新日本の思想原理

 一 支那事変の意義

 今や支那事変を契機として、日本の政治、経済、文化のあらゆる方面に於て大いなる変化が生
じつつある。新日本の思想原理はこの事変の意義の認識に基いて確立されることが必要である。


     イ 其の日本に対する意義

 支那事変の発展は、国内改革なしには事変の解決の不可能であることを愈々明瞭ならしめるに
至つた。事変の解決と国内改革との不可分の関係は、国内改革の問題も単に国内的見地からでな
く日満支を含む東亜の一体性の見地から把握さるべきことを要求してゐる。思想並びに文化の問題
もまさにこの立場から考察されねばならぬ。文化史的に見れば、今次の事変は、従来比較的一
国の内部に閉鎖されてゐた日本文化に大陸への伸長の機会を与へたのである。日本文化は極めて
古くから支那文化の影響を受けて発達してきたが、これに比して逆に日本文化が大陸の文化に影
響を及ぼしたことは少なかつた。しかしながら閉鎖的であることは固より日本文化の本来の面目
ではない。大陸への進出は日本の文化そのものの発展にとつて重要な意義を有してゐる。文化の
地域的な拡大は同時にその質的な変化を結果するものである。逆に云へば、従来地理上並びに歴
史上諸種の事情に基いて比較的閉鎖的であつた日本文化はこの際質的な発展を遂げることによつ
て初めて真に大陸への伸長を遂げ得るのである。日本文化の大陸への進出は、古来多く一方的に
支那文化から影響されてきた日本文化が今度は積極的に支那文化に影響することになり、かくし
て東亜に於ける文化の全面的な交流が可能になり、これによつて東亜文化の統一の基礎が与へら
れることになるのである。


     ロ 其の世界史に於ける意義


 支那事変の世界史的意義は、空間的に見れば、東亜の統一を実現することによつて世界の統一
を可能ならしめるところにある。これまで「世界史」といはれたものは、実はヨーロッパ文化の
歴史に過ぎなかつた。それは所謂「ヨーロッパ主義」の立場から見られたものであつたのである。
一九一四−一九一八年の所謂世界戦争は、西洋の思想家たちも云つたやうに、このヨーロッパ主
義の自己批判の意義を有した。ヨーロッパの歴史即世界史ではないといふこと、ヨーロッパの文
化即世界文化ではないといふことが自覚されるに至つた。ヨーロッパ主義の崩壊はヨーロッパ思
想にとつて同時に世界史の統一的な理念の抛棄となつたのである。かやうなヨーロッパ主義の自
己批判の後を承けて積極的に東亜の統一を実現することによつて真の世界の統一を可能ならしめ、
世界史の新しい理念を明かにするといふことが支那事変の有すべき意義でなければならぬ。尤も
従来の東亜の歴史には、ヨーロッパに於けるギリシア文化の伝統、キリスト教、更に近代の科学
的文化等による統一と同様の統一は存在しなかつた。従来の歴史に於ては日支文化の全面的な且
つ同時代的な交流が欠けてゐた為めに、かかる東亜の統一は与へられなかつた。東亜の統一は今
新たに実現さるべき課題である。そして東亜の統一が実現されないならば真の世界の統一は存在
しないのであつて、東亜の統一は世界から孤立する為めのものでなく、却つて世界が真に世界的
になる為めに要求されてゐるのである。
 東亜の統一は云ふまでもなく東亜に於ける文化の伝統を反省し、これにつながることによつて
形成されねばならぬ。東洋文化は未だ十分に開かれざる宝庫に属してゐる。この宝庫を開き、東
洋文化の世界的価値を発見することは我々東洋人の遂行すべき世界に対する義務である。しかし
ながら東亜の統一は封建的なものを存続せしめること或ひは封建的なものに還ることによつて達
成され得るものではない。却つて支那の近代化は東亜の統一にとつて前提であり、日本は支那の
近代化を助成すべきである。支那が近代化されると同時に近代資本主義の弊害を脱却した新しい
文化に進むことが必要である。東亜の統一は欧米の帝国主義の羈絆から支那が解放されることに
よつて可能になるのであつて、日本は今次の事変を通じてかかる支那の解放の為めに尽さねばな
らぬ。もとより日本が欧米諸国に代つてみづから帝国主義的侵略を行ふといふのであつてはなら
ぬ。却つて日本自身も今次の事変を契機として資本主義経済の営利主義を超えた新しい制度に進
むことが要求されてゐる。資本主義の問題の解決は現在の世界のすべての国にとつて最も重要な
課題である。それ故に支那事変の意義は、時間的に云へば、資本主義の問題の解決にあると云は
ねばならぬ。かくして、時間的には資本主義の問題の解決、空間的には東亜の統一の実現、それ
が今攻の事変の有すべき世界史的意義である。そしてこの空間的な問題と時間的な問題とは相互
に関聯してゐる。資本主義の問題を解決することなしには真の東亜の統一は実現されないので
ある。

 二 東亜の統一

     イ 世界の新体制と東亜協同体

 今日の世界の情勢を見るに、一国が経済的学位として自足的に存在することの不可能であるこ
とが明かになり、世界の各国は所謂ブロック経済への道を辿つてゐる。世界がこのやうに一国を
超えた一層大きな単位に分割形成されてゆくといふことが今日の世界の動向である。即ち例へば
南北アメリカを結ぶ汎アメリカ体制が発展しつつあり、またヨーロッパの現在の苦悶は所謂ヨー
ロッパ聯盟の誕生の為めの苦悶とも見られることができ、更にソヴェート聯邦の如きもかやうな
新体制の他の一つの例である。かくして日満支を包含する東亜協同体の成立は今日の世界の動向
に合致するものと云はねばならぬ。東亜協同体はもとより単に経済上のブロックたるに止まるべ
きものではない。政治、経済、文化、国防の諸方面に亙つて日満支の連環の形成されることが必
要であり、かくして初めて協同体の名に値するのである。嘗てオリンピック競技によつて象徴さ
れた統一的な所謂「ヘレニズム文化」はギリシアに於ける民族連合の上に花開いたものであつた。
東亜に於ける諸民族の協同の上にヘレニズム文化の如き世界的意義を有する新しい「東亜文化」
を創造することが東亜協同体の使命でなければならぬ。
 世界史的に見れば、近代的世界は中世のカトリック的文化の教会的世界主義の種々の国民的文
化への分割形成をもつて始まつた。中世的世界主義の批判として現はれたこの国民主義は同時に
自己のうちに世界的原理を含んでゐた。自由主義、個人主義、合理主義等がそれである。かやう
な原理に立つた近代主義はその発展に於て遂に抽象的な世界主義に陥つたのであつて、この抽象
的な世界主義の批判されつつあるのが現代である。今日の民族主義乃至国民主或は近代的世界主
義に対する批判の意義を有し、この抽象的な世界主義の克服の契機として重要性を有してゐる。
しかしながら今日の世界はもはや単なる民族主義に止まることができず、近代的世界主義の克服
は一民族を超えた一層大きな単位への世界の分割形成となつて現はれねばならぬ。東亜協同体は
かやうな世界の新秩序の指標となるべきものである。従つて東亜協同体の文化は、恰もルネッサ
ンスの時代に中世的世界主義を克服しつつ現はれたイタリアの国民的文化が同時に自己のうちに
近代的世界的原理を含んでゐたやうに、世界史の新しい段階に於ける世界的原理となるべきもの
を自己のうちに含むのでなければならぬ。


      ロ 東亜協同体の伝統的地盤

 地縁につながる東亜の諸民族は、黄色人種であること、農業、特に灌漑に依る農業を主として
生活してきたこと、等、種々の共通の特徴を具へてゐる。そこにはまた独自の文化の伝統が横た
はつてゐる。東亜の伝統に対する反省は新しい東亜文化の創造にとつて大切である。
 新文化の創造の見地から眺めて東亜の文化の伝統のうちに見出される最も重要な思想は「東洋
的ヒューマニズム」とも称し得るものである。東洋文化の一般的特色は、社会学者の所謂「ゲマ
インシャフト」(共同社会)と「ゲゼルシャフト」(利益社会または集合社会)との区別に従へば、
それがゲマインシャフト的文化であるといふところに認められる。普通にヒューマニズムの名の
もとに考へられる西洋のヒューマニズムは近代社会の初めに現はれたものであり、従つて自由主
義、個人主義、合理主義の近代的傾向と結び附いてゐる。西洋に於ける封建時代はヒューマニズ
ムから甚だ遠い時代であつた。しかるに東洋に於ては封建的社会の内部に於てヒューマニズムが
発達したといふことがその文化の特色を規定してゐる。そこにおのづから、西洋のヒューマニズ
ムがゲゼルシャフト的であるのに対して、東洋的ヒューマニズムはゲマインシャフト的であると
いふ特色が現はれてゐる。西洋のヒューマニズムが個人主義的であるに反して、東洋的ヒューマ
ニズムは共同社会に於ける人倫的諸関係そのもののうちにある。また西洋のヒューマニズムが人
間主義であり、文化主義であるのに対して、東洋的ヒューマニズムに於ては人間と自然と、生活
と文化とが融合してゐる。西洋のヒューマニズムの根柢にあるのは「人類」の思想であるに反し
て、東洋的ヒューマニズムの根柢にあるのは却つて「無」或ひは「自然」或ひは「天」の思想で
ある。更に東洋的ヒューマニズムは自己の修養を基とした倫理的な道を通じて社会の合理的秩序
に達しようとする。それはまた日常性を重んじ、修身、斉家、治国、平天下といふ風につねに身
近かなものから始めてゆくといふ道をとつてゐる。そして王道政治の思想に見られる如く政治と
倫理との統一は東洋政治思想に於ける重要な特色であり、東洋的ヒューマニズムの一つの現はれ
である。一般に東洋文化はゲマインシャフト的文化としての特色を有する故に、新しい協同体の
文化の地盤として適切である。殊にそのヒューマニズムは民族を超えた意義を有するものとして
それに対する反省は東亜の新文化の形成の根柢となるべきものである。


     ハ 新しい東亜文化の形成

 東亜協同体の文化は東亜に於ける文化の伝統につながるものでなければならぬ。しかしながら
所謂「東洋文化」には封建的なものが附き纏つてゐることに注意しなければならない。そのゲマ
インシャフト的文化が封建性を脱却する為めには近代のゲゼルシャフト的文化を身につけること
が必要である。東亜協同体の文化は単に封建的なものの復活であつてはならず、新しい文化とし
て創造されねばならぬものである。それは確かに東洋文化の復興とも云ひ得るものであるけれど
も、この復興は、恰もギリシア・ローマの文化の復興といはれる西洋に於けるルネッサンスが決
して単に古代的文化の復活であつたのでなく却つて実は全く新しい近代的文化の創造であつたや
うに、新しい東亜文化の創造を意味しなければならぬ。この文化は単にゲマインシャフト的でな
く、またもとより単にゲゼルシャフト的でもなく、却つてゲマインシャフト的とゲゼルシャフト
的との綜合としての高次の文化でなければならぬ。東亜文化は世界文化と接触することによつて
真に新しい文化として創造され得るのである。それは東洋文化並びに西洋文化の再認識の上に築
かれねばならない。即ち東洋文化については、その未だ十分に開かれざる伝統の宝庫を開いてそ
の世界的債値を発見すると共に所謂アジア的渋滞から脱却せしめ、他方西洋文化については、特
にその科学的精神を学び取ることに努めると共に今日いはゆる西洋文化の行詰りが実は資本主義
の行詰りと関連することを考へて資本主義の問題の解決を図ることが肝要である。かくしてこそ
世界的意義を有する新しい東亜文化は創造され得るのである。


     三 東亜思想の原理


     イ 民族主義の問題

 現在世界の諸国に擡頭してゐる民族主義については、先づ第一に、それが抽象的な近代的世界
主義を克服する契機となるものであるといふ意味に於て重要性を有することが認められねばなら
ぬ。しかし既に述べた如く、今日の世界は単なる民族主義に止まり得るものでない。東亜協同体
は民族協同を意図するものである故に、その思想は単なる民族主義の立場を超えたものであるこ
とが要求されてゐる。けれどもこの協同体の内部に於てはそれぞれの民族に独自性が認められな
ければならぬ。従つて民族主義の思想は、第二に、かくの如き民族の独自性に対する主張を意味
するものとして重要性を有してゐる。更に第三に、如何なる世界史的行動もつねに或る一定の民
族から発足するものであるといふ意味に於て、民族主義の思想は真理を含んでゐる。現在東亜
協同体にしても日本民族のイニシアチヴのもとに形成されるのである。しかしながらまたかやうに
日本の指導によつて成立する東亜協同体の中へ日本自身も入つてゆくのであり、その限り日本自
身もこの協同体の原理に従はねばならぬといふ意味に於ては、その民族主義に制限が認められね
ばならぬことは当然である。日本の文化は東亜を指導し得るものとして単に民族的であるに止ま
らない意義を有すべきことを要求されるのである。民族主義の陥りがちな排外的傾向に対して戒
心すべきことは云ふまでもない。
 特にドイツの民族主義については、それが欧洲大戦に於て敗北したドイツの再建にとつて必要
であつたといふこと、また自国以外の地域に多数者として存在するドイツ人に呼び掛けて大ドイ
ツを再建する為めの政治的スローガンの意味を有するといふことに注意しなければならない。そ
の歴史的事情に於てドイツと同じからぬ日本にとつては民族主義の問題もドイツと同様に考へる
ことができぬ。
 更に支那の民族主義については、世界の諸国が封建社会から近代国家への移り行きに於て経て
きた民族主義と同様の意味に於ける民族主義を今日の支那が経つつあるといふことを考へ、その
民族主義の歴史的必然性を認識することが大切である。日本は支那の民族的統一を妨害すべきで
なく、寧ろ支那がその民族的統一によつて独自性を獲得することが東亜協同体の真に成立するた
めに必要であるのであるが、しかし同時に支那はこの新体制に入るためにまた単なる民族主義を
超えることを要求されてゐるのである。


      ロ 全体主義の問題

 全体主義は近代の個人主義、自由主義、資本主義に対するものとして重要な意義を有してゐる。
現代の思想はいづれにしても全体性の思想を基礎としなければならぬ。個人的な自由を抑へて全
体の立場に於ける計画性が必要であるといふこと、個人的な営利を抑へて全体の立場に於ける公
益の為めの統制が必要であるといふこと、等の意味に於て今日の経済も政治も文化もすべて全体
性の立場に立たねばならぬ。しかし全体主義が現実に於て統制主義として官僚主義の弊に陥り易
い傾向を有することに対しては警戒を要するのである。
 今日普通にいはれる全体主義が民族主義であるといふことも注意しなければならぬ。しかるに
既に民族主義の項に於て述べた如く民族主義については種々の制限が認められねばならぬ以上、
民族主義に止まる全体主義も当然同様の制限を有するのである。全体主義は閉鎖的になつて排他
独善に陥り易い傾向を具へてゐる。東亜思想の原理はかかる全体主義でなくて民族協同の協同主
義でなければならぬ。
 ところでこの協同体の内部に於てそれぞれの民族は独自性を発揮すべきものであるとすれば、
同様の理由に基いて、一民族の内部に於てもそれぞれの個人の独自性の尊重されることが大切で
ある。しかるに外来の全体主義は実質的には民族主義であるやうに、それはまた多くの場合個人
の独自性の否定に陥つてゐるのであつて、新しい原理としての協同主義はこの点に於て個人の自
発性を認めることが文化の発展にとつて肝要であるといふ認識に立つことが要求されてゐる。そ
のうちに含まれる部分が多様であるとき全体は豊富であり、そのもとに立つ部分の独自性を認め
ることのできぬ全体は自己が真に強力でないことを示すのである。
 また外来の民族主義的全体主義は非合理主義であつた。一民族の内部に於ては人間は或る内密
なもの、非合理的なもの、神話的なものによつても結合されることが可能である。しかしながら
民族と民族とを結ぶものはかやうな非合理的なものであり得ず、公共性を有するもの、世界性を
有するものであることが必要である。東亜協同体の思想は合理的な協同主義でなければならぬ。
もとよりそれは近代のゲゼルシャフト、資本主義的社会のうちに行はれたやうな抽象的な合理主
義であることができない。東洋の伝統に属するゲマインシャフト的文化には或る直観的なものが
含まれてをり、このものは活かされねばならぬ。しかし新しい東亜文化は封建的ゲマインシャフ
ト的に止まらないでゲマインシャフト的であると同時にゲゼルシャフト的でなければならず、従
つてまたそれは合理主義と非合理主義との綜合に立たなければならないのである。


      ハ 家族主義の問題

 家族主義は東洋文化の重要な特色と見られることができる。東洋文化は既に云つた如くゲマイ
ンシャフト的文化であるといふことを特色とし、そして家族はゲマインシャフトの模範的なもの
であるといふ意味に於て、東洋文化の特色が家族主義的なところにあるのは明かである。東洋文
化のこの特色は継承され発展させるべきものである。新しい文化はゲマインシャフト的文化の性
質を有しなければならぬとすれば、家族主義の精神がそのうちに活かされなければならぬことは
当然である。特に家族が権力ではなくて道義を基礎とするといふ点、個人主義によつては成立せ
ず協同主義によつて成立するといふ点、打算に依るのでなくて愛情を基礎とするといふ点、等は、
新しい協同主義にとつて重要な意義を有してゐる。しかしながら一般に東洋のゲマインシャフト
的文化について述べたやうに、家族主義といはれるものには封建的なところが附き纏つてゐるの
に注意することが肝要であつて、家族主義はその封建性を脱却して新しい協同主義の原理に高ま
らなければならない。封建時代の家族に於ては例へば婚姻は家の為めの便宜に従つて行はれ、子
の無いことが離婚や蓄妾の理由とされたやうに個人の意義は認められなかつたのに対して、今日
の社会に於ては婚姻の如きも当事者の意志を尊重して合理的に行はれねばならないのであるが、
これと同様に新しい協同社会は個人の独自性と自発性とを認めて合理的なものとならなければな
らないのである。家族はゲマインシャフトとして閉鎖的であることを特徴としてゐる。新しい協
同社会はゲマインシャフト的であると同時にゲゼルシャフト的であること、言ひ換へれば、閉鎖
的であると同時に開放的であること、情意的結合であると同時に合理的結合であることを要求さ
れてゐる故に、単なる家族主義を超えた一層高い原理を基礎としなければならぬ。


     ニ 共産主義の問題

 共産主義については、何よりもその階級闘争主義、プロレタリア独裁の思想が否定されねはな
らぬ。社会の存在はつねに階級性に対する全体性の優位を示してゐる。あらゆる対立にも拘らず
経済生活を初めすべての社会生活が間断なく存在してゐるといふことは、階級性に対する全体性
の優位を示すものでなければならぬ。もとより現代社会のうちに階級の問題が存在するといふの
は事実であり、この事実に対して眼を蔽ふことは許されない。しかしながら階級の問題は階級闘
争主義に依ることなく、却つて協同主義の立場に於て新しい解決の仕方を見出すべきものである。
この協同主義にあつては階級的利害を超えた公益の立場が重んぜられ、階級は階級的であること
をやめて一層高い全体のうちに於ける職能的秩序となり、しかもこの職能的秩序は身分的でなく
機能的に考へられなければならぬ。
 次に共産主義の非歴史的な世界主義が批判されなければならない。先に云つた如く、抽象的な
世界主義は近代主義の産物である。資本には国境がないといはれる。近代的な自由主義、その抽
象的な合理主義は抽象的な世界主義を結果した。しかるに共産主義は資本主義を克服すると称し
ながらその自由主義と同様の抽象的な世界主義に陥つてをりなは近代主義の埒内に止まつて、こ
れを克服するものとは云ひ得ないのである。東亜協同体の思想はかかる抽象的な世界主義を超克
するものである。
 また共産主義はその抽象的な世界主義に対応して非歴史的な公式主義となつてゐる。それは現
在ソヴェート聯邦の文化に見られる如く画一主義の弊に陥り、個人の独自性と自発性とを抑圧す
るその画一主義は官僚主義と結び附いてゐるのである。その他、その抽象的な合理主義を初め種
々の点に於て共産主義はなほ近代主義を脱却したものでなく、真に新しい時代の原理と云ひ得る
ものではない。共産主義者は共産主義は資本主義の後に必然的に来るものであると称してゐるが、
事実は反対に、資本主義の発達した国に於ては共産主義は寧ろ勢力を有せず、却つてロシアや
支那の如く封建的なものの多く残存せる国に於て勢力を得たといふことは、その影響力が近代主義
的のものであつて、これを超克した新しい時代の原理ではないことを実証してゐる。


     ホ 自由主義の問題

 自由主義は近代資本主義社会の原理であつた。この社会が行詰つてきたといふことは自由主義
が行詰つてきたといふことを意味してゐる。自由主義は個人主義である。個人主義は利己主義と
して協同主義に対する限り否定されねばならぬ。社会よりもつねに自己を先にする個人主義、全
体を無視して自己に執着する個人主義の正しくないことは云ふまでもない。個人が先のもので社
会は後のものであると考へる個人主義に反対して、協同主義は寧ろ社会が先のものであつて個人
は後のものであると考へる。即ち個人は社会から生れ、社会によつて生き、社会のうちに於て自
己を完全に為し得るものである。利己主義として自由主義は排斥されねばならぬが、しかし自由
は尊重されねばならぬ。ただし自由主義のいふ自由は抽象的な自由に過ぎず、真に具体的な自由
は却つて協同主義の立場に於て実現され得るのである。個人の肆意に従はうとする自由主義は否
定されねばならぬが、自由主義の主張してきた人格の尊厳、個性の価値等の諸観念は重要な意義
を有してゐる。しかも個性とは単なる特殊性でなく、特殊的にして同時に一般的なものが真の個
性であり、自己のうちに普遍的価値を有するものにして真の人格といはれ得るのである。
 特に経済上の自由主義は営利主義となつてゐる。実利主義は抑制されて公益主義の立場が強調
されねばならぬけれども、自由主義の主張する個人の自尊性、創造力は尊重されねばならぬ。ま
た政治上の自由主義については、それが現在建設性のない批判と無統制とに陥つてゐることが
指摘されねばならぬけれども、民意を暢達せしめようとするその本質的意義は活かされねばならぬ。
 かやうにして自由主義は固よりこれに止まるべきものではない。しかしながら自由主義の批判
的摂取は大切であり、さもなければ封建主義に逆転することに、なる。歴史的に見ても、未開社会
に於ては個人が社会のうちに全く埋没してゐた。個人の自覚が現はれることは高度の文化の発達
にとつて必要であつた。一民族の文化は、個人を媒介として人類的意義を有するものになるので
あり、合理的なものになるのである。


     ヘ 国際主義の問題

 抽象的な世界主義の否定さるべきことに就いては既に述べた。しかしながら世界が次第に世界
的になるといふことは世界史の発展の必然の方向である。今日の民族主義の如きも、近代社会の
発展の結果、世界が一層世界的になつた為めに、しかしそこに同時に抽象的な世界主義が生じた
為めに、現はれたものである。今日の国際主義は、それが世界主義である故に否定さるべきであ
るのでなく、却つてその世界主義が抽象的なものである故に否定されるのである。国際主義の主
張する人類の平和、博愛等は尊重されねはならない、ただそれが抽象的な平和主義、抽象的な博
愛主義である限り、国際主義は非現実的であるといはれるのである。
 いはゆる国際聯盟主義は自由主義と軌を一にしてゐる。自由主義の自由が抽象的な自由であつ
て具体的な自由でないやうに、その世界主義も抽象的であり、従つて無力である。自由主義が社会を
アトミズム(原子論)的に考へるやうに、自由主義的な世界主義も世界をアトミズム的に考
へてゐる。しかし個人は社会のうちにあると考へられねばならぬやうに、国家も世界のうちにあ
ると考へられねばならない。世界から孤立しては国家も存在することができぬ。
 東亜協同体の思想は抽象的な世界主義を打破するものである。しかもそれは抽象的に世界主義
に対立するのでなく、却つて既に述べたやうに、それは真の世界の統一が可能になる為めのもの
である。東亜協同体はゲゼルシャフトを止揚した一つの全く新しいゲマインシャフトとして、封
建的なゲマインシャフトのやうに閉鎖的でなく、却つて同時に世界的開放的であつて、世界の諸
国に対してその門戸が開放されてゐるのである。



      ト 三民主義の問題

 三民主義は民族主義、民権主義、民生主義から成つてゐるが、その民権主義は政治的自由主義
にほかならず、その民生主義は経済的社会主義の系統に属してゐる。三民主義は孫文時代の支那
がおかれてゐた特殊な歴史的事情を反映したものであり、封建的支那の近代的国家への発展の要
求、欧米の帝国主義のために植民地化されつつあつた支那の民族的独立の要求を現はしてゐる。
東亜協同体の思想は三民主義を思想的に克服しつつ、しかも三民主義のうちに含まれる要求を実
質的に実現するものである。三民主義のうちに含まれる要求は今日三民主義によつては実現され
ることができないのである。
 三民主義は一定の歴史的産物として、論理的には自己矛盾があるにしても、内容的には不可分
のものである。それが民族主義を唱へながら却つて欧化主義が濃厚であるといふが如きことは、
三民主義の論理的矛盾と共にその歴史的制約を示してゐる。三民主義は一定の歴史的産物として
不可分のものである故に、今日これをその要素に解消し、そのいづれか一つを根柢として三民主
義を再組織するといふが如きことは不可能でもあり無意味でもある。その民族主義をとれは、支
那民族の統一と独立とを求めることは正当であるにしても、単なる民族主義はもはや今日の思想
であり得ないし、その民権主義をとれば、自由主義の善いところは現在も認められねばならない
が、自由主義は今日もはや超克さるべき思想である。また民生といふことは特に重要であるけれ
ども、三民主義にいふ民生主義は社会主義につらなり、この社会主義は共産主義に通ずる危険を
有してゐる。東亜協同体の建設は支那にとつても新たに活きる道であり、三民主義に新しい協同
主義が代ることによつて三民主義のうちに含まれる要求、特にその民生の要求は実現され、新し
い東亜の独自の文化が形成されるに至るべきものである。


     チ 日本主義の問題

 日本主義は日本の独自性を主張するものとして正しい意義を有してゐる。およそ如何なる文化
も決して単に世界的一般的なものでなく、それぞれの個性を具へたものである。日本主義が日本
文化の固有性を主張することは正当であるが、しかしまた個性とは単に特殊的なものでなく、特
殊的にして同時に一般的なものが真の個性であることを知らねばならぬ。日本文化には後に述べ
る如き優秀な特質が具はつてをり、我々日本人はそれを拡充発展させることに努力しなければな
らぬ。
 日本は独自の文化を有するのみでなく、更に独自の使命を有してゐる。かかる民族的使命の自
覚は大切であり、これを力説するものとして日本主義は重要である。今日の日本の使命は支那事
変を通じて東亜の新秩序を建設することにある。この使命を達成する為めには日本主義は独善を
排し、偏狭な排外主義に陥ることを戒めなければならぬ。日本精神といつても抽象的一般的なも
のでなく、それぞれの時代に於ける時代精神として具体的な形をとつて現はるべきものである。
今日必要なことは、東亜の新秩序の建設といふ日本の使命の立場から日本文化の伝統を反省する
といふことである。しかもこの新秩序の建設には新文化の創造が必要なのであつて、日本主義は
単なる復古主義であることを許されない。特に今日、一部の日本主義者が日本文化の独自性を主
張しながら他方ドイツ模倣の傾向を顕著に有することは甚だ遺憾であると云はねばならぬ。日本
精神は今日の時代精神として新たに形成され、世界的意義を有する新文化の創造に進まなければ
ならぬ。日本主義が日本文化の独自性と使命とを力説することは正しいけれども、それが単なる
民族主義に止まり得ないこと、またそれが非合理主義であつてはならぬことは、既に右に述べた
ところから明かである。



   四 新東亜文化と日本文化

     イ 日本文化の特殊性

 日本文化の重要な特色は、先づ第一に、一君万民の世界に無比なる國體に基く協同主義を根柢
とするところにある。この協同主義はその普遍的意義に於て東亜に推し及ぼされ、世界を光被す
べきものである。
 次に日本文化の特殊性として注目すべきものは、その包容性である。古来日本の文化は支那や
インドの文化、更に西洋の文化を摂取しつつ発達してきた。しかも外国文化を取入れるにあたつ
ても、無理に一定の形式に統一してしまふのでなく、それぞれのものの並存を許すほど包容的で
あつたのである。神道に対する信仰と仏教に対する信仰とは日本人に於て矛盾することなく並立
することができる。日本画と西洋画とを一つの室に於て観て矛盾を感じないのが日本人である。
かやうに客観的には相容れないやうなものをも主体的に統一してゐるところに日本人の心の広さ
と深さとがある。かやうな心こそ新しい協同体に必要なものであつて、東亜の諸民族をしてそれ
ぞれの文化の特殊性を活かさせ、一つの形式に無理に押し込めることのないやうにしなければな
らぬ。
 日本文化が包容的であることは、他面それが進取的であることを意味してゐる。東亜の諸民族
のうち逸早く西洋文化を移植したのは日本であり、それに依つて発達した科学的文化が今次の事
変に於ける日本の勝利に与つて力あることは争はれない。日本文化は進取的であつたが故に、東
亜諸民族の指導者となり得たのである。新しい東亜文化の形成にあたつて日本文化のこの特質の
活かされることが大切である。
 更に日本文化の進取性はその智的性質と結び附いてゐる。日本が西洋文化を急速に吸収するこ
とができたのも、元来日本文化には支那文化などに比して智的な性質があつたからである。日本
的知性は固より単なる理知主義とは異つてゐる。しかし今日の西洋の全体主義の非合理的なのと
は異る智的なところが日本文化を伝統的に特色附けてゐるのであつて、この智的性格によつて東
亜文化は世界性を有する文化として形成されねばならないのである。
 更に日本文化の特殊性はその生活的実践的なところにある。そこでは文化と生活とは別のもの
でなく、実践と文化とは統一的に考へられる。かやうに生活と文化とが融合的である故に、形の
ある客観化された文化としては西洋の文化に対し、支那の文化に対しても見劣りがするにしても、
形のない主体的な文化として日本文化は独自の優秀性を具へてゐる。日本の文化には西洋的な文
化の概念をもつて量ることのできぬものがある。西洋の文化は客観化された文化として勝つてゐ
るに反して、日本の文化は主観的な文化、生活と行為とのうちに融合した文化であり、人間の身
についた文化であり、心に於て統一された文化である。日本人の卓越せる行動性もこれに基いて
ゐる。日本文化のこの特質は維持され発展させられねばならぬ。しかしながら同時に日本文化が
外部に進出する為めには、そしてそれが他の諸民族に承認されるものとなる為めには、日本の文
化は形のないものに止まることなく、形のある客観的な文化としても発展させることが必要であ
る。これは支那事変を契機として今日外に伸びようとする日本文化にとつて特に留意すべき点で
ある。


      ロ 東亜協同体に於ける日本の地位

 日本は東亜の新秩序の建設に於て指導的地位に立たねばならぬ。このことは、日本が東亜の諸
民族を征服するといふが如きことを意味しないのは勿論である。寧ろ日本は東亜の諸民族の融合
の楔となるのである。東亜協同体が日本の指導のもとに形成されるのは、日本の民族的エゴイズ
ムに依るのではなく、却つて今次の事変に対する日本の道義的使命に基くのであり、かかる道義
的使命の自覚が大切である。日本は新しい原理に依る新しい文化を創造することによつて初めて
真に指導的になり得るのであり、そのとき日本文化は現実に世界を光被することになるのである。