少年少女諸君へ

 私が只今御紹介を受けました松岡洋右であります。
 今、私が国際聯盟に於て国威でも発揚した様なお褒めの言葉を受けました
が、それを受けるに当る身ではなく、只大命を奉じてジュネーヴ会議に於て、
明治維新以来の外交を清算して開国以来八十年間に於ける、日本国と致しまし
ては最も大きな外交戦で、ある意味に於て大決心を以て進退しなければならな
いジュネーヴ会議に、図らずも無力ながら主席全権として、たゞ正直に日本人
として言ふべき事をいひ、なすべき事をしたに過ぎませぬ。若し外国人の立場
でしたのならほめて貰つてもよいが、日本人として言ふべき事をいひ、行ふべ
き事を行つたに過ぎませぬ。是は当然で一言でいへば日本人の義務を一心に果
さんとしたに過ぎませぬ。
 寿府から帰つて、五月一日全国民に御挨拶申上げた其の事は、皆さんも御聴
き下さつた事と存じます、其の節、熱烈なる御後援に対しては感謝の辞を述べ
ておきましたが、今重ねて御礼を申上げます。といふのは寿府にある間は各方
面より多くの手紙、電報等、中には血書まで戴きましたが、其の中で小学生の
絵まで入つた手紙(慰める意味であつたらう。中々立派なものもあつた)もあ
りました。これが私共第一線の人々に一番感激を与へました。
 私は小学生である皆様に、お目にかゝつたこの機会に特にお礼を申上げます。
今日のお話は、ほんの五分か十分位だと思つて来ましたが、少し時間の余裕が
ありますから、稍々長くお話し致します。
 先づ吾々は、満洲問題に就て、約二ケ年の間奮闘致し、而して終に脱退を致
しました。此の事から吾々は何を学ぶべきであらうか、其の中で主なものを一
二お話し致します。
 第一は正直でなくてはならぬといふことです。皆さんは先生から教を受けて
知つて居ませうが、国としても正直で正しくなくてはいけませぬ。何をするに
も内に省みて正、不正を考へて見て而して為さなければなりませぬ。今なしつ
つある事は正しいか、正しくないかを考へなくてはなりませぬ。人を欺す事は
出来るが天をだますことは出来ませぬ。たとへ過つた行をしてゐても、悪いと
気がついたら、途中でもよい、直ぐ改めたらよい。「過つて改むるに憚る事勿れ」
と申す孔子様の三千年前のお言葉は、今の世の中でも真理であります。
 これが即ち人間が向上発展する道であります。過つて改めぬものは堕落する。
国も同様で、国が個人個人の集りである以上、国のなす事も亦同じでありま
す。この事は何故感じたか又何故皆さんに話さなくてはならないのか、夫れは
国際聯盟は満洲問題につき、日本が正しくないといつた。吾々は認識不足の聯
盟のなす所を快しとしなかつたが、日本のいつた事、なした事につき深く考
へるとき、こちらにも罪のあることが認められる。日本人自身にも当時してゐ
る事の正否の判断が明かでなかつた。故に欧米人から疑はれた、罪は日本人に
もある。即ち日本人は自ら省みて正、不正に就て、ハッキリしてなかつたので
はあるまいか。
 「正を履んで怖れず」「自ら省みて縮(なほ)くんば千万人と雖も吾往かん」とは、私共が
子供の時から教はつてゐる。当時日本人全体にこの信念があつたのか…日本
が最初から斯うした明かな自覚を持て居なかつたから、欧米人に疑を起させ
たので、必ずしも彼等の認識不足のみではなかつた。
 日本の外交は六十年来全くそれであつた。即ち正しき事を行ふと言ふ信念を
もたず、徒に他国の顔色を見てたのである。何をするにしても個人としても国
としても、先づ正しいか正しくないかを考へ、例へ全世界がやれと云つても正
しくなければやらぬ。正しければやるなといつても之を行ふ。これが最も大切
なことだと思ひます。
 次に現在及び将来の事に就て、一言お話し致します。
 非常時と申す事は何か。子供心にも不安の念を起させてるだらうが、夫は一
体何か、私は是を二つに分けてお話し致します

 一つは世界中が非常時である。
 世の中は大変なスピードで変り、世界の変局に自身の今迄習つた事をあては
めて考へて見ようとするが、自分等には訳のわからない事が沢山ある。現在ロ
シアのソヴェート、イタリヤのムッソリーニのファッショ、ドイツのヒットラー
のナチス、アメリカの不景気さわぎ等、世界を挙げて迷ひ、悩みもがいてゐる。
米国は世界で一番富限者の国とされてゐるのに、今は一番貧乏で不景気の底に
沈んでゐる。こんな変な矛盾が起つてゐる。是は人が迷ひ、悩んで、もがいて
ゐるからである。其のもがきは何とかしてもつとよい生活に、もつと明るい生
活にともがいてゐるのである。
 日本も月の国ではない。地球上の国である以上、この世界の迷に捲込まれて
ゐるのである。
 もう一つは、日本の国だけの事情から等る非常時、一番大きな問題は人口の
激増で、日本は今維新当時の人口の三倍となつて居る。而も毎年百万人殖えて
ゐる。領土、富にも限りがある。又食料にも限りがある。皆さんは父兄の心配
によつて何の不自由なく育てゝ貰つてゐるが、如何にして食べるかといふ事は、
将来大きな不安であり問題である。
 其の次は、日本の文明が西洋にかぶれた事で、明治維新以等外国からよい事
をとり入れる事に努めたけれども、又過つてよくない所も沢山取り入れた。
 夫等よりも、もつと大きな問題は日本人は中々偉い
つまらぬ国民なら今の
悩み又将に来らんとする国難(もう二三年たつたら)―半ばはない―けれ
共日本人はあまりに偉い。以前は顔色が黄色であり、風采は上らぬ。だが戦
は強い、好戦国だ、半ば野蛮人だといつて笑はれてゐたが、其の後戦だけでは
なく、商業に、工業に、学問に、又平和的事業等いづれもすぐれて居り殊に近
頃世界的発明をするのは、日本人に多い。是を見て日本人の偉さに外国人は驚
き且つ怖れる様になつた。
 最近印度に於ける貿易の事で、英国と争つて今現に会議をしてゐる。夫れは
日本の工業が世界一だつた英国の工業をまかして来た証拠で、段々平和的事業
でも日本が優れて来たからである。一語にしていへば、日本其の物がスピード
で偉くなつて行く、即ち「喬木風強し」で、日本といふ樹がだん/\伸びて風
にあたるのである。外交上、是が非常時国難の正体である。木を切りさげた
ら風は当たらぬ。
 日本も弱ければ国難はないが、切つた木は枯れる、弱くなった国は亡ぶ。日
本は弱くなることは出来ない。日本は益々強くなる。二年や三年で非常時解消
などとは馬鹿の考へで、是からが益々非常時である。
 何故こんなにえらくなつたか。是は建国以来の運命であると共に、一番大き
な原因は、明治大帝が日本にお降(くだ)りになつて、其の御稜威によつて明治維新が
出来た。それに吾等の祖父・曾祖父達が真黒になつて働いたお蔭だ。私が少年
時代米国に居る頃は、日本と云ふ国は余り知られてなかつたが、今は世界三大
国の一つとなつた。是は偏に 明治大帝や吾々の祖先のお蔭である。是等の人
々は忠孝によつて国をえらくする事が出来たのだ。私達は命のある限りこの遺
産を守つて働きたいと思ふ。皆さんが大人になつて国を背負つて行く時には、
もつと/\えらい日本を貰ふのである。えらければえらい程ひどい国難が来
る。この国難にまける様ではだめだ。君等のお父さんやお祖父さんから貰つた
国を、もつと/\えらくせなければならない。是につけても其の本は忠孝であ
る。今の内に孝行の出来ぬ者は大きくなれば日本の厄介者だ。孝行の出来ぬ者
は、忠孝も出来ぬ。又国の為にもならぬ。欧米は忠孝の道がない。孝行とは
何か、君等は説明しないでも分るが、西洋人にはよくは分らない。まだ日本に
は忠孝がすたれてゐないのだ。
 私のお願ひは、どうかこの事を実行して、先生のお教へをお守りなさい。
 あなた方にお目にかゝつて、寿府会議の時にあなた方の手紙を涙を流して見
た事を思ひ浮べて感謝すると同時に、是から先の事を考へて、いやでもおうで
も実行しなくてはならぬ。この最後に言ひました事を忘れぬ様お願ひいたし
ます。

                   (昭和八年十二月十日広島市小学生に対する講演)