革新断行の秋


 今春ジュネーヴから帰つた当時、政党の一部から非常時解消なる言葉が出た。
私は日本の真の非常時はこれからだと思つて帰つて来た矢先、この不思議な言
葉に出会(でつくわ)した。即ち五・一五事件に対する判決も近く下されるので、これに伴
ふ非常時観念が解消するといふ意味であるとの説明であつた。随分苦しい弁明
である。それは兎も角として、最近に至つて再び日本に非常時はないと説く者
が現はれて来た。それによると千九百三十五・六年を憂ふる人があるが、特に
これを目標に非常時呼ばはりをする必要がどこにあるかといふのである。正直
のところ私は非常時はいよ/\これからだと思つてゐる。私は非常時なるもの
ついて二つの見方を持つてゐる。
 その一つは世界を挙げて非常時である。少くとも現代文明に於いて、一定水
準以上に位してゐる国は、こと/"\く非常変局に悩んでゐる。そこで日本が水
準以下の国でない以上、即ちアフリカ内地や南洋の土人の国ではない以上、こ
の世界を挙げての変局に、独り除外例であり得る道理はない。日本の国情を見
て、さう非常時呼ばはりする程のことでないではないかといふ人の真意は、恐
らく我が国の現状をもつて、欧米諸国のそれに比較すれば、遙かに日本の方が
よいではないか、といふ見方からなのではなからうか。それならば、私もまた
首肯する。
 次に我が国の非常時は、我が国独特の事情から来てゐるものがある。即ち人
口が維新以来約三倍になり、なほ年々百万も増加しつゝある。従つてそれより
来るところの種々精神的及び物質的方面の困難な問題を生するのである。これ
を野外関係においてみると、日本人が近年益々現代的にその能力を発揮しつ
ゝある。しかしてその能力を発揮すればする程、他国に種々の方面において脅
威を与へるのである。さればとて我が民族の有能振りを差控へる訳にも行かな
い。およそ一民族が発展の途上にある時、何人も之を抑制する事は出来ないも
のである。大和民族が現に見るが如き生命の発展をなす以上、内においても思
ひ切つた革新を要求せざるを得ないであらう。同時に外に向つても場合によつ
ては、非常な危機をかもすやうな事がないとは云へない。外に向つての危機の
如きは、もとより極力之を避けなければならないが、然し左様な危機を生じ
得るといふ事を忘れてはならない。しかして、われ等は之に処する丈の用意を
断じて怠つてはならない筈である。
 内政に於ても述ぶべき事はまことに多いが、それは他日に譲り、こゝには国
難の一部として外交に就ての私見の一端を述べる事とする。日本の外史方針と
しては、世界各国と平和、協調を求むるにある事は言ふまでもないことである
が、右に述べたところの危機に就ては、十二分に考慮し、且つ万一に用意して
置かなければならない。例へば、日米の関係にしろ、冷静に考へれぼ、両国の
間に伸を良くする理由こそあれ、喧嘩しなければならぬ理由は全くない。況ん
やわれ/\は、アメリカ大陸の事に口を出すといふのでもなければ、又我が国
には、アメリカの一部でも取りに行かうといふ程の狂人もないのである。アメ
リカにした処で、極東に対して平和的に貿易をする以外、何の求むるところも
ない筈である。然るにやゝもすればアメリカが政治的に極東問題に容喙せんと
する。少くとも日本人をしてかく感ぜしむる態度を近年往々にして取る事が
ある。
 今一つ憂ふべき事がある。それは正直に言へば、近年日本国民に厭な思ひを
させつゝあるのであるが、即ち是が非でも軍事的に、主として海軍力に関し日
本の手足を縛しアメリカに敵はないと、日本人をして諦めしめる所まで、日本
を劣勢の地位に落さうといふ画策、少くも、さう日本人に感ぜしめる画策の行
はるる事である。私は極めて厳粛に且つ熱心に米国民に忠告する。それは若し
真に太平洋上の平和と、日米国交の親善ならん事を希望するならば、日本国民を
して、かやうに思はしむるが如き一切の措置を、米国は避くる事が賢明である
といふことだ。かゝる企図は米国人の欲する平和に導くものにあらずして、実
はその反対の方向即ち戦争に導くものである。
 米国の為政者達は、日本国民の性質をよく研究するがよい。白人と余程異な
つたところがある。私はジュネーヴでも屡々繰返したが、日本国民といふもの
は、涙の前には非常にもろい国民であるけれども、脅迫の前には決して膝を屈
するものではない。私は日米間にもし危機を胚むものがあるとすれば、以上指
摘した二つの事だと思ふ。私は米国民の目的は平和にある事を信ずる。たゞそ
の平和といふ目的に達する道の歩き方を大いに考ふべきであると思ふ。太平洋
上の平和は、日本国民と倶に共に相倚つて之を確保しようといふ考へ方及びこ
れに基く行き方以外には断じて達成することは出来ぬ。
 また日露の関係について考へて見ても、ほゞ同様のことがいへる。私は冷静
に考へて、日露の間に戦ふべき何ものも無いと思ふ。この両者が戦ふ如きこと
あれば、それは真に馬鹿気た人類史上の大錯誤だとさへ思ふ。けれどもこれも
やはりこの両国の間において、お互に相手方をよく理解し、つとめて誤解を防
ぐに非ずんば、戦ふべからざるに、戦ひが起らぬと誰が保障出来ようか。
 更に日英の関係の如きに至つては、結局経済戦以外の何ものも無いのである。
しかして貿易の如きは自ら何処の国にも限度があり、我が国の貿易は、年々増
えつゝある我が人口を支へる足しにさへなれば、それでいゝのである。我が貿
易の限度はこれである。それを可能ならしむる程の余地が、この広い世界に無
い筈はない。英人と雖も、これを可能ならしむる位の襟度を持つて然るべきで
ある。そしてアジアと太平洋の平和のために、日英もまた相共に携へて行く途
のないことはあるまい。それがまた日英自身のためにも利益であることは疑ふ
の余地がない。
 支那問題は、厄介千万な問題である。われ/\は現に、支那国民の多数によ
つてなほ誤解されてをる。極東全局の安定を期するまでには、前途なほ遼遠
といはなければならない。しかし、吾々は何としても東亜全局安定の目的のた
めに邁進しなければならぬ。これを貫く上において、米国との関係、露国との
関係、英国との関係、その他仏、伊、独等の関係をも十分考慮しなければなら
ぬ。
 前途はまことに多事多端である。が併し運命である.それは大和民族は必ず
東亜全局の安定と、保持の大業を達成する。どれ程の艱難に出会(でく)はしても、必
ず達成するに相違ない。戦争などの理由は、冷静に考へれば無いかも知れないが
兎も角前途は容易でない。単にわが国の将来、東亜全局の安定の目的を達する
といふ見地のみから見ても、私はこゝ数年非常な時局であると思つてゐる。卅
五・六年が何が心配だ。どこに非常時があるのだ。などゝうそぶく人達は暫く
第一線から退かれたがよいのではあるまいか。さうして国家の前途を、深く憂
ふるもの達におまかせになつては如何かと思ふ。これを思ふにつけても、私の
叫びは「青年よ起て」といふことである。
 最後に附記したいことは、外交を行ふにつけても、問題は内政にある。内政
の方が常に先きに立つといふことである。私はよく「伊勢大廟の神鏡の前に立
つて、自己の姿を見直せ、そして心と形とを正せ」といふのであるが、挙国一
致、内に於て革新を断行し、以て先づ己れの心と姿とを改めなければ、真の外交
は生れて来ない。その意味において、私は最近国内の革新断行を何よりも急務
とするものであるが、かく考へて来ると、差し当つて、真ツ先に解決せなけれ
ばならぬ問題は、現在の既成政党は果してよく、内憂外患の非常時国難に当
るだけの能力を持つまでに、速かに改善され得るであらうかといふ一事である。
若しそれがが出来ぬといふ事であるならば、吾々は速かにこの国難に当り得る人
か、団体かを他に求め程ければならない。
 今一つ考へなければならぬことは、この非常時局に処するには階級闘争意
識を絶ち、各経済単位間の争ひも止め、一言にしていへば、一切の闘争を止め、
之に代ゆるに協力を以てせねばならぬ。この世界変局に処し、この非常時局を切
抜けるには、何としても「和」の一字を貫かねばならない。それを妨げるもの
は人であらうが、制度であらうが、団体であらうが、何であらうが、一切これ
を排除すべきである。私の主張は、まさに「一国一体主義」であつて「和」し
て国難打開に当るべしといふのであるが、これが実現を計る上において、もし
も政党といふもの、少くとも既成政党といふものが、障碍になるのなら、断然
止むるがよいではないか。何も父祖伝来の宝物でもないではないか。もしわが
国民にして、真に世界変局が如何なるものであるかを悟り、またわが国の非常
時局の正体を掴むことが出来るなら、かゝる問題を真剣にかつ深刻に考へねば
ならぬ筈であると思ふ。