思想の前提




 思想のことが喧しく云はれるやうになつてから既に久しい。それはもちろん正当なことである。
現代において思想の問題が重要であることに就いては誰にも異議がないであらう。しかしながら
思想のことが喧しく云はれれば云はれるだけ一層注意しなけれはならないのは、思想の前提であ
る。
 ここに思想の前提といふものには先づ技術がある。技術は思想の力が発揮されるための前提で
ある。どれほど国民が思想的に統一されたにしても、技術、とりわけ経済的な、生産的な技術に
欠けたところがあるならば国は危いであらう。それのみでなく、技術は思想を獲得するための前
提である。正しい思想に到達するためには技術が論理的思考に対する訓練や科学的方法に対する
習熟が必要である。しかるに今日、思想のことを喧しく云つてゐる人々に果してかやうな技術が
十分に具つてゐるであらうか。
 更に思想の前提としての良心の問題がある。思想を語る者は良心的でなければならない。何等
の良心もなく、ただ時世に従つて或ひは右し或ひは左する人間は真の思想家でなく、「職業的思
想家」の悪しきものである。
 しかるに思想のことが喧しく云はれる時代にはこのやうな「職業的思想家」の輩出する危険が。
多い。何人も自己の良心に従つて思想に就かねばならぬ。最後まで頼みになるのは良心的な思想
である。現在の状態から考へて重要なのは、どのやうな思想を口にしてゐるかといふことよりも、
その人が真に良心的であるかどうかといふことである。
 今後世の中がどのやうになつてゆくかを見透すことは容易でない。しかしどのやうな時代にな
るにしても、我々にとつて最後まで力となり得るのは技術と良心とである。技術家はつねに良心
的に仕事をすることを要求されてゐる、非良心的な技術家に対しては自然が直ちに復讐するであ
らう。しかるに技術よりも遥かに多く良心と結び付いてゐるやうに見える思想においては却つて、
非良心的に振舞ふことが可能であるといふことに注意しなけれはならぬ。

  (九月十五日)