第四章 理想主義と社会 (二)



資本主義社会
第二には、また心的改造と物的改造と
その物的改造といふものの中には、心的改造のやうな見方は全く含まつてゐないので
言ひ換へれば、社会制度に縛られた
一つの形式にとどまるものではなくて、歴史生活の上で襲化してゐるものでゐる。歴
史の流れの中に生起するものは、必ず欒化してゐるのだ。併し欒化するといつてÅ


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ただ出終日にどつちかへ動いて行くといふのではない○動くには動かなければならな
                                                                   −
い一つの方向が極まつてゐる。例へば人間が家内工業で暮らしてゐ毒に蒸気機械が仙
尊明せられ、大規模の工場が出来て誉と、今まで家内工業をやつてゐたものは、家叩
を出て工場労働者になるより外はない。礼こで人間を雇傭して事業をするものと、他…
人に雇傭せられて労働をするものと、人間の中には二通りの種別が出来る。即ち一方
は資本家であるし、他方は労働者だ。かうなつた時には、悪日は資本家と労働者とよ仰
           ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
り成る社会制度帥ち資本王義的社会制度へ移つたのである。
資本壬義的悪。制度は、元来は人間の消費する品物を安倍且つ豊富に得よ,_とし
で機械の力を借りた阜云から始まつたものでゐる。資本壬義制度の社会になつて
から、社会の中にはたしかに商品が澤山になり、人間の物質生活は豊かになつた。こ
                                        ●
れは資本壬義制度のぢの長所であつた。併し長所も後になれば却つて短所になつて
来や資本家がだんだん機械を渾山に使ふやうになれば、労働者はそんなに澤山はい
らないこと七なつて了ふ。そこで機械が労働者の地位を奪ひ、労働者は次ぎ次ぎに失
業しなければならなくなる。失業者の大群が悪日の中に充満してゐることは、決して

 ヽL
.ヽ1−
第四事 理想主義と祀曾 (二)
五二
結構な状態だとは申せない。失業してゐる限り、その労働者は食ふ手段を失つたので
ぁるから、何としてもこれは大事件でゐパに相違ない。だが失業は、常の労働者を苦
しめるだけではなしに、資本家をも苦し潜ることになつたク といふのは、失業者は品
物を買ふお金を持たない人間でゐるから、失業者の多くなることは、結局は資本家の
生産する商品を買つてくれるお得意先きを少なくする所以である。資本家は、折角機
械を億つて安い費用で品物を渾山に製造して見たが、その品物がさつぱり責れないの
でゐるから、困つて了ふのだ。米国の如きは、鎗りに機械を傾ひ資本王義的生産を蛍
達させた結果、この最後の苦しみに到達するやうなことになつた。そこで先計には長
所でゐつたものが、今では却つて短所となり、資本壬義的社会は自分の中に大きな矛
盾を含むことになつたのでゐる。この矛盾を含みながら、その社会は今まで通りの蜜
達をつづけることは出来ない。
然ら掛悪日はどういふ方向へ動いて行くかといへば、我々は今その蒋爽の悪日を見
てはゐないが、少なくもこの矛盾を克服したものでゐるとはいへるであらう。共産王
義者は々の将来の社会につき、撃エロ的の見通しをつけるけれども その見通しは或は
                                                                                                                                         ヽ
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叩 持ち、


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あまりにも学純すぎ
いふことが出来ない
し進む澤にいかない
る⊥万向へ、とだけは
するに相違ない。そ
と.J、−J  、 .− −一▲一J 山 灯 一
一一トl l■■■■■l f Jl l ll■■‖lTl l山r■.■■−■■

るものでヰのる

。けれどもこ▲

のであるから、
いふことが出⊥
こでどうして。
かも知れない。我々
の困つた矛盾を威服
、我々はこの方向に
来よう。社会はたし
もこの方向へしか動
卜●−
は今容易
しなけれ

ついて、
に、その社会の形式を
ば、社会はその礎で推
その矛盾の克服せられ
かにその方向へ動いて行かうと
かない
         ヽ ヽ ヽ
といふことを必然的の
矛盾を含むや
敷きといふのである。






、一



    融 合 の 進 化

社会はこれまでいつでも、その中に一
つ、必然的の推移をつづけて来た。一
もいつてゐる。また歴史の上では、一
   ヽ ヽ ヽ
ら、歴史的の動きといふ時には、皐
るのである。米国の悪日は今後aフ
                        ヽ ヽ
社会が斯様に推移することを、社会は進化する
社会がさうした.風に必然的の動きをなしてゐる
,フにな



トム。り−】

ふ風に
の必然的
欒つて行




ては、その矛盾を克服し
仕方で動←ことを意味して
か。人はみなそれに興味を
いろいろの方策を立てるものもゐるが、
それはこの矛盾を克服して行く必然的
五三
卜掛卜J 鮎

第四事 理想主義と祀骨 ハ二)
五田
め動きの方向を改測してゐるのだ。                   ぱ
 社会が必然的の進みをなせば、我々個々人はいかにもがいても、その進みの方向へ
同様に動かやれて行くよセ外はない。たとへば家内工業時代から工場生産時代へ融
合が動いていつた時に、自分ひとり昔ながらの家内工業の孤城をささへて行かうと思
つても、それは出来や!ではない。工場で生産される商品は、安償である。家丹工
業では品物の値段はどうしても高くなる。そこで品物の値段の上で競寧に負けて了ふ
から、自分の製造する品物も安」するより外はあるまい。品物の値段を安くすれば、
最後は自分の家族の生活費を支持することが出来なくなる。それよりは工場へ労働者
Lして雇はれる方が得であるから、やはり家内工業をやめて工場労働者の仲間入りを
するのであ繁社会の動きは、さうした大きな力を持つてゐる。これに反抗して、自
分は自分だけといふ歩き方をすることはどうしても出来ない。そこで社会生活は個人
生活を隠定する、といふ結論に到達するのである。
 併しここでもまた我々には一つの注意が肝要である。それは、鹿骨の動く力はこれ
程強いものでゐり、個人はそれに蜃倒せられるといふならば、個人はその悪岩動き
        止



/       ≠
の上へ何の力をも加へ得ないものかといへば、決してさ→ではない、といふことでゐ
るさ この場合にも我々は、個人と社会との問に成り立つ相互作用を考へなければ払ら
ない。社会は個人を限定するが、個人もまた微力とはいへ、自分の力でその鹿骨を限
定してゐるのだ。いや、場合によつては、この個人の力は決して微弱だとはいへな
い。個人と融食止の間には、限定のさうした相互作用が成り立つてゐる。ただ∵万だ
け針見るのは誤謬である。人間と人間とは相互関係を結ん甘ゐる。それが社会でゐつ
たJ−の人間の数がいかに多卜なつたにせよ、壷る一人の人甲が他の人に与へる相互
作用の力は皆無になつたのではない。然らば、人間は悪濁どれだけ大きくなりたに
せよ、をの上に或る力を加へてゐるのでゐる。
           ●
。社会の中に矛盾が生じ、その矛盾のために社会は進化するといへば、人間の力など
はこの進化の上に一向加はらなかつたやうに見えるが、よく見ればさ,つではない。矛
盾といふも、人間の生活するところから起つたものでゐる。随つてその矛盾を克服し
で行く経過に於いては、全く人間が主動力者になつてゐるのだ。人間が動き出さなけ
れば、矛盾は鬼服せられる筈もないつ斯様にして社会の動きとは、結局は主動力者た
第抄奇 想想主義と杜曾 (二)
五五L

1過り
節四事 理想主義と杜骨 ハニ)
五六
る人間のカが働らき出して行く、その総和であると見てよいのだ。どうして個々人の
力を無視することが出来ようか。
 なほこの場合には、人間を特別に理想王義的の働らきをするものとは考へてゐな
い。食へなければ死ぬより外はないから、とにかく食ふ方策のある方向を選んでその
方へ動く、と今は考へて、その力の総和がどんな風に表現せられるかを親展したのだ
が、1なほ人間は理想壬義的の動き方をするものだと考へたとすれば、そのカの総和は
また前とは達つたものになるでゐらう。食ふこ上が出来るだけではなく、もつと理想
的ペ食へる状態にしようと考へて、その力を働らすのである。この力は全然微弱でお
話にならぬ、とはいふことが出来ない。ここに社会は、理想的の進みの方へ煮かれつ
つ動いて行くであらう。一人の肉饅の力は微弱であeが、思想を以て他人を動かす力
は徹弱でゐるといへない。或る正しい思想を立て、これを大衆の閏に官裔し、多くの
同感者を得れば、その同感者の集囲的な力をつくつて、社会を或る方向へ動かすこと
                 ヽ ヽ ヽ ヽ
が出来るでゐらう。それが社会運動と呼ばれるところのものでゐる。社会運動は集国
運動であるが、それは屡々偉大なるカを尊拝するのだ。
  ′ _ん照。。
 ▲ 浄ご.鴻舶
          」,l。′…出
′ 1 iヽ    げ←漁ほWハ
                                                                       \
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 尤も農圏的な鹿骨運動も、社会の必然的な進みに全然逆抗するものでは膠利を占め
ることが出来ない。集国運勤が勝利を占めるには、必ず何分か社会の必然的な進みに
                                                                                                          −
乗るものでなければならない。今一本の急流が流れてゐる。その上流より下流へ向け
て舟を漕ぐならば、丸は甚だ早卜且つ容易に進むこLが出来よう。然るにこれとは逆
に、下流より上流に向ひ舟を漕ぐならば、その進みは甚だおそく且つ甚だ困難でゐら
う。その場合にも、舟を進ませることは全く不可能であるせいふのではないが、水流
が甚だ急でゐり人力がそれに及ばなかつたとすれば、舟の進みは無論全く失敗に終
る。舟を漕ぐものは、失つ水流を知ることが肝要だ。傍しまた自分が舟を漕いで行く
ことの目的は、はつきりと掴んでゐなければならない。目的だけしつかり掴んでゐて
打、水流を知らなければその目的は果されな卜し、また水流を知つたにせよ目的をし
つかり持つてゐなければ、舟をただ水流にまかせるより外はない。この二つ′と較 遣
り方を託つてゐる。我々は水流を知り、同時に目的をしつがりと掴まなければならぬ
のだ。
第四季 理想主義と紅曾 ハ二)
五七



f ヽ▼ソ
肝換紛汁較b払











一I■■−1 − I−−− − − −一− 11■【一

欝四事 理想主義と祀骨
日H
へ二〕
u■
  五入
そこで我々は最初の問題にかへる。
物的改造をするからdいつて、我々はやはりそ
れを改造するはつきりとした目標を持つてゐなければならない。この目標は、壇想王
義的に立てら斬る。社会を慧謁のものに改造しよう、人間が人間らしい生活を螢む
ことの出発る、甘うに改造しよう、各人がそ町人格の品位を主張し得るやうな社会をつ
くり上げよう、。と理想を漑つきり描いで、さて鹿骨に、社会制度に、ぶつかつて行き、
これを改造しようと努力するの下ある。この場合、個人の力は微弱であるとはいふこ
とが出来ない。さて針のやうにして見て行くならば、この物的改造の標準は、心的改
造の標準と全く別のものではない.心的改造の時に使ふ理想王義的の標準を、物的改
造の上へ持ち出したといふだけのことだ。。両者の問は、一つづきになつてゐる。
 ただここに注意すべきことは、物的改造にあたつては、かくして改造しなければな
らない社会の進みの必然性を先つよく知らなければならぬことでみる。それを知らな
…ければ、改造の努力が無数になることはすでにのべた。心的改造に重力を置くやうな
¢
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   ヽ


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は、
社会の進みにさう
をよくしようなどと考
然とした、
何の役にも
義は社会進化の必然性
義は無効だ、
などとよ
見方と理想壬義との統
然催のゐ
ら、努力
いものに
と結びつ
いのであ

ふことが
融曾科挙上

 必然と
以て進化
ス主義者
人達は考
 ヽ


寸ノ




ふことについ
るといふ、そ
どの−中には少
なほ一つ
に、特に
いが、必
てゐないやう
然には、
と水素
然でゐ
の一

   ヽ
一容積を化合さ
Lnソ
正眞正銘それ
は欒化する

し七必川
へるか、
立たな
の。考へ、
いへ払
一.をい

の必然‖

ては、」
の必然
なくな
だ。必仙
せれば、
以外に‥
ることなど
り気をとめ
は無数にな
なるのだ。
今の様に考
く。いや、
進化は必然
る。私はこ
に除L
るし、

さ一て八
鹿曾漉
こで寸
も結論とし
出来た」





必ず水が
注意が必
熔を入れ
にむじい久り
づ自然科
出来ると
セころの
罪四事 理想主義と杜骨 ハニ)
またその

ぜノ、
改造
へて
的で
て、
たゼ漠然と
     」
の方策も一
来れば、理
ゐるから理
社会の物質
l■一一l
鹿




一 J
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 一
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 一
 一
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 1
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 −
 一
 一
 一
 一
 一
 一
 一
  l
要である。社会は
てゐるものは、日
いろの種類のゐる
学的の必然がゐる
いふ 「必ず」 は、
ないものだ。或る



−】



然的の檻過を
の所謂マルク
とを、そんな
酸素の一容積
自然科挙的の必


  r≠
軌跡















「lI
                                                          一
的の必然は、いつでも敦的に表現せられる。地寅なども自然科挙的の経過でゐるか…
                                                                                                                         一
                                                             一
計算を使ひこれを推定してゐるのでゐる。尤もその蔑源地の計算の中へは多少つつの…
                                                   ●
誤差が混じて誉t、またその推定は大いに間違つてゐることもある。この場合には仙
                                                          一
敷的表現は不可能であつたのかといへば、さうではない。地表での出来事には、いろ…
                                                                                                                          一
                                                       −
とが出衆ない窺めに、計算の結果に誤差が出来るといふガけのことだ。地寅は今では 「叫
                                                       −
完全に理知出来ないものになつてゐるけれど斗今後自然科学が進歩して来れぼ、完州
                                                             一
合にその頚知をなし得るやうになるかも知れない。自然科挙的の現象は、自然必然的…
                                                                                                                                一
                                                                                                               −
節四睾 斑想主義と祀骨 ハ二)
     ⊥_


1.▲l1.11..■llTつ11I− −
六〇
なかつたし一、また或る時には水素の三容積を必要としたといふのでは、必然は成り立
                                                                                        ▲▼
たない。自然科挙的の必然にゐつては、断じてそれ以外の結果を得ないし、またその
経過の時間などをはつきりと計算して出すことの出来るものであそだから自然科学
ら、一九来は教導的にはつきりとこれを表現し得る筈である。今もなは震源地などは、
いろと複雑な原因が働らいてゐるが、その複雑な関係の全部を計算の中へ取り込むこ
に欒化tて行くから、必然性としてはこれ程緒封的のものはない。
ところが融曾での現象は、
さういふ澤にいかなくなる。社会現象を科挙的に取扱ふ
                     二
一一−1一−一l一l一一一一ll,一1■.−
     ヽ ヽ ヽ ヽ
ことは社会科挙と呼ばれてゐるがノ その社会科挙上の必然性は、自然科挙に於け▼る如
くに絶封的のものではない。何故なれば、社会現象は人間により起されるものである
けれども、人間は自分で自由の行動を取ることが出変るから その現象は何れかの方
                                                                    ヽ

向へ動いて行くでゐらチと思つてゐても、人間の動作一つで、賓際はさう動かずに、
それとは達つた方向へ動いて行かないものでもないのだ。尤も人間の行動が全然自由
でないこと瀬、前に述べて来た通りでゐる。人間は、お互ひ同志の相互関係を以てつ
kつた社会に上り限定せられてゐる。そしてこの社会の中には
つの矛盾が蚤生尊達
んて行くために、社会は何等かこの矛盾を克服し得る方向へ動いて行くより外はない
のだ。この動きを一個人が根砥より欒化させe一」とは困難でゐらう。
 併しこの矛盾々克服する造とても、何もただ一つに限られる詳のものでもない。進
みにはい。ろいろの可能道路が考へられる。マルクス主義者がその道を考へ出し、これ
こそは必然の進みの道だ、といつたにしても、むれはやはり可能なる道路の一本であ
るに過ぎない。人間は、その途中で何をするか知れない動物だ。例へばナポレオンの
ゃぅな人物、もつと古くはジンギス汗のやうな人物が出て、英雄壬義的に世界征服を
第四審 理想主義と敢骨 ハ二)
L馳
六一
    一
汗lト汁..、rl鮎


第四季 理想主発と杜骨 (T一)
六ニ
企てるなどとは誰れが濠測し得たでゐらうか。或る一人の人間が自分で考へたことを
宣博し、運動を起したとすれば、途方もない大きな力をつくつて、歴史の進みに
の飛躍を与へるやうなことにもなる。だ柵らその人間を含めてのり慧日の現象の動aは
                     ●  ♯
必然だとはいつても、「大鰹の傾向として」といひ得るに過ぎないものである。三日ひ換
へれば、社会科挙の上での必然性は、絶封的のものではなくて大略の傾向を言つたt
過ぎないものだ。この場合には、はつきりと数学的の表現を取ることも出来なd`何
年何月、社会はどういふ襲化を取る、などとは、どうしてもいへない。然るに日本の
斬謂マルクス主義者の中には、そんな区別が分らないものだから、マルクスが社会進
化の藩来を云々」濠知したといへば、その璧紺必然性はそれ以外に動きの取れない、
絶対的のものででもあるかのやうに考へるものも少なくないが、いや大抵はそんな風
に考へてゐるが、これは大きな誤謬であるから、今そのことを言つて置きたい。 つま
り必然性には、自然科学的の紹封的な必然性もゐれば、またさうでないものもゐると
思つて居ればよいのである。
r−1−TIIr“rrr− −■−−−−I−。■−Il。1−。。I。IIlr。−−。−−−−。−−−IIII−−−。−−−。−−■−−−−■−−。−■1I一■−− − −Il−■一−r。−−トーーーlrI■_lllll一▼lllll,lll
  叶
.融 合 法 則



州 」憶に審科挙の上では、法則といはうが、結論といはう吋易科学に於けるや

…ぅな∵それ以外に動きの取れない明確疑ひなしといふ性質を持つもの.ではないのであ
l」
  ■
 −
 −
 −
 1
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 一
 一
 一
  ●
 一
る。ところが拳闘の仕
ノで使ふト法則だとか必
の性質を持つもののや
経済学なども一種の就
法則同様の性質を持つ
て他県だといふだけで、
上のる.
方だけは自然科挙
然性だとかいふ術
うに考へ勝ちでゐ
曾科挙でゐるが、
ものかといへば、
のそれ
語を優
るが、
に似たやう
ふ簸めに、

ことをし、且つ自然科挙
いつの問にか自然科挙同様
これは警戒すべきことでゐる。例へば
需要供給の法則といへば、自然科挙に於ける
さうではない。需要供給の法則は大憶に於い
こまかに言へ■ばこの法則の行はれない場合も少なくはないの.で


第四季
理想主義と杜曾 ハ二〕
          六ご叫
 一
 一
 −
 一
  →
  ←
 −
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  【
  ●
 一
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第五奉 祀骨主義の展開
                              六四
一.■.−−■l■■ 一 ●■ − ▲l■■■■一 −一■− − −1J↑11 − −一− − 1−■■11T●l1 −  − −  −一■1 −−− hl∫1−1 −一ll一一■■l一ll●l一lllll■■l■■■■■.1