唯一者とその所有 

 

 訳 者 序
 本書が凡そいかなる種類の書物であるかは、今さら説明する必要のない程度に、わが国の読書社会にも宣伝されてゐることと信ずるじ本書は人類の思想の一典型を代表する極めてユニークなオリジナルな書物であつて、苟も自我、人生、社会、等の問題に思ひを致す人々の必ず一度は播読を要するといふばかりでなく、また実に、或型の性格の人達にとつては、恰も聖書が或種の人達にとつてさうであるやうに、寧ろ必要欠くべからざる書物だと云ふことができよう。訳者も曾て自己の整理と救拔との道程において、本書の「創造者的虚無」としての自我の思想に力強い暗示とはげましとを享けたものであることを、告白しなければならぬ。
 著者もこの論著をもつて「小鳥の唄」に譬へてゐるやうに、その文体はその思想内容と極めてよく調和して、独自の美しい文章を成してゐるので、訳者は最初この原文の調子をも如実に再現したいと希つたが、訳者の力にはその到底不可能なのを知つて、むしろ読み易い達意の訳文を作ることをもつて姑く満足することにした。また本書は難解の書とされてゐるやうであるが、著者の思想に何らかの共鳴を持つ読者にはさまで難解ではないであらう。但し著者は好んで屡々問答的にその論筆を運んでゐるが、その際それらの問答に括弧を施して区別するといふやうなことをしないために、或はその点が多少読みづらいかと思はれる。訳丈にもその注意を怠らなかつたのは勿論であるが、読者もなほ此事を心得てゐられたらよいであらう。
 飜訳に当つては、常に Byington の英訳を参照し、二三この訳本に従つた個所もある。また邦訳には辻潤氏の Byington からの訳書があるが、これは、訳者も問々参照して訳語等の上でなほ助けられたにも拘らず、決して良訳として推尚しがたいのが遺憾である。本訳書としても決して自負するに足るものではないが、同氏訳に比べれば、原語訳といふだけでも幾分解りよいであらう。もしも著者に対して何らかの興味をいだきながら、同訳本によつて愈々スチルネル難解の嘆を深かうせられた読音があるならば、あらためて本訳書を手にとつて頂きたいと思ふ。訳者などよりも遥かに多く原著者を愛し、本書の広く讃まれることを希望せられるであらう辻氏は、かく申したからとて、恐らく不快のみは感じられないことと信ずる。
 最後に、本書中の羅甸語の主なるものに就いては谷川徹三兄に、また仏蘭西語の殆んど全部に就いては熊谷直之助兄に、それぞれ御面倒をかけた。こゝにあらためてお礼を申上げます。


   昭和四年六月               志摩、磯部にて
                         草 間 平 作


 

   上 巻 目 次

 僕は何物にも無摘心だ (7)

 第一篇 人  間

  第一章 人間の生涯 (13)
  第二章 新時代と旧時代の人間 (22)
   第一節 古代人 (22)
   第二節 近代人 (34)
    一 精神 (39)
    二 憑かれた人 (47)
    三 教会政治 (92)
   第三節 自由人 (135)
    一 政治的自由主義 (136)
    二 社会的自由主義 (160)
    三 人道的自由主義 (172)


 

   僕は何物にも無関心だ


 何事だつて僕のでないものはない! まづ第一に善の事、それから神の事、人類の事、真理の・自由の・人道の・正義の事。さらにわが国民の・わが王者の・わが祖国の事。最後には精神の事まで、そしてその他の無数の事。たゞわが事だけが一向僕のでない。「自分のことばかりを考へる自我主義者(エゴイスト)に恥あれ!」だ。
 そんなら一体その者等のために僕等が働き、身を献げ、熱中せねばならぬところの、その者等は彼等のをどういふ風にとり扱つてゐるか、を検べて見よう。
 諸君は神について多くの奥義を伝へてくれる、そして数千年の間「神性の深さをさぐ」つて、その核心まで見届けてゐる、だから諸君は、神様が「神の」−僕等はそれにお仕へするやうに召されてゐるのだ−に、どれほど心を砕いてゐられるかを、十分ご存じのことだらう。そして諸君は、また神様のなさることを隠しはしない。それでは、彼のは一たい何だ? 神様は、僕等に要求されるやうに、他者(ひと)の事を、真理や愛の事を、自分の事にしてゐられるだらうか?この誤解は諸君を驚かす、そして諸君は教へてくれる、神の事は慥に真理と愛の事である、が、これらのは、彼にとつては決してよそごとと云へないのだ、何故なら、神自身が真理であり、愛であるから、と。神様も他者(ひと)の事を自分の事としてやつてゐられる点では、僕等哀れな蟲螻と同じなのだ、さう解(と)つたら、諸君は吃驚するだらう。「もし神様ご自身が真理でなかつたら、神様は真理のためにお尽しなさるだらうか?」なるほど神は、たゞ彼の事だけを気にかける、だが神は凡ての凡てなのだから、凡てのものがまた彼の事なのだ。しかし僕等は凡ての凡てではない、そして僕等のは全くちつぼけで云ふに足らぬ。だから僕等は、或る「より高いに仕へ」ねばならぬのだ。−成程分つた、神はたゞ自分の世話ばかり焼く、自分のことばかりに忙しく、自分のことばかりを考へる、そして自分よりほか眼中にない。彼の気に入らぬものこそいゝ災難だ。彼は、より高い何物にも仕へない、たゞ自分ばかりを満足させる。彼の関心(こと)は、一の − 純自我的関心だ。
 それのを僕等は僕等のにしなければならない人類は、どうだらう? 彼のは何か他の者の事だらうか、人類はより高いに仕へるか? 否、人類はたゞ自分ばかりを見まもつてゐる、人類はたゞ人類の利益ばかりを図る、人類にとつては彼自身が彼のなのだ。彼は自身を発展させるために、国民や個人をその労務にさんざんこき使ふ、そして人類の要るだけの働きをしてしまつたのち、彼等はお礼のために歴史の肥料堆みの上に投げられるのだ。人数の関心(こと)は、一つの − 純自我的関心ではなからうか?
 僕はこの上、彼のを僕等にずりかけて、僕等でなく、彼自身をのみ大事にし、僕等の幸福でなく彼の幸福をのみ図らうとする・づうづうしい連中を、一々とりあげなくてもよいだらう。その他のは、まア君達自身で視て見給へ。真理にしろ自由にしろ、人道にしろ、正義にしろ、諸君
                                                                              r

が熱心になつて其等に仕へるといふこと以外に、何を求めてゐるだらうかa
 彼等は忠嘗に熱心に臣事される時が、最も得意の時である。まづ忠誠な愛国者に守られる図嘩
々見紛へ。愛国老は血脱い戦ひに、或は飢餓や費困との戦ひに祭れる。そんなことに国民はなん■
の頓着しようか。図民は、彼等の死屍山肥料で「花嘆きほこる閥民」となるのだ! 個人は「図
           ヽ
民の偉大なる事のために」死んだ、そして囲民は二三のお鵡の言填を逸つて − その利筏を受け
とるり僕はこれを、儲かる自我主義と名づける。
                         サ ル タ ン
 だが、「自分の人民」をひどく可愛がつて壮語†る、あの土耳法王を見よ。彼は純然たる無私無
慾そのものではないか、そして始終彼の人民のために己を麒げてゐるではないか? いかにも、
 「彼の人民」のために。まア試みに、彼のものとしてでなく、君のものとして君を示して見たま・
 へ、すると君は、彼の自我主義からのがれる代りに、牢屋へ族行するだらう。サルタンは、自分
以外のものには一切無頓着だ。彼にはみづからが凡ての凡てであり、みづからが唯一のものであ
る。そして「彼の人民」の一人に敢てなるまいとする老は誰でも容赦しない。
 で諸君は、この明々白々の驚例から、自我主義者が一番得だといふことを学ばうと恩はない
かP 僕とLては、お蔭で大いに数へられた、そしてあの停大なる自我主義者たちになほも己を
捨てて仕へるよりも、むしろ自ら自我主義者にならうと思ふ。
                                                               ヽ
 神と人類は何物にも頓着しない、自分以外の何物にも。だから僕も何様に、わが事を我れの上
に限らう、神と同じく他の凡てのものにとつては無である我れ、われの凡てである我れ、唯山狩

04

 〓である我れの上に。
 もし神や人類が、諸君の保護するやうに、凡てのすべてである内群を彼等日身のうちに十分持
 つのなら、僕は、僕には大きにその内容が敏けてることを、そして僕は自分の「峯虚」について
 不平を云つてならないことを、承認する。が、僕は賽虚の意味の無ではなく、むしろ創造老的虚
 無である、即ち、その無から僕自身が創造者として一切を作り出すのだ。
         ヽ                         ヽ            ヽ
 全然僕の事でないものは皆、行つちまへ! 僕の事は少くとも「善の事」でなければならぬ、
                                               こ と
▼ と諸君は云ふのか? 抑も何が善で、何が患だ! 僕自身が賓に僕の関心なのだ、そして僕は善
 でもなければ恵でもない。二つながら僕にとつては無意味である。
            ヽ               ヽ       こ と
 神的のことは神の事、人間的のことは「人間」の事である。僕の関心事は神的のことでも人間
                                                  ヽ ■ヽ ヽ ヽ
 的のことでもない、それは虞でも、喜でも、正でも、自由でもない、専ら我がことである、そし
                               ヽ ヽ ヽ ヽ
 て我がことは決して一般的のものでなく −唯一無二である、僕が唯一無二であるやうに。
 僕にとつては、僕以上のものはなんにもない1


  第一篤 人  間

05

  人間にとつては人間が最高の存在である、とフォイエルバッ ハは云つてゐる。



  人間が今初めて尊兄きれた、⊥イーーノー・バタエルは云つてゐろ。



  そんなら欝等は、この最高の存在とこの新車見とあ、も少し詳斬に意べて見よ与。
  第一章 人間の生涯

 人間は、この世の光を見たその瞬間から、彼が他のあらゆるものと一緒に無茶苦茶に拍りこま
               ヽ ヽ ヽ     、 、 、
 れてゐる・その混沌の中から、彼自身を車見し、彼自身を獲得しょうと努力する。
 けれども、子供に壊触する一切のものが、今度は子供の攻撃に勤して自己を防禦し、自己の存
 立を固持するのである。
           ヽ 」ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
 そこで、銘々が自分自身を大事にすると同時に、絶えず他と衝突するために、自己主張の闘挙
 が避けがたくなる。
                                               ヽ ヽ
 勝つか負けるか − この睾の目二つの問に闘雫の運命は動施する。勝つた者は主人になり、負
        ヽ ヽ
 けた者は臣下になる、即ち前者は主樺と「至上桂」を行ひ、後者は畏怖・恭敬の裡に「臣下の義
 務」をつくすのである。
                                                                  ヽ ヽ
 併し雨着は依然として敵である、そして常に相手の際を窺つてゐる、相手の鵜粘を狙ふのだ、
 子供は親達の毅鮎を、親達は子供の鶴粘ハ例へば彼等の恐怖心しを。答が人間に勝つか、人間が
 答にうち勝つかである。
 少年時代には、自己の自由を得るにつれて、僕等は物の根砥を究め、「物の潜後」に到達しよう
 と努めるやうになる、そこで僕等はあらゆるものの易鞘をさぐり出す、よく知られてゐるやう

06

に、子供はそれに封する確かな本能を持つてゐる、だから僕等は物を壊したがる、蔽はれた隅々
を好んで掻きさがし、隠れたものや遠方のものを偵察する.そしてあらゆるものに自分をためし
 て見る。物の背後を睦めて.初めて僕等は安心する。たとへば、答が僕等の剛情に勤してあまり
にも無力であることを見破つたなら、僕等は最早それを恐れない、「答に成長して勝つた」のであ
一る。
 答の背後に、それよりも強く、僕等の −剛情が、僕等の倣然たる勇気が立つのである.僕等
は段々に気味悪く不安に感じてゐたあらゆるものの背後に、不気味な筈の威力や厳格な父親の領
 つきなどの背後に、廻つて見るやうになる。そしてあらゆるものの背後に、僕等の −不動心、
郎ち剛翠−大階不敵、僕等の沈着.優勢、不蹄不屈を見出すのである。最初僕等に恐怖と尊敬と
                                               ヽ ヽ
を注ぎこんだものの前に、僕等は寂早畏縮することなく、却つて勇気を奮ひおこす。僕等はあら
                  ヽ ヽ
ゆるものの背後に、僕等の勇気を、僕等の優越を見出す。長者や両親の厳しい命令の背後に、な
ほも僕等の勇気ある意向や毅智にたけた怜倒が立つのである.そして僕等が自己に目覚めるに徒
 つて、前には打勝ちがたく思はれたものが、段々小さく見えてくる。それにLても、僕等の故
                                   ヽ ヽ
智、怜刷、勇気、剛情とは山腹何であるかP 精碑−以外の何物でもない・・
                  ヽ ヽ ヽ ヽ             ヽ ヽ
 長い間僕琴に、後に僕等をへとJ\に疲れjす戦ひから、理性との敬ひから、免れてゐる0最
 も好ましい少年時代は、理性ととつくみ合ふ必婆なしに過ごされる。僕等は理性のために少しも
                                                                ヽ ヽ
 心を痛めない、それを柏手にすることもなく、受け容れることもない。人は僕等を詮得しようと
Lても徒男である・僕等は書き原理、原則、等に勤して聾である.その代りに、愛撫とか、懲罰
 とか、さういふものには、僕等はとても反抗できない。
           ヽ ヽ
 この糾難な理性との懸命の戦ひは、後年に至つて漸く始まり、そして新局面を打糾する。少年
時代には、僕等は、まだ何の屈託もなく駆けまはつてゐる。
  ヽ ヽ     ヽ ヽ
の悶酢媚約……派媚の謂ひであり、締約なもの、邸蒜秘なものや撃天上の諸力」
 僕等の滋刺たる青年の感情、この自己感情は、もはや何物をも畏れない、血ご界には暇をやる、
                          ヽ ヽ
なぜなら、僕等は世界以上であり、精紳であるからだ。
                          ヽ ヽ ヽ ヽ 、 、
 今初めて僕等は、これまで僕等が世界をは少しも精紳をもつて眺めず、たゞ見詰めてゐたの
だ、といふことを悟るU
         ヽ ヽ ヽ
 僕等は、自然力に封−て自分の最初の力を用ひる。両親は自壌力として僕らに畏敬の念を起さ
せる。が、後には、父も母も捨てらるべきものだ、あらゆる自然力ほ排破さるべきものだ、とい
ふことになる。其等は征服される。理性ある者、即ち「精紳的の人間」にとつては、自然力とし
                                                    ヽ ヽ ヽ ヽ  ヽ ヽ ヽ
ての家族は存在しない卜両親や兄弟等の否認が現はれる0併し此等のものが−精紳的な・理性的
 ヽ ヽ
な力として「再生」するならば、其等は最早全く以前のものではなくなるのである
                                                                                                                                                                             いト一
                 ヽ ヽ ヽ ヽ
 又、両親はかりでなく、人間一般が青年に征服される。彼にとつて、其等は障擬にならない、
それらは最早斬みられない。即ち今や、人は人間によりも寧ろ紳に聴徒すべし、と云はれるので

07

ある。
                              Lもて
 この高い立場のもとに、あらゆる「地上のもの」は造か下手に身を退く。何故なら、この立場
は−対肘が立場だからである8                ぜ
 熊度が今すつかり反対になる。少年はまだ自分を精紳として感ずることなく、無心の畢修のう
ちに成長する、ところが青年は精神的な態度をとる。彼は物を捉へようとはLない、例へは、歴
史のダータ(僻州袈の)を粥に詰め込まうとはしない−むしろ物の中に隠れてゐる尉掛を、例へ
                                                     ヽ ヽ
ば歴史の精紳を捉へようとする。これに反して少年は、恐らく諸事の連絡は理解するであらう
が−観念や精紳は埋併しない。だから彼は、畢ぷことのできるものを片つ端からつなぎ合せて、
鮮鮎吋にも論理的にもそれらを虞理しない、邸ち撃争を求めないのである。
            ヽ ヽ ヽ ヽ
 人は少年時代に、世界法則の反抗にうち勝たねばならなかつたやうに、今は、彼が志すあらゆ
るものにおいて、精神の●理性の・自己の良心の・抗言に出合ふ∴それは不合理だ、反基督教
的だ、非愛団的だ」などと、良心は僕等に叫びかける、そして1嚇してその考を捨てさせる。
卜−僕等が恐れるのは、復讐の女紳オイメ1丁デソのカでもなければ、ポセイドン(細)の怒りで
もなく、また、彼が隠れた行馬を見るだけなら、紳でもなく、父親の罰答でもない、恐ろしいの
           ヽ ヽ
は、むしろ − 良心である。
 僕等は今【撲らの思想に眈滴」する、そして、前に両親の・人間の・命令に従つたやうに、思
想の命令に徒ふのである.僕らの行悠は、子供のとき両親の云ひ付けによつてきめられたやう


              才    −ヽ ヽl
 に、僕等の思想(観念、概念、所信)に掟つてきめられるじ
 とは云へ、僕等は子供の時にもやはり物を考へたのである.たゞ僕らの思想が、非具性的な・
      、 、 、 ヽ           1 ヽ ヽ ヽ                   ヽ ヽ
 抽象的な・絶封的なものでなかつた、印ち純粋思想、天それ白身、純蒜…牲の思想の世界、論理
 ヽ
 駒思想でなかつた、といふまでである。
                  、 、                       ヽ ヽ ヽ
 反酎に、それは畢に、僕等が或る事柄に関して抱いた思想であつた、僕等はその事をあアだか
りだと考へたのだ0だから僕等は、撲らの見るこの世界を紳が造つた、とは考へるかも知れない0
けれども「紳性そのものの漂さ」を、僕等は考へないハ「挽究」しな七。僕等は、「その事ではそ
れは匠資だ」とは考へよう、けれども眞や虞理そのものは考へなdまして「紳は虞理なり」と
いふ一芸早に緩めたaはしない0「虞理であるところの紳性の奥底」に撲らは触れない0かやう
に純論理的な・即ち純神輿的な岡題、「眞理とは何ぞや」などに、ビラト(媚甑棚如彗は引つかゝ
                                                                ヽ
 ってはゐない、尤もそのために、彼は個々の場合に「この事では何が虞食かP」、郎ちこの事は鹿
賀かどうかを確めるのは躊躇しないが。
   、 、            ヽ ヽ ヽ ヽ
 凡そ或事に結びついた思想は、まだ純粋思想、絶野的な思想ではない。
 、、、ヽ ヽ           くみ
 純粋な思想を明るみに持ち出して是に興することは、青年の放びである0虞理、自由、人道、
森などといふやうな・思想世界のあらゆる操憫たる姿は、若き魂を照らし、感激せし払る。
 けれども、精神が本質的なものとして認識されるとき、なほ精紳が費毅であるか豊富であるか
の差別が生ずる、それゆゑ人は、括紳を豊富にLようと努める.精紳は自己を擁張Lて、彼の王、

08

囲を建設しようとする、今正に征服されたこの世のそれとは撃ふ王図を。そこで精紳は、自ら几
                                                  ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
 ての凡てになることを希ふ。即ち、僕は、なるほど精押ではあるが、なほ完成された精紳ではな
 い、故に、まづ宅全な精紳を探さねばならぬことになる。
 が、かくて僕は、今正に自分自身を精紳として婆見した僕は、完全な精紳の前に、僕のもので
    ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
なく彼岸のものとしてのそれの前に、叩頭し、自己の賽虚を感ずることによつて、直ちにまた自
分を見失ふのである。
 怯に精紳は萬物の本瀕である、が、どの精紳も悉く「正しい」精押であらうかァ 正しく札つ
眞なる精紳ほ、精銅の理想、、神聖なるH精紳である。それは僕や君の精神ではなく、まさに一つ
の−理想的の・彼岸の・精紳である、それは「紳」である。「紳は精神である。」そしてこの彼
岸の「天の父は求むe者に聖審を賜は_わ離酎撃のである。
 恥壮年は、世界をあるが餞に′むけどる粘で、青年と囁別される。彼は最早、世界を悪に満ち充ち
たものと夢想して、これを改善しょう、即ち、彼の理想に従つて修正しようとはしない。彼の内
               1.Ln−.ゝ−1・−−I・.111.▲t...rき.T.・・   う・∋を▲−ミ・・音、
には、人は召d嶽野到吼くその利害に徒つて世卦を墜埋すベヰた、といふ見解が確立されるので
あるパ♭
              ヽ ヽ
 人が堆目身をたゞ精紳として知り、彼のすべての憤値を、精紳であるといふ粘におく問はハ青
年には至極無意味な名替毀損といふやうな些細な事のために、彼の生命を、「肉性的」生命を料つ
                     ヽ ヽ
ととさへ容易である)、人はなほ畢なる思想を、即ち、活動の領域を見出したとき賓現したいと甑



                                           ヽ ヽ
 ふ耗念を、抱いてゐるにすぎない.つまり人はその問、たゞ理想を.達成されない凱念や思想を、
抱いてゐるにすぎない。
      ヽ ヽ ヽ ヽ
 人が膣のある自分を愛し、その使そつくりの自分を悦ぶやうになる時 − 但しそれは成熟期、
                                                        ヽ ヽ ヽ
即ち壮年でなければ起らない1、その時初めて、人は自己自身の・もしくは自我的の関心、即
                                                ヽ ヽ l▼
ち畢に僕らの精紳の・でなく、全醍の満足の・全人の満足の・関心を.利己的関心を、持つので
ある。試みに壮年を青年と比較して見紛へ、諸君の眼には、彼の方が一層頑固で、狭量で、利己
                             ヽ ヽ
的に見えないだらうか。それだから、彼はより悪いであらうかP 諸君は、否といふ、彼はたゞ
一層堅賓になつたばかりだ、或は諸君もまたさう呼ぷやうに、一層「賛際的」になつたのだ。
だが、大切な粘は、青年が他のものに、例へば紳、組図、等に「夢中になる」のと違つて、壮年
は寧ろ彼自身を中心とすることである。
             ヽ ヽ                                      ヽ ヽ ヽ
 それゆゑ、壮年は第二の自己襲見を示す。青年は自己を精紳として襲見し、そして普遍的の精
紳、完全な・紳聖な精紳、人間、人数、つまりあらゆる理想に遭つて、再び自己を見失ふ。が壮
        ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
年は、自己を血の通つた精紳として蒙見するのである。
        ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ                               ヽ ヽ ヽ ヽ
 少年はたゞ非精神的な・即ち無思想の・無観念の関心をもち、青年は畢に精神的の関心を持
 つ.壮年は血の通つた・自己自身の・自我的の関心を持つのである.
                ヽ ヽ                         、 、
 子供は相手にすることのできる封象を持たないとき、混屈を覚える、なぜなら、彼はまだ自分
 ヽ ヽ
自身を相手にすることを知らないからである。これと反対に、青年は封象を脇へ投げすてる、彼

09

            ヽ ヽ
 には、封象から思想が浮んでくるからである。彼は、彼の思想、彼の夢想に没頭する、精紳的に
            こゝろ
 忙殺される、即ち「精紳に暇がない」のである.
 青年は、凡そ精神的でないものを「外面的事物」といふ軽蔑的な名栴のもとに絶指する。しか
 もなほ彼が極くつまらぬ外面的な事柄ハ例へば畢生風俗やその他の形式)に執着するならは、そ
                ヽ ヽ                           ヽ ヽ
 れは彼が、それらの中に精神を車見するとき、即ち彼にとつてそれらが象徴であるときに、さう
 なるのである。
 僕が物の背後に自己を、而も精紳として見出したやうに、後になつて僕は、また思想の背後に
                   ヽ ヽ ヽ
 自己を、即ち思想の創造者・所有者として、見出さねばならぬ。精紳時代には、思想はその生み
 の親である僕の粥を乗り越えて成長する。それは熱病時の幻影のやうに僕の周囲に漂うて、僕を
                                            ヽ ヽ ヽ
揺り動かす。賀に恐るべき力だ。思想はそれ自身のカで有性的になる、紳、カイザア、法王、組
 図、等の如き幽宴がこれである。もし僕がそれらのものの有泣性を破壊するならば、その時僕は
 それをば僕自身に取り良して、かく云ふ、たゞ僕のみが有陛的だ、と。そして今僕は、世界を、
                            ヽ ヽ ヽ ヽ
 それが僕にとつてある所のものとして、僕のものとして、僕の所有として、受けとるじ僕は一切
 を僕に結びつけるのである。
 曾て僕は精紳として、世界を浸い侮辱の中へ突き戻したならば、今僕は所有人として、諸上の
精紳もしくは観念をその「峯虚」の中へ突きかへす。其等は最早僕の上に何らの力をも持たぬ、
 いかなる「地上の榛力」も精紳に封して力を持たぬやうに。

 子供は現箸主義者である、彼が段々に物の背後を極めることに成功するまでは、この性界の事
 物に凶はれてゐる。青年は理想主義者である、努力して自分を壮年に育てあげるまでは、思想に
 ょって感激する、物と思想とを彼の思ひのま1に虞理し、彼の個人的関心をあらゆるものの上位
 におく・自我主義者の壮年になるまでは。最後に老人ほP 僕が老人になつたなら、その時それ
 について話す時間がまだ十分にあるだらう.

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  第二章 新時代と常時代の人間
        斗
                                       一
 僕等は銘々いかに臼己を蟹達せしめたか、人は皆何を追求したか、成功したか失敗したか、鶴
 は雷ていかなる目的を迫ひ、時としていかなる計宝と願望とに執心したか、彼の見解はどんな攣
 化を見、彼の主義はどんな動揺を経験したか、蓼するに、彼はどうして今日、昨日の・或は数年
 前の彼と輿つたものになつたか。それを彼は、多少の容易さをもつて彼の記憶から呼び起してく
 る、そして他人の生活の開屁を眼の前に持つとき、彼自身のうちに起つた攣化を特に清々と感得
 することができる。
 だから僕等は、僕らの組先達のしてきた活動を瞼べて見よう.

    第一節 古代人
 慣習が壷、傍らの基督望別の組先達に「黙ル」無に)といふ名を輿へたのだから、僕たち
は蕾勢人の僕たちに比べれば彼等は本来子供と呼ばるべきだ、などと云つて彼等に縮つくのをよ
さう、それよりも今まで通りに僕らの華き組父せして尊敬しよう。併し彼等はどうして古くなつ
たか、そして山睦誰がその所謂新Lさによつて彼等を押しのけたかP
                                                                                       もrヽ
 僕等はもちろん、革命的な革新者と無鰻な後場老を知つてゐる。彼は、彼の日曜日を璧祓する′
 ために、父醐の安息日の紳聖をすら冒した、また彼自身を基準に、新地紀を始めるために時の纏J
 績を中断した、僕等は彼を識つてゐる、それが1基督教徒であむこ」とを知つてゐる。けれども
 彼は、氷遠に若いまゝであらうか、彼は今日もなほ新しきものであらうか、それとも、彼が「古代
 人」を古くしたやうに、彼も亦古くなるであらうかP
 古代人ハ娼)は恐らく、彼等を葬つた若者を自ら窪んだのであらう.そんなら僕等はこの生拒行
ル 馬を捜つて見よう。
叩  「古代人にとつて世界は}つの虞埋であつた。」とフォイエルバッハは云つてゐる、が、彼は、

、「一つの眞理、その非眞理の背後を彼等は極めようと努めて、遽にそれに成功した。」といふ大切
 な但書きをするのを忘れてゐる。フォイエルバッハの言葉の眞意は、「この世の基しさと果なさ」
…といふ基沓数の文句と並べて見るとき、容易に禽得が行くだらう.即ち基巧教徒が、決してその
 紳聖な言残の基しさを承諷することができず、むしろその言葉の奥を捜れば捜るほど慈よ光輝を
 勒はし、迭に勝利を得ずにはおかぬところの、その不欒の彪埋を信じてゐるやうに、また古代人
 は古代人で、現世と現せの諸関係(例へば自然の血族幽盟〕が辰であり、それの前に彼等の無力
な自我は鮎肝せねばならぬ、といふ感情のうちに生活したので・ある0古代人が最大の憤値を賦瀾
 したそのものを、基督教徒は無償値なものとして溌げ棄て、前者によつて虞埋として承諷された.
 ものを後者は基しき舶偽として賂印ど捺す。組閣の高い意義は滑漉し、基督教徒は自分を「地上