思想の貧困

 近来雑誌が面白くなくなつたといふことが殆ど定評にならうとしてゐる。さういへば、面白くなくなつたのは雑誌ばかりではないであらう。新聞も面白くなくなつたといへるであらうし、学校の講義なども、多分、面白くなくなつたであらう。一つの時代の文化の諸部面はつねに共通の様相を示すものである。それ故にその各部面の問題についてすべての知識人が共通の責任において考へて行かねばならない。この共同の責任の自覚が今日インテリゲンチャにとつて何よりも必要である。
 雑誌が面白くなくなつたのは言論統制とか思想統制とかの結果であるといはれてゐる。それはその通りであるといふことも出来る。然し統制とは本来何を意味するのであらうか。
 統制の名において従来論壇で最もはなばなしく活動してゐた人々がそこから閉め出された。世間ではこれを「執筆禁止」と称してゐるのであるが、この言葉は恐らく適当でなく、殊にそれについて法律的に考へるといろいろ問題があるだらうと思はれる。専門家の説明が聞きたいものである。「執筆禁止」といふ言葉はともかく、この頃綜合雑誌の執筆者の顔触れに大分変化が生じたことは事実である。しかし以前の花形に代つて新しい花形が現れたやうには見えない。言ひ換へると、真に実力のある新人 − 年齢だけからかく呼ぶのではない − が出て来てこれまでの人を押し退けたといふやうには考へられないのである。この一事から見ても、いはゆる統制に積極性の乏しいことがわかる。単に禁圧的な統制が革新の名に値しないやうに、この統制のために「作られた」新人は真の新人とはいへないであらう。ましてこの機会に旧人が新人らしく振舞ふことは、既成政党がそのまま合同して「新党」を作るといふ最近の運動と同様、いささか哀れを感じさせることである。
 過去の歴史を考へて見ると、論壇に新人が現れるのは偶然のことでなく、社会のうちに一定の思想運動が擡頭するとき、これに伴つて論壇にも新人が輩出するといふ風である。デモクラシーの場合がさうであつた、マルクス主義の場合がさうであつた。新人は単に個人の力によつてのみ出るものでなく社会の勢によつて現れるものである。ヂャーナリズムは絶えず新人を求めてゐるのであるが、それだけで新人が現れるものでない。今日我が国の思想の潮流はすでに著しく変化したといはれてゐる。それだのに未だ論壇に真の新人が現れないのは何故であるか。深く考へてみなければならぬ問題である。
 我が国では、少くとも文化の方面においては、統制といふことは禁圧といふことと殆ど同意義に考へられる傾向がある。かやうに考へること自身、実は、自由主義的な考へ方に基いてゐる。自由主義にとつては統制は禁圧を意味するであらう。しかし統制は本質的にはかくの如く消極的なものであつてはならず、却つて積極的に指導の意味を含まねばならぬ。指導的でないやうな統制は真の統制ではない。しかるに今日わが国において自由主義を排撃して統制を行はうとする人々の中には、統制が禁圧と同じであるかのやうに考へる自由主義的な考へ方に依然としてとらはれてゐる者が多いのではなからうか。統制といへは直に「執筆禁止」の如きものを考へさせるやうな文化政策には賛成し難い。
 今日の統制に危惧を感じる者に対して、統制は一時的な現象でなく、事変が終れば再び昔のやうな自由の状態が来ると考へるのは幻想に過ぎないといはれる。確に自由主義の時代は再び還つて来ないであらう。歴史は逆転しないであらう。我々は「好かりし昔の日」の夢にいつまでも耽つてゐてはならぬ。自由主義と雖もあらゆる思想に自由を認めたわけでなく、むしろ自由主義の時代には自由主義自身が一つの統制的な力として働いたのである。統制が問題であるのでなく、いかなる思想が、いかに統制するかが問題である。今日統制を行はうとする思想が真に自由主義を越えたものでなく、却つて自由主義以前の思想に類するといふことがないか。革新的といはれる思想は社会の現実に対して真に革新的であり、真に「現状打破」的であるか。統制はいかなる程度において下からの統一として統制的であるか。統制は真に指導力を有するものとして統制的であるのか。かやうな問題について一々具体的に批評的に検討されなければならない。批評の自由はあらゆる統制を排除するために要求されるのでなく、却つて真に統制力 ―指導力ある思想を確立し発展させるために必要とされるのである。
 あらゆるセンセイショナリズムにも拘らず、今日の論壇には清新さがなくなつたやうに感じられ、そしてそれは批評性の喪失に基いてゐる。批評的精神はつねに清新である。もちろんそれは単に批評のための批評をいふのではない。批評性は指導性もしくは創造性と結び付かねばならぬ。従来の論壇において優勢であつた思想がすでに事変前からそのやうな指導性を失ひつつあつたことは事実である。それが指導性を奪はれるに従つてその批評も抽象的になり、批評は「批評一般」になつてゆく傾向が見られ、そしてそこからまた一種のマンネリズムが生じつつあつたといふことも事実である。論壇は夙に新人を待望しつつあつた。しかし新人はその名に値する思想を持つて現れて来なけれはならぬ。思想のない論壇がいかに清新さに乏しいものであるかは、この頃の論壇を見ればわかるであらう。思想ほど清新なものはない。思想家とは無責任な「国策家」のことではない。
 論壇はこの数ケ月の間、時世に自己を適合させることにあわただしかつた。しかしそれがどこまで深い見通しをもつてなされたか疑問である。すべての者が「時局認識」を持つことによつて「時局認識」がなくなるといふのでは困る。論壇は新人を求めてゐる。