第五章 社会主義の展開




    理想社会の構想

社会雀活の中には何等せの快晴が含まれてゐる、だからこれ々も
なければならない、」。とする考へは、随分古くから存在した。
つと理想的に改造
日本でも上代の鹿
曾には氏族制度から派生した大きな快晴が潜んでゐたので∵根本的に−滋々改造し頂
ければならぬとする社会的要求は、随分長い間働いてゐた。堂徳太子の所謂憲法十七
條は、♪はばその改造の要求針代言し、また改造の根本方策を提示したも旬でゐる。
こ切要求が賓際の運動となつて爆蛍んたもの増大化凋改新で満つた。社会.の映儲胡
根本は卜いつでも民衆の中に資富の差がひどく存することに辟せられるといつてよい。
                                                                                               ◆ 、

人間は何をいふにも、′食ひへイ著、′住む生活を営まなければどうにむならないからでゐ

′ a`.′
丁 津珊掛∵   …‥。毒
るP憲法十七條を渾漬すると、償時貫員の差の随分ひどいものの存したことが示され
                                     ヽ
てゐるのは、人のよく知るところでゐやフ。
支部にも同様に、社会問題思想問題は随分古くから存在した。「論語」ゃ「孟子」は、
言はばその思想問題の論争書だ。この時代は随分古い−言でゐやが、思想問題論寧は
正にその焦点に達してゐたといふ観がゐるO Iあ時代に霊員の差のひどかつたことは
また 「詩経」 の中の詩を讃むとよく分かるのである。
 西洋でもまた社会を理想的に改造しようといふ意見はよはど古くから行はれたが、
中心もギタシヤでは思想問題が高い程度に蚤達したから、構想の雄大な、また論理の
がつしりした理想固を頭の中で組み立でて見る人などが現はれた。その中でも有名な
のは、プラトンである。プラトンの理想周家は、言はぼ哲人政治の囲家でゐつて、そ
の図家の最高支配をなすものは哲学者だ○そして囲民は計れぞれの職能に應じ、国家
の中で、特定の地位を占袖なければならないとする。斯様にいふと、哲学者だけが身
勝手なことをするやうに聞えるが、彼の主張の眞意をたづねて見れば、要するに銘々
の人間は自分の持つて生れた能力に最もふさはしい地位を占め、以て囲家を組織し、
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瀧骨主義の展朗
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隣家は一つの金牌として理想を持つた進みをしなければならないといつたことになる
のである○教育なども、彼によると囲家がしつかりとこれをするので、人間は五十歳
に達するま下は教育せられなければならない。これなども、プラトンが教育につきし
つかりした考へを持つ七ゐた所以であつて、教育は要するに五年や十年で終るもので
なく、また世間へ出て職業を得るための準備として行はれるものでもなく、生涯を適
ほし行はれなければならない崇高の仕事であることをいつたものであつた。
 併しプラトンは、現在の社会からこの理想社会へどうして到達するかの方策を教へ
                                   ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
てゐない。壷で考へただけの理想社会のことを、我々はユ」トbア」呼んでゐる。随
                        ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
つてユートbアを描いただけの思想は、ユートbア思想と呼ばれるところのものであ
る。ユートbアはその後もいろいろの人により構想せられてゐるが、殊にユートむア
構想が盛んに立てられたのは、†六世紀の始めから十人世紀の終に至る三世紀聞であ
る。この時代はといふと、中世紀が終末を告げ近世の新時代がまさに開けようといふ、
言はば夜明けのやうな時代であつたから、社会についてもいろいろと新らしいユート
bアを構想したのは嘗然のことである。モオアやベエコンやカンパ、そフは、そのユー

トbア構想者の中の有名な人達であつた。

     サ。/。シ苧/の社会主義
                                                                             ●
 現にユウト貫を構想するだけではなく、寒行の1で現敢曾を改造し、慧謁な鹿
骨を建設しようとするやうに軋ると、所謂敢曾壬儀が尊生する「〕近代に於いて有名で
                           .ヽ ヽ ヽ ヽ
ゐつた雲量義者にはサン。シモンとアーヅエとオークェン、卜があるが、マルクス壬
              、、 ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
義者は贋等三人を呼んで近代のユート貫鞋曾主義者とした〇三人について次に彗
よ,フ。                                                ヽ
                                          ′
アンブ。ド。サン。シモン(−書f−監虐は、フランスに於ける近代雲量義の建
設者でゐつた。彼は元来は貴族の家に生れ、華南な教育を受けた人であトー青年時は
青雲の志を懐いて準義挙に馨授するため米歯へ渡つたり、、今の○ハナマ運河のやうな
ものをつくる事業を計蓋したり、軍隊にも造入つてゐたことがあるけれども、後それ
らをすべて断念し、辞かな学問研究に後事した。彼の晩年は甚だ気の毒なもので、或
る時は極めて低い給料で労働をしたり、
▲研
また或る時は轟を仰いで自殺を計つたはどで
第五奉 祀骨主轟の展開
六七
▲.h軒rピa野トi∵ゝLノヂ
                →






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第五番
杜禽主糞の展開
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篠あノ…
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ー各々蜜
材▲アワウ
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あ‘勿懲仰
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                                 ●一■一l l
ある。彼の有名な著書は、
この悲惨時代につくられたものである。
サン。シモンの思想は必ずしも純然たる社会壬象でゐるとは。いへないが、
その思想
には猶創鮎が多く、彼の門弟達はサン。シモニストと呼ばれて、彼以上にはつきりと
悪呈義的の主張をしたゃフランスの悪呈義豊叩る時には、彼の思想の影響は投却
することが出来ないし、また彼以後に現はれた社会主義者の思想は、大抵はすでに彼
の思想の何産かに含まれてゐた程である。マルクスも、国家についての考へや、萬人
労働の考へやに於いては、彼の思想を蚤展させてゐる。
 サン。シモンの思想の中で最も重要なのは、政治と産業とを比較した場合、産業は
政治よりも王位に立つものとした思想である。彼によれば、政治は要するに生産の科
ーノ
 ′一意

 ,▼.鮎
学であり、政治は彗粧漉
寸】¶川
l 打
硯岬叫ば嶽.引付竹山。生産を離れ、政治を
政治だけめものとして観察することは誤謬であるn彼の−あ考へがもう一段蚤展して
来ると、マルクスの考へになる。併し彼は政治の王位に立つ産業をいふ場合、学に無
産労働者の生産を考へたのではなくて、資本的企業家や商人や銀行家をもその産業の
中に教へ入れてゐたのであつた。彼はまた宗教と科学とを封立し、
                                                 ′小
科挙の王位々主張
した。教曾の堕落に封しては、極力非難を加へ、原始基督教に於ける萬人同胞の思想
針推奨してゐる。なはまた彼は富裕者と労働者との関係を考察して、不断に熱心なる
同情を労働者の上に注ぎ、萬人界働の主張を取つてゐる。併しその蔵人労働に於いて
も、労働の絶封平等は却つて希はしくないものとしたゐたり、彼の思想は、よくその
隅々まで考へ適したものになつてゐたのでゐる。サン。シモニズムはフランスの有為
な青年達に大いなる影響を与へ、所謂サン。シモニストは労働階級の中によりも、銀
行、産業などの紳士階級の中に澤山見出されるといふ
が、その奇異のついでに一つの挿話を語るならば、ス
見奇異な状態を現出せしめた
ユズ運河を開竪したレセップは、
いはばサン。シモンり孫弟子にゐたる人でゐつて、サン。シモ」−ストの中からはかう
した人物も出たのである。
     71リエの思想と構想

 次のシャルル。フーソエ(−ヨ帖−−∞当) もまたフランス人であつて、サン。シモン
と併稀せられフランスの近世社会主義の建設者と呼ばれてゐる。彼は奇警な批評振り
、淡九
り‥hHいハ打トい札レl臣m打J町1−

第五奉 祀骨主義の展開


      七〇
…られにといふ読もある。) さ

仙 彼の思想の中にすでに社会の塀定法的進展の思想が含まつてゐたことにつセては、

仰 眈に準べた。彼によると、人間悪日は衆のやうな諸段階々経過して進化するといふ。

柑吟均昨夜什
必Tを以て常時の社会
批評し
フ」
社会進化の上に、後に述べる所謂辣藷法的展開を認め
たり、婦人解放の程度によつてその社会の一般的解放の程度は分かるといつたりした
ことは、後の」舵合主義者に大きな影響を与へた。フーヅエは商人の家に生れ、柏常の教
育を受け、商人として身軒エ止てる準備に各地を旗行したりしたが、彼は元来あまりに
潔白な人間でゐつたから、商人として利益を取るなどといふことに堪へなかつた。
歳の少年の時、父の店で或る商品につきお客に本営のことを詰もて了つたので、父に
叱られたといふ逸話も残つてゐる。二十七歳の時フランスに大飢饉がゐつたところ、
民衆は飢えて苦しんでゐるに拘らず、貯商達は穀物の値段を釣り上げようとし」 章り
惜みをなしたので、.倉庫内では穀物が腐るといふやうなことになつた。フーリエはそ
れを見て痛切に鹿骨制度の快晴を意識し、この社会を改造することを以て彼の使命と
決心するやうになつた。(小奔を海へ投げ棄てさせられ、それによつて大いに感動させ
 【リT
−り∵。軋
   ん
′紡帖…終崩壊晋叶魚
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多慧サ舞針凝礪でゐ
c‰〃。轟ノり▲溜.吋仁rフ.一こ一言−▲一ヽ一戸JJ..−
者詔絹密教肘掛あつ
                【
長政治時代であつて、
つて、言はばエデンの柴周に於ける様な共同の集圏生活の時代、
て、生活資料が映乏し次第に宰縛侵略の起つた時代、第三は家
家長制度が尊達し婦人の地位が隷属的となり、濁占的の財産が
出来た時代、第四は封建時代でゐつて、商業工業が尊達し始めた時代、第五は文明時
代軒ち現代であつて資本主義社会の罪悪の尊生した時代でゐる。彼によれば、文明は
絶えず矛盾をつくりながら、それを解決することが出来ない.で、まさに達しようと欲
しつつゐるものの正反対に達するやうになる、といふのであるが、これは後にマルク
スが主張した所謂社会の稗澄法的進展の考への先駆である○


     払
 ノフーヅエはまた、一種のユートピアのやうなものを構想した。それはフアランジユ
の組織と呼ばれたものである。フアランジュとは、二足の人口を包容した」慧弓集囲生
活のことであつて、フアランジユに属する人間は、
つの大きな共同家屋の中に生活
するのでゐる。さてこのフアランジュの組織についていろいろと詳しいことをいつで
ゐるが、このフアランジユは学なるユートピアを以て終らずに、賓際その通りのこと
を賓行しようとするいのが後いくつも現はれた。その中で最も大規模でゐつたのは、
輝五睾 杜骨主養の腿掴
七一

節五黎 組合主務町吠帆
七ニ
」▼ ●

  ノ
米囲ボス†ンの近郊ブルック農園に行はれたものである。ここでは蓋は労働し、夜は
ダンスをして楽しむといふ風な、希望にみちた生活が賓験せられたが、火事のためす
べてが焼けて了つてから、解散の憂き目を見なければならぬやうなことになつた。
      オーウエ、/の▲章験

 ロバート。オークェン (−ヨーーー浩∞) は、イギリスに於ける近世社会主義の建設者
として有名でゐる。オークェンは富裕な家に生れなかつたので、十歳の時に\はもう他
の商店に小偲となつて住み込まなければならなかつた。彼の性格は小兇のやうに純粋
で、生涯崇高な人格者であつた。併し事業の経費にも天喪的な技能を持つてゐたので、
緯線業の経営で成功することが出来た。スコットランドのニューラナークの大紡績曾
融に支配人と濁つて活動し、経営の衝にあたつた時には、初めの状態とは打つて代り、
一人の泥酔者も見られないやうな立派な合蔽になつて、そこは全く一の理想的植民地
でゐるやうな状態を睾した。ここでの施設を見るに、
々社会政策の上で模範的なと
ころがゐる。斯様に施設は十分社会政策的でゐる一方では、工場能率は却つて高く沓
「...≡.....≡一..吉E.n.】−E.王E≡.ど.賢a
−            ●

悌tゑ川り老
女仙獲つ7J.
拝せられ、工場秒収益は他の工場のをれ端まさるやう学−とになつた。つまり彼は横
丁範工場の最初の成功者であつたといつてよい。ノ
 併しその成功を収めた時忙、彼の社会的良心はだんだん尖鋭化し、立派に」慧呈義
.的の主張をするやうになつて、責業家たる地位を退き、社会主義的制度を寒行しよう
として米国インデイアナ州にひろい土地を買ひ取り、そこに共産村を建設した。これ
はニューハーモニイ共産村として有名のものである。その賓験は最初は大境うまく行
つてゐたが、後には仲間同志の内輪もめなどが凝りてうまく行かず、村は崩壊するし、
オークェンも村を去つた○その後の彼は、不幸なる項遇に落ちて行a全く純然たる
一簡の労働者として過ごすやうなことになつたが、その問にも労働者の地位の高上を
計つた。彼の人格はかうした清純セものであつたので、共産村の失敗したなども、彼
が全く他人の性質にゐまり多くの信用をおき過ぎたからであるといはれてゐる。
 オークェンの思想は今もなはイギリスの敵曾思想の上に強い影響を与へてゐるが、
彼は第三は、が〆尉掛か勺_如払如伽舶勅タかい掛執れ1__也桝仰掛物b捌こと、
第二には、圏を多量に生産し現」仇
第五睾
杜骨主義の展開
葛幻召頭U、これら二つめ結合によつ
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                        七三

第五章 祀骨主義の旭閑
七四

仰 道周の上に乗つてゐるか。それが明らかにせられなければ、理想はどんなに美しくて



てゴ慧晶題の解決を計つた。彼はまた、慧還合服利益と義務と竺致したものでな
ければならぬとした。その理想の村の構成には、多くの立派な思想が含まれてゐる。
彼はそこで農業と最良の機械とを持ち、最新の機械を使用しながら仕事の欒化を得、
工場の学詞な活動を田舎の伸び伸びとした生活で補はうとしたq帥ちこの時眈に都合
                                                             ●
と田舎との生活の関係問題が、オークェンによつては考へられてゐたのでゐる8

     科挙的社会主義へ
以上の所謂三大ユートピア社会主義者の新らしい悪品見解と悪日改造運動は、々
れぞれの囲の若い人賢力強い影響是へ絹。伴しマルクス主義者はこの客室義を
ユー.トピア社会壬義(空想的社会主義)と呼んだのは何故かといふに、これ程美しく
蒋来の→慧日の構想は立てられたが、さてそれと現在の悪冒の掛びつきは⊥つかりと
立てられてはゐないと考へたからでゐる。社会理想はそれとしても、現在の社会はい
                                                                                                                             一
かなる方向へ必然的の進展をなしてゐるか、また所謂理想悪日は、その必然的進展の
も、。所詮は空想であるにとどま絹。例でいへば、山の彼方に美しノい街を地慧てては
ゐるが、山のこつち側を流れてゐる河に舟を浮べて居れば、結局は山をめぐつてその
美しい都合へ着くことが出来るといふことが、先つ明らかにせられなければならない
のだが、以上の三大社会壬義者はそれをなしてゐない。だから運動は金融曾を目標と
          、
せず、それぞれ小さな賓験を以て終始しなければならなかつた。これに反しマルクス
主義は、現瞥の社会がいかなる方向へ必然抑に動いてゐるかを示して、運動を致果の
ある、科挙的のものにすることが出来た。この方向に随ひ≠つ運動を進めて居れば、
。社会は不可抗的に改造せられて行くのだ。
と、斯様の理由を以て、マルクぺ壬義
                                               ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
者は三大社会壬義者の主張をユートピア社会主義と呼び、自分達の主張を科挙的社会
 ヽ ヽ
主義と呼んだのでゐる。               .
 いかにも三大社会主義者の主張には、さうdた非難が全く加へられないものでもな
からう。併しとにかく彼等の主張の中には、後の社会主義の思想は眈に残るところな
く含まつてゐたといつてもよいし、J現寛政曾の進展の方向についても全く説をなして
ゐなかつたのではないのである。現にフーリエなどは、立派にさうした思想をも考へ
    \
第五奉 祀令室義の屁踊
七五
、ニ
ノ∵L=ト臣

       ノ■
第五睾 統合主義の展粥
七六
てゐた。ただその思想と彼等の寒行運動とは、明確に結びついてゐたとは.いへないで
ゐらう。併しこれとて、社会壬義運動の婆端に於いては避けられないことである。ク
ロボトキンなどは、マルクスが自分の壬張だけを高く持ち上げて科学的と呼び、自分
の主張以外のものを低級のものに呼ぶことを以て、例の如くすルクスの官僚的な態度、
他の立場をも寛大に包容して行くことの出来なかつた態度として嘲笑してゐるが、

の批評は
部分たしかにあた
ゐると、私も考へるのでゐる。
 所謂ユートピア社会主義の中には、普通人よりもずつと人格の清純高潔な入が含め
られてゐる。その生眞面目な人格にも我々は打たれるところがあるけれど、なはその
人達が、現葦の社会の罪悪的な部面を攻撃し、社会の理想的な形態をいろいろと構想
した鮎は、思想的にも我々に教へるところが少なくない。我々は今にして、所謂ユー
        ′.
トピア社会主義の内容を再吟味してもよいと思ふ。マルクスは刻苦精励古今の文献を
賓によく嘗破した人であるが、ユートピア社会壬義者の言説の中には、あらゆる景重
な要素が含掘つてゐたから、マルクスはそれによつて教へられ、自説の中にこれを取
り込んだところが少なくなかつた。
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