第十四章 ファシズムと国民社会主義



     共同社会と共利社会


 人間と人間とが相互に関係すれば、そこに社会を成立せしめるが、この社会には二
つの種別がある。それは人間の関係する仕方の相違によつて出来た種別である。
 人間はいろいろの働らきを持つてゐる。衣食住の働らきの外に、書物をよむ働らき
親しい人と懇話をする働らき、その外何々と数へ立てれば、殆ど際限のない多くの働
らきのあることが、何人にも反省せられるであらう。さて我々人間がお互ひに関係す
るには、その働らきの一つをもつて関係する場合もあれば、さうではなくて幾つか沢
山の数の働らきを以て関係する場合もある。実例を挙げよう。私が今、一つの株式会
社を組織したとする。その会社は、絹織物を製造する会社だ。そこで会社は株主を募
集するが、一旦その会社が成立したとすれば、そこには絹織物を製造して儲けるとい
ふことを目的にした人達による一つの集団社会が出来たのであつて、この社会はただ
その一つの目的を共通ならしめた上で成立した社会であるから、先きに述べた社会の
中の一種類であるに相違ない。こんな社会は、永久的に成立したといふよりは、一時
的に成立したものであり、その社会へ属すると属しないとは各人の任意である。また
そこへ所属してゐる成員の都合により、任意の時にこの社会を解散することが出来る
のである。かうした社会を、我々は共利社会と呼んでゐる。
 ところが我々の家族といふやうな集団社会はどうであるか。我々は生れながらにそ
こへ所属したのであつて、任意に自分の意志でそこへ所属したのではない。またただ
一つの働らきを以てこの家族といふ社会を成立せしめてゐるのかといへば、さうでは
なくて、もつと複雑にいろいろの働らきを含みつつこれを成立せしめてゐるのであ
る。我々生れながらにして父母に養はれ、また父母により教育せられてゐる。一家
族の人達の間には、株式会社などでは見られなかつた。利害を離れた、感情の共感が
ある。またこの家族の中より任意に自分の意志で離脱しようと思つても、容易にその
ことは出来ないし、またよし離脱して出たにしても、感情的な結びつきは、依然とし
て昔の儘に残るのである。さうしたすべての性質を反省して見れば、この社会は共利
社会とはすつかり違つた性質のものであることが分るであらう。この種の社会を、我
我は共同社会と呼んでゐる。そこで社会は、人間がお互ひに関係する仕方の相違する
ところから、共利社会と共同社会の二通りの社会に分たれるのでゐる。
 会社、銀行、学校、学会、労働組合などは、共利社会であるし、家族、民族国家など
は、共同社会である。人間社会がまだ未発達未開明の状態になつてゐる所謂原始社
会に於いては、全体が一つの共同社会であり、共利社会は発達してゐなかつた。ごの
共同社会を原始共同社会と呼んでゐる。その中では、別々の家族といふやうなものさ
へまだよくは分化しないで、全体が酋長に率ゐられる一原始集団のやうな観を呈して
ゐた。文明が進歩するとは、人間がいろいろの要求に自覚し、それぞれの要求に随つ
た働らきをすることであるから、その文明の進歩に伴ひ、原始共同社会の中より幾多
の共利社会が発達分化した。現代は、非常に数多くのまた非常に複雑な関係を以て相
互に関係し合ふ共利社会と共同社会とより成る、一大交響楽の社会であるといつてよ
いのである。然らばこの社会は将来どんな風に発達して行かなければならないか。今
日のところ国家的障壁はなほ可なりに強く築かれ、お互ひに戦争をし、なほ戦争をし
ない時も汲々として軍備に力をつくしてゐるから、国家と国家との角突き合ひはなく
なつてゐるとはいへないが、理想的なことをいへば。この角突き合ひなどはなくなつ
て、四海ただ一兄弟のやうに生活出来るに越したことはない。勿論これは甚だ遠い将
来のことであるが、さうなり得るものならば、さうなるに越したことはないのであ
る。この時も各民族が銘々の個性を失ふことは少しも必要でなく、各民族は銘々自分
に恵まれた天分の個性を以て、この人類の一大福祉をつくることに参与しなければな
らないのだ。四海ただ一兄弟のやうになつた世界はやはり共同社会であるから、我々
はその遠い、美しい理想を、共同社会的理想と呼んでゐる。


     国民主義擡頭の原因

 共利社会と共同社会と何れが範囲が大きく、またその集団の団結心が強いかといへ
ば、これは一概には定められないことである。一家族のやうな共同社会は大会社に
比較すれば勿論その成員の数は少ないから、社会として形は小さいともいへるであら
う。併しその成員がしつかりその社会を成立せしめてゐるその集団力の強さは或は家
族に於ける方が強いかも知れない。何にせよ、共同社会は家族や民族国家に見る如く、
各成員が本能的な感情を以て結びついてゐる社会であるから、、団結するカは甚だ強い
のである。これに反し共利社会には、そんな本能的な感情が動かず、言はば或る一つ
の利害心によつてその社会は成立せしめられたのであるだけに、団体は大きくても集
団力の弱い場合は珍らしくない。
 それどころか或る共利社会になると、始終分裂しようとする力の働らいてゐること
がある。例へば会社の中で資本家が労働者を使つて居れば、絹織物を製造する目的は
共通でも、資本家の立場と労働者の立場とは違つてゐるから、相反目する場合は珍ら
しくなく、時にはストライキを起すし、さうでない場合も平和の対立を続けてゐる。
要するに、金の切れ目が縁の切れ目、といふ哲学が、この会社成立の根本に動いてゐ
るのである。そこでこの会社はこの会社のまま成立せしめて置きながら、労働者は自
分たちで、また一つ別の共利社会、即ち労働組合を成立せしめる。併しこの労動組合
は、その会社の内だけで出来るのでなく、その会社の障壁を突破し、他の会社の労働
者と結びついて行くのである。利害や目的が同一である限り、かうした関係の社会が
つくられ、またその社会の団結力の甚だ強いのは尤もなことだ。併し利害や目的の共
通な労働者は、何も同一の国家内だけに住んでゐる訳でなく、国家の所属の違ふとこ
かにも住んでゐる訳だから、その労働者だけで一つの集団をつくらうとすれば、その
集団社会は国家の障壁を突破し、何箇国かの労働者達を連ねるやうになるであらう。
インターナショナルとは、「国際的」といふことで「国際」 は、「国際聯盟」の国際であ
る。即ち国家の区別をなすよりも大きく世界的になることをいふのである。社会主義
的な労働者がインターナショナルを組織したのは、その国際的な労働者集団をつくら
うとしたのである。かうした社会集団は、共同社会としての国家を突破してひろくな
る傾向を持つのである。
 国家と国家との関係が平穏無事の時は、社会主義的な労働者は国際的な集団をつく
つて行くが、一旦戦争が勃発したとなれば、この国際的なつながりは切れて了ふこと
にもなる。共利社会的に労働者同志で結びついて行く力よりも、いざとなれば、民族
国家の成員が本能的な感情で共同社会的に結びついて行く力の方が強烈だからであ
る。現に欧洲大戦の時に、そのことが起つた。大戦後もイギリスやドイツでは社会主
義者が国家の政治を運用する地位についたけれども、国家と国家の関係する所謂外交
の問題に於いては、勿論自国の利害を擁護して立つたのである。
 社会主義の理論だけを考へれば、国家間の障壁の高さなどはもう少し緩和せられ、
世界全体が平和にならなければならぬに拘らず、欧洲大戦後の世界の形勢は、容易に
その楽観を許しさうにない。国家相互の間には、相変らず強い反目がある。それに加
へて世界の経済生活は、未曾有の困難に遭遇したのである。何故世界全体がそれ程の
困難に陥つたかを考へることは、また一つ別の問題であるが、とにかく世界がその困
難に陥り始めてから、各国は銘々別々にも、また国際的に団結しても、いろいろと方
策を講じたに拘らず、その困難からはどうしても浮び上がれさうにない。
 かうした状態になつた時に、各国で考へたことは何かといへば、とにかく他の国な
どを顧みてはゐられない。自国は自国だけで策を講じなければなJない。といふこと
であつた。資本主義の含む欠陥は、民衆の常識になつてゐるから、国民大衆の福利を
眼目として資本主義の上に国家が統制を加へなければならない、とする要求は、もう
避けられないものとして起るやうになつだ。次には、他の国家にかまはず、自国は自
国として立ち、その民族の実力を高めなければならぬとする要求が起つた。ここに国
内的には資本主義の上へ大いに国家的統制を加へるし、国外的には国民的勢威を張
らうとする政策が取られるやうになつた。この傾向は、何処の国にも見られたが、国
家の困難の大きい国では、特にその傾向を強めることになるのは当然の経過である。
尤も大戦後は欧洲の何れの国でも社会主義が常識化し、国家政策の上に社会主義的着
眼の加へられることは著しいものであつたが、今やこの未曾有の経済的困難に際会し
て、世界の人間の魂には、共同社会的な情熱がまた高揚せられることになつたのであ
る。社会主義的思想は、元来は共利社会の見方の上に立つものであるが、今や社会主
義を内容として取りつつも、根本的には民族国家の共同社会的な結成を高揚する思想
が起らなければならない。それが今世界のあちこちに持ち上がりかけた所謂ファッシ
ョ的な思想である。


      ファッショ的思想

 併しファッショ的思想は、まだ一つの運動傾向として存在するといふ位のところ
で、最初よりはつきりした思想の組織を持つてゐる訳ではない。実際的の政策は着々
として主張し、実行して行くが、思想的にそれを説明することは、この実際的な主張
や政策の後よりついて行くやうなことだ。マルクス主義とファッショ的思想との間に
は、この点で著しい相違がある。マルクス主義は最初にはつきりとした思想、びくと
も動かぬ思想を建設し、その思想に随つて運動を起すのであるから、思想としては実
に堂々たる建築をつくつてゐるが、ファッショ的思想はまだ思想らしい組織をさへ持
たず、急拵へのバラック建築を建ててゐるに過ぎない。ファッショ的思想は今のとこ
ろイタリイとドイツとに起つてゐるが、これら双方には最初より思想的の連絡があつ
た訳ではないし、その主張し実行して行くところにも互ひに相違がある。私は先づイ
タリイとドイツと、観察を別々にして進めて行かう。

      ファシズム

 ファシズムはイタリイに起つた。いふまでもなくムッソリニにより現に実行せられ
つつある政策の含む思想を意味する。ベニト・ムッソリニは、元来は社会主義者であ
り、社会主義的な運動をなしたり雑誌の編輯をなしたりしてゐたが、欧洲大戦が勃発
した時に、彼は進んで参戦を主張し、自らこれに従軍した程だから、その国民主義的
傾向は早くより現はれてゐたといふことが出来る。イタリイの社会党に取つて代り、
ファシストが政権を握るやうになつてからは、その所謂独裁主義を以て着々と政策を
実行した。(ファシストといふ語は、ローマ時代長官の前に役人が権力の印として持つ
て立つた、斧を包んだ束桿を意味するラテン語から来たといふ。)
 先きにもいつた如く、ファシズムはまだ特別に思想としての組織を立ててゐないも
のであるから、統一のある思想としてこれを述べることは出来ないが、その傾向だけ
を取り立てていふならば、第一に、それは国家主義的である。国家といつても特に血
液のつながりを高調する意味の民族国家といふではなくて、一つの精神的感情的な団
結としての国家を考へてゐるのである。第二に、知識本位ではなくて実行本位であ
り、意志的行動主義的でゐる。第三に、唯物論的ではなくて、著しく精神主義的であ
る。経済政策としては、国民全体の幸福の上に立ち、社会的道義的であつて、経済活
動の正義を支持しようとする。イタリイのファシズム運動の一つの大きな特色は、国
内全体に共同組合(シンダカト)をつくつて行き、それをだんだん上へ積み重ねてい
つて国家を組み立てることでゐる。共同組合といふのは、労働者、自由職業者などが
自分達でつくる組合のことであり、フランスのサンヂカリズムに於けるサンヂカに匹
敵するものである。ファシズムは、この点で実質的にはサンヂカリズムを取つてゐる
ものといふことが出来る。その共同組合の大きな組合の上には、国家が立つて統制し
てゐる訳であるが、ムッソリニの独裁的な勢力は、共同組合の内部に深く及んでゐる
ために、事実上は独裁主義的な政治が行はれることとなる。ファシストは、なほその
専制主義を肯定した思想をさへ立ててゐる。


     ドイツ国民社会党

 イタリイのファシストが社会党に対して起つた如く、ドイツのアドルフ・ヒットラ
アによるドイツ国民社会党もまた社会主義者の政党に対立して起つた。この政党の主
張することの骨子をいつて見ると、第一は民族国家主義を高調することであつて、こ
こでの国家主義はドイツ民族による国家主義であるところが特色である。これに伴ひ
極力ユダヤ人を排斥してゐるが、これは一つにはドイツ民族以外の民族を排斥するこ
とにもよるが、その主たる原因は、ユダヤ人が世界の金権を左右してゐるためであつ
て、ドイツはそのユダヤ人の金権により苦しめられてゐるために、特にその点を高調
したのであつた。第二には、利子奴隷制を打破し、国家内に於ける金権者の活動を極
力縮少せしめようと努力する。第三には、個人の利益を主とする活動を排し、国民全
体の福祉を活動の眼目とする。言ひ換へれば、私利を捨てて公益に就くことを主張す
るものであり、イタリイのファシズムと同じく、著しく精神主義的である。ヒットラ
アは、観念論的精神主義的であつたフィヒテの哲学に服するところがあるらしい。第
四に、文化的な政策としても、ドイツ民族の精神的な伝統を高揚せしめることを力説
する。第五に、独裁制的にその政策を実行して行くところは、現に見るが如くである。

     両者の共通点

 イタリイのファシストとドイツの国民社会党と、元来は別々に起つた運動であるけ
れども、その実行の精細を見て行くと、右に述べた如く、双方に案外共通したものが
ある。その共通的な点を述べて見ると、第一は、国家としての共同社会的感情に目ざ
め、その国家内に於ける幾多の共利社会的な利害に統制を加へて行くことである。第
二は、唯物主義的ではなくて、著しく精神主義的理想主義的になつてゐることであ
る。第三は知識本位の生活から離れて、実行本位の行動主義を取つてゐることである。
第四は、人間を現に数の上から見て行く所謂量的人間観を取らず、人間の質的な値打
を見て行く所謂質的人間観に就くやうになつてゐることである。デモクラシイは、す
べての人の値打を同一の一票権を持ち得るものとして見て行く政治であるが、独裁制
は卓越した人間により多くの値打を認め、随つてまたこれにより高い政治的の権力を
与へることを許すのでなければ成り立たない。
 さて斯様に見て行けば、ファッショ的傾向はそれと社会主義との対立でも示される
やうに、近代的解放と呼ばれて従来世界の人類に尊重せられて来たものとは、大分に
違つた方向へ進んでゐるものであることが、分かるであらう。言ひ換へれば、それは
従来の所謂近代的解放の方向とは、そつくり反対のものになつてゐるのである。第一
は、従来の人間解放では、生産部内に於ける労働者の団結といふやうに、共利社会的
着眼の上に立つてゐたものであつたのに、今は民族国家といふやうな共同社会的な立場
の上に立つてゐる。第二に、近代の人類解放といへば、個人の権威を認め個人の解放
を期するものであつたに拘らず、今は団体の統制力を高調する。第三に、従来は人間
を理知的に目ざめさせて行く道を歩むものであつたが、今は寧ろ行動主義を取つて、
主知主義に反対する。この転換は、一体何処から起つたのであらうか。この転換の中
には、人類解放の要求と実行とが全く含まつてゐないのではない。いや、これもまた
人類を幸福にする目的を以て起つたものである。すべては世界の情勢に応じての変化
だ。世界の情勢が変つて来れば、人類解放の方向もまたかやうに全く反対したものに
なつて来ようとする。