニュースの意味をもつてゐる妄、またその一切が批評で
あるといふことである0右に文叢と呼ばれた部分の主要な機能が総括的に云つて批評であるのみ
那溺那鮎洞朋那那朗洲那−
でなく、報道でさへもが前に述べた如くすでに一定の批評を含んでゐる。かくしてジャーナリズ
ムの輿へる教養は、本来、批評的といふ特徴を具へてゐる。それは人々を批評精神に教育するの
                                                                                             l・
である。これはジャーナリズムがアカデミズムに封して有する特色と見られることができる。ア
カデミツタな教養は寧ろこの批評精紳を鈍くする危険をもつてゐる。
 そのことに関聯してアカデミズムとジャーナリズムとの教養における性格的な差異が認められ
る。即ちアカデミツタな教養が文化的に傾くに封して、ジャーナリスチックな教養は特に政治的
である。これまで我が囲において教養といはれたのは、だいたい文化的教養のことであつた。教
養といふ言葉が初めて流行した常時、それは主として文化的な意味に用ゐられた。それはアカデ
ミーの専門主義に反封して掲げられた標語であつたけれども、内容的には文化主義的に理解され
てゐたのであつて、その頃教養といふ言葉と同時に文化といふ言葉が流行語になつた事葺からも
この関係が知られるであらう。
するもののやうに考へられた。
この場合、政治は教養にとつで繰のないもの、寧ろ何か教養に反
青′l呈l−
尤も、この大正時代以前においては我が国にあつても政治が教養
の重要な内容であつた。明治時代がさうであつたし、また一般に儒教が我が囲の知識階級の主な
る教養とされてゐた場合がさうであつた、なぜなら儒教そのものは道徳と結び附いて道徳論の形
ジャーナリズム
一三一

をとつた政治的イデオロギーにほかならないのであるから0ところで教養と政治とを封立的に、
ヽ    −
少くとも分離的に見る教養論!我々はこれを教養論のドイツ的形態と稀することもできる1
は現在に至るまで意識的な若しくは無意識的な影響をとどめてゐるといふことに注意しなけれは
ならぬ0そのことは近年我が国において教養論が再び掻頭したのは、知識階級の政治的関心が滑
        青
梅化して、彼等が自己の精紳的避難所を教養に求めるやうになつたといふ事情に関係があるとこ
ろにも認められるのである0しかしながら教養から政治の除外さるべき理由はない。人間は杜曾
  音一一l}一l11一−一−1ミ
ぬ0ジャーナリズムの本質的な規定である時事性とば政治性を意味してゐ
的動物即ち政治的動物である限り、
寧ろ何よりも政治的教養が教養の主要なものでなければなら
る0
それが一般的綜合
的であるといふことも、既に解れておいた如く、政治といふものの本性上有する一般的綜合的性
質に基いてゐる○またジャーナリズムに特殊な批評性といふものも政治性と密接に結び附いてゐ
る0かやうにして現代的教養としてジャーナリズムが輿へる教養は、本来、政治的性格のもので
ある○背い型の教養主義者がジャ↓ノリズムに封して自然的な反感を抱いてゐるのも、これに依
ることが多いであらう0しかし現代人としての教養、杜曾人としての教養を求める者にとつてジ
lfきI
ヤーナリズムを蔑硯することは許されない。
日本の知識階級の最も大きな崩鮎の一つは政治的教
養の乏しさにある。今日の学生はこの鮎に特に注意して政治的教養の獲得に努力すべきであると
思ふ。近年我が囲の知識階級の動揺が徐りに激しいといふことも彼等に政治的教養が欽けてゐる
といふことに関係するところが砂くない。しかもまた他の面から見れは、かやうな弊害は我が囲
においては政治的教養が主としてジャーナリズムにのみ依頼されて、アカデミーが政治的教養の
問題に就いて除りに無関心であつたトいふことからも生じてゐるのである。この難から云へば、
学生が一層アカデミツタな方法によつて自己の政治的教養を積むことが望ましい。しかしそれに
しても、現資の政治的関心を有する者は古典的教養の名においてジャーナリズムを軽覗すること
ができないであらう。
 固よりジャーナリズムが賓際上種々の妖艶をもつてゐることは事はれない。ジャーナリストは
・讃者の気に入るやうに書くことを知つてゐる。彼等は今日の言葉と今日の気持とをもつて、速か
にそして気持よく讃まれるために必妥な手段の凡てを姦して、何事も新しいことと見えるやうな
形式をもつて書く。好奇心に富み、新しい感覚を求める青年学生の心理にとつてジャーナリズム
ジャーナリズム
】三三

                                          一三四
が適合するのは偶然でない0ジャーナリズムにはつねに青年らしさがあり、ジャーナリズムに比
しては撃校は老人臭く感ぜられるであらう0けれども讃者に気に入ることがつねに眞理であると
は限らない0ジャーナリストはできるだけ速くまた廣く讃ませるやうに書くのであるけれども、
彼等は殆ビ二度と繰返して讃まれることを考へて書くのではない。ジャーナリズムは準えず新し
いものを追ふて一
つの析に止まることを好まない。
ジャーナリズムは一つの閏超を深く掘り下げ
て探求するといふことに軟けてゐる○従つてもし新聞や雑誌はかり讃んでゐるならは、知識は廣
享.・・1n
くなるにしても深くなることはできない0そして何でも知つてゐるといふことは要するに何も知
らないといふことである0断片的な知識の堆積は眞の教養とは別のものである。これはジャーナ
リズムに求められる教養の陥り易い故鮎であり、ジャーナリズムの薔達した今日において青年学
生の成心しなければならぬことである○とりわけ我が国の現存の雑誌がその名の示すやうにただ
種々雑多のものを詰め込んで統一がないところから生ずる弊害に注意しなければならぬ。アカデ
ミツタな研究の要求するやうな徹底性と統一性とを一層重んずることが現代の学生には必要であ
ると思はれる0ジャーナ町斗ムに従つて徒らに新しい流行を迫ふことなく、間超をどこまでも根
ゝI
il▼・く一一11一一一11一・一1ぎ・ll−・●J与111一一一lI一−
本的に組織的に究明してゆくといふ学究的態度を忘れないことが大切である。
しかしながらアカデミズムは度々不常にジャーナリズムを非難してゐる0アカデミズムの偏見
から解放されることがまた新時代の学生にとつて必要である○
大学はその起原を中世に有するや
J招いアヵデミズムは保守的になり易いところをもつてゐる。これに封してジャーナリズムは近
代市民政令の成立期にその起原を有するやうに、その機能は元来進歩的なものであつた0講壇人
はジャーナリズムが近代的な教育機関として有する重要な意義を度々見落してゐる0印刷術が普
及し交通の薔達した今日に於ては最早や学校のみが教育機関であるのではない○新聞や雑誌のほ
かに更にラヂオや映蓋が新しい教育機関として現はれてゐるのが現代である0アカデミズムの許
債はだいた一い保守的になり易い傾向をもつてゐる0フロベールやボードレールの如き作家、或ひ
はマルクスの如き学者は話される批評、従つてジャーナリズムの批評によつて債値を尊兄されて
講壇に押し附けられ、かくして迭に古典的位置を獲得するに至つたのである0ジャーナリズムを
ただ浅薄なものと考へることは講壇人の偏見に過ぎない。
学生は近代的教育機関としてのジャI
ナリズムの意義を正しく認識し、これを賢明に利用することを知らねばならぬ0勿論、ラヂオや
映真の蓉注が新聞や雑誌の存在を不要にしてしまひ得るものでないやうに、新開や雑誌の蓉達が
学校の存在理由を奪つてしまふものではない0ジャーナリズムとアカデミズムとのそれぞれの濁
ジャーナリズム
一三五

一三六
自な意義を理解することが大切である0ジャーナリズムは学生にとつて畢にその教養の補足物と
して必要であるのみでなく、却つて最初に記しておいたやうに学生が杜曾人としての自費をもち、
鞋曾人として要求される知識を具へ、杜曾人として適切に行動し得るために軟くことのできぬも
のである0このことは今日学生自身のジャーナリズムが番達し、大挙新開といふものが各大学に
おいて蓉行されるやうになつたことからも知られるであらう0大挙そのものが賓は一つの杜曾で
ある故に大挙新開の如きものが必要とせられるのである0学生は杜舎人であると共に学生として
濁自の存在であるやうに、学生ジャ÷リズムは学校といふ杜合の濁自の立場に立ちつつ一般杜
                                 寸
禽との具憤的な聯関の認識に基いて縞輯せらるペきものであらう。1
 ジャーナリズムの性質を考へるに嘗つ・て、それが近代の商業主義と結び附いてゐることに注意
するのは肝要である0ジャーナリズムの有する弊害の多くはその商業主義に基いてゐる。それが
                           盲−ミ
徒らに新しい流行を作らうとしたり、
センセーショナリズムに熱中したりするのは、その商業去
義の結果である0かやうなセンセーショナリズムは、組合のうちに不安が存在し人心が不安にさ
                   ‡ll■l11
れてゐる場合、激化されるこ■とになる0不安な心は好奇心となつて現はれ、絶えずセンセーショ
ンを求めるものである0そしてこれに投ずるジャーナリズムはそのセンセーショナリズムによつ
て不安な心を益々不安ならしめる。何かセンセーショナルな出来事なしには生活の感情をもち得
ないといふことは現代の一つの特徴であるが、ジャーナリズムがこれを助長するところが砂くな
い。その商業主義に注目することは現代ジャーナリズムにおける諸現象を理解するために根本的
に重要である。そして特にそのセンセーショナリズムに封して批判的であることが大切であり、
享−きノ
そのためには理論的意識を十分に把持することが必要である。
 更にまた今日のジャーナリズムが経過しっつある欒質に注意しなけれはならぬ0それは自由か
ら統制へと稀せられるものである。ジャーナリズムはもと近代の市民的自由主義と共に現はれた
ものであつた。それ以前においても、例へばカエサル(J已i亡SC発S胃こ茎−怠PC.)によつ
て蓉刊されたActPSg已us及びAntPdiu⊇P召匂已i【Om賀iの如きものが存在したが、そ
れは官報であつて、近代的な意味における新開ではない。近代的に経脅される印刷された新開は
一五六六年ヴェニスで創刊された2すtiNPS▲邑ttPに始まると云はれてゐる。このことは偶然で
なく、ルネサンスの蓉絆地としてのイタリーこそ近代的市民杜曾の接頭して来た最初の地であつ
たのである。かくしてジャーナリズムは、印刷術の頚達、交通及び交通手段の蓉達の條件のもと
に、近代的自由主義の蓉展と共に拳展した。然るに今日、杜曾の攣化に従つて自由主義に反封す
ジャーナリズム
一三七

                                            一三入
る思想が支配的になつた虞においては、ジャーナリズムにとつても攣化が生ずるに至つた。即ち
ジャーナリズムにおける報道の自由並びに批評の自由、一般に言論の自由といはれるものが甚だ
制限せられ、報道及び批評に封して大きな統制が加へられるやうになつたのである。自由主義を
基調として生長蓉達して来たジャーナリズムは攣質し、
ここに新開の官報化といはれるやうな現
象が見出される○私はい呈口論の自由の問題へ立入つて論ずることができないが、言論において
無制限の自由の許されないことは確かであり、
また一般に近代的原理としての自由主義が行詰つ
てゐることも事資である0しかしながら新開の官報化といふが如きことは先づ新開に封する讃者
の興味を失はせる0そこに商業主義の上に立つ今日のジャーナリズムは一・つの矛盾に出合はねば
ならぬであらう0報道の自由の制限される結果、組合の諸情勢について客観的な認識を得ること
が困難となり、人々は停へられない事賛に封して想像を働かせ、かくして正確な報道の代りに種
種の流言璽…が行はれるやうになつて来る0また批評の自由に封する歴迫は、輿論の健全な蓉達
を妨げ、為政者及び一般杜曾に封して自己批評を失はせ、諸方面における彗口的傾向を助長する.
そしてジャーナリズムにおいて公に自己を表現することを不可能にされた輿論はまた流言璽岩
                                             音l
現象となつて現はれるのである0統制は指導を伴はねばならないのであつて、指導思想なしに徒
ヽき盲
らに言論の自由が抑座される場合、
持を有する思想でなけれはならぬ。
弊害は大きいであらう。眞に指導力を有する思想は輿論の支

輿論を願迫しては輿論の支持を得ることが不可能である。ま
たすべての批評を禁じてゐては思想の蓉展がなくなる。批評を恐れるものは眞に指導的になり得
ず、自己批評を失つたものには進歩があり得ないのである。これらのことは統制に伴ひ易い弊害
として指摘しておかれねはならぬ。
                                           ヽlfl▼
 ジャーナリズムにおける統制と密接に関係してゐるのは宣侍である。宣侍といふものも近代的
現象であり、宣侍を意味するプロパガンダといふ言葉は一六三三年ローマン・カソリック教曾に
ょって使用されたのがその初めであると云はれてゐる。しかし宣侍が現在有するやうな特赦をも
って現はれるやうになつたのはナポレオン時代のことであり、特にあの世界大戦は宣侍蓉達の歴
史において劃期的な意義をもつてゐる。ジャーナリズムは宣停にとつて最も重要な機関である0
皇喜一,
宣停は大衆を相手とし、主として輿論を統制する目的をもつて行はれるものである。宣侍は神話
ゃ停説の形成と顆似したところをもつてゐる。宣侍とはいはば近代的な押詰乃至侍説の形成の近
Lヽ′き−
代的な方法である。ただ神話や侍説が民衆の聞から自然生長的に生ずるに反して、宣停にあつて
は宣停者自身が目的意識的に同様のものを作り出すといふ差異がある。しかしいづれも杜曾統制
ジャーナリズム
一三九

一四〇
蒜能を営むものである0統制の時代はまた宣俸の時代であり、ジャーナリズムはかやうな宣嘩
のために利用せられる○宣侍は押詰や侍説の形成に類似するものとして琴に知的なものであり得
ないけれども、それは煽動の如く情意に訴へるものと異つて一層知的な形をとる。その鮎におい
て宣侍は啓蒙に彗くのである○宣侍はそれの宣侍であることが分らない場合扁有数であると
ころから、外面上は啓蒙の形をとることが多い0しかし宣博と啓蒙とは混同されてはならぬ。啓
首11I.11
蒙が主として知的な合理的なものであるに封して、宣侍は一層非合理的な、
                                                       . −■■ll▼−..111111一▼≧
一層暗示的な形をと
てること、新しい紳話をそれ自身の仕方で作り出すことにある○ジャーナリズムはもと啓蒙の機
l11I′・11・1一・・11・i.1111−
開であつたのであるが、今日においては寧ろ宣侍の機関に攣質しょうとしてゐる.これはジャー
ナリズムに啓蒙を求めようとする学生の注意しなけれはならぬ彗ある0宣侍や押詰が行動と歴
                                      lヽfl1.
史とにとつて或る必要を有することは認めねはならぬにしても、それらが事物の客観的認識を妨
首l†.111−
  きllI′l111111〜l一一−.1∃l−1 1 − 1 ■
る0啓蒙は大衆の間に批評精紳を喚び起すに反して、
1111〜1111ぎ
宣倖は批評精紳を抑へて統制を行ふことを
目的としてゐる。
                          一′llヽ一lI
啓蒙の結果は押詰に封して破壊的に働くに反して、宣俸の意囲は神話を養ひ育
ヽ‡1  エ ー1I盲
げることは云ふまでもなく明かである。
ジャーナリズムの攣質に伴つて生ずる種々の弊害を避けるために、学生は知性人としての衿持
彗一州
をもつて理論的意識の把持に努めなければならない。理論的意識を養ふにはアカデミツタな、冷
辞な、堅賓な研究が大切である。しかし注意すべきことは、今日においては学校そのものも攣質
しっっぁるといふことである。学校も祀曾における存在であり、祀曾影響のもとに立つてゐる。
大挙の起原は中世にあるが、近代に入つてから大学も自由主義の洗穐を受け、思想の自由や研究・
の自由を唱へた。しかるに今日においては思想の統制は大挙にも及んでゐる。ジャーナリズムと
アカデミズムとはそれぞれ特殊性を有するにしても、同じ時代の同じ祀曾に存在するものとして
両者はまた共通の特徴をもつてゐる。特殊性のために共通性を見失つてはならぬ。しかも今日更
に注目すべきことは、いはゆる大挙の政治化の如き現象は大学そのものを甚だジャーナリスチッ
クな存在に化しっつあるといふことである。アカデミズムの停統は脅かされて大挙が徒らにジャ
ーナリズム化しっつある。かやうな現象の存在する場合、学生はアカデミーに属するものとして
アカデミーの濁自性を認識し、擁護すべきであらう。アカデミズムとジャーナリズムとの間には
それぞれの特質、限界が存在してゐる。両者を浪岡することなく、各々の本質を正しく理解する
ことが大切である。ジャーナリズムに追慮することはジャーナリズムを尊重する所以でなく、ま
た眞にジャーナリズムから学ぶ所以でもない。
ジャーナリズム
′4ナ、■’
っ ベ



ス.ぺメT
一四一

一四ニ
  参考書
d由st宅▼N軋tuロ杓S宅汲のロ(−諾∞).
ロ○£f阜N軋tu点S宅訂籍ロSnF已t(l●uJl}−器−)●
Q3tF.ロiのN軋tuP杓ハエ1−<●−f∞−∽○)●
Tαロ已仲S.内ユtik d巧監fのロt−i〔F仲日吉軋Puロ的(−岩N)・
WP−訂rLi【竜mPロロ、勺亡{已cO官已○ロハー器N)−
→胃dの.L♂息已○ロのt−P fo已の(忘≡)●
→FibP亡dのナ勺h笥io−○杓iのdの−Pn]きiq亡の(−器○)●
小山柴三、新聞撃概論。
清水幾太郎、流言輩語。