(十) 余論

 以上主として徳川時代以後に於ける國體論の変遷を大略叙述せり。素より國體
に触れたる議論を皆悉網羅せるものにあらず。然れども先哲諸学者の述べたる各
種の対國體説の内容は略ぼ此内に尽きたりと信ず。各家の論ずるところ多岐多様、
殆ど応接に苦しむが如しと雖も、之を要約するときは帰向する所略ぼ範疇あり。遠
く軌を逸するの説は多からず。
 國體なる語に就ても種々の意味に用ゐられたるも、大別して二とすべし。一は歴
史的見解にして他は哲学的見解なり。然れども必ずしも劃然其境界を作し得るも
のは少く、多くは一に拠り他を交ゆるを常とす。何れを見るも皆我国の優秀を嘆美
す。多くは当れり。然れども吾人今我國體を説かんと欲するもの、人の信ずると信ぜ
ざるとを度外にして一個の祝詞嘉詞を述ぶるにはあらず。国民をして之を了解せ
しめ、之を信ぜしめんと欲するにある以上は、国民が殆ど常識として有する所の科
学的智識に抵触せざる理論の上に立たざる可からず。皇統連綿万世一系を説く如き
は最も良し。然れども諾冉二神が始めて虚空の内に世界を作成したるを如実的に
説きて、かるが故に人民は素より一木一草に至るまで其御子孫たる皇室の私有な
りと説くは如何にや。之れ我国の神話なり。神話は其国民の理想、精神として最も尊
重すべし。只それ尊重すべきのみ。之を根拠とし我國體の尊厳を説かんと欲するは
危し。先入主として、之等の「国造り説」と相容れざる進化学上の智識を注入せられ居
る国民は或は之を信ずる事を得ざるが故なり。固陋なる論者は之を信ぜざるもの
を以て賊子と称して攻撃す。斯くして国民の口を鉗するは容易ならん。不忠と呼ば
るゝは日本人には最も苦痛なればなり。されど其心を奪ふは不可能なり。之れ其一
例を挙げたるのみ。其他すべての点に於て同理なり。我国に於けるあらゆる事情を
歎美し、誇張し、何事に関しても世界無比、宇内に卓然として類を絶するものと説く
は、一片の儀式的祝嘉詞として述べぶるは可し。国民をして衷心より我國體の優秀な
るを了解せしめんとするには何等益なき事にして、もし外国人より冷静に之を見
るに於ては妄想誇大狂ならんのみ。要は信じ得る所由を根拠として説かざる可ら
ず。
 抑も國體とは如何なる意味なりや。予は「一国が国家として存立する状態なり」と
云はんと欲す。広義に失するが如きも、斯く云はざれば國體なる語の内包を云ひ尽
さゞるものと信ず。
 従来云ふ所の最狭義の統治権の主体如何といふ如き事は素より、或るは建国の事
情に依りて定まると云ひ、其他何と云ひ彼といふ如きは、何れも内容の一部のみ。或
は今厳存する我國體(予の所謂)の優秀の原由の一部のみ。
 然らば我が所謂「國體」の優秀とは何ぞや。曰く、上下融然として相和し渾然として
一体を成し、而も整然たる秩序あり、国家として最も鞏固に存続する状態なり。頗る
簡単明瞭なり。而して我国(暫く新附の領土は除く)は世界の中、此点に於て第一位に
居る事を断言する敢て不稽にあらざるべし。只此優秀なる國體の成立せる所の
由来を研究するもの即ち吾人の目的なり。従来の学者其由て来る所を目して國體
其ものとせると予の見解との異なる所以なり。
 一言にして云へば多くの学者が認むる如く、我国の社会の成り立ちに因由す。即
ち、上に、国民帰向の中心として有史以前より連綿として今日に継続せる皇室あり、
下、之が支流たる国民之を奉戴して、以て有史以来上下其序を替へずして、今日に及
び又幸にして外の侮を受くる事なくして国家常に発展の一方に進める事なり。約
言すれば一の中心点に向て国民が蝟集して堅固なる国家を作れるなり。
 或種の社会主義者の云ふ如く、国に上下の差別なく、挙国平等にして一の命令な
く、一の服従なく、又国際間に争議なく、相互和衷協同して悠々春日の如き世界を作
るといふ事が理論としては云ふに易く、聞くに快き説なりと雖も到底実現す可ら
ざる空想に過ぎずとすれば、吾人は何所までも国を鞏固にし、国内に於て、主権に対
する絶対的服従義務の内に正当なる自由の権利を保持し、国家に対する自己犠牲
に依りて相互の幸福を享有せざる可らず。
 斯かる国家を形成するには、上に、命令者として普く国民を首肯せしむるに足る
ものゝ存在する事は第一必要条件なり。我皇室は最も此条件に適合し、而も現今世
界に於ける唯一のものなり。
 我国が悠久の古、此大八洲に国を為すや少数の所謂天孫民族が其一統相率ゐて
来り、夷族を平らげ、荊棘を開き、農を興し以て漸く増殖し、発展して遂に国家を成す。
而して其源元を伝説に依りて察すれば、現皇室の祖先が、始めより其首長として一
統を率ゐたるは疑ふ可らず。神話に依りても明かなるが如く、其第一宗家の家長が
始めより其支族を包含する所の一統に首長として臨めるなり。吾人は現今残存せ
る神話を通じて推察を行ふ時此以外の想像を形成する事能はず。又此想像には何
等の不合理あることなし。
 斯くて宗家の家長を首長と戴ける一族は、支族に支族を生じ、漸次発展して国家
を形くり、其発展中の或時期に於て我九州の地に都し、後東に移りて大和に占拠し、
異族を平らげ、遂に今日の日本帝国の基を開けるものなり、即ち大日本帝国は多く
の学者が認むる如く、一大綜合家族ともいふべきものにして(其間に介在する異分子は
勢力として云ふに足らざるものなりしかば何時しか融和同化したるものゝ如し)、
其始めより宗家の家長として全族に臨めるものは即ち現在の皇室の祖宗なり。
 全国民の心に不満を抱かずして服従せしめ得る首長と云へば是以上の何者を
も望む能はざるなり。
 されど、俗諺にも「兄弟は他人の始まり」と云ふ如く、始め一家族より出でたりとす
るも、漸く膨張して互に相隔たるに於ては其間に骨肉の親みを保持する事は実際
に於て不可能なり、理に於て同族なりと雖も情に於て他人となるは免るゝ事能は
ざるなり、然るに幸に其間の綛結となれるものあり、祖先崇拝の観念是なり。
 一部少数の人を除ききては大抵霊魂の不滅を信す、勿論信ずる程度には種々あり、
死後霊魂の存続を確信する人と、果して存続するやは明確ならざるも到底否認す
る丈けの理論と勇気とを有せずといふ人との差はあるも、兎に角多くの人は或程
度まで此観念を有す、もし死後霊魂が不滅なりとすれば、其生前自己を愛護したる
父祖が、死して霊位に替りたりとするも、自己を愛護する事を止むる理なしと思ふ、
又自己が子孫の幸福を希ふの情切なるより類推するも、父祖の霊位は必ず自己及
び自己の子孫を愛護すべしと思ふ、之れ祖先崇拝の信仰の存する所以なり、其父祖
の霊位に対する信念は自家の遠祖に及び、更に一族の協同祖先に及び、遂に大祖先
たる皇祖にも及ぶ、之れ等を総括したるものは渾然たる我神道の根本たり。
 或は祖先崇拝を以て報本反始の儀礼に過ぎずとなす、之れ神道を所謂宗教と区
別せる事を曲解せるものにして神道の内容には「儀礼」のみならず、「信仰」ある事は争
ふ可らず、又無かる可らざるなり、もし此信仰を欠如せる儀礼ならんには神道には
何等の「力」あることなし、然れども、国民は、祖宗の霊が明かに其子孫及び国家民人を
保護すと信ずるが故に神道には「力」あり、祖先の霊位の保護の下に家を成し、族を形
くり、更に之を綜合せる宗教即ち皇室の遠祖即ち皇祖皇宗の霊位の保護の下に、我
日本帝国を形くる、渾然として離散す可らざる一大有機体なり、其所に万世動かす
可らざる秩序あり、数千年に渉り此一大事実に依りて馴致せられたる国民は、教え
ずとも父祖を敬愛し、又宗家即ち皇室を尊奉す、前者を孝と云ひ後者を忠といふ、学
者或は之を忠孝一本と名く、事理同一にして、忠を尽す事はやがて孝道に協ふを云
ふなり、斯くて国家として最も自然的に最も鞏固に存在する事を我國體の特色と
なす。
 或は、此国家の綜合家族制なる事を以て立国の根本義とせる事を批難して、斯く
ては我帝国が現在すでに朝鮮、台湾、樺太を加へ、今後他民族をも加へて益々発展する
に当りて支障を生ずべしとする人あり、然れどもそは止むを得ざる事なり、根幹と
なる所の我大和民族の国家を磐石の安きに置けば、発展と共に漸々附属し来る所
の民族は、之に臨むに権威と恩恵とを以てすれば可なり、若し新附の民族をも同一
様の範型に容れ得べき立国根本義を求めんと欲せば必ずしも難きにあらざるべ
しと雖も、到底綜合家族の如く堅固なる能はざるは明なり。
 或は天孫降臨の神勅によりて我國體は定まるとするもの多し、然れど誤れり、神
勅の有無に拘らず、我国家の社会的成因が吾万世一系の皇位を肯定し、其他を否認
するものなり、神勅は只其事実を表明せるものに過ぎず、我神代史は歴史と神話と
相半するに似たり、或は神勅を以て、一の神話にして国民の理想を表明すれども歴
史事実にはあらずと思考するものあり、然れども我國體論に於ては神勅が真事実
なると、将神話なるとは根本問題にはあらず、神勅が史実なるにもせよ、神話即ち民
族的理想の表明なるにもせよ、我社会的事実に変る事なく、我國體論に於ては動く
ことなきなり。
 憲法も教育勅語も、素より厳存する所の事実を顕彰せるものにして、我國體之に
依つて定まるものにあらず。
 最後に統治権の主体に就きて国法学者の間に甲乙の論あり、一は統治権の主体
は国家なりとするもの、他は統治権の主体は天皇なりとするものなり、其云ふ意は
前者は国家は国家全体(天皇と国民)の利益の為めに存在し活動すとし、後者は国家
は天皇御一人の利益の為めに存在し活動すとするものなり、而して後説を持する
もの、前者を目して天皇の神聖を犯し、惹て國體の尊厳を危くするものなりとなす、
此説或は当理なるやも知る可らず、然れども我国に於て斯る事を宣明する必要あ
りや、規定せずとも国民の大多数は数千年来養はれたる忠魂を以て身を捨てゝ皇
室に尽さん事を希ひ、又歴代天皇は反対に玉体を後にして国民を憐み給へり、是れ
実に我國體の善美なる一表章なり、然るに今冷かなる法理に依りて天皇を神聖視
する事を規制せんとす、所謂贔屓の引き倒しにして、下は国民の皇室に対する忠義
の熱情に水を注ぎ、上は御歴代の聖徳を無にせんとするものなり。
要は憲法に、神聖にして犯す可らずとあるに依りて説明し尽されたりと信ず。
 此上下睦々、而して互に相犯さゞる社会組織即ち、総合的家族制の結果として、我
國體は其優秀を永遠に渉りて発揮するなり。  (大尾)