読 書 論


四四二
                                                          盲■
もし彗日の精紳といふことがいへるなら、讃蓄の精紳は対話の精紳であるといひたい。精紳と
いふのは、その純粋な形−本質的な在り方といふ意味である0この精紳は抽象的なものでなく、
                            も.11一ll
精紳が同時に方法でもある0革苫は対話の方法に依らなければならぬ。ところで封話の精紳はま
た哲寧の精紳であるといふことができる○ソクラテスが、そしてプラトンが、対話を哲畢の形式
としたことは、哲準的精紳の根源的な教現であつた0それ以来、すnの創造的な哲学はソアラ
テス的及びプラーン的封話へのそれぞれの復蹄であつた0封話は哲学的生命の運動の根本的な形
                                                                                                                                                             l一一l
である。
そこでまた彗日の純粋な婁は哲学的であるといふことができるであらう。しかるにこの
哲学の椅紳は科学の精紳と別のものではない0歴史的に見てもさうであるやうに、本質上からい
                                                  ll一首一11.1
つても、哲学的精紳は科学的精紳の根源的な形であり、或ひはその囲式である。ソクラテス的封
■転
†エ′ √
話とは何であるか。決して終ることのない探究である。そして科学とはこれ以外の何物であるか9
徒つてまた著書の精紳は科挙的であるといはねばならぬであらう。
                                                       ーリ ′
いつたい著書は何に始まるのであらうか0言ふまでもなく、何等かの書物に出合ふことに始ま ∫艮“がイ柑
                                                                             Er.■  ■  −■  ■            .11・−」l ▼ ■
                                                       、 ノZ (
るのである。恰も対話が或る人間に出合ふことに始まるやうに。讃書は一つの選遁である0事青
誰でも、自分の著書経歴を振り返つてみると、讃善がそれぞれの選遁であつたといふことに思ひ
・ア」与チ一
ぁたるに相違ない。少くとも自分に大きな夢響を輿へた讃書はつねに溜遁である。それは自然現
      象の如きものでなく一つの歴史的事件である。そのために著書が科学的でないといふことはあり
タ‥が、∵bハ得ない0自然現象を研究する科学者の活動にしても、それ自身一つの歴史的事件であるのである
から。遜遁は歴史の根源的な形式である。ところで選遁といふ言葉は何か偶然的なものを意味し
てゐる。事音、請書には偶然的なところがあり、この偶然性が著書の欒しさを増しさへするので
ぁる。多くの場合我々は偶然或る書物に出合ひ、そして讃み始める。それを我々は本屋の新刊書
の列から見附けたこともあらう、或ひはそれを古本の堆積の中から見出したこともあらう、或ひ
はまたそれを国書飴のカードの中に後見したこともあらう。恰もソタラテスが市場や街道や饅揉
場で偶然出合つた誰れ彼れを捉へて対話を始めたやうに、私は偶然めぐりあつた書物を砺つて讃
諌 書 論
四四三

四四四
み始める0もちろん計蓋的な彗目といふものもある、そしてそれは甚だ必要である。しかし計毒
的な讃喜は彗日の精紳からいふと寧ろ第二義的なもの1やがて私は彗日の第二の形式としてこ


一つの遜遁であるといふことである0例へば、計書的な璽臼といふのは誰か教師に示された通り
に彗日することである、しかるにその人が私の教師であるといふことは一つの遜遁ではないか。
また計蓋的な彗目といふのは何かの本に畢げてある文戯から考へて彗日することである、しかる
にその諒の本を私が初めに見たといふことは眈に避退ではないか。更に自分自身で計蓋を立て
て讃書する場合においても、我々が手懸りにするのは研究室とか匪書館とかの目録である。しか
                                    − 1I
るにそこに我々がそれらの本を見出すといふことも既に一つの溜遁ではないか。これは、あらゆ
る書物が我々人間と同じやうに歴史的存在であることを考へると、何の不思議もないことである.
書物にめぐりあふことには人間にめぐりあふのと同じ悦びがある0彗日の悦びはかやうな遜遁の
悦びである0しかるにまたあらゆる歴史的事件が軍なる偶然でないやうに、彗臼における選遁も
                                                                                                                      ヽil
畢なる偶然ではない。
遜遁といふ言葉はまた或る必然性を意味するのでなければならぬ.全く偶
然に出合つたやうであつても、
それがやはり必然であつたと、うなづくことのできるものが、溜
返と考へられるのである。
それは軍に外的な必然性でなく、寧ろ内的な必然性である0かくてソ
タラテスとプラトンとの間には選遁があつた、ゲーテとシルレルとの間には溜遁があつた0讃書
においても同じやうに、或ひは師としての、或ひは友としての、書物に封する選遁があるであら
ぅ。一生かやうな瑠遁を経験しなかつた者は、どれほど多く本を苛んだにしても結局何も讃まな
かつたに等しい。しからば如何にして我々はかやうな溜遽を経験し得るのであるか0
めることによつて。求めることのない者はめぐりあふこともないであらう0
みづから求
仮にめぐりあふにし
ても、それと気附かないでしまふであらう。何かを求めて讃害する者のみがそのやうな溜遁を樫
験し得るのである。しかしながら全く知らないものを如何にして我々は求めるであらうか0求め、
                                                                                    ぎ

るといふには、そのものを何等か既に知つてゐるのでなければならぬ、そのものに既に何等か出
合つたことがあるのでなければならぬ。
かやうにして既に探究の以前に溜遁があつたといひ得る
であらう。そこにプラトンのアナムネシスハ想起〕詮の眞理があると考へられるであらう0しか
し認識は想起であるといふプラトンにおいて、それに至るまでの長い探究の対話がある0選遁は
対話を不要にするものでなく、寧ろその必然的な條件である0もちろん我々は我々の出合ふ誰と
諌 書 論
四四五

四四六
でも立停まつて封話するのではない0或る人に封しては獣つて彼を行き過ぎさせるであらう、ま
た他の人に封してはただ簡畢に挟撃してみづから過ぎ去るであらう。森々の出合ふ書物の中にも
この種のものが多い0そしてそれぞれの書物をそれが扱はるべきやうに扱ふといふことが正しい一軒
のである0どんな本であつても冒つた以↓は詳しく最後まで讃まなければならぬやうに考へる一
種の客喪は、讃書においても愚かなことである0昇の封卦を促すやうな遜彗あつて初めて眞の
遜誓苧ることができる0そのやうな豪は我々の生涯の師となり友となるやうな書物である9
かくてそれを凄むことが眞の封雫あるやうな書物は竺流の書物であるといふことになるであ
らう0領事の方法は封話の方法、
徒つて稗詮法1挿謹法とは元来封話の方法であつた−でな
■苧
ければならぬといふのは眞理である0ただ、すべての書物をこのやうに対話的に革まなければな
                                             .■■ll■●,lll一
らぬと考へることは正しくないであらう0或る書物は寧ろ蕨だけ見れば宜いのであり、また或る
書物法間畢に挨拶して通れば宜いのである0讃書の方法は竺つであるのではない。この畢純な
眞理を合得することが大切であると思ふ0尤も、対話は彗の本質的な形として、あらゆる場合−
凄書の根砥には対話がなければならず、またあらゆる場合において讃書は深まるに徒つて対話に
なa考へられるのである0ところでプラトンにおいて認識が想起であるといふことは探究が変
もしくはあこがれに動かされることを意味したが、そのやうに讃書はその純粋な婁においてあこ
がれからの、もしくは愛からの著書であるといひ得るであらう。
                                                     ′
ともかく、如何なる意味においてであるにせよ、讃書は書物に出合ふことから始まる0
ぅに讃書も元来決して終ることのないものである。これが封話としての著書の本性である0著者
が我々に閏を掛ける、或ひは我々が著者に閏を掛ける。その際我々漑勝手な質問をなし得るので
はない。勝手な質問に答へてくれるのは百科貯蓄くらゐのものであり−それすら多くの場合極め
て不完全にしか答へてくれないであらう。我々は何よりも著者の言葉を聴き、その意味を理解す
ぱそれは何に終るであらうか。
ソタラテス的封話は決して終ること打ない封話であつた。
しから
f
そのや
るために著書するのである。けれども、ただ畢に彼の言葉を聴いてゐるのみではその意味を眞に
理解することができないであらう。
我々は問を掛けなければならぬ。この間が勝手なものでない
            音一■i・一一ll一▼
限り、我々が著者に間を掛けることは著者が我々に間を掛けてゐることである0
かやうに我々に
閏を掛けてくる本が善い本なのである。さうでなければ、平凡な教科書が最も善い本であること
になるであらう。しかるに世の中には自分一人で講義してゐる本、自分一人で演説してゐる本、
                                                             蔓
自分一人でお喋りをしてゐる本といふやうに、「自分一人の」本がなかなか多い0著者の障り易
諌 書 論
四四七

                      四四八
酎0引い濁自といふ形式もある0けれども眞の濁自には自己陶酔はない、
それは寧ろ紳との封話である0自分一人で喋つてゐる本も全く無金であるわけではない、そのや
うな本はしばしば愉しい本である・我々は教養や研究のためにばかりでなく、休養や娯欒のため
にも讃書する0仕事としての読書を継揺させるには休養や娯欒のための讃書を忘れてはならない
であらう0しかし最良の本は我々に絶えず問を掛けてくる本である0かくして問答が始まる。間
は間に分れ、答は新たな閏を生み、問答は轟きることなく芸してゆく0そして我々は慧の悦
びを感じる0もちろん我々はつねに扁の本の傍に停まつてゐるわけではない。一つの対話は他
の封許に、言ひ換へると著者の一つの本から他の本へと連れてゆくであらう。更にまたそこから
                     l与.−
必然的に他の著者へと導かれるであらう〇一筋の本を讃んで、他の本を讃まうといふ欲望を起さ
                                  ヽ′l一l■
せないやうな本は、善い本ではない0かくしておのづから讃書に系統が出来てくる。讃書が系統
化し始めるに至つて、ひとは茫讃香し始めたといふことができる0そのとき、あの一冊の本を
開いたことは自分の心を開いたことであつたのである0今や讃書の歴史は自分の生長の歴史にな
る0そのやうな書物においては、或ひは毒を隔てて、或ひは†年を隔てて、幾度とな∴種々
様々の横合に、我々はそれに還つてくるであらう0そして我々はその遜遁が偶然でなかつたこと
を▲信じるに至るのである。

      ニ
破題周月山≡£パつ題潤頭
             − ヽ 「
 しかし既にいつたやうに、讃書は唯一つの種類のものでないといふことに注意しなければなら
                                                                         ヽ■l一
ぬ。すべての書物を同じ調子で凄まうとするのは無駄なことであり、有害なことでさへある。そ
れぞれの書物を如何に砺扱ふべきかを・曾得することが讃書の方法を・曾得することである。そこで
                                                                     −  I
精紳と物質とが直別されるやうに、譲書にも二つの種類を直別することができるであらう。第一
の種類の讃善があこがれもしくは愛からの讃書であるのに対して、第二の種頬の讃書は仕事とし
ての讃書と呼ぶことができる。革ナノの場合が特に封話として規定されるのは、その根砥につねに
                                 ノ
人間があるからである。その場合我過書物において出合ふのは畢に物的眞理ではなく人間であ
り、選遁の喜びはつまり人間に出合ふ悦びであつて、対話は根本において著者と自分との間に進
められるのである。しかるに第二の場合、讃書は一つの仕事である。そのとき我々が書物におい
て見出すものは材料であり、或ひはまた道具である。すべての書物は我々の研究にとつて材料も
しくは道具である。最も精紳的な書物もそのやうに使ふことができ、またそれをそのやうに使ふ
巷覗 書 論
四四九

四五〇
ことを知らねばなちぬ0竺の場合我々の対象となるのは原則的には永い生命を有する書物であ
るが、第二の場合においては原則的にはあらゆる書物が我々の封象となり得るのである。この見

地においては意書といふものは有しないとさへいひ得る0使ふ者の腕次第で、どのやうな書物で
もそれぞれ役に立ち得るものである0もちろん二束は原則論に過ぎぬ。如何に達者な大工であ
つても、材料が悪ければ良い建築は出来ないであらう0そのうへ書物は畢に材料でなく造兵でも
あるのである0書物の選揮は如何なる場合にも大切である0この選拝そのものが讃書の技術に属
してみる0そして青に第二の場合、讃書は何よりも技術約でなければならぬ。もちろん、竺の
場合にいつた対話も一つの技術である0しかしそれはより多く精紳的技術であるのに封し、ここ
にいふのはより多く物質的技術である0これは物質に働きかける三人の技術に顆供してゐる。こ
の種顆の讃書が仕事としての讃書であるのに封し、かのあこがれもしくは愛からの彗日は教養と
しての讃壷目である0後者が哲寧的であるのに封し、前者は科挙的であるといふこともできるであ
らう0しかし既に述べたやうに哲学の精紳と科挙の精紳とは全く別のものでなく、両者はつねに
密接に結び附いてゐる。
 先づ科挙的讃書といふものが如何なるものであるかを考へてみょう。断るまでもなく、ここに
科学的といふのは畢に自然科挙、更に杜合科学にのみ関係してゐるのではない。文奉書について
も、哲寧書についても、科挙的といひ得る一つの著書の仕方があるのである。この場合、讃書は
できるだけ計書的に行はれなければならぬ。それには、教師や先輩について、如何なる本を、如
何なる順序で讃むべきかをきくのも宜いであらうし、何か信用のある書物について、そこに掲げ
てある文戯目錬とか引用書目とかを見て自分で計童を立てるのも宜いであらう。できるだけ早く
自分自身で掲自の計蓋を立て得るやうにしたいものである。第一の種類の讃書は多くは冒険であ

る。かずかずの危険に曝されるやうな椅紳的遍歴なしに恐らく「選遽」を経験することはあり得
                                                                       illl一一■
ないであらう。計董的な著書で眞の教養に達し得るかのやうにいふことは無理であらう。しかる
に仕事としての讃書においては、あまりに冒険的であるのは善くないことである、必要なのは寧
ろ職人の手堅さである。もちろん、ここでも冒険が全く排斥されるのではない。ひとが普通に読
むやうな本だけを讃んでゐるのでは新しい考へを得ることは困難であらう。我々は読書において
後見的でなければならない。讃書の欒しさは教見的であることによつて高められるのである。教
見は一種の溜追である。ただ求める者のみが教見し得る。他から教へられた書物にのみ頼ること
                                                                                     i
なく自分自身で、自分に適し、自分に役に立つ本を教見することに努めなければならない。如何
読 書 論
四五一

四五二
にしてそれを覆見し得るのであるか0多くの本に梱れてゐるうちにその勘が出来てくるのだとい
ふのが最も適切であらう0本を讃まうといふほどの者なら、できるだけ多く本に解れるやうに心
掛けることが大切である0冒ふ冒はぬは別にして、本屋を歩くこと、苛む青まぬは別にして、研
究室の本の列を見ること、すべてかくの如きことが必要である。どのやうに冒険的であるにして
も、仕事としての讃書においてはい
l▼
自分に何か或るテー打をもつて計童的に苛んでゆくやうにし
なければならぬ0自分で計重言立てる面白さが分つて初めて讃書の面白さが分るのである。もち
ろん、必ずしも最初の計重通りに進むものではない0自分の計蓋の中にない本は一切読まないと
                                                ヽ‡I
いふやうな機械的な讃書は畢に面白くないのみでなく、また必ずしも敦果的ではない。偶然讃ん
だ本から意外の教見の生じることがある0けれどもただ偶然にのみ委ねてゐる者にとつては、如
何なる後見も不可能である0基礎的な訓練として、或る機械的な讃書がつねに必要であるといふ
ことを理解しなければならぬ01彗日の欒しさ」といつた言柴に迷はされて、この訓練を怠る者
は、結局讃書の眞の楽しさを理解しないで終ることになるであらう。計童的な彗日はつねに何等
か専門的な讃書である0自分の専攻する学科に関する場合は言ふまでもなく、それ以外に}彗日を
擁める場合においてもTそしてこれはまた自分の専門における進歩、新しい後見のために必要
ム・「
なことである1なるべく専門化してゆくことが大切である。「讃書の楽しさ」といつた言葉に
迷はされて、畢なるデイレツタントになることのないやうに注意すべきであらう。讃書の眞の欒
しさは寧ろ自分で計壷を立てて苛んでゆくところから生じるのである。
 この種顆の讃吾が特に技術的でなければならぬことは既に述ペた通りである。徒つて讃書法に
っいて書いた本を讃んでみることも有盆であらうが、それに拘泥することはないと思ふ。大切な
のは先づ青み始めることである。水の中に入らないで水泳を学ぶことができないやうに、本の中
に入らないで讃書の技術を知ることはできない。如何に書を讃むべきかについて考へ暮すのは、
畳の上で水泳術を論じてゐるのと同様である。先づ本を蕾むことによつて讃書の技術は合得され
るものである。他人から本の青み方を教はることも無盆ではないが、讃書の技術は手工業的なも
のであることに注意しなければならない。即ち、手工業的技術と同じやうに、その技術は各人に
おいて肉饅化され、個性化されたものである。各人にめいめいの文燈があるやうに−各人にめい
めいの讃萬法があつて然るべきである。讃書人は職人の如くでなければならない。事青また、讃
書家といはれるやうな人には一種の職人気質があるものである。例へば、職人が道具を大切にす
るやうに、讃書家は書物を大切にする。書物を大切にしない讃書家は先づないといつても官いで
讃 書 論
四五三

あらう。もちろん、あらゆる技術においてのやうに、
              四五四
讃書の技術の根砥にも科学がある。そのや
               l
うな科学として特に文戯寧ハフィロロジ⊥!批評撃と解稗撃とがその二つの大きな部門であ
る1の存在を忘れてはならない0我が国の讃喜入にとつて一つの不孝は、この文戯撃といふも
のが西洋においてのやうに教達し普及してゐないところにあるのではないかと思ふ。本を讃むに
は語学ハ畢に外国語寧のみでなく国語革をも含めて)が必要であるといふことは誰も知つてゐる。
しかし畢なる語学以上に文戯挙が必要であるといふことは、それほど理解されてゐないやうであ
る0或ひは語寧の勉強にのみ迫はれて文戯寧にまで至らないでしまつてゐる。もつと文戯寧的知
                                                                                                                                                                          ■■L.11●
識泣びに訓練が普及しなければならない。言ふまでもなく、
我々は畢に凄むために青むのでなく、
学ぶために或ひは考へるために讃むのである。
書物は結局そのための材料もしくは造兵に過ぎぬ。
これを如何に使ふかが問題である0かくて讃書の技術は畢に青む技術にとどまることなく、思惟
の技術もしくは科挙の方法と結び附かなければならぬ0讃喜の方法を思惟の方法及び科挙の方法
から分離して、
それだけとして理解することは抽象的である。如何に書を苛むべきかについて考
へる場合Jlの関係を忘れないことが肝要である0すべての書物は思惟の方法及び科学の方法に
徒つて虞理される材料もしくは道具に過ぎぬ0この一種冷酷な彗目法がある。讃壷目を甘い方面か
d\ノ、
らのみ考へるのはデイレツタントのことである。この冷酷さは時としてあらゆる書物を否定して
物そのものに直接向はせるのである。本に何と書いてあるかが問題でなく、それが事育と一致す
るかどうかが問題である。しかしながら書物を否定し得る者は、書物を廣く、また深く青んだ者
でなければならぬ。本を青まないで本に対して懐疑的であるといふのはセンチメンタリズムに過
ぎない。そればかりでなく、書物の存在そのものがそれ自身一つの杏定し難い事音、歴史的事音
ヽ∫
である。そこに文化の停統といふものがあり、そして如何なる創造も侍統なしには不可能である9
一切の書物を地域して自己に還り全く新しい哲寧を立七たと稲するデカルトにおいても、中世哲
撃とのつながりが有することは、今日歴史家によつて示されてゐることである。また一見冷酷な
讃書法が必ずしも冷酷であるのではない。輿へられた木材を裁つたり側つたりして冷酷に見える
大工も、彼が善い大工であればあるほど、その材料を生かしてゐるのである。恰も木材はその大
工によつて使はれることを待つてゐたかの如くでぁる。死んだ物質はそこに生命を輿へられる。
青物にもかくの如きことがなければならぬであらう。
 書物はいろいろな目的に利用されてゐる。讃書が現青から逃避するための手段になつてゐるこ
とも少くないやうに思はれる。このやうな讃書が凄書の正道でないことは言ふまでもなからう。
読 書 論
四五五

】周絹qづノ▼預苛宅∋。′“。
                                            四五六
そのやうな讃書はた汁他の手段の代りに硬られたものであつて、そこに何等の必然性も有しない。
徒つてひとはあらゆる手首り次第のものを勝手に青むのである。讃書の代りに釣であつてもよい
のである0求められてゐるのは讃書の国有のもの、固有の利金、固有の楽しみではないからであ
る0本来の讃書は哲学的であるか、科挙的であるかである・J文奉書の場合においても、右に規定
したやうな意味の二つの方向のいづれかに準じて考へることができるであらう。娯楽のための讃
ミ巨臣ド転Er■l−1肝】l■札
書も必要であるが、娯奨は仕事に仕へることを忘れてはならない。
ところで精紳と物質とが相礪
れるやうに、
哲学的讃書と科挙的讃書とは相媚れることによつて互に生産的になるのである。如
何に精紳的な書物も−それが歴史的存在であるといふこbによつて眈に物質的である。思想は言
葉、この物質的なものにおいて表現されてゐる。徒つて哲革的讃書も文戯寧、更に一般に歴史学
を通じてゆかねばならず、そこに科学的な苛み方がなければならぬ。また如何に材料的な書物も、
それが歴史的存在であるといふことによつて軍に物質的なものではない。材料そのものが既に表

現的なものとして我々に呼び掛けてくるのである。材料は我々が手を掛けるに徒つて轟々生命的
なものとなhソ、
それと我々との間に一種の封話が行はれるやうになるであらう。
さうでなければ、
材料は眞に生かされることができない。科挙的讃吾が哲学的になるのである。また他方、如何な
る蛮術家にも何等か職人的なところがなければならぬやうに、如何なる讃書人にも或る職人的修
行が必要である。このやうな修行を離れて教養といふものがあるのではない。専門的讃書と全く
別個に教養としての讃書を考へれば、デイレツタンティズムに終るであらう。科挙的頚書のうち
にも哲学的なものがある。そこに溜遁もあれば、対話もある。
讃 書 論
四五七

一‖‖
四五入