第九章 マルクスの中心思想 (三)
唯物史観といふ言葉が使はれてゐる
蹄するところは、同一である。。第一は
時
ヽ
一】よ
−もl■ .1hUl
大健二通りの意味があると思ふ。勿論
唯物史観の原則風のもので、歴史を根本的に
かやうかやうに見る、といふその根本的の見方をいひ現はしたも秒だ
。従来はこれを
唯物史観の公式などといつたものがあ
第二は、その公式だけではなく、歴史の
進みについてマルクスの観察したその
南の場合は、
いはば方法だけのものだ
容である。以前は我が周でもこの前者
いつて来たが、マルクスの思想からい
つた。
金牌の
が、後
が珍ら
へば、
結論を
の場合
しがら
も
ユよ
含
ヽ
ヽ
れ、それだけを一般に唯物史観と
めていつてゐる場合でゐるく
マルクスの主張した仝膿の内
形式と内容とに痘別するのは辞的な見方
になるから通常セなく、歴史について観察することの全部を唯物史観と呼んだ方が本
常のやうである。併し今は便宜上二つに分けて説明をしよう
全礁的言ひ現はし
先つその形
い、短かい言
式的の見方から始めよ
菜で書かれて居るので
。
’「ノ
有名
マルクスの唯物史観の考へが、最も要領のよ
になつたのは
その著「経済学批判」(一入五
∵ ●
≠
九年) の序文の中にある次の文章である。
d人間は、その生活の社会的生産に於いて、二足の、必然的な、イ彼等の意志より
猫宜した、諸関係を、即ち彼等の物質的生産諸カの一定の尊展段階に柏應する生
産諸関係を、認容するものである。この生産諸関係の全鰹は、社会の経済的組立
ての眞の土蔓を形成し、をの経済的組立ての上に、法制的、政治的上部建築が築
かれ、またそれに一定の社会的意識形態が封磨する。物層的生活の生産様式は、
憩曾的、政治的、精紳的の生活過洋二般を條件つける。人間の存在を決定する絹
のは、人間の意識ではなくて、逆に人間の意識を決定するものは、人間の蔽曾的
存在でゐる。」
かつて我が掲の学界では、耕藷法的唯物論の全貌が分らないで、といふよりもそれ
を理解する努力を避けて、尊らこの短かい一文の解繹に全力を注いだものだから、
繹に異論百出し、申論乙駿賓に賑やかなことであつた。時に渦ただ一語の謬語の仕方
に清々敷革言の議論をするといふやうなことで、法律條文の解浮か何かのやうに厄介
なことになつたが、今や耕澄法的唯物論の何たるかを知つた我々に取つては、その論
節九睾 マルクスの中心思想 ハ三) 〓ニ三
医札 粁附打払際m払紺断附酎乱打酌払
第九登丁
マルクスの中心思想 ハ三)
寧も妙なもの
れだけの言葉
れより一層哲
つたものだか
的によく分か
たのは、簡に
点とにあつた
曾構造の段階
れでは明確に
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一
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さて前の一
仝饅は三つ
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の内容な
学的に現
ら、はつ
るので、
して要を
と、私は
がこれで
記されて
来るであらう
第
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一
この女章には山懐何の新味がゐるか。こ…
らば、「フォイエル、バッハ論網
はれてゐた。
ただその場合は
きhソ
/→義
得、
と意味が掴
してその意
短かくして
思ふ
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併しまた
つきり現は
めなか
味が知
包括的
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れてゐ
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に平凡
」
ヽ
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哲学的の言ひ廻しがむづかしか
一
一
にさへも現はれてゐた、いやこ…
一
る。この一文が有名になつ
通俗的にも理解せられ得る
とも考へてはならない。融
るし、殊に経済と政治との優位関係がこ
ども、
でゐ▲
と、づ
ヽ
&Jの、
ー
これでは言ひ廻しが卦俗叩
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一
一
ゐるので、
これはこれで甚だ重要のものなのだ。
融 合 の 構 造
文の意味を見て行か
の部分に分たれるが
とその生産に於いて
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ヽ
ヽ
¢
その最初の部分でゐる。人間は社会的生産をなし
自分の意志より濁立した、或る必然的な諸関係を
ー
一
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−
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一
定の尊展段階に丁度柏應するものになるより外はないからである。我々の行動賛成に…
一
−
によつで、社会的生産諸関係が成立する。今度は逆にその諸関係が個人を規定♭、個…
一
一
つた。さて人間がその社会的生産をなしたとすると、自分より猶立した生産諸閲係を…
一
マルクスの例の、行動賓践を王にする見方から来たことで、しかも個人的人間といふ
ものはなく、人間は必ず社会的の人間だから、その行動賓践もまた社会的になる筈で
あつて、ここに鹿骨的生産がすべての最初に来る.のだ。こ.やJとは前にもちよつとい
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容認しなければならぬやう忙なる∵その諸関係とは、生産諸関係でゐる。その生産諸仙
■
関係は、我々の物質的生産諸カの一定の尊展段階に柏應するものだ。これは眈に連山
一
べたことでよく分かるでゐらう。人間は、社会的生産をなしてゐる、とあるところは、州
一
認容するやうになるといふのも、よく分かる。社会的生産をすれば、直ぐに相互関係
人はその規定から脱れ出ることが出来ない。この生産諸関係は、我々の物質的生産諸
カの一定の蜜展段階に相應するものだ、といふのは、生息諸関係も我々の生産力の一
丁度相應する物質世界が出来る。行動簑践が欒つて来れば、それに相應して、物質世
界も欒つて行くのである。
第九聾 マルクスの中心点想〉 ハ三〕
●
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一
一
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一三五
−払卜l_ L dゝFし
d→け卜転
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第九睾 マルクスの中心思想 ハ三)
一三六
もう一度この部分をすらりといつて見れば、人間は社会的生産をすると、
定の融
曾生産関係を認容するやうになり、人間は今度は逆にその社会生産関係により限定せ
られることとなる、といふのである。マルクスはここで、言はば沸藷法的唯物論を簡
現に説いたのだ。
第二の部分は、この生産諸関係の全鰹が社会の経済的組立ての本常の土童になり、
その儀済的組立ての上に、法制的政治的の上部建築が築かれ、また更にそれに二足の
蔽曾意識形態、即ちイデオロギイが封應するといつたのである。一階は経済的組立て
で、その二階に法制的政治的の建築が築かれ、三階にイデオロギイが出来るのだ。マ
ルクスは物質的生産を基本にするから、その経済的組立てもまた生産諸関係の食饅を
眞の土婁にするもので、経済的組立てを一階とすれば、生産的諸関係の全醍は建築の
地盤である。政治やイデオロギイよりも経済は基本的であり、なほまた生産諸関係は
全鰹を決定し得る最根本的の基礎になるのである。この政治封檻臍の優位問題に於い
て、経済優位の読をなし、唯物史観説の鬼騒をなしたものにフーリエがあつたことに
ついては眈に述べた。
一潮
第三の部分は、以上を結論的に見、物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精
紳的生活過程一般を條件つけるとして、沸藷法的唯物論のしめくくりをなし、なほ人
間の存在を決定するものは意識でほなく、人間の社会的存在が意識を決定するのだと
して観念論の立場を排撃した。よく筋の適つた議論である。
意識′は 無力か
■
傍しここに表現せられただけを見ると、土童に人間の社会的生産があり、その上に
一階の経済、二階の政治法制、三階のイデオロギイがあるとし、上にあるものは順次
●
に下にあるものに封應する、といつたために、下にあるものを不常七重く、上にゐる
ものを不常に軽く見るやうになつてゐる難がこの文責の中にはないでもない。また従
来は稗藷法的唯物論の全憶の組立てを多く問題とせず、この一文をのみマルクス哲学
の眞髄と見たために、(殊に日本では、)人間の行動的方面や、観念の働らきを鎗りにも
軽視するやうなことにもなつたと思ふ。例へば、d この文肇では人間は生産諸関係にす
つかり縛りつけちれ、自分には何の能動性もないやうに見られる危険性が十分に存す
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第九睾 マルクスの中心点想 ハ三) l主七
払酎折野甑払断掛−−、転軒…打払紆紆紆新町洲鮫凱猟mm私
†
第九睾 マルクスの中心点想 ハ三)
一三人
仙 あつた。いや、今もなほその解揮は滅びてゐないのである。傍しそれは、人間の行動
仙 葦蹟霊魂したものである。鹿骨により人間は支配せられる、といへば唯物史観にな
−
叫 るが、人間がその行動賓践を以て社会の上に、物質の上に、力を加へるとでもいへば、
■
仙 観念論になると思ひ達ひをして孔て、ひ托すら人間無力観を取るのでゐる。併しその
】 ■
…誤解の基礎は、この一文にも含まれてゐたといへよう。 ノ
ー
】
… 次に観念のことだが、この文で見れば、観念は人間の存在に封し全然無九でゐるや
−
…等か卦應するものは、抵抗力を持たなければならない。人間の悪日的存在が人間の意
−
…識を決定するならば、意識はまたその存在針以てこれに封抗するのであ戊人間の意
叩 識卜いへども、ただふはふはと雲のやうに漂うてゐるものではないので、意識はまた
−
.−−一.一.T.■III.ヽ−■−一−一一−一▲Il一l一■T一一.一−●一丁I−q..一一.−−一】一1一,1−1J−−Il−Jl。−−1−111。1。−−J141−−。▲−−I一−−】。−−−。T。一一一−1一1。−−1。−1一−−。−††】−∫l,一一−一▲l▲−一一▲一∫一!一一L
−
叫 るが、さう見るならば、環境が人間をつくると見た十人世紀のフランス唯物論と同一
になり、唯物論は死んで了ふ。ところが日本には、そんな解繹をするものが随分澤山
ぅに見えるが、その観念無力観を以ては、唯物論をさへ建設することが出衆ない。何
一の存在である。現にマルクスは「ドイツチェ。イデオロギイ」の中で、「意識は意識…
一
せられた二足の存在に外ならない」といつてゐるが、さうした存在でないならば、人 叫
一
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甥_。
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閏の社会的存在により決定せられる筈もない。互に存在するものなれぼこそ、決定し
決定せられg相互関係をつくるのである。斯様に見るならば、意識もまた人間の存在
には対抗してゐると見る方が、本常の解繹であると思ふ。約言すれば、この文章では
基礎的になつたものより次第に上に建てられていつたものを規定する部面を甚だ強ぐ
見てゐるが、それと同時に、規定し規定せられるものの何には、なぼ複雑な相互関係
の存することを、含めて考へなければならないと思ふ。例を以ていへば、一つの建築
に於いで土豪むなるものは成る程上部建築を支へ、それを決定〔してゐるでゐらうが、
上部建築はまた土童になつて行くものの上にしつかりとのつかつて、その上に舟を加
へてゐるのだ。土蔓が動けば、上部建築はひつくりかへるが、また上部建築が重けれ
ば土蔓は傾いたり割れたりするのだ。斯様に見て行くことこそ本営の唯物史観といふ
ル鋭
ものでゐるし、マルクスの哲学の仝饅の構造を見れば、
られるであらう。
さうなつてゐることが約得せ
生産関係と生産力
■1一一−●−I一■■■T■ll■J
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第九牽 マルクスの中心思想 ハ三) 一四〇
「=−=り−1=−11叫=1−…==−−…1−−!−1=−11!−……1−…−−…−王−1−−1−−−−−−1ト===−−−−I−1−I−1il−−−
仙 掛物史観の形式的空白ひ現はしについての説明はこれで絡つたが、次にはもつと賓
一
−
叩 質的な見方の説明をしなければならない。即ちマルクスは人間社会の蜜展史について
−
小 寒際どんな観察をしてゐたかといふことの説明である。傍しその説明をするとなる
−
−
叫 と、結局はマルクス学説の中、今まで説明しなかつた部分の説明を全部することに蹄
−
叩 著して了ふ。。この部分は、既に述べた如く、これまで人々により幾度も詳しく沼介せ
【
…られて充たし、もう柏常に常識化せちれてゐるやうであるから、ここには詳しく説明
山 マルクスによれば、社会の関係は生産が基本である。人間は何より恥第一に衣食住叩
一 一
仰 の物質生活を営まな湖心ばならないが、その物質生活を督むについては、生活費潮を榊
【
…生産しなければならない。そこで生産が、社会生活の最初に来るのである。生産をす
…は二つのものが含まれる。第一は物的生産力、第二は人的生産力でゐつて、土地、水、…
一 一
州原料、賃、機械などは前者に属するし、労働者、兵科署、技術者などは後者に山
−JII−−−−−−−III−II−III−1−−Il−−−一ll11J11■∫∫l∫ll■■■■l■■■■一■▲l▲l一−■■■ll■一一I■■■■I一●一Illl一ll一l】l,■一lllll
して行かないことにした。即ち階級閲寧だとか、搾取だとか、資本の集中だとか、大
抵のことは普通人の知識になつて了つて、一々説明するまでもない。
ヽ ヽ ヽ
るに瀕、生産力が必要で旬る。その生産力によつて、生産は限定せられる。生産力に
−町‥
属する。が、すべての生産力の中で、決定的に有力なものは、労働力でゐることはい叶
一
ふまでもない。資本主義鹿骨に於いては、労働者がなければ.品物は生産せられず、州
一
労働者−妄は所謂慣値の原泉である。次には工業の学問が重要のものであつて、これ仙
が進むと社会はすつかり桂子を欒へなければならぬやうになつて来る。(マルクスはか
うした見方をも「資本論」第一巻や「哲学の貧困」の中で述べてゐたのだが、アメク
カでテクノクラシイが問題になつたりした現代と対照して見ると面白い。)
さて社会的生産が興ると、それは或る一定の社会的生産関係を成立せしめる。この
ことは眈に述べた。我々は斯椋にして、所謂資本主義的の悪日生産関係を成立サしめ
た。 この生産と生産関係との問の相互関係は、最初はうまく進行するであらう。だが
労働者が熟練し、原料が新らたに尊兄せられ、新らしい機械が尊明せられるやうにな
ると、結果はどうであるか○資本主義社会針生産を増大せしめる工夫をする社会であ
つたが、斯様に生産力が天井知らずに増大していつたらどうなるか。さきに成立した
年産関係は、この増大する生産力に封しては、都合のわるいものになる。そこで社会
の中では、その生産力と生産関係が矛盾を起す。さきに生産力ぺ対して都合よく働ら
■.■r【■■■■■■■■■■−.−−−■一..■−,l=l一.■−一1一.一一一−一−一▼.1一一一■ll−11,ll l,lll一lllll:「I−トー一。一,11「−1。
節九睾 マルクスの中心思想 ハ三じ 一撃一
▼−■●■一∫■■−−−−−I−−−−−−−−11−Il−−−−−−−−I−−−−−−−−−1−−−−II−−−−1I−I−−−−I−−−T−−−−Il−III−Illllllllll
きかけた生産関係は、今では却つてその邪魔になる梗櫓となつて了ふ。ここに社会の
中に登生した矛盾は、何とか解繹せられなければならず、資本主義は煩悶を起すこと
になるのである。
これだけのことは、今世界中のすべての人間が深刻に経験してゐるところだ。現在
の世界的な不景気と失業とがそれである。アメリカでテクノクラシイが問題になつて
来たのも、この煩悶のためである。生産力を増大せしめるために機械を使へば、機械
が人間の代りをして、人称はだんだん不用になつて来る‥そこで労働者は失業者の仲
間へ碍籍しなければならない。人間がだんだん失業者になれば、資本家は生産した商
品を買つて賞ふことが出来ない。
いかにも社会に敬いては、最初は登展力であつた
ものが後には破壊力となつて、社会は大きな矛盾を含むこととなるのでゐる。
以上を以て、マルクスが社会生活を葦質的にどういふ風に観察してゐたかは分明に
なつたであらう。これはこの観察の基本である。彼は一層精細に、資本主義勅曾の中
で行はれる生産過程を分析し、いろいろと猶創的な考へを持ち出してゐるが、すべて
の読の中心鮎を明らかにする目的の本書では、それらを一々説明しないこととする。