教育勅語と我が国の教育 吉田熊次 一 教育勅語渙発直前の徳育論  明治維新当初の我が国の国是は五箇条の御誓文に明示せられてある通りである が、明治四・五年以後の教学の趨向は専ら欧米思想の輸入に急であつて、『皇基ヲ振 起スヘシ』との聖旨に必ずしも副はざるものがあつたことは、輓近切りに論難せら れて居る所である。明治十二・三年以降は政府の文教方針も一変して来たのではあ るが、当時の政情と思想界とにはなほ依然として西洋崇拝の勢力が強かつた。それ と同時に漸く東洋思想に目覚めて彼に反抗する気運も起り、.明治二十年前後に於け る我が国の思想界は其の帰趨に迷つたことも周知の事実である。教育勅語の渙発は かゝる混乱を一掃し、教育の向ふべき所を明示せられたのであつて、実に我が国に 於ける思想問題に対して永久に解決を与へられたのである。かゝる事情を明らかに する為に、吾人は先づ勅語渙発直前即ち明治二十年前後に於ける徳育に関する諸論 の代表的なるものを挙げ、当時の我が思想界・教育界の情勢を管見しようと思ふ。 西村茂樹博士の日本徳育論  明治年間に於て徳育の事に最も熱心であつた学者の一人は西村茂樹博士であつ た。西村氏は身を文部省の要職に置かれたにも拘らず、明治五年太政官より発せら れたる『学制頒布に関する被仰出書』の中に一言も忠孝仁義に説き及ぶ所がなかつ たことを遺憾となし、明治九年に修身学社を起した。爾来道徳運動を継続して居ら れたが、明治十九年十二月には帝風大学の講義室に朝野の名士を招じて日本道徳論 を演説し、翌一十年に之を刊行した。本書は其の標題の示すが如く、道徳論であつ て、徳育論ではないが、其の中には自ら徳育の根本問題が含まれて居る。西村氏は 第一段として『道徳学ハ現今日本ニ於テ何程大切ナル者ナルカ』を説いた後に、第 二段として『現今本邦ノ道徳学ハ世教ニ拠ルベキカ、世外教ニ拠ルベキカ』を論じ、 『世外教不利多キニ由リ、世教ヲ用フベシ』と断じ、進んで第三段として『世教ハ 何物ヲ用フルヲ宜シトスベキカ』を詳論し、『余ガ道徳ノ教ノ基礎トセントスル者 ハ仏教ニ非ズ、哲学ニ非ズ、況シテ仏教ト耶蘇教トニ非ルハ勿論ナリ、然レモ亦儒教 ヲ離レズ、哲学ヲ離レズ、仏教耶蘇教ノ中ヨリモ亦之ヲ採ルコトアリ』となし、儒教 を本とし西洋哲学を参考として我が国徳教の根本となさんとしたのである。西村氏 の論は道徳一般に関するものであつで、之を以て直ちに学校教育に於ける徳育論と なすことは出来ぬ。同書第四段『道徳学ヲ実行スルハ何ノ方法ニ依ルベキカ』は主 として道徳会を起して道徳の実践を普及せしむべきことと道徳会の実行方法とを細 説したるものであつて、寧ろ社会教育に関する論で、今日切りに唱道せらるゝ教化 団体の常会の如きものを此の時既に唱道せられたのである。尤も西村氏は長く文部 省の編輯局長の要職にあり、又自ら小学修身書も著して居るのみでなく、修身教授 法に関しては夙に一家の見識を発表して居られるのである。此の『日本道徳論』は 直接に徳育を論じたものではないが、其の中に徳育に関する根本原理が論議されて 居ると見ることが出来ると思ふ。 加藤弘之博士の徳育方法案  明治二十年十一月十二日、大日本教育会に於て加藤弘之氏は『徳育方法案』に就 いて演説をなし、後之を単行本として公刊された。加藤博士は先づ維新以後日本に 於ける道徳は其の根柢を失へることを次の如く述べて居られる。『維新前迄は我日 本に於ては上等社会は概して孔孟の儒教下等社会は概して釈氏の仏教で其道徳を維 持して居ました殊に上等社会には一種武士道と云ふものがありて更に道徳を堅固に 致しましたが維新後社会万般の事物西洋主義に則ることゝなるに際し儒教は頓に其 勢力を失ひ従前孔子を以て空前絶後の大聖と考へ儒教を以て万世不易の大教となし たるものが忽ち変じで孔孟の儒教主義は今日の文明に害あり開化主義に反せりと云 ふが如き輿論となりました加ふるに廃藩に及び士族次第に貧困に陥り儒教主義は武 士道と共に殆ど行はるゝ所なきに至りました』 博士は維新以前よりの我が国情の 変遷を親しく体験せられた学者であつて、右の叙説の如きは最も適切に我が国徳教 の混乱せる事情を描写せるものと言ふべきである。博士は進んで我が国以外の徳数 について次の如く述べて居られる。『欧羅巴各国では耶蘇教と云ふ実にシツカリと 致したる道徳の大本があり土耳古には回々教といふ道徳の基本があり支那には孔孟 主義と云ふ大土台がありますソコデ是等のものを比較してみれば優劣もあり得失も あらうなれども何としても右等の国にて其大本大土台と云ふものは少しも動かすこ との出来ぬものであります』『善にも悪にも何分動かすことの出来ぬもので夫に由 て其人民の徳育の土台が立つことであるなれども日本の今日に至りては何分其様な るものが絶無であること故殆んど致し方がないであります夫故にこそ政府でも人民 中でも日本の徳育は何主義が宜しからう歟耶蘇主義がよからう歟孔孟主義がよから う歟否それよれも道徳哲学の主義に則るがよからん抔種々雑多の議論が出るでござ るなれども凡そ徳育の主義に付ては左様なる議論の出る邦は日本より外にはあるま い他の国には只今申す如く善にも悪にも徳育主義の大本がシツカリと極りて動かぬ ものである故決して徳育主義の是非得失の議論の出づべき筈がないのであります』  加藤博士の見解に従へば、徳育の大方針とか根本主義とかいふものは、各国其の 国の宗教に依つて一定せられて居るもので、学者や教育家が臍手に論定すべきもの ではないのである。『我邦では学者や教育家が徳育主義を論考して然して其徳育よ り遂に日本国民の気風思想を産み出すに至るであると云へば実に奇々怪々のことゝ せねばならぬではありません欺』と博士は論じて居られるのである。此の議論は幾 多の問題を吾人に提供するものである。古来学者は内心に理想の世界を描き、それ を土台として人間及び人間生活の規範を論定せんとするのが常である。然るに現実 の生活は歴史的に展開し来れるものであつて白紙に画かれたる理想を規準として善 悪を決定することは許されない。而して歴史的現実の生活規範は外国にありては多 く宗教に依つて決定せられて居ることは事実である。加藤博士がかゝる事実に基づ き所謂実証主義的に徳育の根本は宗教に依ることによつて初めて力あるものとなる と説かれるのば確に一面の真理を合むものである。けれども徳育の根源は必ず宗教 に依らねばならぬとの断定は聊か速断に失すると言はねばならぬ。先づ第一に宗数 とは何を意味するかが問題である。基督教とか仏教とか回々教とかを指して宗教と いふことは何人にも首肯せらるゝ所であるが、儒教をも宗教といふに至つては大な る問題である。儒教より転化せる宗教はあるとも言ひ得ようが、経典に示された儒 教そのものは決して宗数ではない。これは寧ろ学説であり道徳論であり政治論であ り哲学ではあり得るが、宗教的教義とは全然性質を異にして居るものである。又西 洋にありても上代の希臘・羅馬には民族宗教の外に学者に依つて説かれたる哲学・ 倫理学等があつて、是等の学説が人民の徳育の上に重大なる力を持つて居たのであ る。然るに一国の徳育は宗教に非ざれば不可能であるとすることは庭史的事実に合 せざる独断たるを免れぬ。尤も一国の徳育は歴史伝統に即して施さるべきものであ りて、一学者の主観より勝手に創造せられた架空の規範に依るべきものでないとい ふ説は確に一大警告となすべきである。我が国の徳育は、明治維新後にありては、 五箇条の御誓文を基本とすべく、決して学者の個人的意見に依つて決すべきではな いのである。然るに加藤博士の『徳育方法案』は全く此の方面を考慮に容れず『神 儒仏竝に耶蘇の諸教を徳育に用ふ』べしと主張せられたのは、歴史伝統を願みざる ものとせざるを得ない。  加藤博士は『公立の中小学校には毎校に右の四教の修身科を置て各其忘す所其信 ずる所の教派に就かせたが宜しからうと思ひます神道を信ずるものは神道の修身科 に入れ仏教を信ずるものは仏、儒は儒、耶蘇は耶蘇とするが宜しからう』といとも 楽天的に述べられて居る。併し乍ら、学校教育に宗派的宗教を加ふることが如何に 煩雑にして且困難なる問題を惹起するかは、西洋教育史を解するものは直ちに思ひ 起す所である。特に学校教育に於ける国家権力と宗教権力との闘争史を知了せる者 にとつては如何に博士の主張が楽天観に失するかを直感するであらう。明治二十年 十二月に西村正三郎氏も『小学徳育新論』を著して痛烈に加藤博士灯所論を駁撃し て居る。明治二十二年に刊行せられた山崎彦八氏の『日本道徳方案』中にも亦其の 反対論が述べられて居る。(教育勅語渙発関係資料集第二巻参照)孰れにせよ、当時の徳 育論が如何に混沌たるものであつたかは、是等の論難に依つても知り得られるのである。 杉涌重剛氏の日本教育原論  加藤博士の宗教的徳育論と対蹠的立場にあるものは、同じく明治二十年に出版せ られた杉浦重剛氏の『日本教育原論』中に述べられてある理学宗に依る徳育論であ る。加藤博士も進化論者であり自然界の理法たる天則を信じて居られた。けれども 博士は独自の哲学とも言ふべき愛他心と愛己心との関係論よりして宗教に依り『感 情的又道徳教的愛他心』を教養すべしと主張するのである。然るに杉浦氏は『日本 教育ノ基礎即チ日本人タルニ必要ナルノ教育ヲ施スノ原素ハ古来日本人ニ特有ナル 精神ヲ保有スルニアリ』となし、それは『祭政一致単純ノ制度』に外ならずと論じ て居る。尤も杉浦氏は『斯ノ如ク説キ出サバ或ハ尋常ノ国学者流ノ如ク見做サル、 カハ知ラザルモ決シテ然ルニアラズシテ外国ノ風俗文物制度ヲ習熟スレバスル程ニ 益々此事ノ必要ヲ感ズルナリ」と説き、西洋諸国は宗教の力を借りて道徳を維持せ んとし、支那に於ては儒教に依つて居るが、我が国にありては『中等以上ノ社会ヲ 宗教ノ力ニテ左右スルハ甚ダ難ク鄒魯ノ教ニテハ欧米諸州ノ関係上ニ不都合ヲ来シ 到底何レノ方へモ団扇ヲ上ゲ難ケレバ余ハ茲ニ一種ノ新主義ヲ掲出セント欲スルナ リ』と論じ、『人事モ亦物理ノ定則ヲ離レズ』と主張せられるのである。  杉浦氏の条政一致主義と物理定則主義とは如何なる開係を有するか稍不明の感な きを得ないが、其の『物理ノ定則』とは『所謂勢力保有論』であることは杉浦氏の 言明する所に依つて明らかである。『蓋シ此勢力保存論ハ当時物理学者ノ守本尊ト スル所ナレドモ之ヲ拡張スレバ何事ニ付ケテモ応用シ得べキヲ以テ凡ソ天地間ニ行ハ ル、事件ハ凡テ之ニ包有スルヲ得可シト信ズ』と説き、高僧が肉食妻帯背を禁ずるの も、愚夫愚婦が極楽行かんが為に此の世で美事をなすのも、『四十七士ノ如キ忠勇 義烈ノ士ガ千辛万苦ノ労力ヲ費シ遂ニ故主ノ仇ヲ復シ其結局ハ切腹ヲ申付ケラレタ ルガ如キモ』、皆『費シタル労ニ』『相当スルノ結果トシテ人ヲ感動セシムルノ勢カ ヲ遺』したに依る説明するのである。又物理の定則たる『波動説』の如きも凡百 の事件に適用せられるものとなし、『易経全体ハ殆ド此ノ波動設ニ基キタルモノゝ 如シ』と説き、『物理ノ定則ハ悉く之ヲ人事二応用シ得可キモノト信ズルヲ以テ余ハ 宗教ヲ離レテ道徳ノ大本ヲ定メントスルニハ此類推法ニ依リテ物理ノ定則ヲ応用ス ルヲ以テ最モ当今ニ適切ナル道徳主義ト信ズルモノナリ』と論断して居る。杉浦氏 は更に論を進めて仏教及び儒教の影響を論じ、美術・学問・言語・文章等のことに も言及して居るが、何処に果して『物理の定則』が顕れて居るかは明瞭に知り難い。 併し乍ら、我が国の徳教が『天地ノ公道』に基づくものであり古今東西に貫通する 原理に基づくものでなければならぬ点を指摘せんとするものとするならば、大いに 味ふべき論と言はねばならぬ。 能勢栄氏の徳育鎮定論  最後に町治二十三年に刊行せられた能勢栄氏の『徳育鎮定論』に就いて考へて見 たい。著者能勢氏は、文相森有礼氏に抜擢せられて地方の師範学校長より文相書 記官となり、教育改革に親しく参画したのであるから、森文相当時の徳育方針を知 る上に於て注目すべき資料となすに足るものがあるのである。同書の緒言に『今日 世間に最も喧しき教育上の問題は、小学校の徳育に関するものなり。見よ他の諸問 題は大抵教育者自身の研究に止まるも、独り此の問題に至りては今日既に政治家の 口頭に迄上りたる程にあらずや』とある。又『第一 徳育の主義を定むる事』の節に 森有礼文相の教育主義に関して次の如き叙述がある。『先年福岡孝悌君が文部省の 長官たりし時に、我が国の徳育は孔孟の教に拠る可しと命令を下したれば、此の時 世人は之を儒教主義と唱へ、学庸論孟の書を小学校の教科書に用ゐたりし。其の後 森有礼君が文部大臣たりし時、今の世に孔孟の教を唱ふるは迂濶なり。宗教は教育 部内へ入る可き者にあらず。左りとて哲学者の論を採用すれば、何人の説を取ると も必ず其の反対者の駁議を兎るゝを得ず。故に宗教にも頼らず。哲学にも頼らず。 広く人間社会を通観し、此の世の中は自己と他人との相ひ持ちにて、自他相共にす れば世の中は太平無事に治まり、自他相反すれば騒動が起ると云ふ有様を見て、自 他併立といふ説を考へ出し、之を以て徳育の主義と定めんとて、文部省の一書記官 に命じて、倫理書を編纂せしめ、印刷既に成り、将に一令を下して、之を我が国師 範学校及中学校の倫理科の教科書となし、且之を小学校徳育に実施せしめんとて、 省令の草按を認むる最中に、大臣が兇徒の手にかゝり、不慮の死をせられたれば、 此の事遂に中止となれり。』此の記事は極めて重要なる意義を持つものであつて、 森文相の徳育主義を最も明白に報道すると共に、当時文政当局者の徳育方針が如何 に動揺せるかを裏書するものである。右文中に『文部省の一書記官』とあるは蓋 し能勢栄氏自身ではなからうか。孰れにせよ、森有礼氏の徳育方針は忠孝仁義主義 ではなく、『自他併立』即ち今日一般に『共存共栄』と称せらるゝものに近き西洋 倫理主義であつたのである。明治十九年五月二五日に文部省令第八号を以て『小 学校ノ学科及其程度』を定め、其の中で修身科の教授は教科書を使用せしめず談話 に依ることとなし、翌明治二十年五月には地方官に通牒を発して修身教科書の使用 を禁じた理由が奈辺にあつたかは、能勢氏の叙述よりして略々推定することが出来 ようと思ふ。′  能勢氏は更に次の文相榎本武揚氏、其の次の文相芳川顕正氏の徳育主義について 約敍し、進んで『小学校に一定の徳育主義を定めて、之を宣言する必要なきなり。況 んや儒教主義とか、幸福主義とか、彼是面倒なる道徳上の基本を持ち来りて、論評 するは何の效用がある』と論じて居るが、これは教育勅語渙発前数ケ月のことであ る。能勢氏の主張は『吾人人類の普通に有するところの普通心(こんもんせんす)』を 徳育の標準として自然の制裁に任ずべしといふのである。以上の諸説に依つても教 育勅語渙発直前の徳育論は如何に混沌たるものであつたかを知ることが出来る。 二 教育勅語渙発と我が教育界 芳川文部大臣の訓令  教育勅語の渙発せらるゝや芳川文部大臣は明治二十三年十月三十一日、に次の如き 訓令を発したた。『謹テ惟フニ我力天皇陛下深ク臣民ノ教育ニ軫念シタマヒ茲ニ忝ク 勅語ヲ下シタマフ顕正職ヲ文部ニ奉シ躬重任ヲ荷ヒ日夕省思シテ嚮フ所ヲ愆(アヤマ)ランコ トヲ恐ル今勅語ヲ奉承シテ感措ク能ハス謹テ勅語ノ謄本ヲ作リ普ク之ヲ全国ノ学校 ニ頒ツ凡ソ教育ノ職ニ在ル者須ク常ニ聖意ヲ奉体シテ研磨薫陶ノ務ヲ怠ラサルヘク 殊ニ学校ノ式日及其他便宜日時ヲ定メ生徒ヲ会集シテ勅語ヲ奉読シ且意ヲ加へテ 諄々誨告シ生徒ヲシテ夙夜ニ佩服スル所アラシムヘシ』教育勅語渙発のことは芳 川文相一生の大事として翼賛に努めた所であつて、其の感激は唯ならざるものがあ つた。明治二十三年九月二十六日に山県内閣総理大臣に呈せし文書の中に、芳川文 相は次の如く述べてゐる。『勅諭ヲ発布セラルゝニ於テハ本大臣聖意ヲ奉体シ務メ テ徳教ヲ普及拡張セシムルノ方法ヲ設クルヲ任トス故ニ一方ニ於テハ教科書ノ巻首 ニ拝スルニ勅諭ヲ以テシ臣民ノ子弟ヲシテ日課ヲ始ムルコトニ之ヲ拝誦セシメ自然 聖意ノ在ル所ヲ脳裏ニ感銘シ以テ徳教ニ風化セシメントス又他ノ一方ニ於テハ耆徳 碩学ノ士ヲ選ヒ勅諭衍義ヲ著作発行セシメ本大臣之ヲ検定シテ教料書トナシ倫理修 身ノ正課二充テントス』後段に述ぶる所の『勅諭衍義』の件は次に敍するが如き 事情に依つて十分には行はれ得なかつたが、『聖意ヲ奉体シ務メテ徳教ヲ普及拡張 セシムルノ方法』は可なりよく徹底して行はれたのである。『殊ニ学校ノ式日及其 他便宜日時ヲ定メ生徒ヲ会集シテ勅語ヲ奉読』することに関しては殆ど完全に全国 的に実行せられ来つたのである。 帝国大学其の他の勅語奉読式  明治二十三年十一月三日の天長節には全国の公私学校に於て勅語奉読式を挙行し た。東京の帝国大学にても盛大なる式を行ひ、総長加藤弘之博士は大要左の如き訓 示をなした。『吾天皇陛下は夙に教育に大御心を用ひさせられ登祚以来屡々勅諭もあ らせられしが今般更に唯今拝読せし所の勅語を下し給へり。本官教官学生等と共に 謹て聖旨を奉戴して将来益々勉励従事せざるべからず。抑々今般の勅語たるや教育 社会の全般に関して下し賜ひたるは申すまでもなきことながら吾帝国大学学生の如 きは最高等の教育を受くる者たれば勢教育社会全般の師表模範たるものと云はざる を得ず果して然らば其責任の至大至重たる固より論を俟たざるなり(中略)汝学生生 徒諸子よ将来更に一層の注意を加へ謹て聖旨に副ひ奉らんことを勉むべし。』かく の如く帝国大学が率先して盛大なる奉読式を挙げ、右の如き加藤総長の訓示に加へ て、更に教授重野安繹博士の教育勅語に関する演説があつたのである。教育勅語の 渙発が当時の教育界に如何に甚大なる影響を与へたかがこれに依つても窺ひ知られ るのである。  教育勅語の奉読式は学校以外にても所々で行はれたらしい。『江木千之翁経歴談』 の中に次の如き記事がある。『此勅語が発せらるゝと、諸方で奉読式が行はれ、終に は「ニコライ」の教会堂でも、式を挙げると云ふ様なことであつた。それから、両 国の中村楼では、朝野知名の士が多数集つて教育勅語発布の祝賀会を開いて、其の 席上で、漢学禅学の大家某子爵が、演説をした中に、「夫婦相和シ」とあるのを、漢 学者流に夫婦別ありと解釈した一節があつたので、折角「相和シ」と云ふ語を用ひ られたに拘らず、単に夫婦別ありとの意味に解してしまつたのは、是は御思召に対 して如何であらうかと考へた節もあつた。此のことが、遂に聖聴に達した際には、 御批許の御言菓もあらせられたる趣に承る。』 徳育に関する御下問  明治天皇に於かせられては教育勅語のことを深く大御心に懸けさせられ、明治二 十五年九月、各地方長官に御陪食仰付けられし節に『昨年十月徳育に関する勅語 を発せられたる以来の成績につき聖上より親しく御下問あらせられたる由』を都下 の各新聞が報道し、其の翌日には『富田府知事外三名の知事総代として徳大寺侍従 長に面会して臣等多年徳育の推奨に力を尽し客歳教育勅語の御発布以来は特に聖旨 を体して之を務め其成績頗る見るべきものあり。然れども今又之を以て叡慮を煩は せられ特に御垂問を賜ふ。今より益々奮励して聖旨の在る所を洽知せしむべしと云 ふ主意の奉答を御前に御執成あらんことを請ふに決したり』と報道されて居る。  教育勅語が我が国の教育竝びに一般国民思想の上に甚大なる影響を与へたことは 言を俟たざる所である。我が国民は古来忠孝の美徳を尊重し来つたことは、教育勅 語にも御示しになつて居る所であるが、国民全体の間に普及徹底せることは恐らく 明治以後に於てであらうと思はれる。而してそれは主として国民教育の普及と共 に、学校特に小学校の教育に於ける教育勅語奉読の結果と見るべきであらう。併し 乍ら更に考察を深めて、教育勅語に示されてある聖旨が果してよく国民全般に理解 せられて居るか、又聖旨を現今の国民生活の上に具現実行するまでに至つて居るか といふ問題を提起する時は、何人も容易に然りと答へ得ぬのではあるまいか。否、 或見地よりすれば、教育勅語の聖旨は十分に理解されて居ないのみならず、聖旨に 反するが如き思想や学問が広まつて居るとも言ひ得られるかも知れぬ。先年切りに 唱道せられたる思想問題とか教学刷新とかは、右の如き観察を前提とせるものと考 へる。況や我が国民の日常生活の現実を直視するならば、社会全般に未だ聖旨に副 ひ得ざるもの極めて多きを自白せざるを得ぬことと思ふ。かゝる現象は果して何に 由来するのであらうか。凡そ一国の風尚とか習俗とかは多種多様の原因の綜合的結 晶であつて、単に之を一二の原因にのみ帰由せしむべきではない。けれども勅語の 聖旨の十分に国民に徹底せざりし原因は学校教育そのものの内にも存在したのでは なからうか。殊に高き程度の教育を受けた者の中に聖旨に副はざる思想傾向が横行 する事実に関しては、学校教育に於ける勅語奉体の工夫が適切ならざるものありし が為と考ふべきではあるまいか。 学校教育と聖旨の徹底  教育勅語奉読に関する儀式の教育的效果は蓋し甚大なるものがあつたに相達な い。此の儀式を通して天皇陛下が如何に皇国臣民の上に大御心を注がせられるかが 学校生徒の脳裏に自ら滲透する。又其の尊厳なる儀式を通して天皇陛下に対し奉る 敬虔なる情操も陶冶せられる。かくして皇室に関する観念が愈々児童生徒の心意に 確立し、國體意識はいやが上にも益々強固となるのである。けれども、これだけで は寧ろ一種の感情であつて、聖旨を日常生活の上に奉体具現するといふことにまで は徹し得ぬのである。如何にも我が国の学校教育には修身科が特設せられて居り、 其の修身教授は教育勅語の聖旨を奉体せしむることを目的として居る。明治二十四 年十一月文部省令第十一号『小学校教則大網』中『修身』の条には『修身ハ教育二 関スル勅語ノ旨趣ニ基キ児童ノ良心ヲ啓培シテ其徳性ヲ涵養シ人道実践ノ方法ヲ授 クルヲ以テ要旨トス』と規定して居る。爾来小学校教則には今日に至るまで大体同 樣の規定が掲げられて居るが、小学校令第一条の目的規定には教育勅語のことは全 く記されて居ない。教育勅語には『教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス』と仰せられてあつ て、教育全体が勅語の聖旨を本とすべきであるのに、それを修身科にのみ限ること が既に不徹底の致す所と言はねばならぬ。又修身科の要旨なり要目なり教科書なり にあつても、教育勅語奉体の精神が未だ十分に貫徹して居ない。或者は寧ろ教育勅 語の語句の訓話を事とし、或者は殆ど教育勅語のことを念頭に置かずして西洋倫理 説に依つて道徳を説いて居る。況や教育一般の原理に関しては専ら西洋にて発達せ る教育の理論と学説とを祖述するに急なる有樣であつたのである。かくの如き事情 を得ぬのである。 牧野文部大臣の諮問とそれに対する答申  明治四十年、文部大臣牧野伸顕氏は全国師範学校長会に於て教育勅語の聖旨が未 だ国民に徹底せざるものあるを説き、諮問事項として『小学児童ヲシテ卒業ノ後永 ク教育ニ関スル勅語の旨趣ヲ奉体実践セシムベキ適当ノ方法如何』を提出した。そ れに対して同会より次の如き四項を挙げて答申して居るのである。(1)小学校在学中 に児童をして聖勅の暗誦に熟達せしむる樣教育すること。(2)聖勅の大体及び徳目に 就き其の趣旨を発揮す者に足るべき適当の歌詞歌曲を文部省に於て撰定し之を普く 各小学校に於て教授せしむること。(3)小学校の最後の一学年に用ひしむべき修身書 は特に聖勅の衍儀を以て之に充て且其の装釘を堅牢優雅にして卒業後も永く之を保 有し生涯遵守すべき経典と穎さしむること。(4)修身教授及び一切の訓誡・訓語等は 成るべく聖勅の語句に帰着せしむること。明治四十三年は正に教育勅語渙発後満二 十年に当るのであるが、都下の或教育雑誌には次の如き記事が掲げられてある。『明 治二十三年十月三十日、道徳に関する勅語を下し給はりてより、既に疾くも満二十年 を経過したり。我等は今日に於て過去二十年を回顧し、我國體の精華たる忠孝の大 義が幸に我国に維持せられつゝあるは実に全然此勅語の恩沢なりしことを感謝し、 次に徳教に関係する人士が此勅語を奉戴服膺し且つ之を普及せしむるに於て大体上 よりは充分なりきと評すべきものなるを認む。然れども忠孝の解釈主義に於ては、 今日と雖も、其胸一なること能はずして、然も其論決は容易ならざるが如し。而 もで如此主義の議論は相当の修養ある人士に任すべき事なれども、一般国民も亦こ れを冷淡に看過することなく、少くとも両者主張の要点を知り、以て忠孝の大義を 解し、且つこれを実践するに於て成るべく其論旨の取るものを採用せざるべから ず。』蓋しかゝる所説の依つて生ぜし所以のものは、当時漸く勃興せし国民道徳論 と之に対する反対論とを念頭に置いてのことであらう。国民道徳論の眼目は我が国 固有の道徳を主張するにあつて、其の実体は教育勅語の聖旨に外ならぬのであるが、 当時の我が思想界・学界は容易にこれを受領し得なかつたのである。かゝる思想的 背景に於て教育勅語の聖旨の十分に徹底し得べからざるは論理上当然のことと言ふ べきであらう。 教育勅語と小学校教育  教育勅語の奉体に最も力を用ひたのは何と言つても小学校教育であつた。勅語の 渙発せらるゝや再び小学校に於ける修身教授は文部省検定済の修身教科書に依つて なさるべきことに改められた。修身教科書の採用に関しては明治二十六年まで実施 延期となつたが、其の内容は専ら教育勅語に示されたる徳目を毎学年反復説明する を常とした。かゝる教材の配列に徴しても当時の小学校教育は勅語の徳目を国民に 徹底せんとする意志に於て極めて真剣なるものがあつたことが窺はれる。然るに教 育方法論上よりする時には、勅語の徳目を其のまゝ小学児童に理解せしむることは 頗る困難である。当時我が国の小学校教育界を風靡せる学説はへルバルト派の教育 学であつたが、其の教授法は児童の興味を惹起することを第一として居た所より、 徳目本位の修身教授は次第に衰徴して来た。明治二十年代末に至りては、主として 模範的人物の伝記を物語風に説き聴かすことに依つて児童の情操を陶冶することを 旨とし、所謂人物伝記主義の修身教授が流行した。かくして小学校教育は次第に教 育勅語との関係を疎遠ならしむるに至つたのである。明治三十三年より着手せられ 同三十七年に完成して全国の小学校に採用せられた所謂国定修身書は、教育勅語の 聖旨の奉体を目的としたものではあるが、教育理論の進歩に顧みて成るべく児童の 日常生活の上に聖旨を奉体することに努めて居る。尤も当時は義務教育の年限が四 箇年であつた為に、其の期間に教育勅語の本文を児童に授けることは出来なかつた が、第四学年用の修身教科書には振仮名附や勅語の本文を奉掲したのである。明治 四十一年以後に於ける修正国定修身書にありては、義務教育が六箇年に延長せられ たるが為に、第六学年の修身書に於て三課に亙り教育勅語の本文につき簡略に解釈 を加へ奉るに至つた。これに就いてもなほ不十分であるとの批評が世間にはあつた のであるが、兎に角小学校の修身科は常に教育勅語の聖旨の奉体を旨として来たの である。 教育勅語と中等以上の学校教育  然るに中等以上の学校教育にあつては、其の修身科教授要旨にありても漠然と人 倫の要旨を授けるにありと規定し、明治三十年代に入りて定められたる中学校修身 科教授要旨などには、一言も教育勅語に及ぶことなく、西洋倫理学上の本務の分類 を主として徳目を配列して居る。況や高等教育に於てをやである。後、大正・昭和 の御代に至つて学生・生徒の間に思想問題が勃興し、朝野を挙げてこれが対策に腐 心するが如き珍現象を呈するに至りし所以のものは、国民の間にも学生・生徒の間 にも教育勅語の聖旨が未だ十分に徹底し居らざりしことを証拠立てるものと見るべ きである。所謂教学刷新の問題の如きも、其の帰着点が教育勅語の聖旨の徹底にあ ることを深く自覚すべきである。 三  教育勅語と教育の理論 教育勅語奉体の原理  教育勅語と学校教育との関係に三方面がある。其の一は生徒に勅語を奉体せんと する感情を惹起することであり、其の二は聖旨を日常生活の上に奉体する意志を訓 練することであり、其の三は如何にせば聖旨を奉体する所以の道に合するかの理智 を啓培することである。彼の勅語奉読の儀式を挙げ又は講堂訓話に依つて皇室国家 の高恩を諭すが如きは、主として情操陶冶の方面に属するものであつて、生徒に忠 君愛国の感情を惹起する上に極めて有效適切なる手段である。又興亜奉公日を定め て一日戦死の体験を積ましむるとか、勤労奉仕に依つて国家公共の為に尽すことを 実習せしむるとかも亦、私欲を制し公義に勤むるの意志訓練として頗る效果的手段 である。而してかゝる道徳的感情と道徳的意志とを如何樣にして日常の実際生活に 具現すべきかは主として健全なる理智の開発に俟たねばならぬ。此の三方面は互に 分離孤立して存立するものではなく、感情・意志・理智の三方面が融合し渾然一体 をなして初めて力ある人格となり精神となつて活動するものである。教育勅語を奉 体する上にも此の原則は完全に妥当するものである。勅語を奉体せんとする感情が 熱烈に起らずしては教育勅語を奉体することは出来ない。けれども単にかゝる情熱 のみが高まつても、それを実行に移す意志の陶冶を欠く時は、決して聖旨に応へ奉 る国民たることは出来ぬ。また、たとひ強烈なる尊皇愛国の情操があり、且それを 実行する意志の力が備るとも、それを日常生活に具現する適切なる道を解せざる時 には、却つて或は暴挙となつたり、常規を逸したりして、聖旨に副ひ奉ることが出 来ぬこととなるのである。 教育勅語解釈に関する研究の必要  感情及び意志の陶冶の如きは本質的には理智を超越するものであるが、学生・生 徒の如きは理智の長ずるに従つてその論拠の解明を要求するものである。小学校児 童の如きは比較的にかゝる要求が未だ覚醒せられざるが故に、直接に感情を感情と し意志を意志として涵養することが可能でもあり、又時としてはそれが必要でもあ るが、それとても学年の進むに従つてそれ相当の理由を納得することなしには心底 から教訓を受容れぬものである。青年期以後の学生・生徒の如きは特に然りであ る。然るに従来の我が学校教育はかゝる教育理論を十分に顧慮することなく、学生 にも生徒にも児童にも同一の教育方法に依つて教育勅語を奉体する精神を涵養せん とした所に、根本的欠陥があるのである。而して其の最も欠如する所のものは、教 育勅語に示されたる教と道との理智的解釈の研究が不十分なる事であると思ふ。こ れ教育程度の高まれば高まる程、聖旨に副はざる思想・学説に迷はさるゝものを多 く輩出せる所以である。割合に效果的であつた小学校教育にありても、忠君愛国の 感情の強きに比して、日常の実際生活の具現に当つては欠陥を有する所以も亦此に あると思ふ。故に、将来の学校教育にありては、従来よりも一層教育勅語の聖旨の 理解とそれを日常生活に具現する所以の道とを究明することに努力せねばならぬ。 それが為には教育勅語に示されたる教学の要旨を研究することが必要となるのであ る。 教育勅語と我が国教育の根本原理  教育勅語には『教育ノ淵源』は『我カ國體ノ精華』に『存ス』と仰せられてある。 されば我が国に於ける教育の理論は我が國體の原理を基本とすすものでなければな らぬ。而して『我カ國體ノ精華』とは、従来文部省に於ける解釈の如く、我が国の 『皇祖皇宗』の肇国・樹徳と我が国の『臣民』の忠孝・一心とを合むものである。 教育勅語に『爾臣民』と親しく御呼びかけ遊ばされて、『父母ニ孝ニ』以下の徳目 を垂示さられたる後に、之を結ぶに『以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ』と御諭し になつて居るのは、臣民たる者が國體の精華を発揚する所以の道を御示し遊ばされ たるものと解せられるのである。『是ノ如キハ独り朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス 又以て爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン』と仰せられてあるのは國體の精華の中の 『我力臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セル』に照応するも のと解せられ、『斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘ キ所』と仰せられてあるのは『我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト 深厚ナリ』ニ照応するものと解せられるのである。斯様に考へ来る時は、教育に於 て『我カ國體ノ精華』を奉体するの道は即ち『斯ノ道』を実行するにあり、又『斯 ノ道』の大本は『天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼』するにあることが知られると思ふ。従つ て、我が国の教育理論は、畢竟するに、天壌無窮の皇運を扶翼し奉らんとする感情 を惹起し、それを実際生活に具現する意力を培養し、且かくの如き生活原理は人間 生活上最高の理想なることの信念を養ふと共に、それを正しく日常生活に具現する 所以の理法を明確に認識せしむることを任務とせねばならぬ。是等の要求に合せざ る教育理論は、教育勅語の聖旨に副ひ得ざるものであり、従つて我が国の教育の指 導原理を与へ得ざるものなのである。明治以後に於ける我が国の教育学説は此の点 に関して果して聖旨を徹底せしめ得る上に遺憾なきを得たであらうか。 我が国忠孝の本義  従来の学校教育が教育勅語の聖旨に十分副ひ得ざりし原因の一は聖旨を徹底して 理解し得なかつた為であると思はれる。其の訳は教育勅語中に示された徳目の意味 と価値とを勅語に即して解釈することの研究が不十分であつたからである。勅語の 基本徳目が忠孝であることは能く知られてゐるが、其の内容実質の如何なるもので あるかが十分に究明されて居らぬ。元来忠孝といふ熟語は支那に起つたものである ことは弁を俟たざる所であるが、支那思想に於ける忠孝と勅語に示されたる忠孝即 ち我が国に於ける忠孝とは其の内容実質に於て大いに異なるものがある。勅語に示 きれたる忠の本義は『天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼』することにある。孝といふのも其の 内容実質に於数て之と同一なるものである。これは勅語中に『是ノ如キハ独リ朕カ忠 良ノ臣民タルノミナラス以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン』と仰せられてあ ることに依つて明白である。即ち教育勅語に示されてある我が国の道徳の根本原理 は、支那に於ける忠とか孝とかと異なるものがあるのである。従つて封建的階級制 度を背景とする屈従道徳とか、狭隘なる家族主義を基礎とする割拠道徳とかとは全 く趣を異にする。我が国に於ける忠は肇国の大理想たる皇祖天照大神の神勅を御体 現遊ばさるゝ大御心に応へ奉るにある。我が国に於ける孝も亦此の我が国民理想を 継承して祖先の遺志を完うするにあるのである。而して、我が国にありては『皇祖 皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ』と勅語に仰せられてある如く 御代々の天皇は実に理想国家・理想社会の創建を念とし給ふのであるから、臣民た るものが大御心に絶対に帰依し奉ることは即ち理想実現のために全力を尽す所以な のである。理想国家・理想社会の実現を目的とする国民は又理想的人格と言はねば ならぬ。かく考へ来れば理想的人格の陶冶を教育の目的と説く教育学説は教育勅語 の聖旨を心底より奉体すべきは当然の論理でなければならぬ。然るに従来の教育学 説が理想的人格の陶冶を説き乍ら、而も教育勅語の聖旨を奉体することに依つて其 の目的を達すべきことに思ひ到らなかつた所以は、全く教育勅語の研究が不十分で あつて正確に聖旨を理解し奉るを得なかつた為である。 教育勅語解釈上の誤謬  我が国の教育理論をして教育勅語の解釈を誤らしめた他の原因は、一般世人の間 に誤れる勅語解釈が行はれて居たことにあると思ふ。従来の多くの人々は、勅語中 の箇々の徳目が『以テ天壌無窮ノ皇速ヲ扶翼スヘシ』といふ統一原理に摂取せられ て初めて聖旨に叶ふ所以となることに気附かなかつたのである。孝といへば父母 の心を慰むれば足るとなし、友といへば兄弟姉妹の親睦に止まると解するが如く、 箇々の徳目を孤立的に考へ、それが天壌無窮の皇運扶翼に統括せられて初めて臣民 たるの徳となることに思ひ到らなかつたのである。かくして教育勅語の御訓を狭隘 なる家族主義と混同するが如き誤解を生ずるに至つたのである。又『一旦緩急』あ る場合に於て『義勇公ニ奉』ずる熱情と意力とは我が臣民の等しく所持する所では あるが、『公益ヲ広メ世務ヲ開』くこと『国憲ヲ重シ国法に遵』ふことと『天壌無窮 ノ皇運ヲ扶翼』することの不可分的関係を理解せざるものが少くなかつた。況や 『夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ』と『学ヲ修メ業ヲ習ヒ以 テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ』との御訓は、皆『以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ』 と連関して初めて我が臣民道となることを理解するものが如きは、極めて僅少であ つたのではあるまいか。これ我が国民は誰一人として教育勅語を遵奉する精神を欠 くものが無いにも拘らず、我が国民の現実生活の中には聖旨に背反するものが頗る 多い所以である。かゝる欠陥が教育勅語の御訓を誤り解せしむる一原因となつたの である。誠に恐れ多き極みと言ふべきである。最近に至り漸くかゝる誤謬が訂正せ られ、内閣当局にありて或は万民輔翼を説き一億一心を唱ふるに至つたことは、教 育勅語の聖旨が自覚に上つたものと見ることが出来る。 教育勅語と将来の教育学説  然れども、我が国の教育理論をして教育勅語の聖旨と背馳せしむる所以の根源 は、極めて遠く且深きもののあることを看過してはならぬ。教育勅語渙発直後に我 が教育界に流行せるヘルバルト派の教育学は道徳的品性の陶冶を教育の最高目的と は説いたが、如何なる道徳的品格を意味せしかと言へば、我が國體とは根本的に異 なる西洋十八世紀式の理想社会を前提として居たのである。其の後に於ける英米の 経験主義的教育学も、独逸の理想主義的教育学も、此の点に於ては多く異なる所が なかつた。我が教育界竝びに思想界・学界が、かくの如き西洋思想の謬想を脱却し 得ざる限りは、教育勅語の聖旨の真の徹底は望み得ないと思ふ。教育勅語渙発五十 年を祝賀するに際して、我が教育界の一大課題は実に教育理論の再建設にあらねば ならぬ。 四 教育勅語と教育の実際 従来の教育の実際について  学校教育といへば、其の大部分は教室内に於ける各教科の教授時間に依つて占め られてゐる。従つて教育勅語の奉体も大部分は教授時間に於てなされねばならぬ道 理である。然るに従来は教育勅語奉読式の如き年に数回しか行はれぬ機会に於ての み勅語奉体のことを考へて、日々の学校生活にありては多くこれを忘れて居るので はないかと思はれる。尤も各教科中にても修身科の教授時間には勅語奉体の教育が 行はれて居ると見てよからう。小学校教則に於ては修身科の要旨は教育勅語の御趣 旨に基づきて児童の徳性を涵養するにあることを規定して居ることは前に述べた通 りである。中等学校に於ても教則に関する限略々同様になつてゐる。然るに他の 教科竝びに学科の要旨の中には教育勅語との関連を示すものは殆ど見当らない。中 には愛国的精神を涵養せよとか、国民的文化を理解せしめよとかの如き、間接に教 育勅語の聖旨の奉体に関係するものはあるが、適確に各教科竝びに各学科を通して 聖旨を奉体する所以の工夫が明らかにせられて居ない。かくの如きは決して教育勅 語を徹底し奉る所以ではないと思はれる。世人は思想問題の原因に関して、専ら外 来思想の影響に帰する傾向があるが、それは半面の理由に過ぎずして、他の半面には 我が国民の間に教育勅語の聖旨が徹底して居なかつたことに原因があると思ふ。而 して其の責任の一部は従来の学校教育の実際も亦之を分担せねばならぬのである。  昭和十五年三月一日文部省に敏ける国民学校教科調査委員会第二回総会決定案た る国民学校教則案を見るに、在来の小学校令施行規則よりは余程聖旨の徹底に努力 して居る点が見える。併し、元来学科課程の制定は東西共に種々なる由来と伝統と、 を有するものであり、我が国の現行規定も亦主として欧米のそれを手本とせるも のであるが故に、たとひ幾多の点に於て我が国の事情を本として修正を施したにせ よ、教育勅語の聖旨を貫徹し奉るに於てなほ不十分なるものの有すべきは深く戒心 を加ふべき点である。此の方面に於てなほ研究もし改善も施すべき余地は多分に存 すると思ふ。尤も教育勅語を正しく理解する時は、各種の学科の教授事項は皆『天 壌無窮ノ皇運ヲ扶翼』し奉るに必要であり、黍く聖旨を奉体する上に不可欠の事項 であることが知られるのであるが、かゝる自覚にまで教育者を導き上げることが大 切なのである。 従来の教授法について  学科課程の制定は文部省の仕事であつで、直接には実際教育者の責任に属しな い。けれども、之を学校教育の実際に運用する責任は、悉く実際教育者の双肩にか かつて居るのである。然るに従来我が国に行はれたる教授論乃至教育方法論に於て は、聖旨の奉体との関連は殆ど顧みられて居ないかの観あるは、頗る遺憾とせざる を得ない。ヘルバルト派の五段教授法の如きは之を全然方法上の議論と解する時に は如何なる主義方針の教育にも適用し得らるゝ方面も存するのではあるが、所謂五 段教授法に依つて教養せられたる児童は果して『天壌無窮の皇運扶翼』の任を完う するに適する国民たり得べきや否やは反省を要する所である。北米合衆国より渡来 せる活動主義の教授法とか自学主義の教授法とか、又自由教育とか体験教育とか、 ドルトン・プランとかプロゼクト・メドツドとかの如きも、かゝる教授方法は果し て教育勅語の聖旨に副ふ所以なりや否やが吟味せられねばならぬ。然るに従来の我 が教育学者や実際教育者は此の方面の用意に及て欠くる所がなかつたであらうか。 教育勅語の聖旨の我が国民に徹底し得ざりし原因の一は、此の方面の欠陥にあつた のではあるまいか。 従来の学校訓練について  学校に於ける訓練についても、略々同様ことが言ひ得ると思ふ。我が国の徳育は 教育勅語の聖旨に基づかねばならぬとは抽象的には何人も口にする所である。けれ ども、訓練の理論なり実際なりに関して、教育勅語の聖旨とは全く世界観・人生観 を異にする外国伝来の思想・学説を背景とする訓育の行はるゝ場合が少くないので ある。教育勅語の聖旨に適合する訓育の実際如何の問題に関する学的根拠を有する 研究は今日までの教育界には殆ど無いかと思はれる。如何にも従来の学校教育は西 洋の模倣に過ぎたるが故に、之を日本的に改善しなければならぬと論ずる人は少く ない。併し乍らこれだけであるならば、単に正当なる問題の発見に止まつて、まだ 適正なる解決に達したものと言ふことは出来ない。然るに、多くの論者は動もすれ ばそれで問題を解決せられたるが如く考へ、問題解決の方案が真の研究問題である ことに思ひ至らざることが多い。かくして或は単に一時の思ひつきに依り、或は自 己の狭き経験に基づいて、安易に意見を出し、以て問題が解決せられたかの如く考 へる。かくの如き態度を以てしては、固より聖旨に叶ひ奉るべき教育の実績を挙げ ることは困難である。吾人は教育勅語渙発五十年に際して我が国の教育の実際には 今後の研究に俟つものが頗る多いことを自覚すべきである。 今後の教育の実際  教育は何と言つても実際が主である。教育の目的と理想とは教授訓練の実際に依 つてのみ実現せられる。我が國體に対する感激と信念も各科の教授に即して涵養せ られねばならぬ。天壌無窮の皇運を扶翼し奉り得る所以の道の教養も亦各科の教授 に即して行はれねばならぬ。而して皇國臣民としての意欲の陶冶に至つては、教室 の内外に亙り、学校生活全般に即してなされねばならぬのである。従つて教授訓練 の方法と実施とに関しては、その理論と実際とに通じて皇国臣民の道を全的に体験 せしめねばならぬのである。此の意味に於て将来に於ける教育の実際は、教育勅語 の聖旨を体得せしむる所以の教育理論に基づき、それを学校生活の実際に具現せし むるものでなければならぬと思ふ。 五 教育勅語と他の詔勅  我が国の教育の指導原理は教育勅語に存すべきことは周知の事柄であつて、何人 も疑を挟まざる所である。然るに学校教育に於て時々奉読する所の詔勅はなほ他に もあるが、是等の詔勅と学校教育との関係は如何にあるべきかの問題を考究するこ とも忘れてはならぬ。何故なれば其の指導原理は唯一に帰着することに依つてのみ 初めて力ある徹底せる教育が行はるべきであるからである。是に於て教育勅語と他 の詔勅との関係を如何に解すべきかが教育上是非明確に理解せられねばならぬ問題 なのである。 教育勅語と戊申詔書  学校に於て教育勅語に次いで時々奉読せらるゝ詔勅の一は戊申詔書である。此の 詔書は明治四十一年十月十三日、日露戦役後に渙発せられたものである。教育勅語 は我が国徳教の指針として渙発あらせちれたもので、我が国民たるものの何時如何 なる処にても常に遵奉すべき国民道徳の大網を示させ給へるものであるが、戊申詔 書は日露戦役後に於ける特殊の事情に関連して特に我が国民の心得べき事項を御諭 し遊ばされたものと拝察される。されば戊申詔書は教育勅語の聖旨中日露戦役後と いふ特殊の場合に於て特に留意すべき事柄を御示し遊ばされたるものと解せられる のである。第一節中には『朕ハ爰ニ益々国交ヲ修メ友義ヲ惇シ列国卜与ニ永ク其ノ 慶ニ頼ラムコトヲ期ス』と宜し給ひ、『日進ノ大勢ニ伴ヒ文明ノ恵沢ヲ共ニセムトス る固ヨリ内国運ノ発展ニ須ツ』と仰せられた。国運の発展は、皇祖天照大神の神勅 と教育勅語中の『天壌無窮ノ皇運』とに通ずるものであつて、戊申証書には其の国 際的意義を御諭し遊ばされたるものと拝察されるのである。『戦後日尚浅ク庶政益々 更張ヲ要ス』は戦後経営に関し特に緊要なる心得を諭し給ひ、『宜ク上下心ヲ一ニ シ』以下に於て時局に処して特に国民の留意すべき事項を誡め給うたのであらう。 これ教育勅語に『世務ヲ開キ』と仰せられてある所に照応するものと解せられる。 戊申詔書の御訓は教育勅語以外のものではなく、其の中につき時局に即応して特に 肝要なる事項を御諭し遊ばされたるものと拝し奉るのである。 教育勅語と国民精神作興ニ関スル詔書  大正十二年十一月十日の『国民精神作興ニ関スル詔書』は大震火災後に渙発あら せられたもので、特に我が国民精神の作興を鼓舞激励遊ばされたるものと拝察され る。其の冒頭には『国家興隆ノ本ハ国民精神ノ剛健ニ在リ之ヲ涵養シ之ヲ振作シテ 以テ国本ヲ固クセサルヘカラス』と仰せられてある。攻に『国民精神ヲ涵養振作ス ル所以ノ洪謨』は実に教育勅語と戊申詔書の御訓にあることを御諭しになつて居 る。『振作更張ノ道ハ他ナシ先帝ノ聖訓ニ恪遵シテ其ノ実效ヲ挙クルニ在ノミ』 と仰せられ、更に幾多の訓誡を垂れさせられてあるが、是等は皆時運に即して特に 留意すべき心得を諭させ給へるものであつて、畢竟するに教育勅語の中につき敷衍 遊ばされたるものと拝せられるのである。 教育勅語と青少年学徒ニ賜ハリタル勅語  昭和十四年五月二十二日に『青少年学徒ニ賜ハリタル勅語』は最も直接に学校教 育に関係するものであつて、それと教育勅語とは如何なる関係にあるべきかは教育 者の重大関心事でなければならぬ。学校教育は青少年を対象とするが故に、青少年 学徒の任務は学校教育の任務と一致するものである。『青少年学徒ニ賜ハリタル勅 語』は青少年学徒の『負荷ノ大任』を諭させ給へるもので、即ち学徒たるものの本 分を御諭し遊ばされたるものである。従つて青少年学徒の教育も亦此の勅語を奉体 すべきは言を俟たざる所である。かくして此の勅語と教育勅語との関係が問題視せ られるのである。併し乍ら少しく思慮を廻らす時は、此の問題は自ら解消すぺきで ある。何故なれば、『教育ニ関スル勅語』は国民全体に対して賜はりたる聖諭であり 『青少年学徒に賜ハリタル勅語』は青少年学徒ニ賜はりたる聖諭であるからである。 青少年学徒の直接的本分は教育勅語中の『学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器 ヲ成就シ』の聖諭を奉体するにある。『青少年学徒ニ賜ハリタル勅語』は学徒たるも のが如何なる心得を以て『学ヲ修メ業ヲ習』ふべく、又如何に『智能ヲ啓発シ徳器 ヲ成就』すべきかを御諭し遊ばされたものと拝察する。『以テ負荷ノ大任ヲ全クセ ムコトヲ期せヨ』との聖諭は『其ノ任実ニ繋リテ汝等青少年ノ双肩二在リ』と 照応して解釈せられ、『其ノ任』とは『国本ニ培ヒ国力ヲ養ヒ以テ国家隆昌ノ気運ヲ 永世ニ維持セムトスル任タル極メテ重ク道タル甚ダ遠シ』を受けて解釈せられるの である。而してこれ全く『天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼』し奉るの大任に外ならぬのであ る。かくの如く解釈する時は『青少年学徒ニ賜ハリタル勅語』は青少年学徒として 直接に教育勅語の聖旨に叶ひ奉る所以の道を詳に御諭し遊ばされたるものと拝察せ られるのである。『気節ヲ尚ビ廉恥ヲ重ンジ』は主として『徳器ヲ成就シ』に、『古今 ノ史実ニ稽へ中外ノ事勢ニ鑒ミ其ノ思索ヲ精ニシ其ノ識見ヲ長ジ』は主として『智 能ヲ啓発シ』に関連する修養上の規範であり、『執ル所中ヲ失ハズ嚮フ所正ヲ謬ラズ』 は智徳の両者に通ずる規範である。又『各其ノ本分ヲ恪守シ文ヲ修メ武ヲ練り質実 剛健ノ気風ヲ振励シ』は学徒たるものの生活上の規範であつて、智徳の修養の基本 であることを知るべきである。即ち是等は皆青少年学徒として日常生活の上に直接 に教育勅語の聖旨を奉体する所以の規範を御示し遊ばされたものであると思ふ。  要するに我が国教育の根本原理は一に教育勅語にある。其の他の詔勅は皆特殊の 事情に即して教育勅語の聖旨を敷衍遊ばされたるものと拝察せられるのである。か くして我が国の教育の理論と実際とは一に教育勅語の聖旨を徹底的に奉体すること に帰一することを忘れてはならぬ。国民学校令にある『皇国ノ道』も亦此の外にあ るべきではないと考へる。