第十章 弁証法的唯物論批判

如何に批判するか
 マルクス主義は、現に社会に喧々簑々の問題を起してゐる。常事者はその運動の取
締りに奔命せしめられ、学校は所謂思想善導にその手段を用ひつくし、父兄はせの子
弟むエ品等学校や大挙へ選ることに内心憂慮して、第一にそのことを訓喩するといふや
ぅな軍情である。正しい、同時に力強いマルクス主義批判を開くことは、刻下最も革
大な社会的要求の一つでゐるやうに見える¢併し事賓に於いては、これを主張し運動
するものも、その本営の意味を理鮮してゐないやうな状態であるから、それの正しい
批判の起り得よう筈もない。マルクス主義の理論崗撃といふも凋は、中小的の問題を
以ては、今日までのところき−とに渾沌たるものであつた。私は眈にマルクス主義の
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 仰
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第十孝 塀護添的唯物論批列
一四四
内容をほぼ全般に亘つて説明し絡つたから、次にはそれの批判を述べて見ようと思ふ。
 これを批評するにゐたつて、私は仝鰹の論を便宜上五つに分ける。第一は、正しい
マルクス主義の立場でないに拘らずその壬張者によつてはマルクス主義と自稀せられ
てゐる思想、即ち似而非マルクス主義に封する批判である。第二は、マルクスの根本
哲雪印ちその唯物論に封する批判である。第三は、問題を社会に局限した場合のマ
ルクス主義、即ち唯物史観に対する批判でみる。第四は、唯物論と観念論との対立と
いふ根本的な問題に対する批判でゐる。第五は、日本現在の所謂赤化運動とそれに封
しで詩ぜられる析謂思想封策への批判である。以下順序を追うて述べて行かう。
                                 さ
     似而非マルクス主義の教程

 第一に、似而非マルクス主義に対する批判である。
 我が国にはマルクス主義者を以て自任する人達がどれだけ多いか分らないが、その
中の甚だ大いなる部分は似而非マルクス主義者であることを、私は断言して悼らないり
堂々たる第一流の書門学者を以て見られてゐる人さへ、理解について今日までいかに
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悲惨
それ

     ヽ


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纏めにして述べて置かう。
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の誤謬を侵して来たか.私は従来幾度となくその個々の批判をかいて来たから、
                                                               ネ
らの中の或るものは讃者諸氏のお目にも解れてゐはしないかと思ふ。本書の中で
それぞれの場析でこの誤まられたマルクス主義理解を指摘して来たが、今はもれ
第一は、形而上学的唯物論であ



塾丁



客観的に、
宇宙の根本的な本鰻
して在ると考へも主張であるが、眞の
は、
行動賓践により獲得する限
のものを物質と見る主張であるから、
的唯物論はマルクスによつては
く拒斥せられてゐる。観念は脳髄より
するものだと考へるやうな、最
る。

と.


hソ爪

全一
も肘
膏式の唯物論がマルクス唯物論でない
これは、物質と呼ばれるものが我々




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離れて全
ルクス壬
の形而上
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 →
理的に分
とはいふ
でもない。
第二は、自然科学的唯物論でゐる。我が国で
してゐるものは、最も多い。傍し自然科学上
科学は、物質を考へる場合、世の所謂唯物論
堕。

と−

然加
】ろの自然科学により想定せられた一つの知
も、

の付
識J
者爪
所謂物質は、多くの偶定の上に立つ
であをに過ぎないし、なほ近代の自
結局に於いてこの唯物論の立場に
の考へるやうな
物」
の思想からだ
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欝十睾 坪澄法的唯物論批判
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んだん離れて来たことについては、前に述べた。
簡三、環項の力を最大に見、人間の力を全く無能と見る立場



は、

四六
lll一l_ll。一 lllJl■一1 − 一11 − 111
フランスの十人世
紀唯物論の立場にかへつて了つてゐる。唯物史観をこんな風に解するものは、甚だ多
い。人間が社会により規定せられる場合にも、。人間はその規定より
と考へたとすれば、やはりこの唯物論に属するのだ。
以上はすべてマ碓クスの排した客健的唯物論の中へ所属して
に、これとは全く反対の見方に立つ人間撃的唯物論とでも呼ば
了ふ

るベ















1.∨
我が国では流行してゐたことがゐつた。出番鮎を社会的人間に求めず
ところが、第四
ものが、かつて
、個人的人間に
求め、物質をその人間の行動に封應するもの
性を重税し、社会的に限定せられる部面を垂
が批判を加へたフォイエルバッハの唯物論に








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l



第五、社会的進展の必然性を非常に厳格の
然性の支配より脱することが出来頂いとする








見たので
ある。全憶として人間の個人
しなかつた
。この唯物論は、マルクス
つて了ふのでゐる。
のに
見、.個人はどチもがいてもこの必
方も相常に有力であるが
これもまた
人間の力を全然無能と見た鮎で誤つてゐる。
社会進展の必然性は、こんな風に絶対的
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のものではない。また人間は、相互作用的に、
へることの出来るもの、いや人間がそのカを加へ
曾のいか
るのでな
なる進展に封してもカを加
ければこの進展もまた起り
得ないところのものである。
 以上は、大抵前に一度述べたことの繰返しである袖

      マルクス主義唯物論の批判
さて第三段に、マルクス唯物論の批判である.
これ
血丁核中の中核であつて、最も重大
もあれば、
ては、
だこの部分だけ拾ひ讃みせ
先きに述べた私の説明の部
られることを私は御
分を十分約得が行く
なほまたマルクスの










論は、沸澄法的唯物
讃んで戴きたい。さ
りたい。批判をよむ
最も困難の部分で虹
ルクス訣の批判の中
るが、今は沸澄法的といふ鮎に特に強い力鮎を置かず、
唯物論にカ鮎を置いて、批判を試みたい。さもないと、
らである。
点が徒らに紛雑を極
の沸藷法的の意味を

マ‥

たR
被。
で漣
物弘
スノ爪
論机
では、

ゐる。
に就い
もない
論であ
含めた
めるか
第十睾
沸澄法的唯物論批列
一四七

第十牽 沸澄法的唯物論批列
一四入

… 我々の理解したところによれば、マルクス唯物論は、要するにアオイエルバッハの

仙 人間本位の見方と、十人世紀のフランス唯物論の環境本位の見方と、相矛盾する立場

山 を沸藷法的に統一したものであつた。なほまた、観念論からは、対象はすべて我々の

叩 認識行動に封應する限りのものであるとする、よい鮎を取つたが、その認識行動霊単に

仙 知的直観的のもやと見ると、観念論に逆戻りして了ふから、この行動を学に観念的で
∵はなくて人間的であるところの行動賓践であるとし、それに野應する限りのものを物

仙 質としたのでゐる。傍しまたその物質を固定して了へば、物質が宇宙の本饅になり、


…形而上学的唯物論に堕することとなるが、それを避けるために、物質世界は沸藷法的

巾 に絶えず新らたに獲得せられるものであるとした。約言していへば、物質世界は、鹿


…曾的人間の行動賓践によつて獲得せられ、弊澄法的に絶えず運動を績けるところの世
l
仙 界でぁる。

… そこで私は批評したい。第一、唯物論もここまで洗練せられて来ると、。唯物論だか

州 らといつて言の下に排斥せられるやうな形のものでなく、認識論的にゐつちからも
l
…こつちからも眺めわたし、怪しいところはいろいろ構成し直した形のものでみるだけ

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に、さう安々とは打ち倒されない鴻のになつてゐる。かうなれば、私はe−れを批列し
て訂正したいよりも、却つて逆に、我が国のマルクス主義者が、少なくもこの程度に
絹で進められた眞正のマルクス唯物論を基礎にして外の議論をするとこみまで進歩し
て来て欲しいと、希望するやうなことである。そこまで進歩すれ冬日本の悪点想
界も、大aな蚤達を薙げ、思想的に大人になつたのだ。
                                                   \

d−の形の唯物論では、先つ観念論をすつかり自身の中へ取絹込んでゐる。これまで
の唯物論掛金く救はれ得ない快陥は、「物質」といふやうなものを発言要る、t二然
らばその物質の、全く猶立した存在はどうして確認せられるのであるか。確認し待な
いものは、在るとも無いともいへないが、
旦これを確認するといふならば、我々の
心がそれを確認するのではないか。ここに観念論を許さなければ、唯物論もまた建設
せられ得ないではないかと」いふ批判に堪へ得ないことであつたが、今の唯物論では
少なくもこの最も困難な批判には堪へることの出来るも町になつた。観念の代りに、
今は人間的な行動賛成が持ち出された○物質は、その行動賓践がこれを確認するの下
ぁる。同時にこれは観念論の弱々しい鮎をも救ふことが出来た。従来の観念論では、
節†睾 舛諾法的唯物論批判
l四九

第†筆 耕澄法的唯物論耽列
一五〇
心の働らきばかりを高儀した痛めに、我々の世界はただ直観的に受動的に、その如く
受取られるに過ぎなかつたが、随つて見方は知的となり、世界は我々の生きて行く箕
                          1J
生活′とはどうしても没交渉のものになつて行く。これに反して今の唯物論では、物質
は我々の生きて行く行動賓践により獲得せられるものとなつたから、ただ観念でうす
ぼんやりと受取るなどいふ正饅の稀薄なものではなくなつたのだじ
 哲学に於いては、いつでも観念的なものと物質的なものとの結びつきがむづかしく、
それが問題になつてゐるのである。或る時は観念的なものが高調せられ、また他の時
には物質的なものが高調されるといふやうなことで、観念論が勢力を得たJ唯物論ま
たはそれに似た思想が勢力を得たりするが、要はこれら二つの立場の結合が璃難な問
題なのだ。マルクスの唯物論は、一先つその結合の試み々なしたものといへよう。
念論は、今いサた「人間の行動賓践によりこれを獲得する」といふ考へにより、これ
針自分の中へ吸収することが出来た。然らば物質は、人間に封し主観的に存在するだ
けのものかといへば、またさうではなく、その行動賓践に封抗し、却つてこれを規定
するものとして現はれるのでゐるから、従来の唯物論の持つ特色をい自らの中に含め
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返してゐ
り、容易のことでは確固
立場へ達
ねそれに似た方向へ向つ
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辿つてゐるものとするな
それは決
私はここにいつて置き
は打破せられるものでな
ある。
換へれば、沸藷法的に統
てゐる。,その達つた方向
▼ 物質
れてゐ
 一 1 −、− ■■■一■11■− −  − ▲− ▲−一一1。−11−1 −  − −1 −1111一一一 一 ■■
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‥の矢は、
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Yいのでも

、たい。−

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∴て進んd
H不動のふ
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つつ、伽
観念論と
に於
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いて、矛盾しつつ統一
斯様の構造の唯物論な




られてゐる
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たやうな方向をマル
主義唯物論
て間違つた方向では
上のる。
勿論哲学秒造
常に困難な
得ないものであつて
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ものであるが、
現代
は概ね右に
物論との結合を計つ
クス。

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は非山
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哲凛丁▲
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今} ヽ

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述べ
∩′










てこの結合には、ヘエゲルの沸藷法の考へは、やはり根本的に必要なものだといふこ
とも、ほぼ一般に容認せられてゐ鞋然らば今後いろいろの哲学が現はれるにしても、
マルクス主義哲学とは少なくも親類の関係にある形のものになるでゐらうP

     何故「物質」といふか
第†牽 弊澄法的唯物論洗剤
山五一
            −
            一
            ●
I−1I一■一−一I、

欝十章 輝護法的唯物論批判
一五ニ
併しマルクス唯物論について、かうはいへないか。
これは根本の批評である。然ら
ばさうして到達したものを、何故「物質」といふのでゐるか。我々が今獲得したもの
は、少しも物質らしいものではないではないか。「物質」といへば、どうしても自然科
挙くさい臭ひがするが、何故我々はその物質に固執しなければならないか。行動賓践
                                            ヽ ヽ
により獲得するものは二物」 として在るとか、「在るもの」即ち「存在」 として在ると
かはいへるが。「物質」として在るとは、一挙にはいへない。打だ「存在」で澤山だ。
「物質」 はその存在に自然科挙的の性質を与へたものになつてゐる。
 名将などはどつちでもよい、といふ人もあらう。決してさうではない。唯物論の根
本のところは折角厳密にきめて置いても、それが済むといつの問にか通俗の唯物論に
かへり、間違つた唯物論をどしどし推し進めるのは、マルクス主義者も従来屡々やつ
て来たことだ。我。々はその危険から離れたい。名将はただその名稲だけで済まず、あ
とでそれにいろいろの害質がくつつくから警戒しなければなちない。
 なは物質を取つた窺めに、マルクス主義では純粋の論理の問題を説明するに困難と
なつたことは前にもちよつと述べた。人間の論理は、
論理だけの法則を持つが、それ








    ●



          りヽ
lTl








m常〆
     ′
−■I■I■■l■1−−♪−−−II−1II−T−1−I−I−−−−−1−−−II−1T−−−一一l一丁l一ll
を物質で説明するのは甚だ封難である。いや、これは全く不可能といつた方がよい。
    【
    →
そこで我々は物質などを取らないで、それよりももつと根本的なもや論理を含み
                     ヽ ヽ
論理の基礎にも濠ち得るやうな「存在」を取る方が、理論の筋道は立つて来るのであ
る。
 マルクスの進んだ方向は、面白いものでゐつた。現代ロシアの哲学者がそれを堅固
のものにしようと、いろいろ工夫を凝らしてゐるのも悪い▼トJではない。傍し何も、
唯掛論に固執する必要はないではないか。観念論を排した傲り、その反封の唯物論に
固執するならば、これはやはり眞理を偏局せしめる。眞理は両者の結合にあるだ。
観念的なものと物質的なものとの潜合は、また物質である、といふのでは、顔だ都合
               ヽ ヽ ヽ
がわるい。讃者は或は「現象嬰」といふ言葉を開かれたことがあるかも知れない。
たその「現象撃が、今の流行の哲学ゼといふことを。卜−現象学は観念的なものと
存在的なものとを結びつけた、観念的であつて同時に存在すやものから出費し、哲学
の根本的な問題を解かうといふ学問である。(拙著「現代思想軒究」には、その立場の
説明をかいておいた。)今は誰れもが、斯様に両者の結合を考へてゐるのである。
第十睾 舛澄法的唯物論批列
五三

          ′d
′I.  − 「 卜転

第†孝 沸澄法的唯物論批列
l                一五四
ll■■■lll■■1−1■■llll」
                       】
以上、マルクス唯物論に対する根本の批評を試みた。語が少しむづかしくなつたか血
                                                       −
ら、理解に璃難であつたかと思ふが、′よく理解出来なかつたとしても失望する必要は州
ない。私は本書のやうに出来るだけ砕いた説明をする本の中でも、根本の問題はやは仰
                                                   一
りすつかり根本的に考察をしたかつたので、話はどうしてもむづかしくなつたのであ 叩
る。併し本書の説明だけで理解の出雲い筈はない。むづかしかつ雷、な竺警州
                                                                                                               −
                                                                                                                    −
も三度でも、
蘭のマルクス学祝の説明の部分へ蹄つて熟考した後に、その批判をも讃州
み返して戴きたい。世界の大哲学者がいぢり廻してゐる最も南難な問題が、一晩で好
けなかつたからといつて、少しも琳辱ではないのだ。

     「責躇」が筒題になる

。なは唯物論の批判をつゞける。
 マルクスが究極的に達したものを、物質と呼ぶことの面白くないことは今述べた適
                                                                                      ■r、川つtlネ I。ル。さ止も1HJ†首トJl
りだが、第二に、行動賓践を最初より衣食住を本位とした、所謂物質的のものと見た
ことも南白くない。マルクスによれば、行動賓践をするといへば、衣食住の生活を螢
皇女l一il−毒篭H几等号‥小首主1こ
だ、所謂物質的のものと見た
む七めに何かその生活の材料を生産することになつてゐる。だから獲得せられるもの
は、物質になるのだ。けれども我々の行動賓践をさうした衣食住本位のものにだけ
限るのは至常でない。行動賛成ではゐつ.ても、衣食住には関係しないものがゐる。.例
へば肇術品を制作するなどがそれである。今一人の彫刻家がゐて、石膏で一つの人物
像をつくり上げたとしても、これは行動賓践ではあるが、衣食住の材料になるものを
つくり上げたのではない。尤もそれを費つて生活費を得る者へが、この彫刻家に全く
ないではない。傍し、賓ることだけの目的では、彫刻は出来上らない。そこにはやは
→、襲術家の或る肇術的な行動害蹟のあることが必要だ〇。マルクスの哲学では、すフ
した行動賓践を見て居らず、随つてマルクス主義は、嚢術に開し正常な考へを建て得
ないのは遺憾のこ卜である。マルクス主義者は、歌論の起原一つ説くにも、人間の労
働を見きに考へ、その労働のために歌轟が起つたといふ風に説くが、こんな風に何事
にでも労働より出馨してゐては、襲術の美しさは説明せられない。私はマルクス主義
嚢術論は、どれでも根本的の映陥を含んでゐると考へてゐる。
 第三に、その行動賓践を 「生産」 と言ひ換へては、、一層面白くないものになる。拳
第†藩 抑滞法的唯物論北列
一五五

第十学 坪謹法的唯物論批列
一五六
仙 狭いものではない。我々は、人間性の内容を、もつとずつ畠艮かなものと考へたい。

仙 らない。衣食住の行動賛成に出費すればこそ、獲得せられた世界は物質世界打オつた
術品を制作することも「生産」 であるか。
生産といふと、もうすつかり経済的の見方
になつて了つてゐる。だが、今はまだ経済的の見方から出番して物質の概念に達して
居るべき時ではない。問題はそれよりも根本的のものである。経済的の生産も、人間
の行動賛成の一種類ではゐらう。が「生産」印「行動賓践」ではないし、生産以外に
行励賛践がないのでもない。人間が道徳的の情熱に動かされ、損得をかまはずに道徳
を寒行するなども行動賓践ではあるが、それは道徳を生産したのではない。
 斯様に見て来ると、マルクス唯物論の映陥は、今度はよほど明らかになつて来よう。
要するに彼は、人間の行動賓践に出費しながら、人間惟の見方があまりにも狭少であ
つたのだ。衣食住の資料の生産に、目を限り過ぎセのだ。ガ閏の行動賓践は、そんな
いや、もつと豊かに自覚して行きたい。衣食住の行動が、人間性の全部になつてはな
かも知れないが、もつと豊かな人間性を以て漫得した世界、即ち我々が本営に今生活
して匂るやうな世界は、物質世界と呼ばれるには、もつとずつと複雑な性質を含んで
  【
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ゐる。
 尤も斯様にいへば、マルクス壬義も、人間性の内容を衣食住だけだとは考へてゐな
いが、衣食住の行動は最も基本的なものであり、それがあつて然る後に肇術行動など
は起り得るのであるから‥最初に獲得せられる世界は物質世界でゐり、その物質世界
を材料として撃術活動なども起り得るとすれば、やはり物質世界は根本的のものだ、
とマルクス壬義者はいふかも知れない。例へば彫刻家が人物像をつくり上げるにして
ヰ先つ我々の物質的な行動賛成により、石膏を獲得しなければならない、石膏とい
ふ物質がなければ、彫刻も何もあつたものではない、といふかも知れない〇一應尤も
卜思はれ量張であるが、然らば逆に、石膏さへあれば姦な願刻はひとりでに凝
るか、と反問せられれば、右の壬張者は答へることが出発ないであらう。石膏を生産
する活動と、石骨像を彫刻する活動とは、性質の全く異つたものだ。そしてこれは、ヾ
ちらが根本的でゐるなどとはいふことが出発ない。根本的だとかさうでないとかは、
一方より他方を派生し得る場合にいふ言葉でゐる。例へば大阪から重点へ汽車で行く
に、名古屋は濱松よりも根本的でゐらう。(うまい磐喩ではないが。)然eに東京へ汽車で
節十睾 沸帝法的唯物論北列
山五七

節十章 沸澄法的唯物論枇列
一五入
瀾舶
行くには、高崎と濱松とではどちらが根本的かと問はれても、ト汽車の線がすつかり建
つてゐる上は何れとも裁決が出衆ない。人間性は、やはり肇術的な行動をも経済的な
行動をも、lその他幾多の行動をも豊かに含むものであるといはなければならない。

      人生を見る目

 マルクス唯物論は、宇宙を、人生を説くに、ゐまりにもその目が狭い。我々は、唯
物論では、物質では、満足が出来ないのだ。唯物論の構造として、マルクス唯物論は
よく考へねいて堅賀なところを持つてゐるが、依然としてそれが唯物論にとどまつた
ところは、やはり十九世紀に於ける唯物論的思潮の興隆ペ、支配せられたものでゐつ
 フJO
思想史の欒蓬を見てゐると、⊥観念論的傾向と唯物論的傾向(もつと廣義七は存在
論的傾向)とは、交互に隆盛になつて来る。ドイツでは、ドイツの囲家を高い理想を
                                 _
以て建設レなければならぬ時代には∵観念論が隆邑になつて来てゐる。然るに侍統や
精紳的なものに封する批判が始まつたり、自然科挙が勃興したりするやうに濁ると、
唯物論が撞頭した。マルクスの唯物論はこの時に現はれたのだ。その後また人間の理
想的な要求は、この唯物論にも堪へることが出来なペなつたので、新理想壬義的な観
念論となつて現はれて爽るやうになつた。それは二十世紀初頭の思想界である。欧洲
大戦後俄然として人間の生活に欒化が起り、人は何より先きに衣食住に苦しみ、物質
的の困難を痛切に味はうことになつ。たが、この時マルクス主義が復興して唯物論的な
哲撃そこまで進まなくとも存在論的な哲挙が、また勢力を得ることになつた。今へェ
グ′ルの耕家法的な哲学が再び顧みられるやうになつたなども、現責の社会に統一しが
たい矛盾が潜み、.我々の精紳的な宴席と物質的な苦悩とが、、兵適に強く、何れに優越
的地位を与へることも出来ず、葛藤を績けてゐるからでゐらう と私は考へてゐる。
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哲学とても、所詮は人間の思索である上は、その時代時代に於ける全髄的な人間性の
動きまたは悩み彰エ表現するのでゐる。
第十頚 沸誇法的唯物論批列
一五九
    一  ヽ



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