興亜の大業   松岡洋右 興亜の大業  与へられた興亜の大業なる題目の下に、平素心に懐いて居る考の一端を述べて、 汎く全国民、特に青年層竝びに国民教育の聖職に在る教育者諸氏に訴へる機会を持 つことは、私の最も欣快とするところである。  興亜の大業とは何か?之を一言にしていへば、神武天皇の八紘一宇の御詔勅の 実現に尽きると言ふことが出来る。単なる自惚や神憑り式の独り善がりではない、 近代世界の実状、現下の国際情勢、生きた人類史の事実に即して、此の崇高雄渾な る神武天皇御創業の御精神を大規模に大陸経営の上に実現し、進んで亜細亜より全 世界へと皇道仁愛の道を宣布し、人類救済の実を完うすることこそ、正に興亜の大 業の理想でなければならぬ。  私は我が大和民族の上に課せられた人類救済てふ天与の大使命を固く信ずるもの である。勿論、自民族中心の思想、自民族至上の観念は、何れの民族にも共通に存 するものである。殆ど総べての原始民族は自らが世界の中心であり特に神の恩寵を 豊かに享受せる天の選民であるとの信仰を持つて居た。(就中ユダヤ民族の選民思想は 最も典型的のものとされて居る。)此の自民族中心の思想は、原始社会に於けるが如き 素朴な形に於てではないが、今日の文化国民特に白色人種の優越意識として、益々 強く現代世界を支配して居るものである。或一民族の世界救済の使命感が、根拠の ない自己中心の選民意識や独善的な優越感に根ざすに過ぎないものであるか、真に 客観的妥当性を持つた使命感に立脚するものであるかを、如何にして判定するかと いふことは、非常にむづかしい問題である。何となれば、当該民族の主観的評価と 第三者の見解との間には常に喰違があるべく、従つて終局のない水掛論に終るから である。私は此の判断の基準となるものが凡そ三つあると考へる。第一は其の民族 の過去の歴史である。第二は其の民族の上に現に課せられで居る役割と其れを遂行 する為に採用されつゝある手段・方法及び其の実績である。第三は、其の民族の理 想が果して人類を普く救済し得るが如き客観的価値を有して居るか、而して其の民 族は此の理想原理を忠実に追求し実現するだけの真実性と実践力とを持つて居るか 更に他民族をして承服せしむるだけの精神力を有するかといふことである。  若しも今日の人類が公平無私なものであるならば、此の三つの標準に照らして他 民族の資格を間違なく判断出来るであらうが、夫々に優越感を持ち又嫉妬心と猜疑 心とを持つて居る以上、他民族の絶対的優越性や天与の使命を容易に承認することは 中々あり得ないと考へねばならぬ。従つて各民族が各々此の三種の基準に照らして 公平無私に自己批判をすることに努めるより他はない。私は満洲事変以来常に言続 けて来て居るのであるが、日本国民は一人残らず伊勢大神宮の御神鏡に自分の姿を 映して随神の清明心を磨き上げねばならぬのである。興亜の大業が我が大和民族の 上に課せられた人類救済てふ天与の大使命の前奏曲たることを信ずるならば、我々 は何を措いても、先づ己を空しくして厳粛に自己の資格を反省し力量を検討した上 で、敬虔の念を以て謙虚に勇敢に而して忍耐強く、此の目的に向つて精進せねばなら ぬ。大和民族が何等求むるところなく死身になつて此の高い理想に向つて最後迄邁 進するならば、他民族も挙つて皇道に随喜するの日が必ず来るに達ひないのである。  大和民族の使命は窮極に於ては世界人類の救済にあるのであるが、差当り之を極 東に始め、東亜より全亜細亜、各世界へと漸次に其の救の手を伸ばして行かねばな らぬ。即ち大和民族の世界救済の手始として先づ興亜の大業があるのである。支那 事変は興亜の大業の道行であり、興亜の大業は皇道の世界宣布てふ大使命完遂への 過程である。即ち聖戦といひ、興亜といひ、皇道宣布といふも、黍くそれは同意語 に過ぎないのである。  興亜の大業のイデオロギーは何か? 理想は何か? 此れは前述の如く神武天皇 の御詔勅の実現であり、天業恢弘である。併し、此の肇国の精神の実現されて行く 形式や天業恢弘の方法は、日本国民の発達の歴史と日本国の置かれた周囲の事情即 ち世界情勢に応じて種々に変つて来て居るのである。而して、大和民族の歴史を遠 く遡つて尋ねると際限はないが、最近の背景を極めて大ざつぱに述べると、征韓論 −−日清・日露両役−−韓国併合−−満洲事変−−聯盟脱退といふ一連の歴史的必 然の帰結が即ち今次の事変であり、今次事変の結論が興亜の大業であるといふこと になるのである。此の興亜の大業を通じて、皇道は極東から全亜紬亜へ、亜細亜か ら欧米へ、而して全人類へと及ぶのである。皇道を国際的に解釈すれば、それは地 球上の諸民族・諸国家をして各々其の処を得せしむることである。明治天皇は明治 元年三月十四日畏くも「億兆安撫国威宣布の御宸翰」を賜はつたのであるが、其の 中に次の如き有難き聖句を拝するのである。   今般朝政一新の時に膺り天下億兆一人も其処を得ざる時は皆朕が罪なれば今日   の事朕自身骨を労し心志を苦め艱難の先に立古列祖の尽させ給ひし蹤を履み治   蹟を勤めてこそ始て天職を奉じて億兆の君たる所に背かざるべし 此の明治天皇の聖旨を国際関係に及ぼせば、各民族・各国家をして各々其の処を得 せしめ天の慶福に与らしめることになるのである。而して繰返して言ふが興亜の大 業は唯其の序幕である。若し大和民族が之に成功することが出来なければ、皇道の 世界宣布は思ひも及ばざることである。苟も皇道の世界宣布が行はれざる限り人類 は所謂真の救済と平和の聖光を仰ぐことは出来ないといふのが私の信仰である。  我々は徒らに独り善がりに陥つてはならないが、少くとも歴史を振返つて見て我 我の誇り得ることは神武天皇御創業以来、否、遠く神代よりして、大和民族は侵略 や征服といふことを知らない真の平和主義の民族であつたことである。日本の歴史 には征服・侵略はない。綏撫と同化があるのみである。神代・上古より中世・近世 そして現代に至る迄、大和民族の歴史には征服の跡がない。之に反して、西欧諸国 民の歴史は終始一貫して侵略・征服の歴史であり、特に近世に於ける西洋史は血を 以て書かれた他民族制圧の歴史であるといふも過言ではないのである。日本の二百 余年に互る鎖国の夢を醒ましたものは実に四方から押寄せて来た欧米の侵略の手で あつたのである。当時既に印度と南洋諸島は征服され、支那も亦侵略の毒牙に傷つ いて植民地化の方向を開始して居た。而して斯かる欧米の蚕食から免れ完全なる独 立と自由とを確保し得たものは独り皇國日本のみであつた。東海の小島国に過ぎな い日本が此の帝国主義的侵略の魔手を免れたのは殆ど奇蹟と言つてよいのである。 斯くして、近世に至る迄の東亜は欧米人に隷属せる世界であり、亜細亜とは此の隷 属せる世界と同義語であつたのである。維新以来我々の祖父竝びに父兄達は、上に 万世一系の天皇を戴き、万民心を一つにして力を併せ、一方に於ては欧米の新文明 に追及して自らの力を養ふことに努めると共に、他方に於ては欧米の侵略から自国 を守り極東を護る為に幾度か国運を賭して戦ひ戦つたのである。而して今や我々自 身が満洲事変を経て今次の支那事変に身を挺して興亜の大業に向つて驀進しつゝあ るのである。私は暫く興亜の大業の背景として此の最近の歴史を跡づけることとす る。  浦賀湾頭の砲声に二百余年に亙る鎖国太平の夢を破られた日本の発見したもの は、実に完全に包囲されたる東洋であつた。而して日本が開国と同時に先づ不可避 の必要として感じたことは、自らを守ることは極東を西欧の侵略から護ることであ り、極東を西欧の侵略から護ることは自国の安全を確保する唯一の途であるといふ ことであつたのである。此れは実に明治維新以来日本国民の自覚したところであ る。否、既に徳川の中期以降に於て此の事を自覚した先覚の士が幾多現れたのであ る。徳川幕府の鎖国は一方的であり、従つて日本の欲すると否とに拘らず西欧東漸 の勢カの余波は頻りに我が辺傍を脅したのであるから、当時の先憂の士は、単に鎖 国日本の消極的防禦のみならず、積極的に大陸に或は海洋に乗出して、以て日本の 実力に於て東亜の安定を確保すべきことを説いたのである。  興亜の大業の背景を日本の歴史に求むれば、遠く神代まで遡るのであるが、今、 明治以後に限つて之を見ても、征韓論以来日本の動向を支配したものは、東亜全体 が其の処を得て居ない、不当に圧迫侵害されて居る、これは何とかせねばならない が、東洋を見渡してそれを為し得る者は日本以外にない、他は頼むに足りない、自 分自らが実に東亜安定の責任者であるとの自覚と責任感とであつたのである。勿論 日本国民と雖も生物である以上自衛本能は持つてゐる。日本は、自国の利害や生存 を全然忘れて、只管東亜を西欧の侵略から救ふといふことを以て自己の責任とし、 絶対の愛他主義の立場から、征韓論を唱へ、日清・日露の両役を戦ひ、満洲事変に 処し、聯盟脱退を敢行し、満洲建国の大業を企てたといふのではない。私は左様な 偽善的な詭弁を以て強ひて日本の立場や行動を合理化し又は理想化しようとは思は ない。だが、明治維新以来日本が東洋諸民族に其の処を得せしむることと東亜安定 との為に戦ひ続けて来たといふことは事実である。而して何故日本が斯せる道を辿 つたかと言へば、それは、世界特に東亜の客観的情勢からいつても、当時に於ける 日本国民の自覚からいつても、東亜の安定を確保することは日本を守ることであり、 日本を守ることは東亜を護ることであつて、大和民族の興廃・存亡と東亜諸民族の それとは完全に一致して居たからである。  鎖国の夢から醒めたばかりの日本、一方に於ては西欧文明の吸収と追及とに日も 足らざる思をして居た維新初頭の日本、欧米人の眠からは勿論支那人の眼から見て も又朝鮮人の眼からさへも、ちつぽけな東海の小島国に過ぎない日本が、東洋平和 の責任者を以て任ずることは寔に笑ふべきことであつたに相違ないのだが、当時の 日本国民全体とは言ひ得ない迄も、少くとも明治政府の指導者達は明らかに其の使 命を自覚して居たのである。征韓論の如きものも、単に大院君以下の清国に対する 事大主義や鎖国排外政策に対する一時的憤懣といふが如き原因によつたのではな い。大西郷の巨眼は、既に西欧諸国の虎視眈々たる野望を観破すると共に、東洋に 於ける英露両帝国主義の軋轢をも見抜いて居てのことであつた。此の機逸すべから ずとして、極東和平永遠の政策の為には、国内の物情尚騒然たるの状態にも拘ら ず、敢然として征韓の帥を出さんとしたところにこそ、実に興隆日本の真骨頂が見 られたのである。此の崇高な使命感と不退転の勇気こそは、実に今日万難を排して 興亜の大業の完遂に当らんとする昭和日本国民の血管の中に脈打ち流れて居るとこ ろのものであるのである。  興亜の大業の背景としての日清・日露両戦役を詳しく語ることは省きたいと思 ふ。日清戦役に就いては、眠れる獅子として猶欧米諸国を恐れしめて居た老大国支 那の無力を暴露して、露骨な西欧帝国主義の支那に殺到する傾向を更に激成し、延 いて日本に対する脅威と極東の和平に対する日本の責任とを却つて倍加せしめたと いふことを注意するに止めたい。日露戦役に於て、当時世界最強の陸軍国たり又欧 亜に跨がる魔の白人大帝国とせられて居たオロシアに小国日本が連戦連勝したる事 実により、白人に虐げられたる有色人種とバルカン始め白人種と雖も所謂弱小民族 等が世界到る処異常なインスピレーションを受けるに至つたことが、西暦二十世紀 に現れつゝある激変に対して或は一番大きな精神的湿床を成したものではあるまい か。又此の戦役によつて日本は世界強国の班に所謂一等国として列したのである。 日本は南満洲鉄道を中心として初めて大陸に真の足場を持つことになり、そして関 東州の租借と朝鮮の併合とは日本をして大陸への玄関口を完全に確保せしむるに至 つた。日本は今や単に自ら任ずるとか、さう自覚するとかいふのみではなしに、立 派に強国の一つとして東亜の安定保持の責任者たることを客観的にも承認せらるゝ に至つたのである。そして更に世界大戦の結果は日本は名実共に世界三大強国の列 に昇り、東亜の事は大小となく日本を抜きにしては処理することが出来ないといふ 迄に、日本の国際的地位は高められたのである。然るに、其の後欧米殊にアングロ・ サクソン系の国々の我が国に対する圧迫と、遺憾ながら恐怖に駆られ巧利主義に堕 し小慧(こざか)しさに誤られたる我が国の外交とは、相俟つて漸次この皇国をその当然の地 位より引摺り下さんとした。満洲事変は即ち之に対する日本精神の反撃であり、皇 国日本の真の姿の再顕であつたのである。  又満洲事変は日本の東亜に於ける当然の国際的地位と近接地域に対する強国の責 任とを抜きにしては了解出来ないのである。日露戦役迄は日本は消極的防衛の立場 にあつたと言ふべきであらう。然るに満洲事変に至つては積極的に日本が東亜解放 に乗出したのであると言ふことが出来る。日本は消極的に東亜を護り自らを守ると いふ立場から一歩、否、数十歩も数百歩も踏出して、東亜を西欧の帝国主義的侵略 から解放する為に飛躍的積極行動を起したのである。新しき東亜の建設即ち東亜新 秩序の樹立に乗出したのである。と言つても、日本が積極的に大陸の侵略に乗出し たといふのではない。欧米人は満洲事変や支那事変を以て支那に於ける旧来の西欧 帝国主義と新しき日本の帝国主義との角逐であり衝突であると見て居る。支那自身 に於ても亦日本を以て時間的にも地域的にも最近の侵略国と誤認し或は曲解するも のが尠くないのである。が、日本の意図が帝国主義的侵略と縁遠きものであること は、満洲建国の事実に照らし、又今次事変の処理に関する近衛声明以来の日本の態 度を見れば容易に肯かれることであらう。  満洲事変は柳条溝事件に端を発したのであるが、それは単にきつかけを為したに 過ぎないのであつて、原因は深く且遠いのである。建国前の満洲の地は東亜全体の 安定から見て極めて厄介千万な存在であつた。抑々或国家が其の領土に対して正当 に主権を主張する場合には、単に古くから自国の領土であつたといふ記録的な事実 だけではなしに、現実に実力を以て其の地域の内外の保安と秩序維持の責に任じ、 其の実を挙げて居なければ、隣接国にとつては此の上なき迷惑の種子となるのであ る。然り而して、事変前の満洲は、単に日本にとつてのみならず、東亜全局の安定 従つて世界平和の立場から見て、斯かる意味に於ての典型的な危険地帯であつたの である。張家父子二代に亘る地方政権に対する中央政府の支配は極めて不十分なも のであつて、内に於ては郭松齢の反乱等があり、外に向つては蘇聯と事を構へる等 の事があつて、日本としては多くの迷惑を蒙つたし、若し日本国の厳然たる存在が なかつたならば、日露戦役後に於ても満洲の地はどうなつて居つたか解らない運命 にあつたのである。満洲をして事なきを得せしめたものは、支那の中央政府の力で はなくして、実に白本のお蔭であつたことは否定することの出来ない事実である。  然るに中華民国は、ヴェルサイユ条約後に於ける国際政冶の風潮に乗じ、欧米の 日本圧迫に便乗して、所謂喪権回収に熱中し、満洲の地から日本の勢力を駆逐せん が為に凡ゆる弄策を事とするに至つたのである。抑々満洲の地たる、日清戦役の賠 償として、其の一部分は一度日本に割譲された因縁の地である。三国干渉を誘致し て巧みに支那はそれを取返したのだが、後に李鴻章・ロバノフの密約なる闇取引に よつて支那の政治家から旧露に売渡されて居たやうなものであつた。それを日本は 十万の生霊と、当時にあつては国民の負担に余る程の巨額の國帑とを犠牲として、 支那の為に保全の実を全うしてやつたといふ二重因縁附の土地である。若し此の土 地を失地と呼び得る国があるとすれば、それは支那ではなくして日本である。否、 旧露でさへもが支那以上に此の土地に対しては権利を持つとも言ひ得るのである。 中華民国政府竝びに張政権は、満洲現地に於て凡ゆる方法を以て不当に日本を圧迫 するのみならず、支那全土に亙り日本を侵略国なりとして、下は幼稚園より上は大 学に至る迄、徹底せる抗日教育を施して純真なるべき第二国民の脳裏に不倶戴天の 仇敵日本なる観念を植附けたのである。中華民国は、排日の外交政策を強化するの 目的を以て、蘇聯に接近し、所謂容共抗日の国是を定め、一方欧米列強の力を誘導 して、日本の勢力を大陸より完全に追払はんと企図したのである。斯くて日本の生 命線たるべき満洲は生命の安全を脅す内蔵癌と化したのである。斯くの如き情勢の 下に於て、偶々満洲事変は勃発した。此の事変に於て勝利を収めた日本は、満洲を 直に自国の領土たらしめ得る幾多の理由を有して居たにも拘らず、敢へてそれをし なかつたのみならず、保護領にさへもせずして、独立国たらしめたのである。満洲 の土地柄や住民を考へると、之を領土又は保護領と為すならば統治のし易い場所で あるが、独立国として指導することは中々面倒なところである。而も日本は敢へて 之を独立国とし、入会地的な満洲の状態を其の儘に肯定して、茲に五族協和の新国 家の建国を見たのである。  五族協和は、神武天皇の御詔勅にある八紘一宇の御精神、我が天皇政治の伝統た る「統(し)らす」の御精神を現代に生かさんとする企てであつて、日本は、此の悠久に 亙る伝統精神を二十世紀の世界に実現する手始として、新しき国家満洲国を創建し たのである。日本が満洲事変を一転機として防衛より積極的な大陸経営に踏出した といふ所以は実に茲にあるのである。民族協和の建国精神は、其の理想に於て崇高 であるばかりではなくして、現実の国際政治の上から見ても最も健実な実践性を有 する原理であることを、今次の第二次欧州大戦が現に我等の眼前に実証しつゝあ る。ヴエルサイユ条約に於ける欧米の指導的政治家達は、国際政治の理想主義に立 脚すると称し、所謂民族自決主義を標榜して、欧州に幾多の小立国を拵へ上げた のであつた。此の機械的な民族主義小国家が如何に砂上の楼閣の如く儚いものであ つたかは現に我々の知る通りである。彼等は欧州に於ける平和の保証として役立た なかつたのみではない、実に第二次欧州大戦の動因となり、一度第二次欧州大戦の 勃発するや、少くとも今日迄のところでは、新旧多数の小国家の存在が何等英仏側 の安全の保証にすらもならずして、却つて随処に聯合軍のアキレスの踵となつたの である。  今日の世界は最早完全なる独立国家としての小国の存在を許さないのではあるま いか。曾てはローマ法皇の教権下に統一され一体としての文化を持つた欧州は、ル ネサンスを経て個人主義・自由主義の風潮の擡頭と共に幾多の近代的国民国家に分 裂し、特に資本主義勃興に乗つて益々此の傾向が助長されたのである。然るに此の 欧州の個人主義・自由主義・資本主義を生んだ原本的の力は、多くの驚くべき近代 的発明・発見を為し人類の物的文化の上に大変革を齎したのである。特に蒸気・電 通信等に未曾有の変革を齎し、著しく地球を縮小せしむる結果となつた。即ち世界 は或意味に於て物的には一つとなりつゝあると言ふことが出来るのである。直に一 つにならない迄も、今日の交通・通信のスピードを以てすれば、現に存在するが如 き小国の分立は非常な障碍でありハンデイキヤツプであつて、少くとも世界は幾つ かの少数大ブロックに纏らなければ不便であり不都合であるばかりでなく、到底立 行かないといふ形勢になつて来たのである。之と竝んで、現今に於ける生産機関の 発達は、物貨の大量生産を可能とし、人口の都市集中を招来し、土地の広さの割に より多くの人口を支へ得るに至つたと共た、スピードのかゝつた大量生産機関の要 する原料や動力資源等の確保の為に、又其の巨大なる生産物の消費市場の確保の為 に、従来の領土的配分を甚だ不合理なものたらしむると共に、一面愈々以て多数小国 の存在を困難ならしむるに至つたのである。既に久しく資源と市場とに於て獅子の 分前を持つた先進国は益々障壁を高くして之を守らんとし、それを有せざる或は持 つことの乏しき後進国にして強国たるの要素と気力をを持てる国は新しく割り込ま んとし、茲に世界不安を招来するに至つた。此れは第一次世界大戦の最有力なる原 因であると言ふことが出来る。幸か不幸か第一次欧州大戦は所謂持てる国の勝利に 終り、持たざる国は其の代表たる独逸を筆頭として益々抑圧の憂目を見ることとなつ たのである。而も底止することを知らぬ新機械の威力は最早古い人間の精神では支 配しきれなくなつてしまつた。より高い理想主養の精神が人類を支配せざる限り、 人間は機械の奴隷たらねばならぬ運命の下にある。戦勝国も戦敗国も機械の支配の 下に立たされた。資源と市場の分配の調整は新しい機械に適応した新しい精神を以 て為されねぽならないが、人間の精神は機械と歩調を合はせて進歩することが出来 ない為に、領土と資源と市場との公正な再分配は未だ容易に実現すべくもない。而 も機械は冷徹であり貪婪である。之に追随する為には曲りなりにも世界の経済や政 治や外交の上に何等かの改変が余儀なくされる。斯くして生れて来たのが即ち経済 のブロツク化であり、アウタルキーの思想竝びに其の実践である。  此の意味に於ても亦、従来の国家竝び領土的区画は不合理であり、此等現有の 制度は文化の物的基礎即ち進歩した機械生産に対して不適応の状態に陥つて居るの であるから、当然修正さるべきものなのであらう。唯人間の心といふものは、一度 適応した社会の物的条件に固執し、其の条件がとつくの昔に変革されて居るにも拘 らず、容易に新しき条件に適応し得ない厄介な代物なのである。或社会心理学者が 喝破したやうに、「若し人間行動の最も顕著な特異性があるとするならば、それは 取りも直さず反復性である」のであつて、環境の変化に常に取残され勝ちのものな のである。人間が十分に此の点に目覚めて、自分自身の創作たる機械文化を自由に 支配し得るやうな聡明な心構を生み出さない間は、恐らく世界に真の意味の平和は ないであらう。第二次世界大戦が、何れの側の勝利に終らうとも、或は妥協を以て 媾和が案外速に成立しようとも、第三次・第四次・第N次の世界戦争は引続いて起 つて来るであらう。とまれ人間は完全に機械に適合出来ない迄も応急の順応は為さ ねばならぬから、世界経済の上にブロツク化が生れて来たのである。而して、日本 と支那大陸とは、此の地縁的宿命によりて、又日本が近代工業化された国であり支 那大陸が然らざる土地であることにより、更に其の天然資源の分布の状態等に鑑 み、国際経済に於ては当然日支は一体となつて完全なるブロックを形成すべきであ り、斯くすることによつてのみ日本と支那とは共通の繁栄と慶福とに与ることが出 来る。此の事は、少しく冷静に物を看る眼を持つ者であり虚心坦懐に物を考へる理 性を持つ者であるならば、容易に肯定せざるを得ない必然的事実なのである。  日本と支那とが脣歯輔車の関係にあるといふことは単なる形容ではない。上述し 来つたやうな国際政治的・国際経済的事情を冷静に検討するならば、此の両者は相 互に離れては其の安全と発展とを保証されないといふことは明瞭であらう。日本と 支那とは国防と経済生活との両方面から考へて文字通りに不可分離の関係に置かれ て居る。日本が衰頽亡滅するならば、独立国としての支那は即刻地球上から消去る 運命を持つのであり、支那が不統一と劣弱の現状を維持し半独立国・半植民地の状 態を脱し得ぎる限り、弱き隣邦を持てる日本は枕を高くして眠ることは許されない のである。況や、蘇聯と通じ欧米の勢力を借りて自己の守護者たる日本を卻けんと する悪意や劣弱国としての中華民国を隣邦として持続けることは、日本にとつては 最早忍び得ざるところである。「雨降つて地固まる」で、支那事変の結果は日支両国 の関係を正にあるべき状態に置くこととなるに違ひない、否、さうあらしめねばな らない。手つ取り早く言へば、日支両国が虚心坦懐共に図つて双方の自発的合意に より一国家を形成することが、東亜の安全と繁栄とを確保する所以であるとも考へ られないことはない。人間が理牲の判断のみで動く純然たる合理的存在であるなら ば、それも出来るかも知れない。だが、人間は合理的存在である以上に、感情的・ 本能的な存在である。日支同文同種が、久しく唱へられて居るにも拘らず、両国民 は歴史・伝統・言語・風習・宗教等を異にする上に独立国としての面目もあるので、 直に両国が一国家を形成するといふことは不可能である。それが仮に可能であると しても、必ずしも望ましきことではない。要は日支両国が、各々独立しながら、速 に不可分一体の同盟国----国防・産業・経済上の同盟国となることである。特に両 国は思想一体の同盟国とならねばならぬ。此の点に関しては特に中華民国人上下の 反省を求めたいと思ふ。満洲国が、日本と不可分一体の同盟国を形成することによ か、如何に政治の能率を高め、産業の発展を途げ、面目を一新して、三千万民衆の 慶福を増大せしめたかに刮目せんことを望むや切なるものがある。私は思うてこゝ に到る時常に仏者の所謂業(ごふ)をしみじみと考へさせられるのであるが、日本の真意を 誤解し曲解する支那国民を抗日・排日に駆り立てる要因又は口実に不幸にして満洲 国が差当りなつて居ることは、辞むべくもない事実である。併しながら何と言つて も解りのよい中華民国人のことであるから、藉すに時を以てすれば、此の新国家の 実績と、其の東亜安定勢力としての役割と、日本の清浄潔白等の野心なきことと を看得することが出来るやうになることを私は確信する。其の暁には、満洲国は逆 に日支両国を繋ぐ大切な楔の役割を務めることになり、日支両国人の心の化合を助 ける触媒の作用を為すものとなるであらう。是れ即ち私が支那事変は満洲事変の続 きであり、興亜の大業は満洲建国の延長であると言ふ所以である。  興亜の大業が満洲建国の延長であるとの私の主張に対して、隣邦人の誤解のない やうに特に念を入れて言つて置かねばならぬことは、日本は満洲国を日本化し支那 を満洲国化せんとするが如き意図を有するものではないといふことである。日本の 望むところのものは一日も早く支那が近代的国家として統一されることである。日 本は終始一貫支那の自主独立を望み且生命がけで其の保全を援護し来つた国であ る。遺憾ながら支那は今日迄近代的国家としては統一されて居ないのである。が、 併し今や其の気運には向うて居るのではなからうかと思はれる。日本は誠心誠意そ れを援助せんとして居る。汪牙ハを首班とする新中華民国を極力支持しつゝあるの も其の為である。今次事変の収穫は、最悪の場合に於ても、少くとも支那が初めて 新しい意味の近代的な統一国家になるといふことであると私は信じて居る。大国と いふのみで真に統一の実を持たなかつた旧支那が完全に統一された鞏固な生気溢る る新支那を産み出すことが出来るならば、我々日本人の企図する興亜の大業にとり て真に重要なる基礎が一部が出来るのである。そして茲に日満支一体の新秩序が形 成せらるゝであらう。吾人の新しき支那に対して要求するところのものは唯一つで ある。しれは新支那が孤立せる弱小国(版図の大にも拘らず)とならざることである。 而して、さうならぬ為には、新支那は其の成立の初より日満両国と一心同体となつ て、東亜の安定に任ずるの責任を取らねばならぬ。其の限りに於て、日満両国と有 無相通じ長短相補ふ同胞愛・連帯意識・相互扶助の精神を持たねばならぬのであ る。即ち新支那は近代国家として統一さるゝ過程に於て直に東亜新秩序の一環とし て組織されねばならぬ。  日満支三国を打つて一丸とする東亜新秩序、それを枢軸とする大東亜共栄圏体制 は、彼のヴエルサイユ会議の生んだ国際聯盟の如き空虚な夢幻的存在であつてはな らぬこと勿論である。私が年来主張する如く、五十幾国が平等の権利を持つ国際聯 盟といふが如き非現実的なる組織を以て、一切の世界紛争乃至国際問題を処理せん とすることは、理想論としては別問題であるが、人類発達の現段階に於て結局「バ ベルの塔」に終るべきユートピアに過ぎなかつたではないか。日本は東亜新秩序の 指導者、大東亜共栄圏の実質上の盟主として、自己の実力と責任とに於て、内外に 対して飽く迄も大国としての権利を行使しなければならぬ。即ち、国際聯盟の設計 者の甘き空想にも拘らず、今日の世界には大国の勢力範囲なるものが厳然として存 在するのであつて、何国にせよ、若し他の大国の勢力範囲に鍬を入れ来るならば、 結局戦争を招来せねば已まないといふのが、遺憾ながら国際情勢の実際に立脚した 結論である。大国としての日本の勢力範囲たる大東亜共栄圏に対して、筋道の立た ぬ他国の介入が行はるゝが如き場合があるとしたならば、日本は逡巡するところな く断乎として之を排撃し、以て東亜防衛を完うするの覚悟を待たねばならぬ。が、 それと共に、或はそれ以上に、日本として努めねばならぬことは、飽く迄も満支両 国民を信頼し、彼等を誘掖指導して、一日も早く相共に責任を分ち得る掛如き強力 なる同志国民たらしめるやうにすることである。何となれば、善き指導者は、一切 の権利と責務とを独占する代りに、之を出来るだけ分与し得るが如き同志を発見し 訓練し得る者でなければならぬからである。而して此の同志の結束は高き共通の目 的を持つ時に於て最も堅固である。日本は満支両国をして其の各々の安全と繁栄と の為に日本の力に頼らしむるといふだけでは足りない。利害の打算のみに基づく結 合の紐帯は甚だ脆弱である。満支両国をして高き目的に向つて邁進する同志又は協 力者としての誇と責任感をを持たしむることが、日満支三国をして真に一心同体た らしむる力である。然らば、此のより高き、より大いなる共同の使命とは何か? それは先づ第一に日本が満支両国と相携へて大東亜諸民族を西欧帝国主義の制圧と 搾取とから解放することでなければならぬ。  私は今更白人禍を唱道したり人種戦争を使嗾したりしようとするやうな酔興人で はない。否、私は総べての偏見を忌む者である。けれども、世界人口の僅かに四四 パーセントを占むるに過ぎない今日の白人種が、過去四世紀の間にアメリカ・オー ストラリア・オセアニア・アフリカ而して亜細亜の大部分を征服し、原住種族を殆 ど奴隷化して、地球の七二パーセントを支配下に置いて居る事実を我々は坐視し得 るであらうか。東亜民族・全亜細亜民族・全世界の有色人種は確に其の処を得て居 ないのである。此の不自然と不正とは断じて許容さるべきではない。日満支三国民 の責任は実に重く、使命は甚だ高い。日満支三国民は而余の亜細亜同胞国民の不幸 な運命を直視し、外悔の甚だしきを反省せねばならぬ。兄弟墻に鬩いで、貴重な人 命と武器と物資との消耗を続けることを出来るだけ速に止めねばならぬ。私は自分 の立場上からも外交問題に触れるやうなことは一切避けることにして居るが、三国 民が深く反省するならば自らそこには道が拓かれることを確信する着である。  以上、私は全東亜民族・全亜細亜民族・全有色人種の解放てふ高く大いなる目的 の為に、日満支三国が血の結盟を為すべきことを説いたのであるが、それは決して 新しき人種戦争を示唆するものでないことは予め断つて置いた通りである。私は有 色人種が現に不幸なる制圧を蒙つて居るが故に其の解放を叫ぶのであつて、地を換 へて白色人種が奴隷化されて居るならば、人道の名に於て其の解放を求めることに 躊躇しないのである。だが、人種間の差別待遇の撤廃を求めるとか、東洋民族を西 欧の桎梏から解放するとかいふことは、単に自国・自民族の利害のみを思念するに 比すれば、其の理想が高大であると言ふことは出来ても、未だ消極的であつて真に 崇高偉大なる日本皇国の大理想たることを誇るには足りないのである。皇国日本の 大理想は実に世界人類の救済にあるのである。此の大理想の旆の下に、東洋精神文 化の名に於て、満支両国を会同せしめ、相携へて新世界文化の建設に邁進すること を誓ふに至つて、三国の諦盟は真に金剛不壊たるを得るのである。  西洋を物質文明、東洋を精神文化の国として、判然と区別するのは非科学的な分 類である。何れの文明、何れの文化と雖も、精神と物質の両面を有せざるものはな い。唯十九世紀に於て其の頂点に達した近代の西洋科学文明が極瑞なる機械論・物 質主義に堕したこはは否定出来ない。而して、此の西洋の近代的な科学文明に対し て、日本文化の伝統的特徴が精神主義にあることも亦、辞むべからぎる事実であ る。更に西洋人が物慾旺盛であるのに対して日本人が物慾に恬淡であること、西洋 人が個人主義であるのに対して日本人が家族主義であること等も、之を拒むことが 出来ない。日本人と満支人との間には、同じ東洋人といつても、大いに民族心理的 性格を異にするものがあるにはあるが、その精神生活の共通な色調に於て見逃すべ からざる東洋的特異性が認められる。特に西洋に於て殆ど亡滅したかに見える忠孝 の道徳的情操の如きに至つては、満支人の間に歴然として未だ其の根源の失はれざ るものあるを見出すのである。然り而して、今日の世界空前の行詰りを招来し人類 史上未曾有とも言ふべき危機を誘発したるものは、実に此の西欧人の物質本位の科 学文明であり、物慾主義であり、個人主義であるが故に、之を救済し得る唯一の原 理があるとすれば、それは皇道の中に於てのみ見出され、汎くは東洋精神の中に於 てのみ見出さるべきであらう。  皇道の世界救済といふことは興亜の大業の核心であると信ずるが故に、私は諄い 様であるが敢へて重複を厭はずして、此の点を今少しく詳説して置きたいと思ふ。 今や日本と言はんよりも、東亜と言はんよりも、実に世界を挙げての有史以来未曾 有の大変局に直面して居るのである。非常時は啻に日本だけではない。東亜だけで はない。真に世界全人類を挙げての非常時であるのである。先年私が政党解消を提 唱して全国を行脚した時にも、独り日本のみの非常時ではない。実に世界を挙げて 空前の変局に臨んで居るのであるといふことを説き、其の対策を質しつゝ、自分の 意見をも述べて廻つたのである。支那事変が起つた。世人動(やや)もすれば日支の問題と いふ点に余りにも重点を置いて考へる傾があるが、私は一面より看れば此れも世界 空前の大変局の一つの症状でしかないと思ふ。遠からず欧州大戦が勃発し、恐らく 廷いては第二の世界大戦に廷びて行くのであらうと、私は此の数年来予言し警告し て居たのであるが、遂に昨年九月兎も角も第二次欧州大戦が勃発した。日本は未だ 此の大戦に介入して居らぬとも見得るのであるが、結局のところ直接か間接に之に 捲き込まれずにはすむまい。否、現在、己に世界全体が事実之に捲き込まれて居 るのだとも言はれないことはない。米国の如きは事実上早く既に交戦国の一つであ る。煙硝の臭や大砲の音がせぬと戦争と思はぬ人があるかも知れないが、達観すれ ば煙硝の臭がしないから戦争ではない、平時即ち平和であると思ふことは余りにも 皮相の観である。前回の世界大戦の起る前には激烈な経済戦が行はれた。偶々それ が煙硝の臭のする戦争形式に変つたに過ぎない。而して、ヴエルサイユ条約によつ て其の結末を付けたと或人達は思つたのであるが、私から見れば形こそ変つたが本 質的には依然「戦争」が継続して居たのである。例へば、実際上今日の戦争の一番 大きな原因である経済戦は、今日の英仏対独戦争の直前に於て、前回の欧州大戦の 前に比して一層猛烈に行はれて居たのである。昨年の九月兵器による所謂戦争の始 まる迄実にヴエルサイユ条約以後戦争は実質的には熄んで居なかつたのである。然 らば、斯かる悲惨なる戦争(経済戦も含む)の根本原因は何かと言へば、それは五十 年来の驚くベき大発明と人間の欲望殊に物慾とである。若し欧米人が今少し物慾に 恬淡であつたならば、而して五十年来の前代未聞の発明・発見がなかつたならば、 或は二十年前の世界大戦も今回の欧州戦争もなかつたのではあるまいか。  欧州を主流とする現代文明は、唯狂暴的に発明・発見に邁進し、且人間の欲望、 特に物質的欲望を最も激しく刺戟し募らせつゝあるのである。其の結果が経済戦を 彌が上にも激成し、延いて暴力戦即ち普通吾人の呼ぶところの戦争に迄延び行かし めて居るのであつて、其の本質は経済戦も暴力戦」(俗に謂ふ「戦争)も其の間何等差は ない。普通戦争の主要原因は経済戦であると言はれて居るが、私は経済戦は煙硝の 臭こそせぬが本質的には所謂戦争と称するものと同一であると思ふ。此の二者は原 因結果の関係にはなくして、唯少し顔形の変つた兄弟分、否、同一人である。  欧米文明は、一面に於て熱心に戦争防止を力説しながら、他面戦争の主要原因た る物慾に就いて有效なる匡正方法を講じてゐない。否、却つて之を刺戟して已まぬ。 それでは所詮戦争は防止出来ぬことだけは明らかである。而して、慾は人の心の中 に在るのであるから、精神的に之を克服すべきであるに拘らず、物に重点を置き、 軍隊の数量や武器の利鈍等に就いて如何程論議しても、それでは到底目的を達し得 る見込はない。此等は実のところ戦争の原因ではない、寧ろ戦争に伴なふ症状とで も言ふべきものなのである。斯くの如く、心からでなくて物の側から戦争を克服し ようとするのが、物質に偏重したる欧米文明の遣り口であつて、それでは所謂戦争 といふものの止まる望はないと私は思ふ。況や、武備を張り其の威力に訴へて世界 平和を確保しようなどとは、政治屋の譫語にあらずんば、暴力戦争準備の口実とし ての価値しかない言葉である。精神方面から人類の欲望を、特に物質的欲望を匡正 する角度から問題を取扱はねば、平和確保といふ問題は所詮物にならぬと信ずる。 而して更に殆ど時間と空間とを抹殺せんとする前代末聞の科学的大発明・大発見そ れ自体と其の結果と、人間の伝統に繋がる感情と生存条件との調和といふ如き根本 的諸問題の処理解決を企図せずしては、到底望はあるまい。私は数十年来、現代文 明は遠からず亡び行く運命のものではないかといふ感想を懐き、さうした角度から も世界形勢の推移を眺めて居るのであるが、文明人の物慾は愈々募り、発明と発見 は彌が上にも飛躍しつゝ、経済戦は日を逐うて激烈となつて来た。それに我意我執 を押通す為に用ふる暴力的手段方法は、科学の発達につれて空前の威力を発揮し来 り、殊に兵器は以て人類自らを鏖殺するに足る底のものとなつたのである。ところ で、道心は之に反比例して益々微かになつて来た。如何なる事にても躊躇しない。 人類は有史以来未だ曾て斯かる危局に直面させられたことはないと私は思ふ。或は 文明人間相互の殲滅戦は必至の運命ではあるまいかとさへ考へさせられるのであ る。「さうに相達ない、最早助からぬ運命だから、まあ没落殲滅の日の来る迄、少し でも多く人生を楽しむがよい、それ以外に手の下し様はない」と言ふならば、何を か言はんやであるが、私は人問としてさう考へて宜しいかどうか疑ふ者である。よ し現代文明の没落、文明人の滅亡が眼前に迫りつゝあると感じても、私は一箇の人 間として左様な運命を免れる為に最後の一瞬まで努力すべきではなからうか、此れ が人間として生れた義務、否、生物としての本能ではなからうかと思ふ。  或は欧米人から見ると自惚も程があると笑ふかも知れぬが、没落の途を急ぎつゝ ある現代文明を匡救し、人類をして滅亡から免れしめ得る民族が此の地球上に在り とすれば、それは独り我が大和民族のみであるといふのが、十六歳の頃からの私の 信念である。併し、万が一大和民族も所詮此の聖業には堪へぬと言ふならば、最や 現代文明は没落の運命を免れぬと信ずる。併し、若し大和民族はそれに堪へる、此 れが真に我が民族の天から課せられたる使命であると言ふならば、大和民族が全人 類に負ふところの義務は実に重且大なると言はねばならぬ。宜しく一大勇猛心を起 し不退転の決意を以て遠謀深慮全人類に対する大慈悲心を発揮しなければならぬ。  私は此の皇国の世界救済の大使命に想到する毎に、常に青年のやうな精神的興奮 を感ずるので、一気に結論を吐いてしまつたやうなことになつたが、尚加へて語り たいと思ふ。それは以上の如き人類の救済に迄及ぶ興亜の大業に当る資格が果して 現に見るが如き為体(ていたらく)の日本人にあるであらうかといふ疑問に就いてである。今日迄 の日本の歴史は明らかに過去の大和民族が有資格者であつたことを示して居る。今 日の我々はどうであるか。大いに反省して見なければならぬ。我々が反省すべきこ との第一は、国民としても、個人としても、私利我欲、私心我執を去つて居るか、 無我になり、無私、無欲になつて天皇に帰一し奉つて居るかどうかといふことでな ければならぬ。欧米人を物質主義・個人主義と貶して居りながら、自らが我利我欲 の虜になつて居りはせぬか。日本人も亦果して謬れる個人主義・自由主義の弊に陥 つては居ないか。此の非常時に直面しながら国内の不統一はどうであるか。私が嘗 て政党解消を唱へつゝ全国に行脚を試みた最大目的の一つは、総べての対立を一掃 し国民輿論の統一に力を致すといふことにあつたのである。兎も角政党派形式上一 応は解消され、今や、全国民と政府、軍官民を一体として結合すべき新政治体制が 生まれんとして居るが、我々は其の基礎の上に強力に統一された国是・国策・国論 の樹立を強烈に希求して已まない。欧州戦局の見通しをしかと付けることは困難で あるが、少くとも今日迄の経過に於ては、独逸の電光石火の攻勢は真に驚嘆に値す るものがあると同時に、仏の敗退、英の立遅れは蔽ふべからぎる事実である。而し て此の独逸の成功は、武器と戦術の優秀もさることながら、専ら精神のカであると は、ヒツトラー総統の世界に誇るところであり、又仏の敗退は、謬れる自由主義と 小党分立に基づく国内の不統一に因由するとは、レイノー首相やペタン老首相の率 直に認むるところである。英国は英国で、久しき伝統を誇つた自由主義の国是を改 めて、遅蒔ながらも徹底的に総動員体制を整へ、以て独軍の電撃に備へんと焦つて 居るのである。万邦無比、純粋完全な全体主義の國體を持ち、畏くも現御神と斎き 奉る天皇を上に戴く日本国民が、其の人心の統一に於て、上下の一致協力に於て、 無私奉公の精神に於て、将た又国策の確立不動に於て、仮にもナチス独逸に劣るが 如きことあらば、我々昭和の民は何を以て父祖の霊に対することが出来るであらう か。国民一人残らず、天地神明の御前に額づき、畏れ戦いて魂の入替を願はなけれ ば、興亜の大業の完成はさて置き、祖国を危殆に陥れることすらないとは保証し兼 ねるのである。現実政治には触れたくないが、此の空前の一大変局に処しながら、 最近数代の内閣は一体何をしたか。愚図々々して居たら、日支は置去にされ、此の 世界の大変局は再び白人本位・欧米中心の新秩序に収つてしまひ、日本は完全に締 出しを喰はないと誰が保証するか。私は只管それを憂へて文字通り食して味を知ら ず夜睡りを為さざることすらあるのである。  興亜の大業を賦課された我々日本国民は実に猛省一番を要する。総べての個人、 総べての党派、総べての派閥は、残らず其の自己本位を徹底清算し、随神の絶対無 私に還元し、今上陛下の大御心のまにまに国論を統一し、内に於ては昭和維新を断 行して、真に強力なる革新体制を整へると共に、外に向つては狐疑逡巡を排し、追 随外交の伝統を揚棄して、東亜の守護者、文明の救済者たる自信の下に、堂々と世 界の危局に処さねばならぬ。日本が、此の断乎たる決意、厳然たる信念、強靱なる 実力を、中華民国竝びに其の他の東亜諸国に対し又欧米に対して示し得ざる限り、 支那事変処理・東亜新秩序建設乃至大東亜共栄圏樹立の望は絶対にない。況や文明 の救済に於てをやである。立看板やポスターや掛声によつて大事の解決された例 は、日本には未だ曾てない、否、何処の国にもそんなことはない。  以上は興亜の大任を担ふ日本国民が今日直に敢行せねばならぬ重大要件を説いた のであるが、隣邦同胞に対しては我々は真の兄弟愛を以て臨み苟も傲慢不遜の態度 を示してはならぬ。現代の中華民国人のやうに不幸な国民は世界に多くはないと言 ひ得るのである。彼等は世界稀なる古く長い文化の伝統を持ち、それを誇りとする 優越意識の極めて強い民族である。而も少くとも過去百年間の支那の外交史は屈辱 と敗退との歴史である。そして、後等自身の間違つた意識によれば、既に述べたや うに、時間的にも地域的にも、最近の侵入者は日本であると思つて居るのである。 それが無根拠であらうとも、彼等はそれを信じ、彼等の或者は日本をやつつける為 ならば如何なる犠牲を払つてもよいとさへ考へて居るのである。更に彼等を一層不 幸ならしむることには、彼等は昔から日本人を東夷と呼び倭奴と称して劣等視し来 つて居るのである。彼等は旧家の者が成上り者を見るが如き眼を以て日本人を見る のである。而も彼等は維新以後七十年間に於ける日本の驚くべき躍進発展と国力の 伸張とを見て驚歎する一方非常なる脅威を感じ、日本に対しては被害妄想患者的な 弱小意識を持つて居るのである。従つて、総べての中華民国人が俄に双手を拡げて 我等を歓迎すると考へる日本人があるとすれぼ、それは余程自惚かお人好しだと言 はねばならぬ。現在のところ、彼等は一般に日本人を恨み、憎み、疑つて居ると考 へることが常識である。従つて我々日本人は大国民の襟度を以て彼等に対し、敢へ て優越を誇示することなく、彼等の僻みや猜疑心を労(いたわ)つてやるだけの雅懐と親切心 を持たねばならないのである。そして、日本人は常に個人としても国民としても寔 に尊敬に値するものであり、軍人も官吏も学者も商人も日本人たる限り信頼するに 足り力とするに足る人物であることを、実行を以て彼等に体認せしめねばならない。  中華民国人に対して兄弟愛を持つことの必要を私は説いたが、それにもまして大 切なることは、彼等を対等に扱ふことである。中華民国人の心を労れと私の言つた のは、つまり此の対等扱ひによつて彼等の自尊心を傷つけないやうにすることを意 味するのである。それと同時に我々は仮にも彼等の前に自らを卑下し彼等を甘すか してはならぬといふことも注意したい。日本人は、外人に対する場合、ともすれ ば謙譲を通り越して自己卑下に陥る癖がある。支那を訪ふ日本人は、学者も俗人も、 口を開けば直に日本は文化に於ては支那の弟子であつて何とかして学恩を返さねば ならぬといふやうなことを言ふのである。日本の文化が支那に負ふものあるは事実 であり、千年以上も前に日本が支那の弟子であつたことも亦事実であるが、日本の 文化は大和民族の創意から生れた独自の文化であつて支那の借りものではないので ある。よい加減な其の場限りのお世辞を言つて彼等の自惚や自大思想や保守主義に 油を注ぐことは良き友人としては慎まねばならぬことである。支那は実に此等の欠 点の為に今日の衰運を招いたのだといふことを忘れず、彼等の短を戒め長を伸ばす やうにするのが真に彼等を愛する所以である。  それと共に、日本は国家として強い武力を持ち、欧米に優る科学を持ち、良質の 文明を持ち、品格の高い社会生活を持ち、何れの点より見ても欧米諸国に立優つた 文化国民であることを示さねばならぬ。と言ふことは、見せかけるのでなくして、 それら総べての点に於て日本は一日も速に欧米の何れの国にも数等優つた実質を備 へた国家となり国民となることが必要であり、国を挙げてそれに邁進せねばならぬ と言ふのである。特に日本人の徳性が世界に冠絶せることを知るならば、支那人は 自らにして其の徳風に靡くのである。  尚、上述の如き日支間に於ける融和と結合の関係は、独り日支間に於て要請さる るばかりでなく、広く日満支と南洋諸国をも包合したる大東亜諸民族間にも植附け られねばならぬことを痛感する。蓋し是れ実に多年東亜に加へられた欧米勢カの桎 梏から東亜を解放し、進んで大東亜の発展興隆を成就せんむる基本条件たるが故で ある。東亜が久しく欧米勢力の桎梏下に其の搾取を感受しなければならなかつた大 きな原因の一つは、過去の日支関係に於ても見らるゝ如く、東亜民族が東亜民族た ることの共同意識を欠き互に排擠争闘を事として居た点にある。  正に其の第一歩を踏出した東亜新秩序建設運動は、政治的に、経済的に、将た国 防的に、白人種ブロツクより東亜を独立興隆せしめんとするものであるが、此れが さう簡単に成就すると思ふのは甘過ぎるであらう。我々は今後幾多の大きな盤根錯 節にぶつかることを覚悟せねばならぬ。而も事の成就すると否とは東亜諸民族の 心構次第にあると思ふ。換言すれば東亜共同意識の育成が何物にも優つて先行さる べきであると思ふ。我々は此の点に於て束亜諸国間に於ける各民族の融和結合運動 乃至文化竝びに発育の隔意なき交換運動が飛躍的に展開せられんことを希求して已 まない者である。繰返して言ふ、東亜民族の心の問題に触れずして東亜の安定興隆 はないと。  最後に、興亜の大業の完遂に対しては、欧米を総挙げにしての妨害と抵抗とが一 応は予想されることを忘れてはならない。興亜の大業は、欧米列強をして言はしむ れば、亜細亜の反逆であり、大東亜の新秩序は欧米本位の旧秩序の破壊である以上 は、利害相反することは明白だからである。私としては飽く迄も、斯かる考の甚だ 浅薄にして、来るべき世界全体の新秩序も亦詮ずるところ諸国民・諸民族の解放と いふ八紘一宇の大精神によらなければならぬ事を悟らしめ、窮極するところ大東亜 共栄圏の建設により彼等も亦却つて利益するところ多き所以を納得せしめなければ ならぬと思ふのである。併し、欧州大戦が如何なる形に於て収まるとしても、押寄 せて来るものは、少くとも欧米某々国の妨害であり対抗であるに違ひない。勿論日 本が孤立無援に陥り国際場裡から締出しを喰はざる為の外交工作は必要であるし、 又外交上其の余地は十分あると思はれるけれども、此の際甘い計算や空頼みは禁物 である。世界を挙げて反対し来つても、日本は敢然として肇國の理想たる八紘一宇 の大義を宇内に布く第一歩として興亜の大業完成の初志を貫徹するといふ覚悟と、 全世界を敵としても戦ひ抜くといふ底の用意とが、日本国民に絶対必要である。  私は興亜の大業の完成の為には日本は全世界を敵としても戦ひ抜く覚悟がなけれ ばならぬことを説いたのであるが、それは欧米に対して東亜から締出しを喰はせる といふことを意味するものではない。東亜の新秩序が、欧米人の誤解するが如く、 支那大陸乃至大東亜圏内に於ける日本の経済的独占を意味するものであるならば、 支那事変の聖戦たる所以を誇ることも出来ず、興亜の大業を誇ることも出来ない。 それは欧米の帝国主義に換ふるに日本の帝国主義を以てしただけのことであつて、 日本が欧米の物慾主義を露骨に学び東亜をして物慾相打つ修羅場たらしむることで ある。それでは皇道を世界に光被せしむることも人類を救済することも望めないの である。日本は、東亜新秩序の最低条件として、旧来の欧米資本主義の支那制圧を 徹底的に排除し、進んで全東洋に於ける白人制覇の粉粋を期するものではあるが、 将来に於ける彼等の節度ある経済発展や大東亜国内に於ける資源開発への協力を拒 否するものであつてはならないのである。否、豊富な資源の開発には大いに欧米諸 国の協力を必要とするのである。我々は利己主義・物慾主義・自我中心主義の欧米 の世界征服の不正不義を悪むが故に、東亜を奴隷として繋ぐ彼等の鉄鎖のある限 り、之を断截せざるを得ないのであるが、既に之を堆破し去つて総べての東亜民族 に其の処を得せしめた後に於ては、決して欧米の物慾主義的独占を学んで大東亜圏 内の何処にも不自然なる障壁を築くことをしてはならないのである。大東亜の新秩 序に於て、我等は、天然資源と世界市場との公平なる配分は好何にあらねばならぬ かを、世界に向つて正しく教へる用意を持たねばならぬ。人類全体の福祉の為に、 地球上の限られたる土地と資源とは如何に正しく配分され利用開発されねばならぬ かを示し得るものは、精神主義・厚生本位の東洋経済の原理あるのみだからである。 而して、斯くの如き道義に基づける新東亜経済体制の確立により、日満支は勿論、 南太平洋を含めた大東亜共栄圏内に於ける東亜諸民族の生産力は急速度に躍進し、 流通部面は飛躍的に拡大して、東亜諸民族の生活は空前の向上線を辿ることとなら う。又漸くて東亜の諸民族は茲に始めて長き植民地繋賓縛から開放されたる真の物 質的基礎を獲得するに至るべきを確信するものである。而して斯くなつてこそ敵米 も此の圏内から恒久的に真の利益、従来に比して幾層倍、幾十倍の利益を享くるこ とが出来るのである。  思ふに、斯かる各民族の道義的結合は、実に人類史発展の一大時期を劃する動向 であり、世界秩序再建の方向を暗示するものである。此の場合各民族国家は其の存 在理由を失ふのではなく、寧ろ反対に夫々の自立的存在と発展とが尊重され、其の 確乎たる基礎の上に協同関係が個性化され道徳的紐帯を得るのである。従来民族の 血の神話と独逸民族の絶対性を説いて居たローゼンベルグの如きも、今や欧州共同 体論を強調し、独逸の現実竝びに将来の政策も亦全体主義から協同主義への転向を 示さんとして居るのは、東亜新秩序の建設乃至大東亜共栄圏の樹立に驀進しつゝあ る我が国としては注目すべき事柄と言はねばならぬ。欧州共同体が独逸により如何 に実現さるべきかは問ふところではない。日本としては、先づ以て唯皇国日本に於 てのみ其の実現の可能なる真の全体主義、即ち暴力や強制によらざる「万民が心の 底から喜悦し悦服して天皇に帰一し奉る」といふ、世界に一あつて二なき全体主義 の実現たる国内体制を一日も速に整へ、東亜新秩序の建設乃至大東亜共栄圏の樹立 に邁進し、世界に先駆して世界新秩序の建設を指導するといふ大抱負・大覚悟がな ければならぬ。  以上大略ながら、興亜の大業の由来・意義・対策等を、日本の維新以来の大陸発 展の史実と世界の大勢とに照らして略述したのであるが、顧みて我等の祖国が今や 空前の危局に臨んで居ることを思ふ時、真に深い憂を抱き堅い固い決心を持たなけ ればならぬことを痛感する。余りにも大胆な予断であると評せられるかも知れない が、私は或は此の二三年で世界人類(一定水準以上の現代文明人の綜合を指す)の運命( 其の運命の輪郭若しくは基礎)が決せられるのではあるまいかとさへ考へるのである。即 ち文明国の一として現にの地球上に国をなせる日本の運命、更に東亜の運命も 亦、一般世界の運命に繋がりて決せられることは免れまい。私は我が国民に今少し 此の点を本当に把捏して貰ひたいと思ふ。兎に角斯やうな感想をも懐きつゝ我が現 下の国情を見る時、真に深憂を抱く者は私のみではあるまい。現に見るが如き此の 国の為体(ていたらく)で、一体此の空前の世界大変局に善処することが果して出来るであらう か。私は運命論的若しくは信仰的には然り、出来るだらうと答へるが、唯それだけ、 で以て泰然自若として昼寝することは私の為し得ないところである。寧ろ憂を先に する義務がお互いにあると思ふ。唯日本だけではない、実に有史以来の世界全人類を 挙げての空前の大変局であるといふことに、我が国民殊に青壮年と指導者達が一日 も早く覚醒し、此の自覚の下に挙国天に沖する火柱となつて興亜の大業に向つて邁 進せんことを切望して已まない。光は東方からである。