西田哲学の性格について
86
間者に答える
      一


 西田哲学について一般に理解されている種々の特徴を挙げ、私の意見を求められた質問に対し、
                ま
簡単に答えたい。私は先ず、当然のことだが、西田哲学はどこまでも哲学として理解さるべきも
のであると思う。この哲学という立場を離れて、それをすぐに宗教もしくは宗教哲学と結び付け
       かえ       やす
て考えることは却って誤解を招き易い。西田先生自身、宗教は自分にはなおこれからの問題であ
る、と語られている。先生の最近の中心問題は歴史的実在であって、今後の哲学は歴史哲学でな
ければならぬとすら語られているのである。西田哲学を仏教、殊に禅と結び付けて考えることは、
     ..V
君の云われる通り、以前からの伝統であり、一つの伝説にすらなっている。私はもちろん、そし
てもしこう云って失礼でなければ、西田哲学を仏教と結び付けて論じている人々と同様、仏教を
深く知らない。君も多分同様であろうと思う。だから君は西田哲学を仏教と結び付けて考えるこ
  あとまわ                                   ょ
とは後廻しにして、それをそれ自身の哲学として理解することに努力するのが好いのである。つ
87 西田哲学の性格について
いでながら、キリスト教の人は西田哲学が弁証法神学に類似するように云っている。仏教と弁証
法神学とが同じだなどと云えば、仏教家もキリスト教徒も容易に同意しないであろう。二つの思
                        そうごう
想を結び付けることは、自分自身がそれらを綜合統一する新しい立場を発見し把握している場合
初めて真に有意義なのであって、さもなければ、却ってその一をもその他をも正しく理解せしめ
ないことになる。私は西田哲学に東洋的なところ、日本的なところがあること針否定しない。け
       むし
れどもそれは寧ろ先生がどこまでも自分自身で考え抜いて行かれた結果現われて来たものと見る
べきであって、その結果を何等か従来の東洋思想で説明することは、日本の哲学を後へ戻すこと
になる恐れがある。例えば仏教は歴史的実在をどのように考えたか、また禅にはどのような歴史
哲学があるのか。かような先決問題を除いて西田哲学と仏教とを関係させてみたところで、全く
                             お
抽象的な議論に終るほかない。私はこれらのことを東洋に於ける過去の勝れた思想を軽視するた
めに云うのでなく、日本の哲学の前進のために云いたいのである。哲学の研究者にとってあまり
に簡単に宗教を持ち出すことは寧ろ好ましからぬ傾向である。宗教にせよ芸術にせよ、深い体験
を有する哲学者は、そのことを語らなくともおのずから現われるものである。芸術を軽んじたプ
ラトンは最大級の芸術家であった。しかしそれだからと云って、彼の哲学を芸術的な見地から理
                 ごと
解したベーターのプラトン解釈の如きが最も正しい解釈であるとは云い得ないであろう。彼れと
こ                     こんてい
此れと同じ意味ではないが、西田哲学の根抵に深い宗教的なものが潜むことは事実であるとして
            ない し
も、それをただ宗教的乃至宗教哲学的見地から解釈することは、殊に解釈者自身に真の宗教的体

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験があるかどうか疑問である場合、正しい理解に達し難いことになる。哲学は哲学として理論的
に見るのが好いのである。西田哲学の歴史的位置は、明治以後に於ける西洋哲学の模倣時代から
東洋思想の伝統への全く新しいつながりを作ったところにあると見るのは、間違っていないであ
ろう。しかしそれは西田哲学の根源性に基づくのであって、日本主義乃至東洋主義の結果ではな
い。それはどこまでも西洋文化移植後の日本に於いて作られた独創的な哲学であって、かかるも
のである故に将来の日本の哲学の新しい伝統のひとつの出発点となり得るものである。かかる出
発点としての意味を理解しないで、それを過去の何等かの東洋思想と関係づけて満足することは
我々の哲学の後退となる。
 西田哲学の難解はその考え方が綜合的であって分析的でないのによると一般に考えられている
ことは、君の云う通りであろう。しかしこの点について、私は寧ろ反対の意見である。西田哲学
ほど分析的な哲学は現在の日本では他に見当らず、却ってそのために難解であると云ってよいほ
どである。それがどこまでも具体的に考えようとしているという意味では、西田哲学は綜合的で
                  きょ−フ川レん
あるとも云える。けれどもあの強靭な思索力は分析的追求カである。綜合的は形式的抽象的と
なり易く、従ってそれは実にしばしば折衷主義の特色をなしている。具体的であろうとする西田
哲学はその分析が、普通の分析に於ける如く平面的でなくて立体的であり、その限り綜合的とも
考えられるが、その独特の力強い立体的な分析力こそ私を驚かせるものである。もし君が西田哲
                                 あるい
学の特色は綜合的というよりも分析的であると考え直すならば、或は一層よくその思想を理解す
89 西田哲学の性格について
ることができるかも知れない。綜合的と関係して直観的ということも西田哲学の特色として挙げ
られ、それがまた難解の主要素ともされている。どのような独創的な哲学が直観に基づかなかっ
たであろうか。独創とは直観である。西田哲学の根抵に豊富な直観があるところから、それは芸
術的な哲学であるとも云われ、また文学主義であるとすら批評されている。先生の論文執筆の有
様には芸術家の創作の場合に似たところがあって、先生は芸術家の創作活動に現する体験を持た
れ、そしてそのことが先生の哲学そのものの内容にも深い影響を与えているように思う。しかし
そのことから西田哲学の文学主義などと云うことは当らない。哲学は論理的でなければならぬが、
分析的な西田哲学の直観にはその意味に於てむしろ数学者の直観に似たものがあると云えるよう
である。そう云えば、あの主語主義から述語主義への転換のあたり、ユークリッド幾何学から非
ユークリッド幾何学への発展に似たところがないであろうか。だからもし君が述語主義という新
しい立場を認めるならば、どこまでもその立場であらゆる問題を考えて行かねばならない。従来
の主語主義と同じような立場から見て足らないところがあるからと云って、西田哲学もなお抽象
的であるとするが如き批評も見受けられるが、それでは結局折衷主義になってしまわねばならぬ。
折衷主義は外形的には整備したものであることが容易であり、従って一見甚だ論理的に見えるが、
   つい
それが遂に無力であることは哲学史の実証している通りである。西田哲学にも取残された点があ
るであろう、しかしそれはどこまでも述語主義の立場から内面的に展開さるべきものであって、
          かえ
もう一度主語主義に還って補足するというのであれば、それは後戻りになり、折衷主義になる。

90
                めいせき
西田哲学には数学者の直観に似た明晰判明な直観がある。先生がフランス哲学の研究を勧めてい
られる理由の一つも、その辺にあるのではないか。もちろん西田哲学の中心問題は数学的存在で
な・いから、数学との類比は制限して考えねばならぬが、西田哲学は綜合的直観的芸術的であると
いう批評に対して、私はむしろ右の点を指摘したいと思う。
 申すまでもなく西田哲学はプラトンのような主知主義でない。そこで非合理主義と云われるの
だが、この点もよほど注意しなければいけない。非合理主義というようなことから西田哲学を理
解しようとすると却って誤解を招く恐れがある。従来の論理は対象の論理であり、論理は対象の
規定であった。カントの先験論理によって対象の論理は対象を考え対象を認識する主観に関係付
けられたが、しかしまだかかる主観そのものをも包む論理とはならなかった。知ること.も行為す
ることの一つと考えられるが、かかる行為する自己をも包む論理とはならなかった。従ってカン
トに於ては実践理性の領域は理論理性の圏外におかれ、その倫理は主観的倫理に留まっている。
しかるにヘーゲルは倫理と論理との同一を考え、これによって倫理を客観的倫理にまで高めた。
彼が論理と存在論との同一を述べたことは周知であるが、それと共に倫理と論理との同一を考え
たことはそれにも劣らず重要である。近代的意味に於ける主観主義とも客観主義とも云い難いギ
リシア哲学には、かくの如き、論理と存在論との同一の思想と共に倫理と論理との同一の思想が
あった。ヘーゲルはそれらの思想を彼の哲学に取入れたが、いま西田哲学に於てもまたそれらの
                     −V
思想が全く新たに活かされていると見ることができる。ヘーゲルに於ては倫理の根本をなす自由
、旬瀾周一
91 西田哲学の性格について
の概念は目的論の原理によって構成されている。彼の弁証法はそのように目的論的な、有機体的
               し▲ばしば                   し
な構造を含んでいた。しかるに屡々批評される如く、ヘーゲルの弁証法に謂う特殊と一般の関係
に於ては、個体の自由、自主性が考えられず、従って働く個物というものが考えられない。働く
とは独立な個体と個体とが関係することであるが、かかる関係がヘーゲルの論理では説明されな
い。個物と個物とが関係する行為の世界を明らかにする西田哲学の論理は、それが同時に倫理で
もあると云ってよいであろう。ヘーゲルの論理によっては行為の世界が考えられないとすれば、
西田哲学は初めて、論理と存在論との同一に留まらず、進んで倫理と論理との同一を明らかにし
たものと云うことができる。行為とか倫理とか云っても、何等かの当為もしくは理想をいうので
はない。西田哲学の問題はどこまでも現実の世界の構造である。現実の世界は歴史的である。歴
史的世界はドロイセンの云った如く「倫理的世界」 (sittlichのW已t) である。この意味に於て歴
史的実在の論理は同時に歴史的行為の倫理でなければならぬ。行為は単に主観的でも単に客観的
でもなく、主観的・客観的なものである。主観・客観を包む論理を明らかにすることによって西
田哲学は、カントの主観主義の倫理でもヘーゲルのなお客観主義的であった倫理でも不十分で
あった倫理的世界としての歴史的世界の意味を明らかにしようとしている。しかるに実にかくの
如き行為の世界に於て初めて、論理と存在論との同一も考えられ得るのである。この場合、論理
が何か出来上った形式として存在するかのように考えることをやめねばならぬ。カントの先験論
                                                         とら
理もそのような先入見から自由でなかった。反対に、論理をその出て来るところから捉えなけれ

92
                                書かの▲ぽ
ばならぬ。先生が最近、アリストテレスから、またプラトンから更に潮り、ヘラクレイトスあた
りから論理を考え直さねばならぬと云われているのも、その意味であろう。君はたしかデイルタ
      し い                はず
イめ『経験と思惟』(全集第五巻)という論文を読んだ苦である。デイルタイは形式論理の出来
上った諸方式に満足せず、経験そのものの分析から論理の諸方式を導き出そうとした。彼はそれ
を「分析的論理」(ana官ische Lo軋k)と称した。単に仮設的にでなく妥当する知識が存在すべ
きであるならば、知覚と思惟との間には、認識の基礎の二元性を止揚し、かくて単に仮設的な、
前提され要請された関係を客観的に妥当する関係に転化するような、発生的関係(鴛n▲邑schのS
<巧h賢nis)が存しなければならぬ、と彼は云っている。デイルタイの意図は正しい。ただ彼の
                                                      ヽ ヽ
如く経験を心理主義的に解することはできない。一般に経験という概念のうちには、自己が主観
          すべ
として自己に対する凡てのものは客観であるというような考え方が含まれている。ところが実際
を云えば、私は物に対するよりも根源的に君に対するものとして私であり、主体は客体に対する
ょりも根源的に他の主体に対するものとして主体である。カントの豊富な「経験」の概念に於て
                                                                             ヽ ヽ ヽ
も、働く自己というものがその中に入っていない。かようにして経験の概念は出来事の概念に
ょって代られねばならぬ。出来事とは独立な個物と個物とが関係することである。経験に於ては
       ヽ ヽ                         はんちゅう
現実的でない関係の概念は出来事に於て現実的となる。論理と云い範疇と云うも、その根本的
な意味に於ては関係にほかならぬとすれば、それは、そこでは関係が真に現実的であるような行
為の世界から考えて行かねばならないであろう。そのような意味で私はデュルケームが『宗教的
93 西田哲学の性格について
生活の原始諸形態』の中で述べているが如き社会学的認識論に興味を感じ、そのような考えを新
しく活かしてみたいと思っている。西田哲学の性格に戻って云えば、それは決して単なる非合理
主義ではない。従来の論理を超えたものに重要な意味を認めている点では、それは非合理主義と
も云い得るが、かかる非合理的なものをも包む新しい論理を考えようとしている限り、それは非
合理主義とは云われない。丁度ヘーゲルが生の哲学者として出発し、やがてかかる生をも合理的
に把握する論理を見出したように、西田哲学はヘーゲルの論理によっても考えられない一層深い
生の問題から出発しっつ、それを思惟する論理の発見を目差している。当時の浪漫主義者の生の
哲学に対するヘーゲル哲学の関係は、現代の生の哲学に対する西田哲学の関係であると見られ得
るであろう。生の哲学が非合理主義であるのと同様の意味に於て西田哲学は非合理主義であるの
       も−と
ではない。固よりその論理は、後に云う如く、単なるロゴスでなくて、寧ろロゴス的・パトス的
なものを包むロゴスと見らるべきものであると思う。
 西田哲学の中心問題はその発展のあらゆる段階を通じて実在であると云うことができる。実在
はいろいろに考えられたが、最近では歴史的実在が中心問題になっている。寧ろ実在は歴史的実
在であると考えられる。かく考えることによって西田哲学は従来の意識哲学乃至自我哲学の立場

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を越えるに至った。西田哲学の最近の発展に於て、私にとって特に重要に思われるのは、それが
意識もしくは自我の世界から脱け出して来たことである。そこに現象学などとは異なる新しい立
                                                                 ヽ ヽ ヽ ヽ
場がある。昨年の秋、君たちの前で話したとき、私は今後の哲学は世界哲学でなければならぬと
述べたが、そのとき私はかかる世界哲学の現存形態として特に西田哲学を念頭においていたので
ある。西田哲学は世界哲学と特徴付けることができる。このことを把握することが大切である。
 つまず
君を磨かせるように見える「無の論理」は実は世界の論理にほかならぬ。先生の論文に絶えず出
て来る「世界」という語を、君はその全き重さに於て理解しなければならない。世界は歴史的で
ある。従って歴史ということは西田哲学に於て社会ということよりも広い意味に考えられている。
社会は体系的には歴史的世界の一形態として考えられる。ただ社会は世界構造の最も発展した形
                                                  ま
態と見られる限り、世界の論理の解明は歴史的社会的現実の論理の解明に侯つと云うこともでき
るであろう。
 西田哲学は世界哲学として我々をどこまでも世界の中に入れて考える。これは何よりも注意す
べき根本的特徴である。普通に世界は我々に対するものと考えられている。しかしそれでは我々
は世界の外にあることになる。固より我々は客観的なものとしてどこまでもそのような客観界に
属すると考えられるであろう。けれども我々は単に客観的なものでなく、主観的なものである。
世界が単に客観界と考えられる限り、それは主観的・客観的なものを包むことができない。しか
        いわゆる
し世界は固より所謂主観の如きものでない。世界は自己でなく、却って自己がそれに於てあるも
95 西田哲学の性格について
のが世界である。それは自己を内に於て超越するものと考えられるであろう。しかもそれは単に
内に於て超越するのみでなく、かかるものが客観的自己をも包むと考えられねばならぬ。外に於
て我々を超越する客観的有に対して、内に於て我々を超越するものは無と考えられるが、しかし
単にかく考えられる無は真の無でない。ただそれのみでは結局主観主義乃至神秘主義と異ならな
いことになる。単に有でなくて無と考えられるものは真の無ではない。内に於て超越するものが
                                あ
客観的なものをも包み、かくして外の超越と内の超越とが或る意味に於て一つと考えられる。分
り易く云えば、世界の深さを論理的に明らかにしたのが西田哲学である。それは客観的なもの、
対象的なものを認めないのでなく、それを表現として行為の立場から見るのである。世界哲学と
しての西田哲学に於ては、個物は世界の自己限定として考えられる。個物は一方どこまでも環境
から限定されるものであり、環境に属する、西田哲学の用語に従えば、個物はどこまでも一般的
限定に於て限定される。このとき一般者というのは客観界の意味であり、我々は一方どこまでも
客観界に属し、かかる一般者の限定として考えられる。し施し単にそれのみでは独立な個物は考
                                  すなわ
えられない。個物は他方またどこまでも自己自身を限定すeもの、即ち個物的限定に於て自己を
限定するものである。或は個物は単に客観的限定に於て限定されるのでなく、主観的限定に於て
限定されるのでなければならぬ。個物は働く個物としてどこまでも環境から限定されると共に逆
にどこまでも環境を限定し返すものである。そこで右の如き相反する方向に於ける限定の合一と
して個物は弁証法的物である。弁証法的物は弁証法的世界に於てあるものであり、その自己限定

96
として考えられる。弁証法的世界は弁証法的一般者であり、その個物的限定即一般的限定、その
一般的限定即個物的限定というが如き弁証法的自己限定として弁証法的物がある0物はつねに主
観的及び客観的の二つの相反する方向に於て限定され、しかも一つの方向に於ける限定はつねに
同時に他の方向に於ける限定であり、その統一として弁証法的である0丁度フツセルの現象学に
於て意識がつねにノエシス・ノエマ相関の構造を有するように、西田哲学に於ても主観的・客観
的、個物的・一般的ということは相関していて、一方へ限定されると共につねに他方へ限定され
るのであるが、しかしそれは単なる相関でなく、相反する方向に於ける限定の統一として弁証法
的である。それは否定面肯定面という関係に立ち、肯定面即否定面、否定面即肯定面々して矛盾
の統一と考えられる。ところで個物はただ個物に対してのみ個物である0個物と個物とが関係す
るには媒介者がなければならず、個物と個物とを媒介するものは一般者である0かような媒介者
                    み な
は先ず客観的一般者としての客観界と見傲される。客観的に苧eられた物と物とを媒介するもの
は空間であると云える。その極、客観的物は空間の限定乃至変容と考えられるであろう0客観的
限定もしくは一般的限定は空間的限定とも言い換えられる0けれどもかような空間的限定によっ
ては真の個物は考えられない。個物はどこまでも個物的に自己自身を限定するもの、客観的にで
なく主観的に、空間的にでなく時間的に自己を限定するものである0個物的限定は時間的限定で
ぁり、直線的限定である。かく限定される個物と個物との関係の媒介者は客観的な一般者である
ことができぬ。個物と個物とは円環的に限定されることによって弁証法的に統一される0弁証法
97 西田哲学の性格について
的叫般者は直線的に限定される個物と個物とをその根抵に於て円環的限定に於て媒介するもので
ある。円環的限定に於て独立な個物と個物とが同時存在的であるという意味に於て、円環的限定
は空間的限定の意味をもっている。けれどもまたそれに於ては独立な個物が弁証法的に統一され
るという意味に於て、それは非違統の連続と考えられる。しかるに非違統の連続ということは時
間的限定の意味を現わしている。西田哲学に於ては時間的限定としての直線的隈定は、単なる連
続でなく非連続の連続と考えられているのである。単なる一般者としての客観界に於てあるもの
は空間的並列的にあると考えられる如く、弁証法的一般者としての世界に於ては、過去も未来も
現在に同時存在的と考えられる現在に於てある。時はかかる永遠の今の自己限定として考えられ
るのである。かようにして西田哲学に於ては時間と空間とが相即して考えられている。そこから
「歴史的自然」という概念も出て来るのであって、従来は空間と時間とがそれぞれ自然と歴史と
に配当され、歴史哲学が時間哲学的であったのに対する関係に於ては、西田哲学は寧ろ空間哲学
的であるとすら云い得る特色を感ぜしめる。そこに東洋的な最も深い意味に於ける自然が歴史哲
学的に活かされたと見られ得るところがある。世界は弁証法的世界として時間的にどこまでも動
くと共に空間的にどこまでも留まっており、動即静、静即動である。
 かくの如き世界が歴史的世界である。歴史的世界の一般的な性格は表現的世界ということであ
る。世界の論理は表現の論理である。歴史を表現と考えることはデイルタイなどから広く行われ
るようになったが、西田哲学は表現の問題を行為の立場に於て考える。歴史的世界は表現的世界

98
であるとすれば、歴史的行為はすべて表現的行為の意味を有するのでなければならぬ。普通に表
現と云えば、人間の作ったもの即ち所謂文化のことが理解される。しかし単にデイルタイの謂う
文化の体系のみでなく、また彼の謂う社会の外的組織も表現的なものである。家族、社会、国家、
教会等、いずれも表現的なものである。単に人間が作ったものが表現であるのでなく、実に人間
そのものが表現である。歴史的世界に於てある歴史的物の一切が表現である。表現的なものは普
通に作られたものと考えられるが、すべての歴史的物は歴史的世界から生れたものとして作られ
たものの意味をもっている。表現は制作的行為即ちポイエシスの立場に於て考えられねばならぬ。
我々人間の存在の如きも、単に与えられたものでなく、却って行為に於て、すべて制作的・表現
的行為の意味を有する行為に於て作られるものである。行為はすべて形成作用の意味をもってい
る。ゲーテはBi−dun粥ということを単に人間に於てのみでなく、自然に於ても見た。この場合
自然も表現的なものと見られたのである。あらゆる表現的なものば主観的・客観的なもの、或は
内的・外的なものである。或はそれはパトス的・ロゴス的なものである。表現的行為は表現的な
ものに対して起る、表現的なものから訴えられ、呼び掛けられることによって我々の行為は始ま
るのである。全く無意味な物質に対しては行為は起らないであろう。行為する私と君とを媒介す
ると考えられる限り、客観界は一般的意味、或は客観的意味、或はロゴス的意味を有するもので
なければならぬ。かかるものとしてそれは表現である。しかし単にロゴス的一般的に限定された
ものは真に表現的とは云われない。表現的なものは個物的限定乃至主観的限定、従ってパトス的
周亨
99 西田哲学の性格について
限定を含むものでなければならぬ。我々の行為はどこまでもパトス的に限定されたものである。
パトスは自己肯定的である。しかし表現的行為は単なるパトスからは考えられず、それが自己を
否定してノエマ的にイデアを見ることによって成立するのである。ジンメルの所謂イデーヘの転
向(W買dung Nu【ld発) によって表現的となるのである。表現的行為は直接的でなく、否定に
ょって媒介されたものでなければならぬ、さもなければ行為に於ける技術の意味も理解できぬ。
けれども行為が単に客観的な一般的なイデアによって媒介されるものとすれば、行為は真に表現
的であることができず、およそ行為というものは起らない。ヘーゲルが云った如く、大いなる歴
史的行為にはライデンシャフト(熱情)が必要である。行為はどこまでも主観的に、個体的に、
パトス的に限定されたものである。行為はまたつねに社会的である。パトス的限定に於て限定さ
れた行為と行為とを媒介するものは、直線的限定の根抵に円環的限定が考えられ、そして円環的
限定は空間的限定とも考えられるように、ロゴスであると云われよう。けれどもこのロゴスは客
観的一般者の意味に於けるロゴス (イデア) でなく、寧ろ無の一般者の意味に於けるロゴス的で
ある。また円環的限定は単に空間的意味のものでなく時間的意味を含むと考えられるように、こ
                                                                                          ヽ
のロゴスは同時にパトス的なものでなければならぬ。それはロゴス的・パトス的なものを包むロ
 ヽ ヽ
ゴスである。それは客観的ロゴスを越えたものである。凡て表現的なものはかかるロゴスの表現
であり、無の表現であると云うことができる。表現的なものはロゴス的・パトス的なものとして
自己自身を表現すると共に世界を表現するのである。

 そこで私は、西田哲学に於て国家の如きものは如何に考えられるかと云う君の質問に対して、
私見を述べよう。国家の如きものを先生は特殊社会と見ていられるようである。ところでフツセ
ルの現象学に於て意識のノエシス・ノエマ的構造に多くの様相が考えられるように、西田哲学に
於ても、世界の自己限定に無限の様相もしくは段階が考えられると思う。その客観的限定の方向
に無限の客観的限定の過程が考えられ、その主観的限定の方向に無限の主観的限定の過程が考え
られるのである。かかる過程の各々の段階に於て成立する弁証法的物について、すべて西田哲学
        あて は
的な世界図式が当俵まると見てよいであろう。
 もっlと
 尤も先生は国家などの問題はまだ詳しく論じられていないが、、世代の問題については度々触れ
られている。私はいま世代の問題を先ず年齢の問題から考えてゆこう。人間の年齢は少年、青年、
壮年、老年等に区分される。それが生物学的なものに制約されていることは云うまでもない。
我々の一生は時間的で、直線的に限定されている。しかし年齢は単なる直線的限定からは考えら
                                                 まと
れないのであって、直線的に進行するものが同時に円環的ないし空間的に纏まってゆくところに
年齢は考えられる。それは例えば一年一年と過ぎてゆくものでなく、かように過ぎてゆく時が円
環的に纏まり、一つの期間(N軋tra亡m) として例えば青年時代の如きものが考えられるのであ
100
101 西田哲学の性格について
る。ここにすでに西田哲学の意味に於ける世界図式が認められると云い得るであろう。直線的に
進行するものが同時に円環的に限定されてゆくことによって、年齢は表現的となる。そこに青年
時代であれば青年時代の人生のスタイルが、或はジンメルの謂う意味での形式(Form)が現わ
れる。ジンメルは、形式はすべて限界という意味を有し、生に形式を与えるものは生の限界とし
ての死であると述べている。青年時代が滅びて壮年時代が生れるという風に、非連続の連続の形
                              そな
で、年齢は年齢から年齢へ移るものとして、年齢は形式を具え、表現的になると考えられる。し
かし現実に於ては、或る年齢の一人の人間があるのでなく、却ってほぼ同じ年齢の多数の人間が
一つの世代を形作っている。世代に於て円環的限定の意味は一層現実的になる。独立な多数の人
間が円環的に限定されて一つの世代を形作るのである。世代は自己のスタイルを有し、表現的な
ものである。そして一世代に属する個人は自己自身を表現すると共にその世代を表現する。個人
はどこまでも真に自己自身を表現することによって、また真に自己の属する世代の表現となり得
るのである。同じように、各々の世代は自己自身を表現すると共に全歴史を表現するという意味
をもっている。歴史は世代から世代へ移ってゆく。そしてそれらの世代はすべて円環的に限定さ
れて、同時存在的に永遠の今に於てあると云われるのである。かくの如く世界図式によって考え
られる世代は、マントレのいわゆる社会的世代の意味に於てすでに或る特殊社会と考えられ得る
であろう。世代も単なる時間的限定に於て考えられるものでない。ところで先生は国家は生物の
種の如きものであると云われている。一定数の人間は同一の種に属するものとして一つの国家を

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形成すると考えられる。国家は単に多数の個の統一からは考えられず、多数の個の種に於ける統
一から考えられねばならぬと云われるであろう。しかしながらまた先生の云われるように国家は
単′に生物的なものでなく、歴史的なものである。種は不変なものでなく、国家も滅び得るもので
ある。私はオトカール・ローレンツなどの世代についての生物学的解釈に反対するように、国家
に関する生物学的(人種的)解釈にも反対する。国家は種であると云っても、国家は歴史的なも
のとして世界図式に於て考えられるものでなければならぬ。即ちそれはすでに無の一般者の意味
を含んでいると云える。種は単に主語的論理によって考えられるものでなく、すでに述語主義的
な考え方を要求するものでなければならぬ。さもなければ、結局ヘーゲルに於ての如く、個人の
国家に対する独立性は考えられないことになる。個人は一方どこまでも国家に於てあり、.国家の
中に含まれ、国家から限定されながら、他方どこまでも独立なものであり、逆に国家を限定する
ものでなければならぬ。種の連続を媒介として個と個との非連続が考えられるにしても、種は非
連続の連続として単に主語的には考えられないものである。固より、世代が直ちに無の一般者で
ない如く、国家が直ちに無の一般者であるのではない。却って世代から世代へ移りゆく諸世代が
永遠の今に於てあると考えられる如く、一つの時代から他の時代へと直線的に発展してゆく国家
と国家とは世界に於てあり、世界を媒介として相互に関係するのである。ここに謂う「世界」は
同じ時代にある国家と国家との円環的限定に於て成立するものであり、かかる世界も西田哲学で
謂う弁証法的世界の自己限定として考えられる。しかるに種を媒介者として絶対化することはつ
 ル
、Z周淵周瀾、、
103 西田哲学の性格について
まり述語主義から主語主義へ戻ることによってしか可能とはならぬ。その場合、国家はヘーゲル
の謂う国家乃至民族の如きものになるであろう。ヘーゲルのイデー哲学に於ては、客観的精神を
越えたものとして宗教、芸術、哲学の如き絶対的精神が考えられた。そのときには絶対的精神は
却って最高の現実としての国家によって媒介されねばならぬと云い得るであろう。しかし国家と
国家とを媒介する世界は決して単にイデー的なものでない。種の如きものが苧eられるためには
空間に重要な意味が認められねばならぬことは事実である。ジンメルが社会学の中で云っている
ょうに、空間性は社会の基礎である。しかし種の如きものが考えられるためには空間の特殊化が
なければならず、その意味に於てすでに時間性が認められなければならぬ。或は空間がすでに内
的な意味を有するのでなければならない。普通に空間は外的であって、時間は内的であると考え
られている。ベルグソンやハイデッガーなどの時間哲学の如きもかかる考え方を離れていない。
しかし時間にしても外的と考え凝るように、空間にしても内的と考え得るであろう。ゲーテの如
きは空間をどこまでも内的に考えて行った人であった。私は層に先生の「ゲーテの背景」という
論文を読むことを勧めたい。西田哲学に於て円環的限定は空間的限定とも考えられているのであ
るが、これによっていわば空間の内面性が考えられている。進んで云えば、場所の思想にしても、
更に過去と未来とが現在に同時存在的である現在としての永遠の今の思想にしても、そのような
意味に於て空間的であると云えるであろう。時間と空間という相反するものが一つと考えられる
ことになるのである。国家の基礎とされる空間とか自然とかいうものは、単に外的なものでなく、

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内的な意味を有せねばならぬ。即ち国家の如きも、ちょうど世代がまた或る人々によってそう考
えられているように、「運命共同体」と考えられるであろう。西田哲学の円環的限定の思想は述
語主義の立場に於て時間に即して空間もしくは自然の内面性を考えたものと見ることができる。
私はかかる円環的限定の思想は習慣性、日常、∽ittのなどを考える論理的基礎となり得るものと
して重要であると思う。しかしただ習慣を破り得るものが習慣を作ることができ、伝統を破り得
るもののみが伝統を作ることができるように、円環的限定は直線的限定と結び付いている。国家
は個人と個人とを媒介するが、媒介者としてそれはすでに弁証法的一般者の図式によって考えら
れるものでなければならぬ。西田哲学に於ても単に世界と個人との直接媒介を考えるのではなか
ろう。そこでは媒介者として種の如きものが重要な位置を占めねばならぬことは明らかである。
しかし種の如きものも述語主義の立場に於て弁証法的世界の自己限定の一様相もしくは一段階と
して考えられねばならぬ。かくして種に対する個の独立性が、宴た種は種に対して種であるとい
う関係が認められ、世界はそれら相互の無限の媒介の体系となる。ヘーゲルの哲学に於ては媒介
                                     いた
の体系は結局直線的であるが、述語主義の体系に於ては媒介は立体的に到る処に於て成立するこ
とができる。そして特に注意すべきことは、ランケがあらゆる時代は直接に神の傍にあると云っ
たように、述語主義の哲学に於てはあらゆるものは無限の媒介の過程に入りながら、しかもすべ
て直接に絶対無に於てあると云われるのである。一方どこまでも媒介乃至否定を重要視しながら、
他方同時に直接的結合を説くことができるのは述語主義の哲学である。前の方面を強調すること
105 西田哲学の性格について
によって後の方面を無視することは却って抽象的になるであろう。
 最後に西田哲学に対する私の批評を述べよとの君の要求は、現在の私にはなおカの足らない、
ぁまりに大きな問題である。根本に於て私は、私自身の哲学を築いてゆくことがその批評である
と考えている。また解釈はすでに批評であるという意味に於て、西田哲学を如何に解釈するかと
いうことが、すでにそれに対する批評を含んでいる。とりわけ西田哲学の如く種々の発展を経て
いるものにあっては、そのいずれの時期、そのいずれの論文を最も重要と見るかは、人々によっ
て異ならねばならず、そこにすでに批評があると見られるであろう。また西田哲学に於ては従来
主として論理、しかもその基本的な形式が述べられているのであって、これを具体的な個々の問
題に適用し、拡張してみることが必要である。その際或はその不十分な点が明らかになって来る
かも知れない。ただ立場だけを議論していては、結局抽象論に終ることを免れ難いであろう0そ
の具体的な適用と拡張によって個々の範疇を発見し、更に範疇相互の弁証法的体系の形成にまで
到ることが大切な仕事である。その際私は、西田哲学はいわば円の如きものであって、この円を
一定の角度に於て分析することが必要ではないかと思う。そ外角度を与えるものは永遠の意味に
於ける現在でなく、時間的な現在、従ってまた未来の見地である0西田哲学は現在が現在を限定
する永遠の今の自己限定の立場から考えられており、そのために実践的な時間性の立場、従って
過程的弁証法の意味が弱められていはしないかと思う。行為の立場に立つ西田哲学がなお観想的
であると批評されるのも、それに基づくのではなかろうか0田辺先生が「種の論理」を強調され

106
る理由もそこにあるのではなかろうか。そのことと関連して生ずる一つの疑問は、個物が無数の
個物に対するということのみで真に矛盾が考え得るかということである。無数の独立な個物が非
連続的に存在するということだけから過程的弁証法は考えられず、個人が二つの階級の如きもの
に統一されて対立することによって初めて社会的矛盾が考えられるように、弁証法は多元的でな
く二元的になることによって初めて過程的弁証法となり得るのではないかという疑問である。田
辺先生のように種の論理を考えるにしても、単に無数の種が非連続的に存在するというのでは同
                                              ひっ
様の疑問が残る。西田哲学の弁証法はこれらの問題を如何に解決し得るであろうか。それは畢
きょナウ
尭 「和解の論理」となり、そこではEntw乱巧・〇d巧という実践の契機が失われはしないか。
過程的弁証法は抽象的であるとしても、述語主義の論理は如何にしてこれを自己の契機とするこ
とができるか。これらの旋間は西田哲学に於ける「永遠の今」の思想に集中するのである。私は
もう少しよく西田哲学を勉強した上で更めて論じてみたいと思笥ている。