喰ひ荒された論壇


 論壇は問題を喰ひ物にする、どんな問題、どんなテーマ、どんな思想が出ても、それが一時的な意味しか持たぬものであらうと、永続的な意味を持つものであらうと、差別なしに、皆が寄つてたかつて、ほじくり廻し、喰ひ荒してしまふ、しかも誰も満腹しない、読者が満腹させられないのはもちろんだ。
 今年の論壇を見ても青年論、道徳論、迷信乃至邪教の問題、ヒューマニズムの問題、合理主義非合理主義の問題、等、思想に関する方面のみでも実に多くの問題が出た。しかしその如何なるものが徹底的に追及され、発展されたであらうか、また今後その見込があるであらうか。
 誰かが新しい問題、新しいテーマ、新しい思想を出すと、誰もがそれについては先刻考へてゐたとはかりに寄つて来て喰ひ荒す。だから論壇はいつも問題飢饉を感じてゐる。かやうな場合にはどんな問題でも「新しい」もののやうに粉飾して現はれさへすれば十分なのであつて、だからまた根本的に新しい問題は結局何も現はれないことになる。問題は喰ひ荒されることによつてなくなる。不幸は、問題を喰ふことは現実を喰ふことと同じでないといふことである。
 一度論壇へ出ると、すべての問題は平均化される。問題はその固有の価値、固有の性格において取扱はれない。そして評論家たちは、あらゆる問題を喰ひ荒すことによつて、彼らもまた平均化される、評論家たちも次第に個性を失つてゆくのである。
 問題を喰ひ荒すことなく、もつと大切に守らなければならない。評論家たちは他の個性、他の創意を認め合ひ、重んじ合つて相互に他を成長させ、成熟させるやうに心掛くべきだ。評論家の道徳についての反省があまりに欠けてゐはしないか。近ごろ「言論の権威」といふことが問題にされているが、言論が権威を有するためには論壇に新しい道徳が確立されねはならぬ。