デカルトと民主主義


 ことしはデカルトの「方法論」が出版されてのち三百年の記念の年である。それはフランス人にとつて国民的祝祭を意味する。なぜならこの書物は単に哲学の書であるのみでなく、フランスにおける国民の書であり、その影響はこの国の全文化に滲透してゐる。
 デカルトの「方法論」はすでにその外形において大胆な革新であつた。それはフランス語で書かれた。学者の言葉と云へばラテン語に決つてゐた当時、哲学をフランス語で述べるといふことは、それだけで革新的なことであつたのである。デカルトの前に哲学者の中においてフランス語で書いた人は、あの偉大なヒューマニストのラメー以外に殆んど見当らない。
 ラテン語からフランス語へ、そのことはすでに中世の封建主義から近世の民主主義への移行を語るものである。デカルトは彼の「方法論」をフランス語で著した理由について云つてゐる、「私が私の師匠たちの言葉であるラテン語でなく、却つて私の国の言葉であるフランス語で書くといふわけは、自分の全く純粋に自然的な理性をしか用ゐない人々が、古人の書物をしか信じない人々よりも一層よく私の意見について判断するであらうことを期待する故である」。更にデカルトは、この書物において「私は婦人でさへ何物かを理解し得るであらうことを、しかしまた最も明敏な人も彼等の思慮を費すに十分な材料を見出すであらうことを欲した」、とも書いてゐる。かくて「方法論」の本質的な特徴は、「古人の書物」もしくは権威に頼ることなく、自然的な「理性」もしくは「良識」に訴へるといふことである。そしてそれは民主主義の精神にほかならない。
 デカルトによると良識は万物のうち最も善く分配されてゐるものであり、理性は万人において自然的に平等である。そこでデカルトは従来の学者の貴族的な言葉を棄て、市民的生活において使はれてゐる言葉で彼の哲学を述べた。商人の言葉、婦人の言葉は、今や哲学の言葉となつたのである。総ての人間は自分自身で考へることができ、学者の意見を自由に検討することができる。「方法論」において初めてフランス語は全く近代的な均衡と調和とを得たと云はれ、その文章は今日も散文の模範とされてゐる。この書物はそれ故にフランス語とフランス文学の歴史において勝れた位置を占めるものである。しかしこの書物の意味は決してそのことに尽きてゐない。それは実に社会的な、政治的な意味を有する大きな革命を為した。それはラテン語の、伝統の、権威の「神秘を冒涜した」。サン・シモン、シュイエース等の社会学や政治学の精神的父はデカルトであると云つて好いであらう。
 普通には、デカルトはフランスの政治思想の発展に殆んど寄与するところがなかつたと見られてゐる。実際、彼は政治学について本も書いてをらず、組織的な意見を述べてもゐない。彼の生活は専ら思索に捧げられた。思索に必要な孤独を得るために彼は知人の来訪を避け、宿所を度々転ずることによつて身をくらませた。「善く隠れる者は善く生きる」といふのが彼の生活方法であつた。もつとも彼は隠栖家といふのでなく、彼が好んだのは大都会の中の生活が可能にするあの孤独である。彼が行為の暫定的な規則として書いた有名な文章を見ると、彼が極めて穏和な市民であつて、革命的実践家の気質を持つてゐなかつたことが判る。デカルトが政治的であつたと云ふことはできないであらう。
 しかしながら彼の「方法論」に現はれた全く革新的な哲学、あらゆるものを疑ふ自由な精神、ただ理性の指導にのみ従ふ合理的精神、そして良識はすべての人間において平等であるといふ思想、これらのものこそ実に近代民主主義の根本精神である。デカルトと民主主義との関係は極めて深い所に横はつてゐる。
 エリザベルトへの書簡の中でデカルトは書いてゐる、「自分を公衆の一部分と考へることによつて世間の人に対して善を為すことを悦びとし、必要があれば他人のために自分の生命を擲つことさへおそれない」、と。また他の書簡の中では、「自分の住む国の安寧と平和とのために自分の有する僅かな手段によつて寄与するといふことは各人の義務である」、と彼は云つてゐる。これらの言葉の中から響いて来るのは民主主義の思想であらう。伝記者の記すところによると、デカルトは工芸に対して特別の興味を持ち、自分で職工となる考へさへあつたといふことである。彼は職工に学問を授ける必要を考へた。また彼は「社会的生活においては友愛よりも大なる善はない」とも云つてゐる。かくてデカルトが封建的貴族的意識から解放された民主主義的な思想を持つてゐたことは明かである。