興亞の大業  松岡洋右  1941



第二章  開拓者としての大和民族



歴史に見る開拓拐~


 年諸君、大和民族が溌溂たる生命力を有し、人類救濟の使命感を持ち且又第一等國民としての誇りを失はず、他民族の下風に立ち其の後塵を拜し其の頤使に甘んずる事を欲せざる以上、吾々は決して水清く山青く、四時の景美はしく、気候快適なる大和島根に戀々たるべきではないこと、特に年諸君は、諸君を内から驅り立てる衝迫のまにまに高き目的、遠大なる理想に向つて進まねばならぬこと、其の進み行くや大陸であらねばならぬことを、私は前章に於て説いたのである。大陸とは勿論大洋をも含意するのである。即ち小日本、島國日本に甘んぜすして海外遠く雄飛せんとするの壮圖を、「大陸に志す」として表現したる迄である。それを開拓先驅着の拐~―パイオニア・スピリツトと名づけるならば、我が大和民族こそ、實に祖先代々最も偉大なる、最も果敢なる、而して最も飽くことを知らざる開拓先驅民族であつたのである。不幸にしてコ川幕府の鎖國政策は、全べての近代西歐諸國民が勃興し、發展し、海外に雄飛し、本國に於ては近代民族國家を完成し、外に在りて領土を廣め、植民地を建設し上げた時代に、それ等に先驅けて海外に雄飛し發展したる、我が民族の膨脹を壓へてしまつたのである。が、年諸君、諸君の中には三百年に亘つて抑制され、鬱積された祖先の尊い血がうづいて居るに違ひないのである。いでや諸君と共に、國史の古き部分を扱いて見ようではないか。
 大和民族は元來どえらい開拓民族であつたのである。古事記や、日本書紀に據ると、天照大御~は皇孫瓊々杵尊を「葦原中國(アシハラノナカツクニ)」即ち日本全國土の統治者として高天原から御降しになつたのである。大御~が天孫の御門出を祝福して、下し給ふたのが、

「豐葦原千五百秋之瑞穂國は、是れ吾が子孫(ウミノコ)の王(キミ)たるべき地(クニ)なり。宜しく爾皇孫(イマシスメミマ)就(ユ)きて治(シラ)せ。行矣(サキクマセ)。寳祚(アマツヒツキ)の隆(サカ)えまさんこと、當に天壤(アメツチ)と窮(キハマ)り無かるべし。」(日本書紀巻二)

の御~勅であつた。尊は大御~の大詔を奉じて、「築紫日向高千穂觸之峯(ツクシノヒムカノタカチホノクシフルノタケ)」に降臨し給ふたとあるが、記紀の日向は今日の薩隅日三州の地方全土を含むのである。高天原は今日何れの地と定むる由もないが、我が大和民族は、天孫に隨つて遥かに遠い原住地から大移動を敢行した開拓拐~の旺盛な民族であつたことを知り得るのである。
 瓊々杵尊は今日の薩摩國加世田附近の地方に皇居を御構へになつたものと思はれる。尊と大山津見~の女木在之佐久夜毘賣(コノハナサクヤヒメ)との間に日子穂々(ヒコホホ)見命が生れ給ひ、日子穗々手見命は更に綿津見~(ワタツミノカミ)の女豐玉毘賣(トヨタマヒメ)を娶りて后となし、鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアヘズノミコト)を生み給ふた。此の鵜葺草葺不合命と、綿津見~の女玉依毘賣(タマヨリヒメ)との間に生れ給ふた、~倭伊波禮毘古命(カムヤマトイハレヒコノミコト)こそ、後の~武天皇であらせられるのである。尚大山津見~と、綿津見~は共に國~(クニツカミ)即ち其の地方の豪族であるが、天孫人種の首長たる~々達が之等の國~達と婚を結んで、平和の裡に皇化をしき給ふたことは、寔に意味深い太古史の事實と申さねばならぬ。學者は或は之を以て、天孫人種即ち大和民族の原始社會は、族外婚(エクゾガミー)の風習を有つて居たのだとの推定を下すかも知れぬ。或はそうであつたでもあらう。それが事實であつたとしても、天孫氏族の平和主義と偉大な同化力を證明こそすれ之を否定する材料とはならない。
 ~武天皇の御代に至つて更に遠く御東征が行はれ、天皇は大和の橿原に都を尊めて、天業恢弘の鴻基を据え給ふたことは史に明かである。
 尚ほ古事記其の他の傳ふるところに據れば、天照大御~の御弟建速須佐之男命(タケハヤスサノヲノミコト)は、咎によつて高天原を追はれ、「根國(ネノクニ)」と稱せられた出雲地方にお降りになり、國~の女櫛名田比賣(クシナダヒメ)を娶り給ひ、漸次四方を招服開拓遊ばされたのである。
皇室を中心とする大和民族の開拓拐~は、後代に及んでは、日本武尊の熊襲征伐や、東征の御事跡となつて表れて居る。
 以上は、何れも日本國内に於ける開拓の御事蹟であるが、大和民族の大陸經營の最初の歴史に於て、燦として輝くものは、有名な~功皇后の三韓征伐(紀元八〇〇年代である。日本書紀巻六によると、更に遡つて垂仁天皇の九十年(紀元七二一年)には、多遅摩毛理(タジマモリ)なる者を常世國に御遣はしになつて、「トキジクノカグの木實(コノミ)」を求めしめ給ふた、と謂ふ注目すべき史實がある。常世國が今日の南洋群島でめることは、右書紀巻六の末文をみても明かで「トキジクのカグの木實」は熱帯産の果物であらう、と推定されて居るが、實に驚くべきことである。
 上代に於て斯くも旺盛に發揮された、大和民族の開拓拐~は、歴史の上に一時其の姿をかくしてしまひ、僅に遣隨使、遣唐使の往復、僧侶の支那留學等に其の意氣を留めたが、それが再び勃興して來たのは室町時代から、戰國時代を經て、コ川幕府の鎖國直前にかけてであつた。それは實に盛觀そのものであつた。日本人の南洋方面に於ける發展が如何に早く、且如何に日覺ましいものであつたかに就ては、秋山謙蔵君が、在留外人の爲に講じた「日本の歴史」の、「世界の地圖」と謂ふ興味深き章の中に於て、次の如くに叙べて居られる。


 千年前の世界は、五百年前に於ては非常に違ふ形になつてゐた。其の五百年前の世界が、其の後、絶えず其の相貌を變じつゝ、其の間にドイツ、イタリヤ、ポルトガル、スペイン或はオランダ、續いてイギリス、フランス、またアメリカ等の活躍の跡を、はつきりと地圖の上に表現したのである。そこに、時代と共に、色々樣々の色彩を以て、夫々の政治的支配の地域を塗つた世界地圖を形成する事情があつた。しかし、それは何處までも西洋的世界を示す地圖であり、此の西洋的世界の示すものと、或る部分は重なり、或る部分は全く別に、いま一つの世界地圖があつたことを知らなければならない。それは今日尚昔の儘に遺つてゐる金閣、鳳凰堂、源氏物語、奈良大佛、日本書紀等々によつて表現される日本の文化、其の日本文化の發展に極めて大きな貢献をなして居る東洋諸國を基礎とする世界地圖である。それは、金閣を建立した人々の居た當時の日本が、多くの商船を海外各地に進出させ、ポルトガル人が印度に進出した時、そこで彼等を最初に驚駭させたのが、此の地方に進出してゐた日本商人の強靭な活躍であることを、ポルトガル王エマヌエルに報告してゐるのによつても知られよう。印度からマラッカに進出したポルトガル人は、こゝから日本商人に誘導されて支那に來ることが出來たのである。日本を發見したのはポルトガル人であると謂はれてゐるが、それはヨーロッパ的の表現であり、實はポルトガル人の東進が日本人に誘導されたものであることを知る人は少いのである。之は日本の歴史、東洋の歴史、特に東西交渉の歴史に於ても極めて注目すべき點である。最近十數年に亘る私の研究によれは、ヴアスコ・ダ・ガマがポルトガル商船によつて始めて印度を訪れた時よりも二百年前から、既に日本人は、此の印度以東の海上に、年々歳々、一定の組織を持つ商船隊を派遣してゐた。シヤム・ジヤバ・マラツカ・スマトラ・安南等、夫々獨立してゐた之等の國々へ、多くの商船隊を派遣してゐたのである。日本より南方の各地へ進んだ商船は、先づ琉球―今日の沖縄縣―へ派潰され、こゝから別の商船を仕立てゝ南方へ向つた。之等の史實は、最近發見された琉球の「歴代寳案」と謂ふ外交文書を集成したものによつて、極めて明確になつたのである。當時、荒れ狂ふ怒涛を乗り越えて南方の各地に向つた商船隊は、すべて平和に、之等の地方の物資を運び來つた。其の爲には支那との貿易も續けた。日本及支那の物資を、南方の國々に賣り、それに代へて、南方の香料其の他の物資を購入した。そして更にそれを日本に持ち歸り、其の一部を支那及朝鮮の地方へ賣り捌いた。それらの史實も、「李朝實録」と謂ふ朝鮮の文獻にこまかく記録されて居る。其の中間の利潤が著しく國富を増加し、日本人の生活を各方面に於て豐かにしたのである。金閤や銀閣が作られ、能狂言等が流行したのは、此の時期のことである。此のやうに隆昌を極めてゐた海外發展の時代を受け、一般には、豐太閤と呼ばれてゐる豐臣秀吉が後陽成天皇を奉じて自ら支那に渡り、東洋全體に亘る帝國の建設を意圖したのである。其の次の時代に、所謂「御朱印船」の貿易、即ち渡航の特許状を持つ幾百の日本商船が南方の各地に渡り、シヤムやジヤバ等には「日本人町」と謂はれた日本人の特別居住地を構築してゐたのである。從つて、此の時代に東進し來つたポルトガル人は、日本人と協力せずに、東洋の問題に立ち入ることは不可能であるとし、それを懇願した手紙を豐臣秀吉に送つてゐる。之は今日も尚京都の妙法院に所蔵されてゐる。


 實に盛んな開拓拐~の發揚であり、叉活躍であつたと謂はねばならぬ。殊に豐太閤の大陸進出に刺戟された日本の冒險商人達は、コ川幕府の鎖國迄の間には、スマトラ海峡の以東凡ゆる方面に往來し、シヤム、安南、カムボヂヤ、ルスン、ジヤワ、ボルネオ等を通商區域とし、隨所に居留地を設定してゐたのである。それ等の人々の内には最も有名な山田長政を初めとして、角倉了以、同與一、呂宋助左衞門、荒木宗太郎、茶屋四郎次郎、末吉孫左衞門、西村太郎右衞門、天竺コ兵衞、角屋七郎兵衞、暹羅屋勘兵衞、島井宗室、~屋宗湛、西類子、大澤四郎右衞門、大賀九郎左衞門、末次平蔵、触本彌七郎、後藤宗仰、糸屋隨右衞門等々枚擧に暇ない程多数の紳商、其の他名も知られざる先驅者達が、何等國家の後援をョまずして盛んに商權を擴張したのである。而も之等の人々は、スペインやオランダ等武力の背景を有つた商業資本の進出に對しては、又武力を以て對抗し、敢へて讓るところがなかつたのである。彼の濱田彌兵衞が、オランダの長官の胸に日本刀をつきつけて邦人壓迫の不義を責め、我方の主張を貫徹せしめた痛快な逸話は餘りにも有名である。
 不幸にして寛永十三年(紀元二二九六年)コ川幕府の發した鎖國令は、さしも盛大を極めた邦人の海外發展の氣勢を頓挫せしめ、折角築き上げた彼等の商權を、水泡の如くはかなく消へ去らしめたのである。再び秋山君の表現を借用すれば、「いまゝで絶大なる苦心によつて開拓された南方の各地には、彼等の祖國が自分で勝手に變更した政策の爲に、もはや歸國することの出來なくなつた多くの日本人―海國日本の開拓者であつた日本人が、東北の空を眺めつゝ淋しく死んだ。其の生前に、戀々の情を彼等の親僕や友人に書き送つた手紙は、嚴重に張られた鎖國の網の目をくぐつて、今日も數多く遣つてゐる」のである。誰れか涙なくして之を見ることが出來ようか。若もコ川幕府の鎖國なかりせば、今日の海峡植民地も、蘭印も、佛印もなく、從つて現に我等の直面する、東亞共榮圏内の面倒な南方問題などは、初めから起り得なかつたに違ひないのである。
 コ川三百年の鎖國政策の結果は、決して惡弊を殘すのみであつたとは謂はれない。此の三百年の間には、外に向つての國力の發展はなかつた代りに、内部に於てはそれが充實され、収約され、蓄積されて、來る可き時代の爲に備へをなしたと謂ふことも出來るのである。現に外國との交通を斷ち、外來物資の輸入を杜絶し、國民生活を專ら國内の狭い土地に依存せしめ、而もそれに加へて諸國諸大名の苛斂誅求は甚しいものであつたから、特に農民にあつては勤勉忍從以て強靭無比な生活力を陶冶したのである。今日北米に、南米諸國に、或は最近には北滿に、我農民の發揮しつゝある開拓の偉力は、主として此の二百五十年の間に養はれたものと謂ひ得る。家内工業と國内商業に從事する、商工階級の間にも亦質實、律儀の風を馴致し、殊に三百年に亘る大平のお蔭で、庶民階級にも漸く學問が普及し、心學一派の社會教育運動等も盛んに行はれたので、それらが相俟つて、豪壮堆大ではあつたが、戰國時代の餘弊を受けて、ともすれば粗暴、放縱に流れたコ川幕府の無理な鎖國政策によつて、如何に抑制されて居たかを悟ることが出來るであらう。コ富翁の如きも「…ニ百五十年の鎖國令は、日本國民をして野人より教養ある士人たらしめた。其の爲に小廉曲溢となつた。其の爲に島國根性は愈根を張り來つた。其の爲に動もすれば天眞爛漫の氣象を喪失した」と書いて居られる。玩味して貰ひたい。

積極主義の日本拐~


 以上、吾々は上古からコ川期に至る迄の我が大和民族の開拓先驅者拐~の隆替の跡を見て來たのである。浦賀灣頭一發の砲聲に、二百五十年に亘る鎖國甘睡の夢は醒され、幕府は大政を奉還し奉つて輝かしき明治維新の幕が披かれた。若き明治維新の日本が見出したものは何であつたか。それは印度を侵し、南洋を奪い、支那を傷つけて今や四方より日本に襲ひかゝつて來た、西歐人の侵略の魔手であつたと共に、彼等を強大ならしめた唯一の武器たる機械文明の偉力であつた。其の當時の西洋文明の持つて居た技術の進歩の程度は、今日から考へると寔に幼稚なものであつたが、當時の日本人から見たら、燦然として眼を奪ふものであつたに達ひないのである。
 明治の日本は何を措いても此の西歐の「文明開化」に追及することに日もこれ足らざる有樣であつた。嘗つて其の遠い先祖達が隱居の文化に隨喜し、印度の文化に憧憬れたやうに、又コ川時代の儒者達が自己を没却して支那の學問に低頭したやうに、明治の日本はひた向きに歐化を急いだ。其の風は大正、昭和を通じて外國思想崇拜の姿に於て持續された。自由主義も、民主主義も、個人主義も、社會主義も、共産主義も、無政府主義も、一切合財來るが儘に之を受け容れて、我が國體と氷炭相容れざるものがあり、我が傳統的拐~と到底並立すべからぎるものあることも気付かれさへもしなかつたのである。
 後に詳述するやうに、滿洲事變は此の底止するところを知らぬ外國崇拜、西洋思想かぶれ、歐米追隨に對する日本拐~の反撥、大和魂の爆發として、實に歇むに歇まれずして起つたものでみる。從つて今、吾々が何を措いても先づ爲さねばならぬことは、内に向つては我が國體と根源に於て相容れざる外來思想の排撃であり、我が國民性竝傳統を無視したる外國制度の盲目的模放の斷絶である。夫れと共に吾々が忘れてはならぬことは、飽く迄も外に向つて展び擴つて行く力の助長である。其の意味に於て、日本民族は如何なることがあつても固陋になり、退嬰に陥つてはならない。飽く迄も進取であり、何處迄も積極主義でなければならぬ。唯何でも大和魂、日本拐~で小さく凝り固まつて了つては不可い。私は今、外來思想を排撃せよと謂ひ、又外來制度の模倣を斷絶せよと謂つたが、それはカブレては不可い、それに毒せられてはいけない、自分の本來の面目を失つてはいけない、自分の本質を忘れてはいけないと謂ふのであつて、外國の物は何もかも一切駄目だ、日本の物でさえあれば何でもよい、と謂ふのではない。私は左樣な思ひ上りや、偏狭な自負心は最も嫌ひである。何れの國民にも長所もあれば短所もある。外國の長所、他民族の美點は幾らでも學ぶがよい。吾々はまだ外國から學ばねばならぬものが大にある。又自ら反省し、是正し、克服しなければならぬ國民としての短所、民族としての缺點もある。それを忘れてはいけない。それを忘れたら民族の向上も國家の發展も止つて了ふの外ないのである、偉大な民族程思ひ上るものではない。個人の場合でも同じである、自信を有つと謂ふことと、己惚れると謂ふこととは其の差は紙一重であつて、而も全く正反對なものである、自信のある者は大に他の長所美點を認めてそれを學びもし、取り容れもするのである、己惚れたらもうおしまいである。日本は明治維新以後盛んに歐米の制度文物を攝り入れた、貪慾と謂つてもいゝ位にそれを學んだ、そして何時の間にか自分のものとして了つた。科學文明に於ても、まだまだ及ばないものもあるが、或點では本家本元の歐米をすら追ひ越さんとするもの、或は既に追ひ越し、たものさへもある、諸々の技術や學術に於ても亦然りである。
 之に反してお隣りの支那はどうか?彼等は三千年來中華を誇負し、徒に世界最古の文明に己惚れて、敢て歐米の長所を學ばうとはしなかつた。又歐米の文化を攝り入れるにしても、それを自國民の手によらうとはしなかつた。一切を外國人任せにして、其の結果を享受することだけしかしなかつた。鐵道を敷くにしても、建築をするにしても、外國人の技師にやらせて置く、又銀行、會社の經營でも外國の支配人に任せて置く、政府の行政や、財政や、教育や、軍事も外國人の顧問に任せて置くと謂ふ風である。それが、明治維新以來七十年の間に日本が今日の如く躍進し、支那が現在の如き状態に止つて居なければならなかつた理由である。少くとも最も主要な原因の一つが其處にあると謂はねはならぬ。私は決して支那を侮辱するつもりで之を謂ふのではない、否それは私が謂ふのではなくして、冷静な立場にある歐米の批評家達が、日支を比較して異口同音に唱へて居るところである。人間は他から學ぷ所が一つもなくなつたらもうおしまいである、それは個人の場合でも、國民の場合でもそうである。けれ共長所は又即ち缺點で、日本人は旺盛な外來文化吸収力の名に、驚異に値する發展も遂げることが出來たが、無差別に外來思想や、歐米の制度を採り入れた結果消化不良に陥つて了つた、そこで私は純粋の日本拐~に歸れと叫び續けて來たのである。我々が純粋な大和魂に目覺めて、それを主人とし外來思想や、歐米文化を僕婢の如くに驅使することが出來さへすれば、少しも怖れることはないのである。否却つて毒を變じて良薬となすことさへも出來るのである。
 此日本人の旺盛な文化の攝取力は、旺盛な民族の生命力を示して居るものである、新しきものに憧憬れる力、新奇なものに對する關心、新しい經驗への興味は若い旺盛な生命力の特徴である。それが唯消極的に働けば外國崇拜となり、受け身に働けば外國カブレになるが、それは決してそれだけに終るものではない、必ず積極性を有つて居るのである。其の積極的に表れたものが即ち私の所謂パイオニア・スピリツトであり、開拓先驅者の拐~である。此の開拓拐~は必すしも形而下のものとして表れるものだとは限らない。例へば彼の「細菌の獵人」と稱はれたフランスの生物學者パスツールの如きは、拐~的な意味に於けるパイオニア・スピリツトの把持者の好典型である。パスツールは新しい發見から更に新しい探究へと追ひ進んで飽く事を知らなかつた人である。斯くの如く、主として個人の手に依つて爲される科學上の新研究や發見の如きも、開拓拐~の一つの表れであると見ることが出來る。
 けれ共私の今茲に問題として居るパイオニア・スピリツトは、もつと形而下のもの、集團的なもの、或は生物社會學的なもの、即ち旺盛な民族の發展力である、進取敢爲の民族拐~である。然らば昭和年は果して十分に旺盛なる開拓拐~先驅者としての氣魄を備へて居るか、私は其の疑問に對してハツキリ「然り」と答へるものである。而して其の答を爲し得ふことを欣ぶものである。實は私は、其の窮ところ遂に滿洲事變の爆發となつた傳統的な退嬰外交や、滿洲事變直前迄の朝野の氣分等を考へて、之はひよつとすると、コ川幕府の鎖國政策と、三百年に近い泰平の爲に、遺憾乍ら我が大和民族は骨扱きにされたのではあるまいか、と謂ふ一種の寂しさを感ぜざるを得なかつたのである。
 それが滿洲事變を契機として全く面目を改めたのである、年諸君は、我が大和民族に一大方向轉換を與へた此の滿洲事變と、此の事變の意味とをよく知らねばならぬ、そして決してそれを忘れてはならぬ。それで諄いやうであるが、此處のところはよく念を入れて、私は大陸に志す年諸君に語つて置き度いと思ふ。


滿洲事變の意義


 昭和六年九月十八日と謂ふ日は、吾々日本國民の忘れることの出來ない、極めて嚴肅なる意義を持つて居る日である。私は信ずる、此の日は、我が大和民族史上、永久に燦たる光輝を放つべき日である。何となれば此の日我が生命線確保の爲に、日本國民は蹶起したのでみる。支那兵の不法なる鐡路破壞に對して、我が關東軍が久しき隱忍自重の勘忍袋の緒を切つて蹶起したのであるが、之は獨り關東軍のみが蹶起したのではなくて、日本國民が蹶起したと謂ふべきである。即ち日本拐~が爆發したのである。單にそれだけではない、私の見方からすれば、我が國の生命線確保の爲に蹶起しただけではなしに、此の日を門出の日として、我が大和民族は、明治大帝の御遺策であり、我が國の一大國是である所の東亞全局保持、東亞全局を安定させると謂ふ大方針に向つて一路邁進すること、なつたのである。
此の意味に於て、昭和六年九月十八日と謂ふ日は、我が大和民族史上に偉大なる光彩を止める日である、と私は謂ふのである。
 試みに思へ、此の滿洲事變發生前の我が國は如何なる有樣であつたか、殊に滿蒙問題に就てはどうであつたか、日支の關係に於てはどうであつたか、對世界の關係に於てどうであつたか、之等の事を考へて見ると實に隔世の感があるのである。デフィーチズムと謂ふものは御承知の如く獨り日本のみではなく歐米にも唱へられて居たけれ共、私の見る所では、苟くも國家の重責に任じて居るやうな人、國の運命を成る程度まで擔ふて居るやうな責任ある地位にある人の間に、之を信奉し實行せんとするやうな人は、當時歐米にはなかつた。勿論氣紛れ者や、呑氣に何でも口にし得るやうな人々の間にはデフィーチズムはあつた、然るに不思議にも、我が國に於ては責任ある人の間に迄此のデフィーチズムが侵入して來た。そして之を實行にさへ移さうとした人がある。時代相とでも謂ふのであらうか。尚此處で一言挿んで置く、近頃アンドレ・モロアの「フランスは敗れたり」や、ジュール・ロマンの「ヨーロッパの七つの謎」等の飜譯本が非常に賣れて居る、それを讀んだ人々は、フランスの責任ある政治家達の中にはデフィーチズムが蔓延してゐたではないかと謂ふかも知れぬ、それはあつた。けれ共滿洲事變前に於ける我が國の或一部の政治家達の有つて居たデフィーチズムは、其の程度のものではなかつた。唯日本には何と謂つても天皇陛下の御稜威がある、そして彼の滿洲事變となつて爆發した大和民族の血がある。そこに日本の百戰不敗と、フランス大敗北の秘密があるのである。フランスを敗北せしめたものは政治家のデフィーチズムのみではない、之だけを参考の爲に斷つて置く。
 兎に角、滿洲事變前の日本には、思ひ出してもゾツトするやうな恐るべきデフィーチズムがあつたのでめる。当時私共が口をすつばくして滿蒙の重大性を説き、我が國の拂つた犧牲を指摘して呼びかけて見ても、國民は滿蒙問題に對して一向氣乗りがしなかつた。當時朝野の多くの識者の間に於ては吾々の叫びは寧ろ頑迷固陋の徒の言の如くに蔑まれてさへ居た、之は事實である。國民も亦至極呑気であつた、二回迄も明治大帝の下に戰ひ、血を流し、十萬の同胞を之が爲に犠牲とした程の深い關係のある滿蒙に就てすら、全く無關心と謂つて宜しいやうな有樣であつた。情ないことには我が國の有識者の間に於ては、滿蒙放棄論さへも遠慮會釋なく唱へられたのでゐる。
 当時の我が國朝野のデフィーチズムの病は全く膏盲に入つて居たのである。デフィーチズムは直譯すれば敗北主義であるが、私は之をお宗旨と考へてゐる、即ち敗北宗である。敗北宗のお題目たる、平和と國際協調は寔に美しい、誰が人間として平和を愛し、各國の協調を冀はざるものがあらうか。然し吾々は同時に、我が大和民族の使命を考へて見なければならぬ、又我が民族の自活自存と謂ふことをも考へて見なければならなぬ。平和と謂ひ、協調と謂ひ、如何に美名麗辭を並べても、結局は我が國の名譽と、利uとを犠牲にして讓り退くのである。朝に一城を割き夕に一砦を讓る、唯退却あるを知つて進取を欲せない、それが敗北宗の正音である。
私共は當時の日本朝野の有樣を見、情けない世相を見て眞に深い憂を抱いた。斯やうな有樣で祖國日本は何處に行くであらうか。之はどうしても、直接又は間接に明治大帝の御息がかゝつて育つた吾々の目の黒い間に此の問題を解決して置かねばならぬ、そうでなかつたら吾々の息子孫は滿蒙から退いてしまふだらう、と謂ふ考へがu々切實になつたのである。
 故に私は此の自分の深憂を屡々有志の間に語りもし、亦微力乍ら滿蒙問題を提げて日本全國の與論を喚起する爲には、著書の廣告の形を籍りて汎く訴へると謂ふ方法さえも取つたのである。所が圖らざりき、昭和六年九月十八日夜半柳條溝の附近に於て爆發した−日支兵の衝突が起つた、私が「爆發した」と謂ふのは、此の衝突に藉りて爆發したと謂ふのだ。何が爆發したか、日本拐~が爆發したのだ。
 此の爆發を契機とし、日本を中心として起つた世界的な激動と、大轉換はどうであつたか。大和民族の積極的活動は全滿蒙を被つた。越えて翌七年の早春には既に滿洲國が出來上つてしまつた。二十世紀の三十年代に於て滿洲に全く新しい一つの獨立國が生れたのである、誰が夢にでもそれを豫想し得たらうか。我が國は續いて之を承認した。此の滿洲國の承認すら当時の我が國に於ては逡巡躊躇したのであるが、時の勢と國民の元氣は政府當局をして餘儀なく滿洲國承認を決行せしめた。
 國際聯盟の干渉は當然の事である。世界は「認めぬ」と謂ふ、「そんなことは構はん、我は認める」、と我が國民は答へ、毅然たる態度を取つたのである。日本が世界に對して毅然として、顔手に或る一國の燭立を認める等と謂ふことは、滿洲事變以前に於ては全く思ひも寄らぬことであつた。年諸君此の一事を考へて見た丈けでも、此の事變によつてどれだけの變化が起つたかお解りであらう。まだある、とうとう日本が聯盟へ行つて、
「あなた方がそんなに解らねば御免を蒙りませう」
と謂つて、さつさと引揚げた。之亦今日は國民が狎れて當時のことを忘れて了つて、當然のことのやうに思つて居るが、聯盟脱退などゝ謂ふことは、天でも落ちて來るやうに思つた人が、日本に、殊に有識者の間には、非常に多かつた、國が亡びると謂ふやうに恐れて居た人が少くなかつた。併し、大和民族はものを直感する、それが大和民族の特長だ。人間としての純眞さを多量に有ち、直感的に行動し得る所の我が大和民族全體としては、毅然として聯盟脱退を敢行することが出來たのである。
 世間では松岡が聯盟を脱退して來たやうに考へたものが多かつた。よしそれが今日では御手柄であると謂ふことに決定して居たとしても、それは何等私の功績ではない。私は日本の首席全權としてジユネーヴに使した、そして國民諸君が脱退せろと仰言るから「はいさうします」と謂つて引揚げて來たゞけである。まあ種々な經緯はあるが、一口に謂へばさうなる、即ちもう其の時分には、そろそろ日本國民は本來の大和民族の面目を取り戻して來たのである。勿論、日本國民が奮起したと謂つても、一人殘らす奮起したと考へたら大間達ひである、殊に上層有識階級の中には、其の頃でも、まだ敗北宗の信者は居た。今日でもそれが根こそぎなくなつては居ない、知らず識らずに英米第五列になつているものがないとは謂はれぬ.どうかして敗北宗だけは、根こそぎ此の日本國にはないやうにしなければならぬ。
 私は説いて此虞迄來ると、つくづく大和民族の血と謂ふものを考へぎるを得ない。私が大和民族の血と謂ふことを謂ひ出したのは、ナチス獨逸の眞似ではない。私は特に他の思想の糟粕を嘗めることは嫌ひである。日本にはよく御下りの好きな思想家が多い、彼等は英米追從でなければ獨逸崇拜である。私はさう謂ふ人達と混同され度くはない、否混同する者があればそれはお勝手であるが、此の「大和民族の血」と謂ふ大切な問題は、外國の借物の思想などで他所の眞似として説明されては不可いのである。餘談になつたが、日本國民の思想と行動の上に方向轉換を與へ、長く我が大和民族史上に偉大なる光彩を放つ滿洲事變とは何かと謂へば、それは天の攝理である、之を契機として日本國民が眞我の再認識に甦つたのである。
 更に言葉を換へて謂へば、滿洲事變の意義は何かと謂へば、それは歐米追從、若くばデフィーチズムに對する日本拐~の發奮であり反撃である。此の反撃發奮によつて日本が甦つたのであると謂ふことが出來る。けれ共それは矢張り初に述べたやうに血である。大和民族の血の中に歐米への追從、デフィーチズム又退却と謂ふやうなことを長く許さない、何ものかゞ流れて居るからである。此の大和民族の血が躍動したのである。此の事變に於ける我が將兵の躍動其のものは血が承知しないからであるが、更にそれが日本國民全體の血に反應を起さしめたのである。國民の中には一時は色々と誤解もし、又意義の解らない人達もあつた。が、其の自己の血が承知しない、彼等の血管の中の祖先の血が彼等を驅り立てゝ、遂に國民總立ちとなつて我が軍の行動を後援するに至らしめ、とうとう國際聯盟脱退と迄なつて了つたのである。
之を若し疑ふ者あらば我が二千六百年史を播いて見るがよい、必ずよく解る。我が日本國民は隨分支那カブレしたこともある。
 日本國民は偉いところもあり、又缺點もある、實によく外國カブレをする。周知の如く昔の漢學者の中には支那と謂へば、牛溲馬渤も有難く、王道と皇道を履き違へた論さへも盛にした者がある。
 先人の書物を播くと王道と皇道をゴッチャにしたり、王道を皇道の憲法でゞもあるかの如く扱つたものがある。然し皇道は王道以上のものである、否、その性質には根本的の相違がある。日本で王道を建てるなどと謂ふ人があるならば、私は徹頭徹尾反對する。支那の王道といふのは、有コの者が、天の命を受けて帝王となるのであつて、そこで禪讓放伐の問題が起る、堯瞬禹は禪讓であつて湯武は放伐である、此の一事を見れば明かである、日本に於ては斷じて斯くの如きことは容されない、我が國は永久に萬世一系の天子によつて皇統が繼がれるのである。君臣の別は~代の昔から炳として明かである、然るに吾々の先祖はすつかり支那カブレした時代がある。到底日本は支那に及ばすと爲し、我が國體と其の根源に於て絶對に相容れざる王道にまでカブレて了まつたのである。コ川時代などにはそんな學者が幾人も出た。それから遡つて佛教が入つて來ると馬鹿に天竺カブレして、日本の~樣は佛教の爲に潰されかかつた。之も亦日本人の短所たる性格乃至心理から來て居る。然し有難いことには、我が皇室に危難が生ずると和氣清麿が出て來る、國が危くなると北條時宗が出て來る、~風が吹く。今時の若い人達は「~風が吹く」と謂つたら可笑しいことを謂ふと思ふかも知れないが、實は僅かばかりの淺薄な科學知識を以て總が解ると考へる人の方が、私から謂はすれば餘程可笑しいのである、私は日本の國に~風があると信ずる。滿洲事變其のものは~風だ、聯盟脱退に至つたのも~風だ、更に七十年前に遡つて考へて見ても彼の難局を切抜けて明治維新の大業を全うしたのも~風だ。そして前章に説いたやうに、現に吾々が空前未曾有の困難―或る意味に於て元寇以上の國難に直面して居ることが、之亦~風であることを私は確信する。~風は獨り元寇の役にのみ限つてあつたのではない。眞の日本人ならば此の私の謂ふ事が解る筈である。そして此の~風は主として日本人の血から吹き出るのである。「血」と私は繰返して謂ふ。一體犬にしてさへも、ブルドックの血を享けないものは如何にしてもブルドツクになる氣遣ひはなく、又テリアーの血の流れて居ない犬をどう育てて見ても所詮テリアーになりはしない。日本人の血を有たないものを幾ら教育して見ても日本人になりつこない。
 私は御承知の如く特に滿洲事變以來、口をすつぱくして日本拐~を取り戻せと叫び續けて居るが、日本人の血を享けて居る以上それは望みがあるから謂ふのであつて、日本人の血を持つて居らぬ者に「爾日本拐~を取戻せ」とか、「汝に日本拐~を植えつけてやらう」と、私は左樣なばかなことは謂はぬのである。思はずも「大和民族の血」の論が長くなつて了つたが、民族本然の性質と謂ふものは矢張り爭はれないものである。滿洲事變によつて、一度勃然として興つた日本拐~は、滿洲建國後に於ける開發事業の上にも、見事に開花して、大和民族が世界中の何れの民族と比較しても決して劣らない、否最も優れた開拓民族として自他共に許すアングクサクソンに較べてさへも、寧ろ勝つた開拓先驅民族であると謂ふことを實證したのでゐる。私は、昭和十年八月圖らすも滿鐵總裁を拜命して滿洲の現地に臨み、其の事實を見出して、何とも謂ふことの出來ない喜びを感じたのである。今それを諸君に語らう。
 國際聯盟を脱退して歸國してから暫くして舎由に引込んだ後、私は感ずるところあつて政黨解消の運動を堤げて、全國を行脚し、主として年諸君に志を訴へ、又年諸君の考へを叩いて廻つたのであるが、所期の目的も大體に於て達成することが出來たと信ずる時期に到つたので、滿鐵總裁を御引受けすることにしたのである。實は早くから交渉を受けて居り百万固辭したのであるが、當時の南關東軍司令官に對する私自身の友情に於ても否み難きものがあり、又私の如も者でも當時の内外の状勢から見て、滿鐵總裁を引受けることに依つて、國家に御奉公が出來ると考へ、且自分が滿洲問題に關聯してジユネーヴに使し、聯盟脱退をした以上、其の始未を滿洲に於てつけねばならぬとも考へて、之を承諾することにしたのであつた。斯うして三度滿鐵に、御奉公することとなり、昭和十年八月赴任したのであるが、私は滿洲の現場に臨んで何を見出したかと謂へば、曩に述べた如く我が大和民族の旺盛な開拓拐~の發露を發見したのである。之は實に私に取つて喜ぶべき發見であり、且又驚異でもあつたのである。
 之は外ならぬ松岡の驚異であるから大に意味があるのだと私は自分でそう思つてゐる。諸君は己惚れの強い男だと呆れるかも知れぬが、それは己惚れでも何でもない、私がそう謂ふのは自分が比較研究の出來る立場に居るからである、全て物事は比較と謂ふことを離れては、科學的合理的な研究と謂ふものは出來ないものである、そして事實の認識の關する限りに於ては、科學的な研究を經なければ、何事も主張するだけの價値はないのである。元來私は二十七歳の時關東都督府外事課長として渡滿して以來、前述の如く前後三回に亘る滿鐵での御奉公を含めて、滿蒙の現場に於て相當永く働いて來たものである。又外交官としても多くは支那問題、其の中でも特に滿蒙問題に關係していたのであつて、アメリカや歐洲に行つても、支那問題とはなれた事がないものである。斯くの如く何處に行つても滿蒙の問題に携はつて居り、又人一倍關心も持つて居る以上其の經過は大體に知つて居るのであるから、時代時代を分けて歴史的に比較することが出來るのである。さう謂ふものの眼を以て、昭和十年滿鐵總裁として滿洲を見直した私がピツクリ驚天してしまつたのである。私は滿洲事變直後の数年間に行はれた滿洲の變化を見て、夢ではないかと謂ふやうな氣持がし、人間業のやうには思はれなかつたのである。~樣以外に斯樣なドエライ事業があの短時日に出來るものではない、と謂ふやうな氣がしたのである。此の當時の私の感じから見て、其の感じの基礎を爲す見方の一端を、昭和十一年滿洲を訪れた、全日本年代表の諸君に乞はれる儘に「パイオニアとしての大和民族」の題で講演したことがある。此の講演は今日に於ても尚大陸に志す年諸君に、そつくり其の儘を訴へても可いものであると信ずるから、私は大體に於てそれを骨子とし、其の當時の私の新鮮な第一印象と感激をも、出來るだけ有りの儘を傳へるやうに、話を進めて見たいと思ふ。私が滿鐵總裁として赴任して先づ驚いたのは匪賊清掃の好成績であつた。當時は東京等では滿洲は匪賊討伐の成績が上らぬやうに謂ひ觸らされて居たので、私の如く相當の滿蒙通を以て自ら任する者すら多少迷はされざるを得なかつたのである。然るに私は昭和十年八月滿洲に赴任し、十月初め飛行機で熱河を振り出しに北滿を飛び廻り、現場を見て大變に話の間違つて居ることを確めたのである。私が考へて見るのに、僅かに三、四年内外の間に―昭和六年の秋から七年一杯位は滿洲の治安は渾沌としてゐたのであつて、愈々匪賊剿討の工作に力が入つて來たのは爾後僅かに三、四年そこそこの事であつたから―日本の二倍半大の地域、大部分は未開の地域であるが、かう謂ふ地域に亘つて治安肅清の爲日夜討匪を續ける兵土は殆ど總て生れてから初めて滿洲に凍來た人達で、土地不案内であるし、將校の大部分もそうなのである。之に反して匪賊は自分の掌を指すが如くに山も河も詳しく知つて居る。從つて之を相手とせねばならぬ將兵の苦心は全く想像に餘りあるのである。然るに僅か三、四年の間に此の廣大な地域に亘つて、私の如く昔の滿洲を知つて居る者の眠から見れば、眞に隔世の感ある程度迄匪賊を剿討したのである。全く僅かの間に驚くべき掃討振りだ、コザツクはウラルを越え、そうして西部シベリアの鐵道を敷設したが、此の鐵道援護の任務を果す上に於て實に三十何年も戰ひ續けたのである。白人はアメリカの大陸を横斷するに就て、百年乃至百五十年間もアメリカ、インデアンと戰ひ續けたのである。僅か三年位戰つて、未だ匪賊が一人も居ないと謂ふ状態にならぬことを咎める人があれば、其の人こそどうかして居るのである。イギリス人杯はインドの北邊に於て年がら年中討伐を續けて居るのである、唯イギリス人は利巧だから新聞にも出さず、從つて餘り人が知らない丈けである。イギリスが印度に乗り込んで東印度會社を立てたのは西暦一六〇〇年である、而も猶インドの北邊ではイギリスの兵隊は倦まず撓まず土人と戰ひ續けて居るのである。そして國民も亦それを何とも謂つては居ない、大英帝國は、之あるが故に世界の四分の一を領有することが出來、今日も尚どうにかこうにか其の地位を保つて居るのである。
 日本人は餘りに~經過敏過ぎはせぬか、現に滿洲でも、張作霖や張學良が頑張つて居た頃は馬賊はまだまだ盛んに横行して居たが、非常な重大事件でない限り日本の新聞には載つたことがなかつた。又十餘年前には現に滿鐵の本線で汽車の中に馬賊の出たこともあるが、現場の者は氣にもしなかつたのである。其のやうな小賊は何處にでも出るものである。現に東京の眞中で、アメリカ張りのギャング騒ぎが一時あつたではないか。馬賊などは環境の産物として、氣にもかけないで居る位のことが出來ないでどうするか。私は二十八歳の春まだ寒い時に馬に乗つて五日間山の中にもぐり込んだことがある。其の時北風の凛烈たる中を、とある小山の頂上に駈け登り馬首を立てて下の人家を見下した途端、ヒヨツト馬賊をやらうと謂ふ氣分になつたことを思ひ出すのである、之は冗談ではなく、本気でヒヨツトそう思つたのである。私は其の瞬間、滿洲に馬賊の出るのは無理からぬことであると考へた。即ち滿洲の馬賊は、何のことはない環境の産物であるとも考へられるのである、私は諸君に向つて馬賊になることは勧めはせぬが、年は誰でも進んで馬賊になる位の氣魄と、馬脚の頭目になれる位の元氣とを持つて居なければならぬと思ふ、それ丈けの氣魄がなくては大陸への進出も、新天地の閑拓も出來るものではない。一體白人達がアメリカを拓いた時はどうであつたか、さきに述べた樣に、インデアンとの戰ひの連續であつたのである。私が未だ子供の時には、太平洋沿岸の田舎では住民がピストルを持つて居て、何かと謂ふと直ぐそれを振り廻はすと謂ふ風であつた。現に今日でも歐米の大都會の眞中に於て、自分の身は自分で守ると謂ふことがハツキリしてゐる、寝る時には弾込めのピストルがちやんと枕の下に忍ばせてある。諸君は寧ろ法治國の西洋人にして此のことあるを驚くであらうが、西洋人は自分の身は自分で守るものと考へて居る、それが亦動物の本能でもあるのだ、日本人は餘りに法治國民になり切つた爲に自分の身體は自分で護らなければならぬものだ、と謂ふ此の本能性に基く覺悟までも忘れて了つた。之が滿蒙問題が遲々として進まなかつた最大の原因の一であつたのである。世人がどうも此の事を氣づかないで居る。

バイオニヤーの血

 私が曾て小學校長を集めて、野蠻人を作る教育をせよと謂つたのも皆此の意味なのであつて、自分の一身は自分で護らなければならない。日本人が此の本能を忘れたのは多分反動だらうと惟ふ、封建時代の日本武士は皆一本刀を差して生命の取り合ひをし、町人と雖、旅に出る時など腰に一本打込んで、決して丸腹では歩かなかつたものである。男ばかりではない女と雖ちやんと懷劔を離さなかつた俺の身體は俺自身で護るのだ、之が動物の本能的性質である、之を忘れてはなちない。此の本能を沒却して了つた日本人の根性を叩き直さない限りは、大陸問題も其の一部分である滿蒙問題も到底解決しないと私は考へる。私は十四の時にアメリカでルンペンになつた、何時も之だけは自慢して居るが、同じルンペンでも私のは世界的がルンペンで、それを十四の時から始めたのである。從つて私は日本だけで育つた年諸君の知らないやうな事を知りもし、子供の頃から見ても來て居る。そう謂ふ境遇に於て育てられ後に暫くの間外交官としての生活をやつた結果、日本民族を白人其の他の異民族と常に比較するのである。曩にも述べた如く、此の比較以外に物を知る道はないのである、自分と異ふものと比較して見めて初て自分と謂ふものが判るのである。私は變なことを謂ふやうだが、自分が日本人の一人であると謂ふことを確信して居る、日本人とは如何なるものであるかと謂ふことを他と比較して見て知つて居るからである。日本だけで育つて、外の民族を餘り見ないと、日本人とは如何なるものであるかと謂ふことを知る道がない。
 私は若い時から、色々なものと比較して、日本人を研究して來た結果一つの結論を得た。夫れは斯う謂ふ事である、吾々は實に偉い有能な民族である、が併し其の有能振りが甚だ芳しくない、白人其の他が拓いた新天地に、後から乗り込んで行つて偉い處を發揮する。現にアメリカの太平洋岸其の他に於ても、後から行つて其の偉力を發揮するから、白人達はうつかりすると自分達は追ひ出されはせぬか、との恐怖から排日が起るのである。日本人は如何なる處に行つても發展するから、初め之を劣等民族視して馬鹿にして居た白人達も、日本人の優秀性を見出すと俄かに周章てるのは無理も無いのである。アメリカ人と雖、先祖代々拓いて來た大切な土地を日本民族が如何に優秀なりとは謂つても、そつくり空け渡す義務は無いと考へるのは、人情として當然の事である。諸君と雖、そんな事はしないに違ひない。
 まだ有る、私は若い時上海に居た、日露戰爭の最中二十五歳で領事館補として行つたのである。當時の上海はイギリス人の發展が素張らしく、日本人の勢力は極めて小さかつたので、せめて上海丈けでも日本人の發展を圖り度いと考へ、其の後領事として赴任した時も、皆と一緒になつて大いに畫策したのである。然るに昭和九年、私は所謂上海事變に關して上海に行つて實に驚いたのである。昔の共同租界即ち居留地は、イギリス人が大勢力を張つて治めて居て、日本人杯何處に居るか列らない程であつたのが、夫れ等のイギリス人に近い大きな勢力を持つ樣になつて居る。白人の後に行つて日本人が此處でも亦ゑらい發展をして居る。私はずつと前から居て、其の時も未だ殘つて居たイギリス人の領事から聞いたのであるが、既に不動産の所有高は、日本人がイギリス人と伯仲すると謂ふ處迄になつて居り、而を工業部門に於てはイギリス人が企及し得ない迄に、日本人が活躍して居ると謂ふのである。之をイギリス人から見たら決して好い氣持はしない、日本人と謂ふ奴はおかしな奴だ、なりは小さいが肚の中はなかなか大きいのだ、油斷は出來ないと謂ふ事が判り出したのである。私は他の場處で詳しく述べる積りであるが、日本が非常時に直面せねばならぬ原因の一つは、此の日本民族が偉い力を持つて居ると謂ふ處に有るのだ、と斷ずる外ないと考へるのである。
 喬木には風は強く當るものである。夫れは偖ておき、そこで私は考へる、之は我々の中に尊い祖先の血が流れて居るのだ。バイオニアの血が流れて居るのだ、吾が大和民族は曾つて日向の一隅から東漸して行つて、遂に日本全土を開拓した。大和民族は、元から大八洲の全土に擴つて居た異民族を、何時の間にか征服し、同化してしまつた、ど偉いパイオニアであり、開拓の先驅者であつたのである。斯樣に、歴史は明かに我々の祖先が開拓の先驅者であつた事實を立證して居る。然らば、今日の日本人は如何か?今日の日本人を見るに、此の祖先の先驅者振りは餘り發揮しない、他人の拓いた後に行つて、其處で有能振りを大いに發揮すが故に、人に嫌がられるのである。夫れよりは前人未踏の地に行つて、自ら自分の力で開拓すべきである。日露戰爭の當時、花大人花田中佐の如き人は、滿洲義軍を率ゐ、馬賊の樣なものを指揮して、軍の側面援助をなし、又露軍の後方で大いに活躍されて、我々の血を躍らせたものである。昔は滿洲には日本人の馬賊の頭目が居たものであるが、何時の間にか一人も居なくなつてしまつて居る。私は馬賊が良いと謂ふのでは無い。
 併し日本年の中に一人や二人は馬賊の頭目となつて、滿洲の境野を自由自在に駛驅する元気と、氣魄の有るものが出ても良いのではないか、日本人は何時の間に斯うも變つて仕舞つたのであらうか?我々の血管の中には昔我々の祖先の持つて居たパイオニアの血が流れて居る筈だ。夫れがコ川三百年の鎖國政策の爲に抑へられて、冷却し、枯涸してしまつたのではないだらうか?どうも今の日本人には祖先の豐かに持つて居たパイオニアの血が無さそうだ。パイオニアと謂ふものは、人の拓いた後から行くものではない。人の拓いた後から喰つ迫いて行つて、如何に有能振りを發揮しても、人に嫌がられても滿足して居るのは、パイオニアのやり方ではない、もつともつと大和民族に應はしい、男らしい新天地開拓の血は流れて居ないのか?之は實に私にとつて、不愉快なる大疑問であつたのである。ところが我々の血管の中に祖先の血が無いのではない、夫れがちやんと有るのだと謂ふ事を、私は前に述べた昭和十年十月の滿洲現地觀察に依つて悟つたのである。少し氣を付けて、滿洲事變以後に於ける日本人の發展振りを眺めて居れば、夫れが判る筈でゐるのだが、百聞一見に如かすで、二十臺から滿洲に關係して居る私でも、親しく實地を見る迄は判らなかつた。不敏と謂へば不敏、鈍と謂へば鈍であるが、私はそこで始めて半生の大疑問が解けて非常に愉快になつたのである。申す迄もなく、我々の血管の中には、祖先の持つて居たパイオニアの血が、今でも脈々として流れて居るのだ、之迄は、唯夫れを發揮する環境が出來なかつたに過ぎないのでゐる。血は持つて居る、充分に持つて居る、滿洲事變が偶々その契機となつて、我々がパイオニアたる性質を發揮し得る環境が其處に生れて來たから、こんなに、ど偉い事業がやれたのである。
 これからは猶も之を大陸に進めて行つて、u々祖先の血を取り返し取り返し進めて行つて、我々が、人類史上に曾つて無い有能なパイオニアでめることを實證するのである。實に愉快ではないか。
 私は敢へて斷言する。人類の五千年史に於て、事變後の五箇年に吾が大和民族が滿洲國に於て成し遂げた樣な、開拓の先驅者としての偉業を、左樣な短期間に遂行したと謂ふ事實は、世界の何處にもないのである。
 アングロサクソンが、御承知の如く、近代史に於ける世界第一のパイオニアであると相場が決まつて居る。が、其のアングロサクソンさへも、未だ曾つて成し得なかつた程度於てて、而も極めて短期間に―昭和十年に私が見た時は、建設事業に向つてから僅かに三年であるが―此の三年間にどえらい開拓事業を、吾が大和民族が敢行して居るのである。而も屡々謂ふ通り、日本の二倍半の廣さを持つ滿洲の土地に於てゞある。斯くの如き事實は、人類史上未だ曾つて無かつたと謂ふ事に就ては、歐米の歴史家と雖、反駁の餘地は無いと私は確信して居る。昔のイギリス人やアメリカ人に今の樣な文明の利器を與へたら、もつと大きな事をしたに達ひない、アメリカはもつともつと早く開拓されて居たに違ひないと論ずる人はある。百年前に今日の樣な文明の利器が有つたら、或はそうであつたかも知れない、併しその理由又は原因がどうであらうと、かゝる驚異に値ひするパイオれなんである。滿洲事變がガンと來て、唯もう直感的に、感激的に、無我夢中に突き進んだ、夫れだからこそどえらい事が出來たのだ。私は、之は人間業ではないと思ふ、正しく~業だ、大和民族には偉い血がある、其の大和民族でも年がら年中、斯樣な事が出來るものではない。無我夢中になつて突進したからこそ出來たのである。之が私の第二の説明である。

感激性と持久力

 私は考へる、人間と謂ふ動物は、インスピレーシヨン、英語ではインスピレーシヨンと謂ふが、~がゝりで動く場合が屡々ある。此の~がゝりになつた時、本當にど偉い事をやる、東郷さんがロシアの艦隊は對島海峡を通過すると斷言した、之がインスピレーシヨンである。和氣清麿が宇佐八幡宮に行つて皇室の急を救つた、之が~がゝりと謂ふものである。
 私は關東軍が意を決して、暴戻なる張學良の軍隊に一撃を加へた時、それは人間業ではなく、~がゝりであつたと見るのである。(私の謂ふのはよく民間に流行つて居る樣な、あんな人を迷はすインチキな事をやる~憑りでない)此のインスピレーシヨン----~がゝりでやつた事は後で説明は着かぬ、何れの民族でも此のインスピレーシヨンの下に一番大きな仕事をしてゐる。其の中でも、我が大和民族の持つて居る長所は、~がゝりで行く、無我夢中で行く事にある。私が全國を行脚して歩いた時、屡々年諸君に向つて説いた樣に、直感的に、感激的に進んだ時大和民族は一番大きな事をしてゐる。これなんだ、之が他民族に較べて、大和民族の最も優れて居る點である事を、私は信じて疑はない。
 然りインスピレーションである、~がゝりである。よく田舎等に行くと昔人柱を沈めて、川を堰き止めたとか、土手を築いたとか謂ふ話が傳はつて居る。けなげにも、うら若い庄屋の娘か何かゞ進んで人柱に立つた爲め立派な工事が出來上つたと謂ふ話がある。今の者は一口に野蠻だ、莫迦だ、とけなすが一體何が野蠻だ、何が莫迦だ、夫れは今日の日本の歐米かぶれをした人達の、間違つた思ひ上りと謂ふものだ。昔の人をして、如何しても之は人柱が必要であると思ひ込ませ、凝り固まらせて仕舞つて、無我夢中にならせたればこそ、初めて、人間業では出來ない樣な大事業が出來上つたのである。之がインスピレーシヨン----~がゝりである。インスビレーシヨンと謂ふものは、寝そべつて、仰向いて紙煙草でも吹かせてゐる中に、ひよいと思ひつく樣な、そんな安價な空想や、出鱈目な妄想を指すのではない。そこで滿洲事變から、事變直後三、四年間の超スピードの開拓事業はインスピレーシヨンであり、~がゝりで行かなければ、あれ丈けの大事業はやれる筈のものではなかつてと私は信ずるのである。此の點は年諸君に判つて頂けると思ふ。既に~がゝりであり、無我夢中でやつた事であるから、後から見て缺陷の有る事は判りきつた話である。之を非難する者がみるとすれば、その人が如何かして居るのである。然るに隨分、當時日本のインテリの間には非難があつたのである。一體日本の知識階級は、自分では縱の物を横にしようともしない癖に、亦出來もせぬ癖に、他人の仕た事の批判ばかりを以て能事とする度し難い習癖の所有者である。否、獨り知識階級と謂はず、一體日本人と謂ふ者は、私から見ると、世界の文明人の中で一番胃の腑の悪い民族の樣である。何でも他人のした事は其の儘呑み込む事が出來ず、何とかして非難したがる、も少し健胃剤でも嚥んで癒さなければならぬのではないか。どうも日本人は人を褒める事を嫌ふ、直ぐ惡口を謂ふ。之は我々が一日も早く驅逐しなければならぬ民族的短所である。偖餘談は置いて、最後に一言附け加へて置きたいと考へるのは、如何に日本人と雖、十年も二十年も~がゝりでは居られない。否失(ママ)れは五年とは續かなかつたのである。夫れが當然である。もう一度大火事があつて家が焼けて毎我夢中になるのを待つか、そうは參らぬ、我々は大陸に足を踏み出した以上一歩と雖、退く事は許されない。ハツキリした意識の下に、長期計畫を樹てゝ、無我夢中でやつて來た爲にに生じた缺陷を是正しつゝ進んで行かねばならぬ。現に我々は、滿洲に於て夫れをやつて居る。~がゝりに依つて拵へる事の出らいた基礎の上に、五箇年計畫、修正五箇年計畫と、確りしたプランを樹て、着々とやつて來て居るのである。殊に支那事變が發展し、日獨伊三國同盟が結ばれ、英米の共同戰線が敷かれ、我國の産業を脅威せんが爲に假借する處なき對日禁輸の強行を見るに至つて、之等の事態に即應して、日滿支を打つて一丸とする、周密なる經濟提携、經濟計畫の案を樹てゝ著々として之を進めつゝあるのである。否、日滿を一體不可分とし、日滿支を連ねて有無相違する共存經濟を確立せざる限り、東亞は立ち行かないのであつて、夫れ等の計畫は既に以前から爲されて居たのであるが、我が國直前の事態は層一層その進捗に拍車を掛けつゝあると謂ふのが實相である。固より過去十年間に於ても幾多の困難があり、蹉跌があり、豫期せざる事情の發生もあつたけれ共、苦難來らば來れ、障碍起らば起れ、蹉跌あらばあれ、我等はu々勇氣百倍して忍耐強く進まねばならぬ。
 今や吾々は支那事變完遂を通じて、大東亞共榮圏の確保に邁進しつゝある、其の爲に兎もすれば、滿蒙の方はもう片着いて仕舞つた樣な錯覺にかゝつて居る者が少くない。決してさうではない、我が大和民族の大陸經營の第二歩であり、その足場で有る處の滿洲建設は、また僅に基礎工作を了へたに過ぎないのである。それを忘れてはならぬ。我々は大陸政策を考へる時、十年や二十年を單位とする樣な事では、到底此の大事業は成し遂げられるものではない、宜敷く百年、二百年の大計を立て、倦まず撓まず進まねばならぬ。私杯も史上の人物を拉し來つても、家康や武田信玄の樣なのは嫌らひである、如何にしても好きにはなれない。信玄よりは謙信の樣な人物が好きだ、川中島の戰を見てゝも、大將自ら單騎覆面して敵の陣中に乗り込んで敵將に一太刀浴せかけ、アツしまつた、と謂ふや馬に乗つた儘で一人で居城春日山に歸つてしまつた。如何にも其のやり方が好きだ、日本人の粹だと思ふ。又秀吉と家康を較べると、秀吉は何處となく明るくて日本人の代表みたいな氣がする。織田信長亦然り、何處か英姿颯爽たる處がある。家康等も本當に偉い人だと思ふけれ共、どうも蟲が好かぬ、家康が好きで秀吉が嫌ひだと謂ふ人は、日本人には餘り無い様である。けれ共これからは家康の樣な信念の強い、さうして百年、二百年の後を見て物事をやる人が必要である。年諸君今大陸に必要とする者は、開拓先驅者の意氣u々旺盛であると共に、この家康型の人物、獅噛みついたらどんな事があつても、決して手を放さないと謂ふ人が必要である。そして私は心から諸君に夫れを期待するものである。
 年諸君、私は茲數年にして世界に於ける日本の運命が極るのではないか、否、アジア大陸に於ける日本の運命が決するので有ると確信して居る。私は滿洲事變前後から「滿蒙は我國の生命線なり」と叫んだ、私は今尚滿蒙は我國の生命線である事を確信して居る。猫も杓子も今では生命線々々々と謂ふ事を謂ふから、ダン/\と意味が變化して來て、滿蒙は我國の生命線である、と謂ふ本當の意味が今尚掴めない人がある。生命線とは讀んで字の如く、此の線を切られたら日本は參つて仕舞ふと謂ふ事である。我大陸經營の表玄關たる、滿蒙に於ける大和民族の發展それを基礎とした處の護りを確立せずして、萬一我々が此處からさへも退却しなければならなく成つた時、即ち此の線を切られた時は吾が日本、我大和民族の運命の窮まる時である。端的に謂へば參る時である。年諸君は先づこの事をハツキリと心に留めて貰ひ度い。此の爲には如何なる犧牲を拂つても如何なる苦難を忍んでも、我々はやらねばならぬ。況んや先づ滿蒙から支那全土に及ぼし、極東の平和を確立し、進んでアジア民族を解放すると謂ふ聖業が、尚我々に有るのである。まだ登山ならば一合目にしか辿り着いては居ないのである。前途猶、遼遠である。
 そんな事は嫌やだと謂ふならば、小さい日本の島に歸つてサンガー夫人をョんで來る可し、そして年諸君は生涯娶らす嫁がす子供を産まぬことだ。日本人の往くべき道は二つに一つだ。前章の終りに於ても既に述べた樣に、サンガー夫人の産児制限を實行し、彼の小さい日本の島だけで、あの美しい景色を樂しみ世界中の人から羨まれ乍ら、物質的には裕福な生涯を送る、之が一つ。之も又一つの國策には違ひない。それから今一つは、どんな犧牲を拂ふとも、たとへ如何程物質の窮乏を來たし、如何に生活の困苦を極め樣とも、我々は、~武天皇の御~勅を奉じ「六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩ふて宇と爲さん事亦可ならずや」の意氣を以て進まねばならぬ。我々は眞の世界平和を確立して行かねばならぬ。之が日本の皇道である、之を遂行せんが爲には如何なる犧牲をも避けてはならぬ。如何なる險難にもたじろいてはならぬ。自分達は其の爲に死んでも良い、三度の食事を二度に減らしても我々は斷じてやる、之が一つ。此の二つの方針、二つの國策の中で一つを選ぶとなれば、日本人たる限りそれはもう判つきりして居る。もう後へは絶對に引く事は出來ない、退けば足を掛けなかつた昔よりもつと我々は悲境に陷らざるを得ない。現に我々の直面せる事態の重大性は、もう改めて茲に繰返す迄もない。之を要するに、非常な決心を以て立向はざる限り、甚だ恐れ多い事であるが明治天皇の御聖旨を奉じて遺憾なきを期すると謂ふ事には參らぬのではないか、斯様に私は思ふのである。年諸君、此れは固より全日本國民の責任であり、特に我々の如く現に成人である者の責任であるが、將來に掛けて、此の大和民族の使命遂行に任じて行かねはならぬ。年諸君の責任は、夫れにも揩オて一層重いのである。
 年諸君、我々は全く諸君に期待し、諸君に囑目し、總べての望みを諸君の上に懸けて居るのである。