(五) 明治時代第三期
             (明治二十年頃より二十八、九年に至る)

094

保守的反動の時代
 極端なる自由民権論に惑溺せる第二期を受けて明治十九年二十年頃より漸く
其反動期に入る、即ち保守的国粋保存主義の高唱せられたる時代にして明治二十
七、八年日清戦争に至るまでを一期とすべく、日清戦争以後に及びては亦自ち其趣
を異にするが如し。
 其反動の起れる原因は一にして足らざるべしと雖も、英一般的理由としては、物
 極まつて輯向したる軋のと見るべく、除らに極端なる欧化思想が遽に其反動を呼
 びたるほょるものなるべし。就中、常時條約改正む遊行する手段として政府者蓮
 みに洋風の模倣に努め鹿嶋館真に於ける連夜の舞踏曾む始めとして、具眼者をし
 て攣盤せしむる事賓績々として民間論者の指弾に上るや、最も其欧化に対する反
。戚を招く事大ならき。今是等の委細に就きては述べざるべし、呼して此期は明治時
 代に於ける図憶観念。に就きては最も緊要なる時期にして、憲法番布せられて誠に

218

官世不磨の根本法規成ら、教育勅語換教せられて滋に永遠の根本教育方針定まら、
前者に依らて同値に鞠する基確約原理明記せら畑虚者に依らて囲憶の義琴開明
せられ−たるものと云ふべく・其以後に於ける図慧仇絹此憲法の解繹と・此大勅の釘
樽に題ぎぎるの有様となら、疲真に捗らて乙そ甲論乙駁の象を現じたれ、其根本義
 に於ては亦動かす可らざるの照明を据えたるなら。
 此反動的思潮の初期に於て最も著名なるものは、明治九年よら保守的志操を保
持して努力し凍れる西村茂樹にして、既設の如く十七年三月、社家の東京修身章合
を日本詩遺骨と改めてょら益々固有道徳維持に努力し凍れるが、十九年十二月に
至ら十一。十七、二十六の三日に捗ら、道義維持、民風改善の目的を以て、大寧講義室に
於て日本道徳の妻む高唱せるもの即ち之なら。其要旨は儒寧的観念を基礎とせ
る遺徳設計遽一べたるものにして示事眼疾の積めに講演は中止するに至れらと雖
も後之を大成して公にせるもの即ち日本道徳論牢→。
 此頃よら漸」勃興の遂に向へる反動思潮として我国膣に触れ国粋を論じたる
もの「二を掲。kれゼ、松本薪左衝門は十九年ほ急襲一家言を凛はしたるが、其大要
 に云ふ。




  古事記の今の傲ほ行はあゝは、其書中虚今政濃の国是を定むる君民何治等の
 捜・裁備は多て詳切なるを以て夜`一部の因襲者が君民同治は西洋の職入物
 なればとて之せ退くjは此図本を知らざるが故なら。
  夫れ皇国の上古は人民用地を所有し、持主由由む以て生活したら・然らば彼
 の洋聾者流の云ふ所為急造の一端ほ過ぎざるなら0 君民同拾立憲政鰹は持上
 ら天租の政鋲なみ。抑も立憲なる者は下よら法律を定め、君主の許可を得て行
 ふ事ほして即ち豊岡の典故既に此の如ト・そは天剋石屋許学理の段に諸紳で
 達男佐之男命を罪する是なみ、大敵親弟を罰するに忍びざるも諸紳共法律を議
 定し以て天租の認可む得て行ひたるなろ疲ほ立憲なる者は上よら法律む起草
  する典故には罪らざらしなら。
  方今西渾人の政絶と解する、立窓といひ同拾といふも其本は骨我天剋の行>♪
                                   ヽ
 政顔にして紳典上に灼然たる者な` 然るに皇畢上ほて祭政一壷なる由を唱
 ふる者多きは元是れ儒彿の畢習む腐す領事能はず・且古事記を書く凄まざるに
 ょらて凛` もし古事記を書く苛まば脹令其名あらざるも・立憲と云ひ同治と
 云ひ民権と云ふもの皆豊岡の壌故にして決して海外の輸外物にあらざるを知

219

 ら得べし、と・。蓋し此論は二もこも西洋を挟みて我。邦を捨てたる従来の論と異
 み・我固粋を指摘せるものなる事は勿論在るも、箕は其本位は西洋にあゎと認む
 べく、只我団の図是が西洋の政治思想と矛盾する朗なしと群ずるに過ぎず、後年
 固憶論の立場よら盛督数が排斥せらる1や、一部の基督教徒が基督の教義にも
 亦忠孝の詮あらと主張したるを逆に行けるものと云ふペし。
 次で二十年に藤田一郎の著せる「図憶論」は一屠進みて益々国粋思想の濃厚なる
を見る。其大要に日ふ。
 我圃腔の萬同に虜なる所以は、一、日本団地形ご、風土人噂三虚図の事嘩四、皇統
 連綿萬世一系壷、敦法の五鮎よみ之を見得ペし。             一
 我国地勢の実は今更云ふまでも無し、気候中庸、図大に失せず、小に失せず、大陸
 に密接せず又大洋に私立せず盛上の地位を占むといふべし。岐英二紳之を創
 造せらとの台樽に至むては今論ずる限らにあらず、暫く盲人に徒はん、其造れる
 図の善美なる事は天租の紳勅豊葦原云々の語之を明示せるものなら。総て民
 情又唱和にして皇室む犯し開膿む辱むる者なく、洋々とtて濠海の如く、貌々と
 し<山嶽の如く、雷雲に明かに民俗下に淳く進で今日に至サ々。
    臣r臣l巨こ巨Fl武川a。トぎh巨EEムhrr。←ピ巨LF▲。E巨ゝF妄ゝ …ミ                   /

周酎鴇の分るゝ朗は固君掌捏する朗の樺利如何に在ら−是れ則ち建国の横軸在
 ら、此事の自然に出づる滝のあら人為に出づるものあみ、自然に出づるものは我
 国にして他は潜人名に出づるもの孝阜。
 叉我邦の一種特有にして他邦未だ曾てあらざるものあら、固家の・組織是なら
即ち他国は土地あみて後君主あみ。我国は率bず、諾碑二杜の大紳国土々修理
し贋度々化成し、大名持少彦名の二紳をして之む経督せしめ夷剋之を天孫に賜
湖∴欣命心て之漣治めしむ。皇租之に則ら一首二十飴代を歴て今上天皇に至る0
戯ちばヰ止鹿屋や玉憶は天剋の遺憶なみ、今上天皇の資藤は天租の天位なら、今
上天皇の士雅人民は天租の土地人民在ら。何人か我周憶を窺以て天理ほ出でず
と濱サ絹のあ、力ん。我皇統の安危は人民の安危に係ら、共貴き乙と水火の如く、
農重婚上々衣食の如し、皇統上に盛なるときは固家益盛に、皇統上ほ工費ふるとき
は図家必ず衰ふ、車歴史の上に明敏すべし。是ほ於でか紳勅ほ蓮以古典を奉げ、
         ハ 一
潮法漣礪び虚乎として萬世の標準計こ皿てざる可らず。我国の大絶たる紳勅に
儀へば昌へ、紳勅に背けば必ず衰ふ。
 数法なるものはせに於て須兇も無かる可らず、而して属国の数法各其長穎あ

21a

 卜皇駒の数は大に他と異な阜・千弊む未茄に防ぎ古書む未教に倒せら・所以に
 天地と典に凝らず、日月と典ほ衰へず、天子之を行へば天下卒かに、臣民之を行へ
 ば固家治まる・天租天に先だち、始めて大審む以て数む立つ。後世之を紳造と云
 ふ・新造や祭政健一、冶教不岐虚愛ぞ弊ゆる朗あらん。天風貌ら天紳む祭ら、天
 紳む饗す。鹿則ち天租の大孝なみ。
  今上天皇夷胤む受け天位を嗣ぎ天徳を養ひ天業む侯払にし威に中台弛巌の
 大典む章げ、紳祀官を番興亡夷紳地祓む崇祭し、大に固数を布・き、以て大政に臨ま
 せらる、親王、内親王の沸門に蹄する者む復解せしめらる、是れ天租の鯛勅にして
 紳勅は即ち固数の本なみ、人造の始め在ら、因数は所謂忠孝文武の天理に出で人
 魚に街はるゝものなぁ。と。
 思潮の大勢斯くて漸く固絆保存主義の盛ならんとする時由村の日本詩混合は
二十年九月に合名を日本弘道倉と改めて琴々其勢力を張るに至みしが、之と同時
に加賀雰一、今外三郎、良地新富、松下丈音巌已小次郎、三宅雄二郎、菊地熊太郎、杉江繍
人、井上固了。棚椅一郎、志賀重昂等は粕謀みて政教虹を起して、大に図粋保有を高唱
し二十」年四月に至み其横綱難詰「日本人L第一故を敏行す。其主意に臼ふ虚代の



日本は創業の時代な多、然れば共経脅する所轄た鎗綜接合せ多と雖も。今や眼前に
切迫する最重大の開襟は、蓋し日本人民の意匠と日本固土に存在する萬般の南外
物とほ恰好↑る宗教、教育美術威治重度の制度む撰揮し、以て日本人民が現在未発
の幣背を裁断するほ在るな多。斯の如き千載一遇の時機に際し、計眼以七世上を
冷親するは是れ豊に日本男鬼の本色ならんや、予輩不宵自∵b儲らずと雖も、斯の項
潰に逢達して款8叉手せば年生所得する拳術の用は尭に何たるを知らざるなら」
と卓然として只其主意審をのみ見るときは必ずしも固粋保有排外主義と云ふ能
はざる如きも、其毎月二回沓行する朗の横糊雑誌「日本人」に現はれたる論文を見る
ときは其主張する朗昭々として見るべし。今試ほ其論題の二三む見れば思牛に
 過ぐるものあらん。
 日本人の外人尊奉ハ】磯)                辰巳小次郎
 士気む振ふべしハ一溌)                 杉江 輔人
 r日本人」が懐抱する虞の旨義を普白すハニ戟)(柑ほ舶哺柑帖叱な)  志免重昂
 固数を乾くるの必要む論ずハ同上)             敢   貌
 日本前途の固是は「鏑粋保存旨養」に撰足せざる可らずハ三溌)  志賀 重昂

21b

 志士虞世論ハ四鍍)(桝銅朗粥fほほ鮎憎)          菊地熊太郎
  日本濠教論ハ五彗                       井上 固了
 大和民儀の潜勢力ハ七鱗)                 志虐 重昂
 周粋主義の本壕如何ハ十六携)(欄粥凱加柑離鮎粥f帽純れけ棚媚川於)菊地熊太郎
  帝室虜泰のためハ同上)                    三宅雄二郎
一条輩国粋主義を唱道する豊偶然ならんやハニ十五溌)      敢   認
  誰か国粋主義を以て反動の勢力となすハニ十人戟)        天舟 漁夫
  国粋主義の生長ハニ十九戟)                    笑天 居士
  之れ英二十二年頃までに於ける一斑夜毎、降らて日清我昏以前に至らては盛に
 開戦論を唱へて屡々敏行禁止の厄に退へる如き、如何に其図家主義的の見地の械
 烈なるかを推知すべし。然れども天舟漁夫が反動の勢力に非ずと群ぜるに拘ら
 ず、全く反動思潮に過ぎざるものにして」只外国本位の思想を排斥し、我固有の図粋
 む尊重すべしと主張するのみに急にして、未だ其尊蚤す、べき国粋の何者なるやに
 砕きては多く説く朗あらず、総て図粋中の眼目ともいふべき固憶に就きては殆ど
 論ずる所在かろき、只数年ならずして固鰹論の盛行を見るに至れる一大原動力上




 して看過す可らざるな七   漫
 之と同じ頃、川合清九、鳥尾小浦太卜山岡銭舟等ほょらて日本国数大\温故なるもの
組織せられたら。事は二十一年一月にして其主意音の大要に云ふ−
  因数は囲の精神なら、我図の精神は紳儒悌の三造なヱニ造合して大道といふd
 君に忠を毒し図を愛するは紳遣よら書きは無し・世道を経給するは儒造む最と
 し、煩悩を解脱するは備造を可とす些二造合して大道Jなら、恩愛の気象となみ、
 囲革も由て尊厳ほ、世道も清平に人情も優美なみき、近世に至ら・此精紳衰へ虚し
 きは、外固の数法む以て之に代へÅと欲す0 国教は囲の精神なら0 宗廟敢稜の
 基づ■く朗、皇統固憶の係る朗虚徳風化の出る朗、一騎の生命之に係れら、若し三千
 年凍東海の表に彗止して寸時も属せず、寸盛も失はざる大日本皇国を千萬世に
 維持せんと欲せば此大精紳を結合せざる可らず、是に於て日本国数大道軋む創
  立す。
と如ち磯紺雑誌「大道叢誌」を発行して其保守的固粋主義空冷唱せら・
 二十一年入月に有賀長準に依ら■て公にせら吋\たる那紳国家哲論は天賦人権論
を駁し、我国鰭の観念に触るゝ事漸く注し・其大意に日ふ、

21c

 天賦人樺論者は事の頓を誤まる者なら。人民の政治上の権利は囲家が先づ
立たる上ならでは起ら氾者なら。国家無ければ法度立たず、法度立たざれば権
利義務の別明学力ず・人間は天然蛍作の自由を備ふる者に相違無し、然れども
此天輿の自由も事茸と戌て形に現はる〜は図家の機関を経るに非れば難し、而
して固家の機閲ある上は必ず治者被治者の別あり、既に此の別ある上は被治者
 の由由は治者の自由の如く十分なる能はざるは明なら。
 同家ほ元首無かる可らず、之れ古今に通じ由方に捗らて意志と額作とむ統一
 し以て其間に抵触なく軋轢無からしめざるを得ざるに拘る、其元首なるものは
 種々の【特種を有す。
  日本の場合に於て元首即天皇の有する特種は四あら。
 一、神事の長「日本は天神の造ら給へる閑にて天紳今侍此固を冥護す、故に此囲
 に生息する者は昏天神を祭るの藩あみ、而して天皇は天紳の後裔として此祭を
 主宰する磯あら」とは是れ在衆の理論なら、其理論の正否如何に拘らず天皇之を
 保持し給ふ上は日本固中に於て其可否を論ずる様なし。
  二、濁家の長、天皇に於イし細事薗キたる上は又徒て天神の遺訓を奉ずる権あみ、



                                               崩nqパリ“。舶=巾頭巾戎uJ瑚朋卜_憤朗畑鳥m勾ガ日当頑州一日
 而して此の遺訓の } は永く日本の周家ほ君臨し」ニ種神器を以て君位の療識と
 し給ふにあら。故に天皇は外国に封し、金団の名を以てする、宣教講和、開家の官
 束の任免」褒賞、日本全開に鋼する法稚の制定及び薔法の改正には必ず天皇の御
 璽を以てするなら。
  三、敢曾の長、政令には上下の秩序あみ、多く努力したる者は高き地位を保つ−固
 家は此秩序を保護す、此杜曾の秩序町上に於て最も富貴にして自鎗庶民無⊥の
 尊敬を受く可きは天皇なら招となれば代々の天皇は神武建国の偉功む聴ぎ給
                                      ■
 へばなら。。     ′
  四。兵馬の長、斯く天皇は敢曾の秩序を保護すべきものなるが故に、兵馬の長と
 して其榛を捉らざる可らず。
  日本の民衆は此四の鞠係に於て天皇に臣従し奉るべきものなら、即ち、第一に、
 凡そ、日本に生れたる者は皆我が天神の後裔に非らざ櫓は」準し、故に天紳の後裔
 たj天皇が祭主として帝汰埠式ほ徒払、天紳を崇拝せざる可らず、第二ほ我国民
 たあ以上は天叶。町遺訓に依空文首た・る天皇の布く法律に徒はざる可、ちず、第三
 に日本に生れたるものは皆我社曾の或階級に属するが故に敢曾の上首たる天

21d

 皇に対して和音の線む毒さゞる可らず、第四に日本に生れたるものは皆軍員な
                                                                                                                  一
 れば萬軍の元帥たる天皇に対して兵士たる職を全くせざるべからず。
  此鞠係は立憲政障とならたnとて消滅するものにあらず、
  然らば天皇の権利は之と外部よら限るもの無しと雄も、由ら出し給へる制定
 には拘制せられ又其租紳の造勅に依らて図家を費えしめんがためには親ら其
 権能を制限して人民の行為を自由にし、其能力の凝育を十分にし、固家を安全に
 せざるべからず、
と、斯く大勢の辟向漸く鮮明在らんとする時に骨ら、多年国家の大懸尭たらし憲法
は凝布せられて固膣に対する基礎的法規は定められたら、即ち二十二年二月十一
日紀元節の佳辰を卜して帝国憲法は費布せられたるなら。此頃、侍前期の思想の
飴洩ともいふべきもの亦少からぎらしは。いふまでも無き事托して。基督教徒徳富
           l
猪一郎の率ゆる民友敢の如き其最なるものにして同じ鎗汲的掛向む有する思想
家の固膣ほm関係ある論積も一瞥せざるべからず。今」相澤諭吉の尊王論、銅直彦の
立志王温論虚崎行雄の瀞室論に就きて其大要む記さん」 感澤の尊王論は二十一
年十月に公にせられたるものにして其大要に云ふ、




              ョ頂切崩渦潮題港当り=義儲1、責苛ぺ′。奉付箋へuヨ当崖り頂笥浣頂箋凋憎棚橋増預嘗書、ょ喜箋、→凛々1増題一
  筋一に、手段方便よろ見て、皇室を尊厳の高所に置くを要す、常に農容の泉源た
 らしめ以て国民の名著心を濁さしめ、又各政貴衰他の軋轢、溶け難き場合、遂には
 非常の凶粥を見ずんば止せざらんとする時に、皇室の信を以て之を解く針最も
 数あるものなら。
  次ほ皇室の隼き理由を述べん、すべて用無用に拘らず、珍奇にして肯き由緒あ
 るも町は世人之を尊重す夷下一品のものと云へば一克石と雖も人之に互萬金
 を惜まざるものなら。況や家系ほして最も古く、且つ台昔以凍由緒功績あるも
 のに於てをや、我皇室は即ち之なら。此砕室は日本図内無数の家族の中に裁て
 最も古く、其起源む図の開朗と共にし、密室以前日本ほ家族なく、以後今日に至る
。まで囲中に生々する図民は悉皆をの支流に属するものにして、如何なる薔家と
 雄も密室に対しては新古の年代を零ふを得ず、此最古の′連綿たる皇統は列垂の
 遺徳も今伶分明にして見るべきもの多し、之れ即ち天下萬民の仰ぐ柄以なら・
  我挙が我が帝室の神聖を護づて之を無窮に維持せんとするは日本融合の中
 央に無風無蔑の一目標を掲げて民心の景望する所となし・政治政令の高虞に在
 て壷尊の光明を放ち、之を仰げば萬年の春の如くにして萬民和奨の方向を定め

21e

 以て動かすべからざるの固憶と為さんと欲する者なら。
と、主として皇室の尊きが故に貧しと説かずして功用如何を以て共食むべきや否
やを論ず、何朗までも功利主義の思想にして此反動時代の保守主義とは到底相容
れざる為のなら。

 閲直彦の立憲玉造論は明治二十一年十月よら連績して東京日日新開に掲載せ・
られたるものにして。其大意に云ふ、
   惟るに我国は租宗建固以凍皇統連線萬世一系、眈に二千五官有鎗年の猫立を
一 保ち、皇室と人民とは恰も其利害む共托せら。
   君主狗裁政治にあらては君主は只遺徳を以て刺せらる〜に止まるも、立憲君
 ま制にあらては君主は一け其憲法に従て行動せざるべからず。一方人民は由
 ら制して漫ほ自由平等権等の主義を振ら廻して其玲を越ゆべからず、君民粕和
 して以て治国の美を済さゞるべからず。
  皇室は叉努めて人民に親正せざるべからず、之れ決して皇室の尊厳を損する
 所以にあらずして却て之を大ならしむる所以なら。
と、皇室の尊厳を説くに非ずして、其民に対する王道を説く」挙ろ前期の思想といふ



                                                                                                                `幾


べし。次に尾崎行雄の帝室論は二十一年十二月に公にせるものにしで其大要に
云ふ、
   日本の皇室は常に民心蹄向の■棟目となら、日本人民の分裂潰散を預防し以て
 今日の繁粂を招致せら。人民をして益々密室を敬愛せしめ、総て密室をして愈
 々甚食費を増加せしむるは則ち全図人民の結合を軍国にし、且つ国家の狗立を・
 堅牢ならしむる所以なら。然らば民心を帝室に辟服せしめ其告発を埠卜加せし
 むる方法如何、台の如く一に人民恐怖を以て尊厳を保つの手段となす事なく、一
 に人民に親しみて慈愛む垂る〜の方法に依らざるべからず、女倹約を以て融合
 の模範となるむ要す。
   次に政治に於ては常ほ衆望の躇する朗に徒て内閣大臣を任用し、萬般の責任
 を挙げて之に負はしむべし、善良なる凄法を布きて、之を守て始終漁らず、且つ輿
 論の向背む以て普局者及び其政略を襲史するの標準となせば人民の我密室を
 敬愛する乙と愈々快かるべし。
と、即ち前二者を合せたる如きものにして皇室の功用と立憲の意義、玉造の旨を詮

 けるものなみ。

21f

 ″ 然れども大勢は清々として保守的反動思想、国粋保存主義に向へら。此時に普
 らて憲法は凝布せられたるなら。其勅語に日く、
  股国家の隆昌と臣民の慶雇とを以て中心の欣発とし、舵が租宗に承くるの大
 穂に依ら現在及賭凍の臣民に封し此の不磨の大典を宣布すq
  健ふに我が剋宗は我が臣民観光の協力輔翼に侍ら我が帝固を筆造し以て無
 窮に垂れたら、惟れ我が紳重なる租宗の威徳と泣に臣民の忠茸勇武にして固を
 愛し公仏殉ひ以て此の光輝ある国史の戌跡を飴したるな` 除が臣民は即ち
 租宗の忠良在る臣民の子凝なるを何想し、其の炊が意を奉燈し股が事を奨頓し、
 粕輿に和衷協同し、益々我が帝固の光柴を中外に宣揚し釘業雪氷久に輩国学b
 しむるの希望を同くし、此の負揖を別つに堪ふる乙とを疑はざるなら。
  股剋宗の造烈を承け、萬世一系の帝位を践み、股が親愛する朗の臣民は即ち租・
 宗の慈撫慈養したま払し所の臣民なるを念以、其の康頑を増進し、其敢徳良能を
 発達せしめん乙とを願ひ、其翼賛ほ依ら輿に倶に固家の進運を扶持せむ乙とを
 望みガち明治十四年十二月の詔命を履成し、滋に大志を制定し、股が率由する朗
 を示し虚が後詞及臣民及臣民の子我たるものをして永遠に循行する朗を知ら




j。J孟。。。皇jり。。、七。。けJHP吊りく)。  。一▲I、」Fh叩一柑川りJ り。1                                                                               、エjで J。J。・・−JサでJ。JtJ。ゞ−り莞月男り川。づ∬
瀾潤 しむ。
  固家統治の大横は股が之を租宗に承けて之を子孫に樽ふる朗なら、険及炊が
 子孫は賭凍此憲法の條章に循ひ之を行ふ乙とを怒らざるべしパ下略)
 と、殆ど我鞠の固憶に就きては其根本は毒せらと云ふべし。抑も明治九年憲法起
 草の■詔を賜はるや、中に「股愛に我建国の憶に基きて磨く海外各国の戌法を勘酌し
 て以J固憲む定めんとす」とあら。我憲法が固憶を基礎とせる事常に然るべきと
 乙ろなら。定収凄法の本文に入らては其第一條に、
 大月本席囲は萬世一系の天皇之を統治す、
 と明示し、次に、                                  。
 第二條 皇位は皇室典範の定むる朗に依ら、皇男子孫之を漑承す、
 第三條 天皇は紳垂にして侵すべからず、
 第四條 天皇は団の元首にし1硫拾植を絶境し呵か憲法の條親に依ら之を行
   」七
と、滋に於て、天皇の大権に鞠する朗は確定せられて動かすべからず、爾後、聾者の囲
倦む論ずるもの此憲法を以て其憑墟とせざるなt、即ち此憲法の解繹に托して固

220

 捜を論ずるもの績々として出づ。今其一、ニむ掲げん。
  憲法制定者の主なる一人伊藤博文は二十二年四月、「大日本帝図憲法義稗しを公に
 す、第一條、三條、四條等に就きて白く、
   紳観閲周以凍時に盛衰あみ世に治乱あるも、皇統→系費藤の隆盛は天地と典
 に窮卜をし・天皇は天縦惟鯛至盤にして臣民群類の麦にあら、犯す可らず・故
  に君主は固よら法律を敬重せざる可らず、而して法律は君主を責閏するカを有
  せず。
   統治の大横は天皇之を租宗に承け之む子藤に停ふ。統治樺を地積するは主権
 の牌なろ憲法の條親にょみて之を行ふは主権の用なら。
 と。叉穂積八鹿は周家拳骨雑誌第二巻二十五塊以下ハニ十二年三月以下)に「脅国憲法の
 法理」と題する論文を掲r。大要に云ふ、
   法理上国家は統御の主腹なら、天皇は即ち国家なら、君主制の固と君主制にあ
 らざる固との差異此にあ卜統御の主憶と君主と同一なれば則ち君主政憶の圃
  なみ。
  爵一偉大日本蘭囲は帯世一系の天皇之を統治すとある主意は囲憶と定心る




 ほあみ、圏憶を定むるせは統治樺の主腔と客憶とを定むるといふ事夜阜。本條
  の明文にょれば統御の主憶は萬世一系の天皇に在ら、統御の客鰹は大日本・牢固
  た多。

   我固健に於ては初代天皇よらの皇統が萬世一系の正統の君主なみ。
   大日本密図は即ち統御の客健在ら、瀞固と云ふ譜は地理畢上の固土と人民と
 亨合したる鉱抑ほあらず・公法↓袖於ける固項と臣民二雷合して蘭固とい孟
  ほ固家と簡閲とを混同す可らず、駒家は主憶にして軒固は客鰹なら。
   第三使、天皇は紳盤にして侵す可らずとは、天皇は即ち固家なら固家は統御の
  主膿なら、もし之に向て権力む適用し得るものあらば、駒家は則団家ならず、樺カ
  を以て侵すべからずとは、囲家固有の性質なら、紳垂にして侵す可らずとは天皇
 則固家Y本性を覆す朗の闘憶なるが故なら。
 と、我開憶を論ずるに主ら其統治権の主膿の何なるやにユらて区別する一決の論
 者ハ主として図法畢者)の惰は滋に始まれるなろ。
 次で有奥底雄の某大挙に於ける軒駒憲法講義に臼ふ、
  大日本帝瀾は萬世一系の天皇之を統治すとある、此萬世一系なる語は蓋し大

221

  日本帝国憲法のみにして他国の憲法に存する能はざるものなら、是れ我日本帝
  図の図憶の支部及西洋の団憶に異なる所在ら。
 と、此頃よら図粋主義の改名々優勢にして、二十二年十月内藤批鬼は「図憶教揮」を著
 は】し我団の憶面の他に異なら、又他の撃び得ざる朗は皇室が土地所有の主、人民の
 租先、教化の本、衣食の原な■るにあらと説き、穂積入来は闘家拳骨雑誌四巻三十九故
 三十三年五月)に国家人即天皇)一今能主義の主張を掲げ、叉同月、皇畢を旨とする一派は惟
                  カ ム ⊥ノ ガ ラ
 紳挙曾を組織し、機関雑誌「粗衣天紳」を発行す。其設立ま意の大要に云ふ、
   恭て惰るに孝徳天皇の大化三年の詔に健紳我子鷹レ治故是以輿二天地之初】君臨
 之図也、自こ始治r飼皇剋之野天下大同都無一致皐者也云々止あら、説く者日く、蓋し紳
                                                     一
 道は是れ皇造にして紳藤又は皇裔よら成立せる我がH本種族の遵守すべき者
 なら。降らて大化に及び隣近の邦図交通し、蹄化の蕃族繁街し民心整はずノ、国政
 治め難く其盲と同じからざるものあら。是に於て天皇此の詔を蜃して以て臣
 民をして其向ふ所を知らしめ給払しなら。今や大化を距る乙と千二宮五十歳、
 邦団の交通愈々驚きむ加へ、蕃族の繁街益々多きを委ね、内潜外垂の複雑、政賞政
 流の騒擾亦大化同日の此に非ず、天皇陛下瀞同窓法を分布せられ以て臣民をし




  て攫由する朗を指示し給へら。
  夫れ我典憲は同家の安寧秩序を保雖せんが食め古今の宜む制し、之を文戯に
 徴して明記せられしなら、茸し天剋が天壌無窮の紳勅を以て垂示せるは是れ典
 範なら感細密の大法山に宣布せるは是れ憲法なら、恩余命の天の安河に集議せ
 るは是れ稀曾な阜、故に其條章の・精細に至ろても悉く皆租宗已密の典謹訓話に
 率由せざる者英し、而して其憲法と云払講曾と云ひ、其の名稀の欧米譜邦に行は
 るゝ図意図曾に類似せるを以て是よら、図家の憶南東革する者となし虚宗以承
 特性の図憶たる乙とを弊へず是れ健紳の草道を聞知せざるの罪ならパ
  我が僚彙ほ史畢協曾を起し紳図の紳固たる所以を請じ皇遣を明にせんと期
 したるも、時機筒到らざらしを如何せん。今や戚慨歎止す絹瀾はず革め車臥の
 志業む貫徹せんと欲し、同志相謀ら、自施政嶽糞準の・叫が立ち卜垂旨宴遵奉し・国権
 む侠弘するを以。J精細とし、此吋是の聾曾む設立し、前々に講読し虞々に巡廻し、
〜或・町凝議計凝し、或は塾合を置き有為の子弟をして恩愛なる大日本魂を滴養せ
 しめ、狗立帝国の臣民たるに祉ぢ首らん乙とを欲する在ら。之を要するに健紳
 の皇造を請じ、以て報本反飴・の大義を明かにし、囲家の典憲を服鷹し、例以て天恩

222

 に報答するに在み、名けて健紳拳骨と日ふ惑し夫れ我が邦関野数千年水星澤に
 雫被せられし我が同胞臣民中にしイし、此の徳義を外にし、別に道理を論ぜば音譜
      アヒ マジヨ少クチアフモノ
 に謂ゆる相交口曾者にして固家の盈巌な` 筍くも紳州男子にして皇国臣民
 の本分を毒さんと欲せば、我が俸は公言して我が拳骨に於て健紳の皇遣を講明
 するに在らと云ふむ悍らざるなら。
と衰概鞠雑誌随在天紳一五大故以下ハニ十三年七月以降)に友妓速水は斯道大要を掲
げ図鰹に論及して日く、ハ大嬰)
  抑我国紳整降臨の大台よら衆鷹番殖の今世に至ら、本宗統を准ぎ、支度列を為
 す、親疎別有ら、尊卑位を定め夷地と窮らなし衰臣は即ち父子の済充なら、国家は
 即ち一家の長大なるなら、則ち所謂る開家主植とは大本宗の樺なら、所謂人民自
 由とは苗裔の費えなら。故に其名は則ち君臣、而して其造は則ち父子、其稀は則
 ち固家、而して其憶は則ち一家な` 央れ皇租紳撃の極を立て統を置るゝや天
 地の一玄妙を開き痛世の異理を教し、敬紳忠孝を以て数綱となす経国安民を以て
 政紀となす、事必ず之を紳に普げ、政必ず之を衆に議る。以て紳人相離れず、上下
 相背かざるの基礎立つ束だ嘗て我皇国の如く一系紡々四海に君臨し一人も敢
                                                               〔
                                                             lll■



彗戎
 て天位を視線する者無きの囲憶あるを開かざるなら。
と、一大四故ハニ十三年十一月)には丸山正彦は「日本は細岡なら」を掲ぐ。後年著述せる
r大日本者紳固也」と相照應すべきなら。
 之等と時を同じくして二十三年十月教育勅語の換沓あら、之既に述べたるが如
く憲法に依らて法理上よら我囲捜の根本を示し給へるもの、更に教育上よら諭し
玉へるものにして。滋に我国の道徳的固是定まら、図膣に槻して動かす可らざる解
義を見たるなら。事素よら整意に出づと雄一方又国粋思想硬碍の所産なら所産
写ると同時に叉其後に於ける国粋主義を滴養する朗の一大原動力とならしな多。
勅に日ふ、
  股健ふに我が皇租皇宗図を筆むる乙と宏速に徳を樹つる乙と深厚なみ、我臣
 民克く忠に克く拳ほ億兆心を一。にして世々靡の美を済せるは此、我が国憶の精
 華にして教育の淵源亦箕に故に存す、ハ下略)
と、此に於て此勅語を基礎トして囲憶を論ずる事甚だ盛に−勅語街義、勅語解梓等の
類専横々として公にせられ、先きに奉げたる随在天紳の如きも其一大五就以下に
遵績、深江速魔の解読を掲げたぁ、其他生田経徳の垂訓述義、那珂遁世の教育勅語術

223

義・井上哲次郎の勅語街義垂野安纏の教育勅語術義、栗田寛の勅語述義盲見経倫の
固民倫理聾等績々として公にせられ、或は皇準の立場よら、或は塙撃の見地よみ、各、
勅語に義繹を施して図憶の沖源を説け阜〇二十入年三月大村益荒の著せる「宗水
月の教育」叉同類のものなら、今一々奉げず。
 然るに教育勅語の換費せられて之を金団の各寧校に遵奉せしむム事となるや、
唯一神教の信仰の上に立つ基督数の徒は、其天父の外に其頭を下げざるものなる
                                                                                                    ●
が故に之を喜ばず、食めに所在の致曾又は基督数の聾枚に於て往々教育勅語の尊
率又は陛下の御異彩の祀挿を拒むものあら。叉直接御眞影及び勅語に閲係なく
とも基督数信者にして教育に反涜し或は囲憶観念と相容れざる思想を有するも
のあら。夫等の事賓漸く識者の間に問題となみご十五年十月井上背次郎は、基督
数が勅語及び固膣に背戻すとの意見打開沓杜々貝に語ら、之が十一月の教育時論
に現はれたら。之れ所謂「宗教教育衝突問題」の端緒なるが、之よら先き、耶蘇数と我
図数との閲係につきては、教育勅語の換凝せられ■花る月、即ち両者の衝突の形に現
はれざる以繭既に論議せられたる事あら、加藤弘之が図家拳骨雑誌四巻四十四故
 に「国家と宗教との舶係Jと題して「日本に於ける紳悌耶蓼の三者を比較するに祓遣



い∵‖。11曾一見萱仙り卜」〃・J一
 は宗教としては最も。劣れら、総て彿や耶蘇に座せらるゝは普然な阜、紳造が斯く燈
 せらる\は日本の囲鰹に大尉係あろ、紳造は天子の先剋を初めとして人民の功労
 あるものを祭るものなるが故なら。宗教として終夜は耶蘇数のために座せらる
                        ●
 ゝ事あらば砂からず密室の威に掬係する事にして事態容易にあらず、故に何朗甘
 でも社務の如く紳造を宗旨外に置(必要あらと信ず、耶蘇教徒と雖も熟慮するに
 於ては日本の天皇陛下の御観光たる紳を拝祀する乙とは決して耶蘇の主義に背
 く事は無かるべし。生きたる天子の前に出づれば日本の臣民たるもの之を拝す
 るを非とする者あらじ、生きたる天子を拝して死したる天子む拝するに差し支あ
 る筈夜し」と論じたるもの即ち之なら。加藤弘之は侍之よら先きご十年十一月十
 二日、大日本教育曾ほ於て「徳育方法案」と題する演説をなし、徳育む養ふには是非と
 も宗教に壕るべく、而も何れの宗教に壕るといふ事も決定し難きが故に紳彿儒耶
 を併せて小畢枚の徳育科に施し各好む朗に徒はしむべしと論ぜサ此論者の論旨
 を褐鍵する事何時も驚くべきものあらと雖も之も亦時勢の襲時の反影と見るべ
 し、分後年の所謂「加藤の耶蘇数いぢめしは其瑞を此に懇せるものなhこ、斯くて「宗教教育
 衝突問題」起ら、基督教徒。鳶然たらんとするに及び、井上哲次郎は「教育と宗教との衝

224

突」在る一文を草し之を二十騎種の雑誌に敬表し」更に埠。補して単行本とし、二十六
年四」月之を公にせら。其大要に日く、
  我教育勅語は全然国家主義に立脚す、然eに我邦ほ於ける耶蘇教徒は徒々之
 が奉戴に反対し、又聾枚ほ於ける御異彩挿鵡に反対せら。之れ曹然の経緯にし
 て耶蘇数は徹頭徹尾非図家的なればなろ、耶蘇数は其主とすると乙ろ博愛にし
 て墨子の粂愛ほ類し、我家の父母兄弟福他人も之を区別する事なし。又現世の
・事悉く之を捨てゝ一に凍世に於ける自己事頑のみむ希、ふ利己的精細なるが故
 に父母を重ぜず、我却の徳政の基礎たる租先崇拝の如き之を斥け、紳の外は一切
 平等と認るが故に、天皇の食き所以を見ず、故に忠君の念あるなし、固家の興亡の
 如き竃も念とする所にあらず。されば欧洲に於ても表面上沓を守らて耶蘇数
 盛なるほ似たるも、賓は夙に英資カを矢へ・る在ら。然るに我邦の基督数を見る
 に竃も其事情む知らずして徒に我図憶に反するむ以て文明となし、之む信ぜざ
                   ヽ
 るものを野攣となし、身は日本にあ多度がら心は却て西人心親しきもの大抵然
 ら。是れ登国家主義を標梼t図捜の尊厳・を保護せ人。と欲する教育勅語t一致
 するものならんや。然れども耶蘇数ほも亦美粘なきにあらヂ、もし件数が我均

            匡町臥農邑一卜L′丸丸n、■。トELhr汀h巨E



瀾 の精紳に同化したる如く、耶蘇数も我図の精神に同化するに於ては強ち排斥す
 ペきものにあらざるなら、既に耶蘇数は我国憶と矛盾せず女忠の教を合むと締
 護するものあれど鴻悉く牽強附曾のみ」。
と庇に於て基督教徒金力を毒して之を章ひ戚数豪亦渦中に投じ・て基督数は普ら、
    ●
聾者、教育家、操解者皆此問題ほ指を染めぎるものなく、之ほ閲する畢行の著書のみ
にて基督数む攻撃するもの二十除種、蹄護するもの十鎗種、其他新開に雑誌に講演
に之む論ずるもの教官ほ上ら、喧々羞々として轟くる所を知らず、或は基督数の九
州大倉となら、名古屋大倉と在ら、係数雑誌記者相談曾となら、在朝在野四民よら成
らて三千人の曾貝を有する一団膣倶柴部となう」異に一代の偉観を呈した`去口人
今之等の個々に就きて綽越する事馳はざるも、概括して云へば、基督数を攻撃する
ものは固よみ井上背次郎の誼を組越し、敷街するもの一ほして基督数沃の之ほ答ふ
るものは、塑書の中にも叉一二忠孝を凛梼する譜あらとし、或は宗教は其虞する所
の分野仝く教育政治の類と別箇にして両者は衝突するものにあらず、基督数は非
図家主義なるも反図家主義にあらずと締じ。排耶蒸が基督数の敢曾上政治上に及
ぼせる綱書を列挙すれば。基督数礎は明治以後に於ける我国の文化の凝展、殊に泰

225

 西文化の輸入、殊に女子教育の向上、寧校外に於て道徳心の滴養に功績を奉げたる
 は主としで基督数の賜ならと應じ、臥に鋒を進めて基督敦を信ぜざるものを蕾弊、
 頑冥、退歩と論ずれば、排耶沃は叉基督教徒連らに新思想と誇るも、資は泰西に於て
 は、多年の習慣上、形式の上ほ於て乙を何故命を経ぎたれ理聾進歩し進化論教達し
 たる今日識者の岡には殆ど之を腐るものなく、全く生命なき迷信ほ過ぎず、之を今
 更新思想ならとて持てはやす其信徒乙を最も頑冥不審の徒なれと廃ろ、遂には各
 封者の人身攻撃ほ及び、互に犬糞的應酬をなすほ至らの。徳川末期に儒学者と復
 古固聾者との間に惹起せる論寧の如きも亦其未凝に至らては事遂に斯の如きに
 陥れる事は既に述べたるが、理論の問題の、砲みて戚情論ほ堕する、固に止むを得ざ
 るものなるべし。
 常時紛々の論中重きをなせるもの一二を掲げん。排斥沢として磯部武者五郎
   ヽ
 は日く「囲家の図絵を弛解し、図利民頑を妨書する宗教は一日も存すべからず、図家。
 其特性を失へば克解す。故に国家の特性を妨書する宗教は断然菜つべし、然らば
 基督数は我国憶即ち我国家の特性に吻合するや。然らざるなら、我囲腔は蒔世一系
 の天皇む奉戴するを以て唯一の元素とす、若し小飯事と堆も天皇を奉戴せざる趣

                                                           ■ll



                                                   箋 召ル議題J川鵜つヨ九頂八ゝ宅川 畑箋マj題一W淵uj畑】顎d一
 あらば其書や計るペからず、基督数は一に「ゴツトしほ奉仕す、未だ嘗て我天皇を奉ず
 る事を宣明せず、我皇国の固憶にては民の守るべき徳義三あみ。敬紳、尊王、愛国之な
 ら、基督数は之と両立せず、樽愛む主義とし敵を愛すべしと主張する基督数は日本
 魂と合はず」兄洋道徳と合致せず、骨然排斥すべきもの在ら、之を防ぐには我紳道家、
 囲尊家、漢学家、係数家一致協同して之に曹らざるべからず、然れども既に人心漸く
 侵透せる今日、宜しく国家の力む以てすペきなら」ハ政教時論)と、又中西牛郎日く、「此一
 大衝簸たるや教育と宗教の衝突と稀するも、賓は日本国民が耶蘇故に対する信仰
 と皇室に対する戚備との衝突なら、耶蘇数と日本国家との衝央在ら、基督数が仝然
 非固家主義ならとは云払得ざるも、我国憶に対する時は仝く並立する能はざる性
 償む有す、我邦の皇統は天菰怒ら、日本国民は其租先を同じうし共ほ骨組宗よら分
 派したみと云ふ一種天啓的の歴史、国民の脳裡を支配し虚君愛国の戚僑萬台を経
 て磨滅すべからざるものあるに職由せずんばあらず、もし此歴史を殺し、此戚備む
 殺すものあらとすればでは耶蘇数なら。之其教義の然らしむる所在ら。我教育
 勅語は此我国憶に基きて国民教育の方針計二不したるものなれば耶蘇数の教義と
 合はざるは勿論なら。耶蘇教徒は国家を以て軽し。とし、耶蘇数を以て重しとし、君

226

 父を軽じ、耶蘇数を重ず■るのみならず1恵父と一般人類・との間に著明なる差別を立
 てず、我が固と他の固との間に著明在る差別を立てず、然らば我国捜と耶蘇数と相
 容れざるは素よらなら、但し儒教偶数乃至憲法制度皆外国よら承らて、多少我国障
 と衝突したるも遂に同化して事なきに至れら、耶蘇数亦同化し了せんには敢て不
 可ならず、もし同化せんと欲せば薔数む以て天啓とし、又耶蘇数の基礎を裔数の′上
に立つる乙とを紬来せざる。べからず(「b衝突断案」慧)又杉浦重剛云く、威洲諸岡が
 基督致を東洋諸図に布植せんとするは、英名む博愛に薄らて賓は其慾を蓮くせん
 が為なら、世界周胞主義の博愛なるものが茸行不可能なるは識者を待たずして
 知るべきのみ、而も我国人の一部が之を迷信するは心外と云はざるべからず。一
                               ●
 方理聾の凝達は峯想に生れたる「ゴツ上の観念と両立すべきにあらず。他方我国
 憶は皇室を最竜最尊と仰ぐものにして、基督教徒が或は弊じて其教義にも忠義の。
 旨あらと云ふは牽強のみ、もし然らば、何故に御眞影及び教育勅語の鵡拝奉信を拒
 むの篠を其四萬人信者中よら除去せざるか。語を寄す、もし今後基督数が我邦に
 容れられて而も其隆盛を見んと欲せば勅語に違背する朗を除き、。理聾の疑を容る
 1朗を挿ひ以て立脚の地を定めざるべからずLハ「教旨雑感」深意)と。其外、嘗て耶蘇数


                        臣

従にして後脱宗せる青森嘲雲は虚碓繊頂門一針」なる書を著して耶蘇教徒が紳彿
 を偶像教と論ぜるを駁撃し、耶蘇教は国民むして辟向する朗を矢はしめ、之に乗t
 て図を奪は人とするもけにtて我国膣に。最も書あるものならと論じ虐川俣之は
 「興奮」を著して、我国膣が欧洲のそれと異なる所以を論じ、我固の道義眈舵備はれる
 以上耶蘇数の如きものを容るゝ必要なしと述べ、耶蘇数は野攣種族に対する政治
 的野心を充たすの具に過ぎずと排斥したら0′
  之等の攻撃に封L、信徒側の人として、小崎弘道は群じて臼く「基督数は紳人間の
 数なら人類が罪悪の中よら救はれ、光明の世界に遽するの染津なら。故に農数旨
 たる人に対するよら紳に対するもの多く慮るべきの世界に封サるよらも鬼るべ
 からざるの世界に対するもの多しとす。人に対するの数、鬼るべきの世界に鞠す
 るの数海なきに非ず、然れども是れ皆紳に封し見るべからざるの世界に対する数
 ょら生じ凍るものにて宛も欝蒼たる東条、艶麗なる美花、豊餞なる果軍地下に在る。
一個の根幹よら生じ凍ると一般なら。故に基督数を信じ、其救を得る者は≠、子た
 らぎるはなく、父、父たらざるはなく、君、君たらざるはなく、臣、臣たらぎるはなく∴人間
 間の∧道徳は云はずし・て行はるゝに至らん、且つ基督数は愛の教なら、爾の心を義L、

227

 精紳を毒し、主在る爾の紳を愛すべし、己の如く爾の隣人む愛すべしとは是れ基督
 数の綱領なら、己の如く人を愛する故にてあらば図を愛するは勿論、固君に封し忠
 節を毒す事あるむ凶よら其数の主旨ならとすLハ基督数と同家)と。又植村正久日く、
r基督教徒の熱心に徒事するものは紳の図なら、英数ふる所は敬神愛人の主義にし一
 て、公けの虐めに身を労し、犠牲献身の心む厚うするにあら、基督数は凍世を主とす
 るが故に現在の杜曾には不忠ならと云ふものあれど、此は皮相の見解にして取る
 に足らず、重囲を降臨し給へ、垂旨の天に行るゝ如く地にも行はれしめ給へとは基
 督教徒の常に斬る所なろ。国家現在の有横に制限せられ、社家の歴史を聴壁とし
 て進歩の前程を速断せんとする守番頭冥の俗論真はと為に人類及国家の大問題
 を論ずるに足らざるな一ろ、人類を囚へて之を白岡てふ観念の中に禁錮するは随俗
 なる国家主義、図輝論者の迷夢のみ。喜入は図砕の虚名を耳にする乙と久し、吾人
 徒に愛国を呼壊するの拳を聴くもの一日に非ず、爾の国粋とは何ぞや、汝の愛国と
 は如何なるものぞ」吾人之を世の俗論的愛国者に反問せん。基督数は紳を愛する
 の主義を第一に置き人むして其制限の下に己を愛し女流他む愛せしむるなら、吾
 人の愛国も亦然み、正義なる愛を以て国家を愛せざるべからず、基督数の君主に封


                                                     ll■


する地位亦之と大同小異のみ、君主の重ずべきは新約憩音眈に英明文を載せたみ。
基督敦は決して不忠砂塵を主張するものにあらずし(昭和艶粕鞄及)と、之等の類今一
 々奉げざるべし。
 受払看過すべからざる事は、係数家の井上加朋なら。井上は「宗教と教育」として
論じたれと雄も、其攻撃する朗は耶蘇数鎗を目標としたる事固よらなみ。然れど
 も、具我国憶と相容れざる論旨は耶蘇数が世界的にして国家的ならざる鮎にあら、
此論移して以て備数に應用すべし、係数も亦其根本義は世界的なる事竜も耶蘇数
。と撰ぶをし。而も此際悌教徒は奉げて井上沢に加脇して耶蘇故に普れら。耶蘇
教側にて此鮎を捕へたるものなきにあらデ、大西況、元良男次郎の如き即ち・之なら、
就中前者は「世界的なるが故に我国憶を破壊すと云はば、係数は元よら、儒教亦然ら、
哲聾然ら、理聾然ら、詩歌然ら、何ぞ濁ら耶蘇致のみを論難せんや」と高潮せら。而も
係数徒開かざる眞似して仝カを傾けて耶蘇数を攻撃せら、加之、更に一歩を進めて
彿数と固憶と深き踊係あらと主張するに至れら。井上囲了の如きは其代表的の
 ものなら。之よらさき未だ衝突論の惹起せられざる二十二年九月、既に日本政教
論む著して皇室と偶数との離る可らざる摘係ある事を論じたる事あら、大要に日

228

 く「欧米各国に在ては背信仰の自由を公達すと雖も、其下に因数を立て、又は公認数
 を置く圃あら、我邦も日下信教自由制度あらと雖も又政治上公認数を設くる必要
 あら、をは敷萬の信碇を有するもの、及び数千年密布教せるものを以て公認数とす
 べ。し。而して其主なるものは紳遣及び係数なみ。係数は印度侍衆のものなるも。
 今日にあらては日本の係数にして、印度の彿故にあらず、且つ梯数は我邦にあらて
一千教官年我社曾の文物と互に混同し、共に成長したるものなれば、紳彿二致は純
然たる我邦香水の宗教といふペし。紳造は暫く措き、係数も古家皇室上岡係深く、
 女国家鎮護の一助たら、即名茸共に併致む以て図故に組織したるものなら、もし此
 縁故む廃するほ於ては歴史上の事茸を廃するものにして歴史の事箕を廃するに
 至らては我皇室同性の永績を期する乙と難かるべし。我邦皇室囲鰭の、氷績を期
 せんと欲せば歴史上縁起深き寺院は之を保存し、其宗教は之を特待せざるべから
 ず」と、論中牽強附曾あらと雖も亦多少の臭覚なきにあらず、蓋し、清々たる国粋論に
 対抗する意味あらしなら、然るに偶然、教育宗教衝突問題起らて愛に彿教は国粋論
 に合致して耶麻故に骨るほ及びて更に一歩を進めて、固憶と係数との閲係を詮き
 たるものは日本倫理挙兵と、忠孝活論となら、、日本倫理畢秦ハニ十六年一月著)に云ふ。


                                                   一


   団異なれば団憶亦異ほして其囲の濁立松績する限みは兵特有の国債を維持
 せざる可1淳、そは教育も道徳も典に其図健墓と「孟織せざる可らヂゼ古
 ょら中世の間我邦の教育宗数等は大抵皆支郵三韓印度Lら漸々入ら凍らしも−
  且然に我国風に一奉し、我国憶を維持するむ以て目的とするに至れら、飼て今後
  の方針も偽造囲憶を基本とせざる可らず。
   我邦の囲憶の清閑に卓紹する所以のものは上ほ皇統一系天壊無窮の資蕨を
  戴くにあ多、然して其由て起る原因は次の三健在卜V一、皇室あらて後人民あみ、
  人民あろて後皇室あるにあらざる乙と、二▼君臣一にしてこならざる乙と三、忠孝
 一致を以て人倫の大本となす乙と、
 。億兆の人民皆是れ皐笠の臣下なら、同時に皇室皇族の末裔なら、総て君臣、一家
  忠拳一致を知るべし、此美風は濁ら倫理上一団の精華なるのみならず、図家の鞠
  結を輩固ならしめ、図済を強大らしむるに大に利・あら。
 と、此には係数と明言せぎるも宗教以下支那三韓印度よら凍れらと云ふもの暗に
 彿数其他む指せるに似たみ。次で七月に公にせられたる忠孝活論の大意に日ふ、
   我国鰹を論ずるには客観主観の雨面上み観察せざる可らず、第一客観上物界

229

  にあらては我邦は気候温和地味豊沃風景雰美在る革世界其此を鬼ず。之れ天然
  の」賜なら、同、人界にあらては上に一系連綿なる一種無類の皇室あら、開園以前よ
  ら修然として永存せるものにして造に他の碑譲款伐に依らて立つものと異れ
  ら、次に主観上、心界にあらては古家一種の室が凝然として大和魂を成し、最も精
  錬なる忠拳む教育し之にょらて一種紳重なる国風を形成せみ。茸に我国は紳
  固といふべきなら、皇室は太古純然の気の今日に永績せるものなれば即ち紳垂
  の皇室なら、臣民は皇室の分沢にして紳子皇孫の未なれば銅盤の臣民なら、而し
  て我忠拳は此の臣民の精紳界に固有なる婁気の凝動にして紳重なる皇室よら
  分賦せられし吾人の有する徳性なれば亦此忠孝は神聖の忠孝なゎ?
 と。麦にも亦敢て偶数む言はず−然れども附雖として「偶門忠孝論一斑Lを添へたるが、
 そは著者が第一高等中章徳風合貝の依頼に應じて講演せるものにして彿数中に
 も虚考の起るべき原理あら止論じて偶数を国家主義に結び付けんと欲したるも
 のなら。
  此外村上泰曹は立教論む著してハ二十四年九月)耶蘇数む攻撃し、同時に偶数と我国
      ′
 健と維るべからざるものあみと論ず。大要に日く「試みに彼の外教徒が教育上に於



                                                                       =浅軋

                                                     ′−             」一一●)−月=。」宅柑m
 ける心操行希の如何を見るに、動もすれば鹿元節、天長節などの如き重要在る囲祭
日打侍寧算を休まず、彼の外数碇の建設若くは管理する学校ほ於て其休業日の多
き乙とは芙蓉生及び父兄の痛款する所在ら・而「て其学業課程の上針於ても彼
等が奉ずる紳に対して讃美歌首唱へ、新穂計為すが如きは随分多くの時間を費せ
                                                                                          ′
 ら、而して其時間を厳に勤め又は紳に奉ずるの観念に於て能く其故意に契骨する
 ものゝ如きは其鮎真の多数を輿ふるを以て例とせら。無邪気にして優等の及第
 を欲するの生徒虚に知らず識らず其教化を蒙らぎるを得んや。然るに破れ外教
 徒は国家教育を重んずる政府の下に官立撃枚の職員を奉職する如き場合に於て
 すら動もすれば教育上の勅語の奉頚式等に於て不敬の行為に捗ら、己れ他の生徒
 を教育する職を以て却て他の生徒の憤感激昂を買へら。己れ日本臣民たる身分
 む以て、却て宗教上の観念よら、臣民たる義務に背けら。然るに是れ等の行為を以
 て若し一己人に於ける迷想誤惑に過ぎざるものとせば其の教育に閑係なきもの
 として敢て之を歯牙に掛けずとするも、彼れの同数徒殊。に同数徒中に幾分の名牢
 知られたる同数徒は敢て彼を警戒せず、却て彼れむ粁護して益々其非を侍らんと
 せら、而して其の言ふ朗を開けば失捜ほも「我皇帝陛下を政治上の王としては敬事

22a

するも宗教上の王として之れに敬事せぎるものな多。今紙に焉せる文字ハ勧善に
 対して漫に敬鵡を表するが如きは宗教上の迷信を教育上に混用するものにして
曹を得たるものにあらず、我等斯くの如き乙とむなさば罪む紳に得るものなら、若
し強て我等をして斯の如き事を希さしめんと欲するものあらゼ、我れ等死カを毒
 して之を‥挽零せざるを得ず」との恵む以てせら、是れ我国躁と宗教とむ混同したる
 の罪なら廃るに我が備数が皇室に対する心操行魚を見れば衰忠誠愛護の念、賓ほ
個ふべからざるものあら。既に前にも云へる如く、各宗各泥の寺院に就て其の本
 堂に詣れば概ね「今上皇帝整藷萬歳萬々歳しを就廷する登牌む設けざるはなく、叉某
 専門の如き新年三旦及び毎月朔望の辰を期して祀垂と稀し皇帝陛下の賓麻長久
 を斬る式あら。且つ其々専門の如き大寺名藍に住持たるものは先づ其入院の▼始
 めに破て成開閉堂なる法式を摩行し、固家安寧喪算無窮を斬るを以て第一義の法
 要となし、又某寺門に於ける授戒曾五則曾等の上堂に於ても先づ皇帝陛下の萬歳
 を祀磁∴せざるはなし、而して古家の朝廷我が法数の図家と皇室とに恩愛なるを信
 認して其勅常任持に賜はる所の給旨の如きも概ね「某専任職事應二勅誇ら旦y奉レ新こ国家・
 安金賓肺長久憩依_天気l執達如レ件しの認為るむ見る。之れ給旨は数意と音ほ冥奥あ
                                                      ノノ

                                                        ■lll

                                                                               −、婆執

る所といふべし」と。叉太田教壇は「勅藷と件数」を著してハニ十七年二月)併数の国家を
重んずるは資に其本務の数理ほして決して日本ほ渡みて後に鎗く頓應したるも
のにあらずとて古家我邦ほ於ける高野等が国家を電じたるむ例詮し、西洋の樺利
自由の思想の我国憶と相容れざるを説き、又儒教も其天命説の如きは皇統連綿を
以て根本義とする我固憶と相容れず殊に耶蘇故に至らては天啓を奉ずるは我君
父を軽んずるものにして到底許すべからず、濁ら係数。は杜曾の人類ほ尊卑上下貧
富旦月購の差あるは皆過去の宿因によるものなれば亙に之を害すべからず、一天萬
乗の尊き身に生れて四海の君王となバ給へるは、然るべき佗因あみて然るものな
れば、決して之。を侵すべからず∴人の臣と生れては其君に忠を毒さゞるべからず、之
汀偶数の主義にして要するに彿数は共数理上に女其歴史上に、能く我国憶と適合
し、皇室と離るべからざるの関係を有す、と論じ教育勅語の章句を畢げて其示す朗
と偶数の数ふる朗と一致する朗を頼越せるもの、素よら牽強附曾の嫌なき確はず、
而して別に我国憶に就きて論じて日く「諾で惟ふに儲碑二尊始めて此瑞穂囲む生
みなし給以、又吾人の観光′なる譜紳を産み給へらされば此日本国は先、君王あろて
                                                                ヽ

拍して後ほ由良あるの固憶にして劫初以来此土地は皇室の有にして皇宮は邦人

22b

の君家なら、邦人は皇室の臣子なみ、我図君臣の分義既に此に確定せられたみ、喜入
の租先怒る譜紳は其初天皇陛下の御先租なる諾占冊二食の生み給ふ朗にして、爾後
の租先も亦兎肘く皇室の一門なれば、天皇陛下の御先租は父なら母なら盲人の租先
は子なら孫なろ、皇室の」家漸く繁殖して此に日本国をなせるものなら。されば、
皇室と臣民とは共闘一家族の閲係を有し我図は一家組織の団健在ら、即ち忠孝一
本は賓に我国道徳の根本義怒らしと。
 之等清々たる保守的国家主義思想之戚数家の之に対する追随論の中に醸成せ
られ光る図憶論の主なるもの二三を此に掲げバ。
 平田況の皇聾者渡達重石丸は二十三年三月「固本策」む公にして儒者洋聾者等外
自固を尊重せずして外奴の如き態度あるを雖じ、古語拾遺論、古事記論戚南式論を
掲げて我国捜を論ず旧く、
  紳皇の治天地の造を奉じ以て億兆に君臨す、其意一に至誠ほ出づ、之れ報本反
 始の祀由て興る所以在ら・報本反始の穐は唯祭を大屠らとなす夷照大紳の尊
 を以て猶親ら新軍を涼し以て祭祀の。温む奉ず、其旨探し。(糾鮎術語)

                                                                                                                          ●



                                                    弘


 、。帝系の上帝に出でて殊々疑ふべからざる者唯我大日本帝国を然らと覆す。
 蓋上密の戟、四海萬固同紳異名、各尊崇を極め稀して造化イの紳といふ。而して卦
 圃の開鯛は亜細亜に起ろ、亜細亜の本は支却に√在ら、支部の本は紳州に在み、紳州
 ほ帝あら須労良美許登と日ふ、須賀良美許登とは猶宇内統駁の主賓といふが如
 し。内に萬世不易の主を立てゝ以て経給の業を刺し、図造あら、株主溜置あら、直
 あら、別あら、碁布星羅以て其根を固めて驚藤動揺の憂無からしむ、是租宗内を治
 め外を験し以て固を建つる所以の大漁なろ盛批鮎)
  人造は祭祀よら大なる美し、祭祀は王道左ら。決して巫戒の私すべきに非ず、祭
                          ノ′′/
 は政教・の根本たら、根本眈に立てば則ち諸政奉る、是故に我上台の世、祭む以て政
 七夜し、政む以て祭となす、祭は以て致たら、以て治たら、祭政一致、冶教合一、無為の
                                                                                                                  、も−11−
 化、不言の数是に於てか成る、人各其本を祭つて囲、解沐桓の1軽夜`象朴不孝の子
                                                                                         ●
 無く威俗の美亦宜な‥絹ず薄∵
  図を紳圃と詠以人を紳裔といひ垂を紳典といふ束子即位の初或を紳に告げ−
 民に合するの詔も亦之む高天原に紫け、以て其起元を明ほす、以て囲革む慎む所
 以なら袖 凡衰、源俵む詳にせざれば則以て速きを行ふ可らキ台。朝廷の憩の如き

22c

 悉く法を天上の儀に取るは之が為なみ。今巌を興し紹を砥ぎ以て固憶を振起
 せんと欲せば則ち宜しく、法令を一新し、以て人民の耳目を警醒すべし、何をか人
 民の耳目を響擬すると云ふ日く。天皇、皇剋天紳を斎場ほ√親祭し以て大孝を申べ」
 宜しく紳武天皇鳥見山の例に依るべきなら。ハ以上枕詞式諭)
                                                                                                                                                                   ●


    ヽ
 と】
 麓廼合徳明なる人、随在天紳一七九錬ハニ十四年七月)にT大道原論し在る論題を鴻げ
 て云ふ、ハ大意)                                        j
  吾が皇統の一系連綿、萬世不易なる朗以は天壌無窮の紳勅ほ滑渡す0 然れど
 も之れ近因なら。遠飼収量室の太租の我同士鋳造化育にあら、即ち其結果として
 其嫡凝たる皇室の列垂此天地を統御し給ふべき王権を有するなみ。此上下の
 分定食れるもの即ち大道の理原なら、此理原一たぴ定て後、固憶の異偽是非は由
 ら柄焉なら、謂ゆる英国の健裁此音理に合するものを眞とし衰とし、此賓理ほ合
 せざるも・のを非とす、蓋し我が皇国の固憶の如きは太古の紳盤之が極を立て條
 理秩然として君臣の大義閑闘以凍断乎として襲動せず、此則ち世界無比金甑無
 駄の具君主圃なるは天然造化の具理に則ればなら。





と、次で穂積入来は同家畢曾雑誌五巻六十錬犬十一墟ハニ十五年二月三日〕に「租先教は
公温の源なら」と題して、
  何人も幼時父に劣るが故に、父を也が拝し、之を推し及ぽして租先を柴拝す、之れ
 世界典通の寄算ならしなら、此父を凛拝する事が親族法の藤生する所以なみ、此
 親族法の発達に就て始めて人倫の数と云ふ事起る、人倫の数と公法とは今日に
 於て乙そ区別せらるゝも、原人杜曾に於ては其直別なきを以て人倫の数の蜃達
  を確むれば公法の敏速したると同一在ら。
と論ず、図憶云々の文字乙そ無けれ。我国鰹の根本義とせらる1所の租先崇拝の思
 想む以て公法の根原とせるものなら。
  次で迂衛篤麿は図家拳骨雑誌五巷五十五淡ハニ十四年九月) に「君主無責任の理由」
と題し意法に槻達して図憶の根本義を詮て卜ふハ
  凡そ立憲卦主図の憲法に於て、君主に責任なき事を明記せざるもの稀なら。
  我憲法の第三條は之なら、此紳垂の二字は我図憶上、我天皇の紳孫に在らせ給ふ
  にょらて加へたるものと見るべきなみ、「侵す可らずJの中に無責任の意義を合む
  なhノ。

22d

  君主の地位よら此事を論ぜんに、君主の大権なるものは主権と国権とのこに
 分つヾし。国権とは温故樺にして主権とは統御樺なら・固樟は制限し得べく、
 主権は制限し得ず、主権は俵戴上臥家を一身に引受打て外面に表示するの樺な
 ら、換言すれば、君主は内外に向て国家を代表する最高や磯閲にして、各般の政務
 を統】するの地位にあるものなれば、其下位に在る所の横槻にして之に茸を負
 しむる乙とは到底行ふ可らざればなら。故ほ君主の無責任在る乙とは、其「主権
 者なれば無責任ならざる可らず」といふ固有の一理あるほ依るなら・
と、次で二十五年二月、加藤扶桑は日本固捜論を著して其大要に云ふヶ
  四千年以凍世界各囲の或は亡び、或は亡びて蘇ら女合併せられたる中に・一度
 も建国以凍襲を見ざらしは我日本あるのみ、一は地理的有利の位置を占めたる
 と叉囲民有為なるとが致したるものなれど、別に其原因存せざる可らず、萬世一
 系の皇統即ち之なら。此皇統乙そ我国家国結の中枢なれ廃園皆其朝を屡々革
 むるに、我邦濁ら蕗世一系なるは我図家成立の基本大に外因と異在るに依る占
 く、我日本国む組織する例の民は悉く同一なる人種に属する事是なら・
  始めて我邦を冶卒して固を作らたるものは、我皇室の祖先にして、之を扶けた




 るものは皆其支家なれば」天位に昇るペさは普然其皇租の嫡統たるべし、他は英
 資格なし、故に我元首の地位は極めて安泰なら。
  君民一家なるが故に君民は政治的に主徒の閲係あるのみにあらず、又上下亙
 に温情を以て相対す、之れ又皇家の女泰なる原因の一なら、之れ又我邦が外国の
 如く流血を見る事無くして容易に立憲の制シh−取るを得たる所以なら。
と、叉同年十月磯部武者五郎は「固醍述義」を著はせら、其大要に云ふ、
 ・我邦の最美とする朗は此四千萬の一大民族が開綱以衆秩然其序を素さず、君
 は君たるの造む全うし、臣は臣たるの忠を姦し、父は父たるの慈−子は子たるの孝
 む致して葬倫道徳を全うしたるにあるなら。
  我日本人民は一大家族をなし、四千蕗の人悉く其先租を一にせ}q短日人は皆父
 母両性の生む朗、親の親、遡て其先系を考へ其極胡に到達すれば、骨高皇産宴紳皇
 産憲二杜の紳よら出づ、故に此二柱の紳は我四千萬人の太剋なら。此二柱の紳
 よら正系を迫て連綿倖統し給へるは我王室なら。故に我王室は吾四千萬人の
 宗家なら、天皇は即ち衰家の父に在ますなら、我民族は必ず我王室は宗家にして
 天皇は宗家の父なら、衣服飲食よら聾蛮遺徳に至る一に王室よら出で其槙準悉

22e

 く王室に在て、歴世の皇思ならざるなき乙とを知らざる可らず、天皇は立法行政
 二磯閲の上に立ち給ふを以て恰も人身中にて英領に方る故に国家の元首とい
  ふ。                                        。
  我邦土は普天皇の所有たみ、我先王の開き給ふ所在れば在` 天沖天孫を降
 し給ふや、豊輩原の瑞穂囲は富子聴王たるべき地ならと詔す、此三戸萬世誕ゆ可
 らず、衣食住ほ用ゆ絹譜要素其元々を尋抑れば悉く皇租の創造し給エ朗なら・
  →国人民相集らて政令を成す以上は互に道徳を守らぎれば仝き能はず・其道
 徳中最重きを忠孝となす、特に孝を重しとす、忠は孝よタ出ればな`
  又我邦の畢整技術も亦王室の率先して開き給払し所在ら・   叫
  以上の理由に由らて狗立尊厳を保てる我圃家固憶を保護するには敬紳尊王
 愛国の三用ほ擦らざる可らず、此三者を我同胞の公徳といふ、而も此三公徳は賓
 は三にして一、一にして三在ら。
 租先の蜃を敬挿するは東洋の風習にして殊に書日本特有の風習な多、風儀あ
 宴を敬挿するは孝造の終らに⊥て書同胞遺徳の最大なるものな多壷同胞が観
 光の敬挿を怠らず、之を勉むるときは人心一和国饅を軍団ほするものなら壷同


礪弓】…警ゝ …                         ニ∵−⊥転
        用瀾。    [潮劇            。題…  ∪…。ノZ畑凋凋潤渦潮瀾潮渦潮渦潮瀾Z
 胞と近き観光よら更に撞き租先に及ぶときは王室と四千萬の同胞と其風発を
 一ほするなら、故に観光敬拝の念固きときは王室人民一憶と在み、国家一心とな
 る、かくの如くにして図健筆固萬世動かす可らざるなら。
  眈に囲家の観光及び歴朝ヌ畳む敬挿す、敬紳の義此に轟く、更に鷹んで普代天
 皇を尊敬し忠を毒す乙とむ勉むべし、奇計の義之なみ、愛囲も亦同じく図憶よら
 凍る、即ち】 固を奉げて租先を同うする兄弟姉妹なみ、故に其一般公共に関係す
 る徳義は芽兄弟婦殊に対する徳義なら、かくて固を奉げて舶信愛するは即ち囲
  を愛する所以なら。
 と、

 ′ 此外、久米邦武が史章雄誌に、我紳遣の祭天の■台俗なるを論じたる →文を公にす
 計や」天下蕊々として之を厳し、其我囲健を毀損するもの在あとして彼を攻め二下町
義夫の祭天竜俗説弊明。宮地鹿央の祭天竜俗絆義等即ち之なみ)慈に大挙教授の磯
を失はしむ櫓に至らたるも此頃なち、又二十五年九月ほは雑誌「紳造」螢刊せらる衰
 始めに紳遣総裁の新造綱領を掲ぐ、
   伏て惟るに紳遣は皇固の大道、天剋の鶉訓にして皇統一系天壊と窮ら無き′は

22f

  則ち斯道の存する所以なら夷皇国の臣子たる者誰か奉戴せざる者あらんや、是
  れ金が七旬に鎗る身を以て絶裁の命む拝して辟せざる所以なら、筍くも職を奉
  ずる者宜しく金が意を渡し狙勉従事皇国をして隆盛ならしめん乙とを望む・■
 と、叉随在天紳二一七壊ハ二十六年十二月〕ほ溌江速廣は「紳祓官復興すべきの梗概しと題一
 して、我が大日本皇国萬古不易にして宇内誇解する所以の者は皇天二組の三大詔
 あらて上下之を橙承し国膣を重じ凍るが故にして、其三詔(豊葦原=…毒見祓二此資
 鋸1・=盛観高皇塵命詔日音別起二樹天津紳廓及天津磐項T==)は本朝図憬の神髄に
して萬世ほ亘らて動かす可らざる至貴至重の大典なれば此忘ハを開くとづは周
 膣完備せざる所以を述べご十七年三月には長野義虎は愛図篇を著して固鰹の尊
 重すべきを説く。大要に云く、
 ・今日に常らて何未だ世界を呑併する固あるなし、此際に営みて達眼の土▼大策
 む施さば他日各囲を一九と為し、到る虞他日を弼す事計得ん、然れども之一ほ今
  日邦人計童の如何にあら。
  抑も我邦は弾丸黒子の一孤島なれども、高租紳武天皇即位以家城に二千五官
 五十三年其皇統連綿として未だ嘗て一句紳器を親観するものなく、叉昔て他陶


雲慧パ妻貸与妄≡、     。′  頭周題L 三弓 ≡戦機機[[[Z一Z】】
 の攣肘を受けし事むく蛮離の隆盛亀に天壊と究らをきもの登に偶然ならんや▼
 上に天胤の重きあらて天業を経給し、以て四海に君臨す虚兆の民畢て之を奉戴
 し・協同一致能く忠拳の大訓に徒ひ、君臣の大義を守ら、乾坤速邁▼一人の夷光を仰
 慕せざるものなし。是れ我豊富の紳重犯す可らざる所以な丸V
 と、而して同時に設立せられたる愛固数曾の数旨む述べて日`
  凡そ人一家に在ては一家の安全む計ら」死以て一家を保護せざる可らず、一
 団に在ては一団の安金を計ら、一死以て一団む保護せざる可らず、故に一家に在
 ては其一家む毀損せんとし、或は放火せんとするものあらば、番めて之を防遺す
  るは骨然の義務なみ、一団に在ては一周を損害せんとし、或は之を侵略せんとす
  るものあらば済めて之を制止するは亦常然の義済なら。1 之牢全くせんには一
 朝事あるに常ては開民皆義勇兵となら虜備軍に加→て戦闘すべし、
 と、而して之れ此食貴なる図鰹を盛にし、他日世界の覇者たらん為めに此愛団数曾
 を設立せんとする丁所以な卜、といへら、次期の始めに高唱せられたる日本主義なる
 もの・ゝ伏線とも見るべきなら。
  明治二十七、入年の交、日清戦役あらて、我、彼に勝つや、図民的日登勃然として起ら。

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一般思想界の風潮又大に異なるものあら、以下第四期として述べんと欲す・