本  論
   H・徳川時代前期
 上述の如∴我国が神国として国民的自攣外闘に対する我邦の優雰如ち我固の
 図攫の特異なる鮎等を確認する事は盲へょら歴史上新著の事資在るが、之が聾者
 の議題となみ詳細ほ之を研究するの風を生じたるは徳川時代を待たざる可らず、
 而して其然る所以は勿論徳川時代に一般の撃間数達して我古代建国の憶制漸く
 明に在れる事は其一般的原鞠在るが更に、儒家が徒ほ支那を尊びて白岡を卑下せ
 る態度に激沓せられ、又徳川幕府の繁発に反して京都朝廷の甚し・き式飯を封層t


                                        γじ八女
 て理論以外戚情的に尊王の思潮を培へるものあ阜、特に其京都費毅の下にあらし
 聾者の間ほ其抑源を見たら。
 徳川時代初期ほ於て学問の■先魁をなせるものは藤原慣窺にして其著「千代も\と
 草」ほ皇祖皇宗の民を慈み給ひ、之れ皇統連綿たる所以なるを述べて「天照大神は日
本のあるじなれども宮作はかやふきなり、御供は黒釆なり、家居むかぎみ給はず▼食
 にめづらしきものむとゝのへずして天下の萬掛をあはれみ給ふなり、神武天皇其
 あきてむ守らて造をみ乙な以給ふによらて後白河法皇まで幾千年といふ数むし
らヂ、代々子凝に天下をゆづらてさかえ給ふなら」と云払、又我1神造も其仁を旨とす
 る鮎ほ於て磁撃と異なる朗なきを論じて「日本の神道も我心をたゞしうして萬民
 をあはれみ慈悲む施す牢極意とし尭舜山道も乙れを極意とするなり、もろ乙しほ
 ては儒遣といひ、日本にては神遣といふ、名はかはらて心は→つなら」といへら.
 林雁山亦耀笥ほ畢びて儒撃の棟染たら丈我が神造を研究して本朝神社考の著
あり、彿徒の顔屈を恵み、神備の習合を斥け、我開の神図にして、之によネて我国憶の
 不扱なる所以を説く、即ち神社考の序文に日ふ、
  それ本朝は神国な鼻、神武帝天ほ聴いで極を建てし已家相績き相承けて皇緒

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 超えず、玉造乙〜に弘まる.乙れ我が天神の授くる所の造なり、中世屡く飯ほして
 彿此隙に乗じて彼の西天の法を移して吾が東城の俗を攣ず、玉造既に衰へ神遣
  漸く勝る
 と、更に倭賦を作らて我神州の優雰む詠ず日く、
   惟書邦之露秀争、銅盤之朗L据生}環以`太洋海各.准`場谷之明明一名L比日電車争、固自
 然之嘉名争、或謂君子居`之せ、宜風俗之浮直、泰伯譲両家今、少康之子止而不」夜、或謂
 −                             ノポソテ
  不死之固せ、亦気運之純清、天神.捗而在」上今、ハ下略)
 と上京行山鹿甚五右衝門亦藤山ほ学びて別に一家七なせる人.世に兵捷家を以て聞
 ゆと維も自ら任ずる所は儒教にあら.其後世徳政の上に影響を現せる事は有名な
 る元線の復讐事件に依みて世に普く知らるゝ所在阜、中朝事箕を著して我邦政教
 の抑渡する朗を明にす、我国を以て中朝と解する乙と他の儒者の未だ云ひ能はぎ
 あし所にして素行の識見既に尋常ならざるを見るべく、其序に我国む稀して.中華
 と云払中開と稀して英国土の優秀、皇統不朽空冷の他に異なる所以を述ぢ日くノ
   恒に蒼海の窮らなきを見るもの、其大を知らず、常に原野の唾無きに居るもの
  其磨きを知らず、久くして猛るゝなり、豊唯海野のみならんや、鹿家るもの中華文

                                  【
 明の土ほ生れて未だ其美を知らヂ、専ら外朝の経典む噂み鬱々として英人物を
 慕ふ、何ぞ其れ放心なるや、何ぞ其れ喪志なるや、抑奇を好むか婿異を侍ぷか夷れ
 中図の水士蒔邦に卓爾す.而人物は入絃に精秀す、故に神▼明の洋々、盤冶の麻々、換
 乎たる文物、赫平たる武徳以て天壊に此すべきなり、今歳冬十有一月皇統の事箕
 を崩し、鬼童むして焉む許せしむ、其本を忘れざらしむと云ふのみ・
本論中国章に於て、我邦を以て中国となすべや所以を論じて日く、
  天神伊弊諾食伊弊海食に謂て日く塵葦原キ五官秋瑞穂の地あら壷く汝徒て
  シラ
 循すペしと、乃ち天埋求を賜ふ.
   謹みて接ずるに乙れ本朝の水士を謂ふの始なり、初め既に乙の稀あみ如ち
  其の水士の美は議せずして乙れを知るべし重し恩は庶富の言なら衰原は草
  昧の稀なり、千五官は衆多の義」秋瑞穂は官穀盛熟の意在り、天神の登通ぜざる
  なし、故ほ水土の決壊、人物の庶富教化の以て施すべきを知らたまふ、夫れ其の
  横を知るの謂か、ニ神乙れに従以、以て其功を澄ぐ、其の繁る朗全く天神に衣阜、
  愁なるか夜、本朝開閑の義、悉く神教の壷ほ因る、乙れ乃ち貸に天乙れに授け人
  乙れに輿するなり、故に皇統は億兆の系あらて終に天壊と窮らなし.

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  皇風高皇塵質草遊に皇孫天浄彦火塩々杵奪を立てゝ葦原中開の主と為さんと
  欲す、乙れ本朝を以て中開と夜すの謂なり、乙れょ鼻先き天照大神天上に在して
  日く、輩原中駒に保食神あらと開くと、然れば即ち中開の栴往古よら既に此ある
  なふソ.

 と云払て、以下我固が中図なる所以を経訣せり、更に皇統華に於て皇統の無窮、天照
 大神の天孫降臨の神勅に依りて・氷久に定まるむ論じ.其他、神器章、神教牽、神沿革神
 知章等を設けて我邦の神国たる所以を明かにせみ、後」事に依りて幕府の忌弾に触
 れで赤穂に幽せらるゝや自ら筆む探らて配所魂筆を著はす、中に我国の他に同じ
 からざる所を詮きて優雰なる駒膣の淵源する朗を述ふ日く、
   本朝は天照大神の御苗裔として神代よら今日まで其正統一代も達候事無之、
 ハ中略)民やすく図平に、萬代の規模立て上下の遣明かなる畑是れ聴明斐知の天徳
 む奉ぜるにあらずや、況や勇武の造を以ていはゞ三韓を平らげて本朝へ貢物を
  あげしめ、高麗をせめて央王城をあとし入れ日本の府を兵団に設けて武威を四
  海ほかヾやかす事上代よ身近代まで然り、本朝の武勇に異朝までも恐れ候得共
  終に外固よ与本朝を攻取候事はざて昏一箇所も後塵へ奪はる〜事なし、されば



  武具馬具執戟の類.兵法軍法戦略の品、彼固の非レ朗′及、是れ武勇の四海にまされる
  ほあらずや、今此三徳を以て本朝と異朝とを一々其しるしを立て枚量せしむる
  に、本朝はるかに優れり、まさしく中国といふべき節分明なみ、是れ吏ほ私に云ふ
  にあらず†天下の公論なみ。
 と、
 常時別ほ滑侶よら出でゝ朱子撃に入り、史ほ神造を修あて皇図の為めに萬史の
気を吐けるものを山崎濁斎となす、閣斎の朱子寧及び其神道故に就きては今度に
論ぜず徳川時代に於て園健に対する団民の自覚を喚起せる鮎に及て閤粛の如き
は資に其一大原動力と稀するも不可なし盛哲叢談魅三に見えたる有名凛る逸話
 に、昔て葦弟子に閑人に、方今彼の邦、孔子を以て大婿となし孟子を以て副嫡軍とな
 し敷萬騎を率払て我邦を攻めば我塞孔孟の造を嬰ぶもの如何すペきやむ以てし、
 弟子等答ふる能はざるや.吾黄身に堅を被ら手に鋭む執らて一哉し.孔孟む捨ほし
以て閉息に報ゆべし、之れ即卜孔竜の造なみと云へらとあるは其人となりをよく
 衷はせるものにして、共学すべて此立脚地に立つ、芸れば其門に聾ふもの 】は其儒
準_俸へ一は其神道を停へたるの差あれども、何れも其囲家主義の上ほ立ち我固

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-健一β食厳雲助唱せる鮎に於ては即ちLなり、徳川時代ほ於ける囲鰹開明の重鎮と
もいふペき水月畢の如き又其本源を麦ほ凝せみと稀せらる1もの朗以あるなタ
 其門人中最も著名なるものを壌見網粛、佐藤一直方三宅伶粛となし・之を崎門の三
傑と稀す、壌見綱斎は有名なる靖厳選言を著はして最有力なる勤王鼓吹者カム〕牌
東の地む踏まず、諸侯に准へず」と誓払→もし時を得ば義兵むあげて王室を撞くペし
とて靖厳遺言む作れらと云ふハ丈曾雑記巻ニ)其努頭に日ふ、
  今日此書を編みて義ほ志し寧を勉むるの士と共にせんと欲するも秒は造衰
 へ聾慮れ、人倫の造明かならざればなり、是を以て、俗、8に鴻く、所謂空費の数在る
 ものは固よろ嘗て不滅と雄も能く之を究め知らて貸を踏む者解し、忠孝の大節
 に至タては最も知らて信ずる者難し、親に事ふるものは鎗ほ天性の恩愛むやっ
 て購書の罪に至る者或は少し、君に事ふるに至らては其上下和雄れ貴横軸待の
 嘩平生は失はざるものあらと雄も、乳離反覆の際恵を棄て敵ほ降り、思を忘れ義
 に背きて秤脆奔趨して但た後ほなら止を恐る\者往々相踵ぎて其間忠義を奮
 以命を残し簡ほ趨く者あらと雄も、君臣の義に於て練達講磨する所或は精しか
 らざれば心私なし▼と錐も義に庚み忠を矢ふものな鼻。


と、此椅神を以て全力を以て轟息報図の鼓吹に努めたるな阜.ざれば其自ら詩ぜ
る靖戯邁言講義にも、常時の儒者輩が碇に唐土を尊びて自ら卑しうするを攻撃t
て我星図の普むペき所以をカ孜す」日く.
  扱中開夷秋と云ふ事あるに付き虐の書に日本をも夷秋と云置を見て−とぽけ
 た聾者はあら口惜しや恥しや或は夷秋に生れたげなとて、我と作多病をして嘆
 くが、扱てノ〜確聞敷見識ぞ或が生れカ固琴大事夜中図が何虞にあらづぞ・駒が
 小くとも・何が達ふぞ由じ日月を唐人の指固を受・けもせずに戴て居る図に虐人
 が夷秋と書て置た程ほとて虚早剥げ拍様ほ鬼て居るは人に唾をかけられて得
 拭はずほ泣て居ると同じ事ぞ、其でも聖人も夷秋と云ふたと云ふけれども、其は
 唐の蛮人は庸からは言う言ふ筆日本の蛮人は又此方を中駒にしであちらを夷
 秋と云ふ筈ぞ、其ですれあふかと云へば其が導理といふものぞ大義む知ら沿者
 は其で迷ふ易い番人ほも親があり、我ほも親がある人の親の頚ははらるゝとも
 我が親の頚ははられ拍煉托するが子たるものゝ義理ぞ、直に其あちらの親とい
 ふ親の子も又面々に我が親の頭をはらせ氾棟にするど、是がすれあふ様なれど
 も其で義理は立つ者ぞ.其でも日本は小国じやと云ふ−其ならば身代のょい者の

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 親を見て、手前其よら軽き身代の親在らば役に立た氾親父よとて何虞ぞへ捨て
 ょぅ一か、是一つで合鮎のいた事ぞ、或人日く、其でも日本よら昔は遣唐使を遣はさ
 れて此・方よ・ら貢物を遣り、れたからは日本は手下では無いlかと、其は無作とした
 事ぞ、此ぞ大義を群へ氾と云ふものにて其は大義を群へ氾誤で、我国は天地開鞠
 以来除朗の図の蔭にて立ふたる国にてなし、神代以密、正統に少しも紛なし虐の
 書をよみてをじめば何朗となく唐人気質に戌つて日本は鹿屋の様に登て居る
 車今第一の、僻事なみ、事故義理を破るといふは斯様の事なら.
と、されぜ或人の天子を挿し得たらといふを開きて我皇室の萬世一系無窮なるむ
讃して日く、
  殊には天凍を拝せらるrゝ事難有事に候夷照大神よら御血脈今に絶えずつが
 せられ候へば実に人間の種にては無之候.神明を拝せらるゝ如く思はるゝ由左
 乙そ可有乙とに候、我固の萬囲にすぐれて自讃するに勝れたるは火乙の事に候
 (中略)我固の自慢と云ふは衰たらと云へども睾に御血脈がたえいで店の尭舜の・
 受碑、湯武の放伐の如くなる乙と在いと云ふまでヾ乙そあれ、今日では本願寺の
 勢ほどにもなき王室をいかめしく云とも片腹いたく候ハ難詰筆記)
■■1..■.r.                 HL吋J箋〆dノぢ...え才女舅ノー真a1一′賢妻トF.彗−−∠
 又別ほ中岡簡なるものあら南じく中周東秋の名の支那よみ云ひたると我邦よ
ら云払たると自ら其主客を異にすべきを論ず、日く、
  中岡夷秋の名、儒者にあみ、凍る事久し、我囲に有て儒音感ん打行はれ備蓄をよ
 むほどの者虐む以て中国とし、吾国牢夷秋とし、甚しきものは吾夷秋の地に生れ
 たみとて悔みなげくの篠乙れあlリ、甚しい哉」儒者を凄む者のょみやうを失以て
 名呑大義の資を知らざる事恋しむペきの至らなみ夷れ天地の外をつゝみ盛征
 くとして天むいたゞかざる朗左し、然れば各其の土地風俗の限る所各∵分の天
 下にて互に尊卑費購のきらひなし虐の土地も九州の風俗は上古以来打線き風
 気一定、和払うけ言語風俗粕通じ其ならの天下也、共の四方の廻らなる風俗の通
 ぜざる朗の分は夫々の異形異風の健在る団々、九州に迂き通謬も達する分は庸
 ょら卑れば由ら遽土まはみのやうに鬼ゆれば九州を中図とし外まはらを夷秋
 と稀し−凍る夷れを知らずして儒書を見て外固を専決といひざま・あらとあらゆ
 る萬囲む皆夷秋と思ふ、曾て寄図の、固よら天地と、北ハに生じ、他国む待つ理なき頑
 を知ら拍、甚あや食らなみ、ハ中略)吾固ほ生れて吾闘たとへ徳及ばずとて夷秋の賊
 名を自ら名の阜・かけ虐の下につかねばなら冷やうほ覚え己れが国のいた.ゞく

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 天を忘るしは骨が潤むいやしむと同然の大義にそむきたるもの也・況や戎囲天
 地の払らけて已密正統つゞき萬世君臣の大綱襲ぜざる事是れ三綱の大在るも
 のにして他国の及ばざる朗にあらずや、其外武毅丈夫ほ.て廉批正直の風天性に
 根ざす、乙れ我国のすぐれたる肝なム、ハ中略)
  中開夷秋の名は夫れともに庸よみつけたる名也、其の名を以て吾図を解すれ
 ば夫れともに庸の具似也、只吾周を内とし兵団を外にし、内■外実主の群明かなれ
 ば吾図とエぴ兵団といへば何方にても皆すぢめ達はず・
と云以、又同門佐藤直方が湯武放伐を詠めたみむ以て我国膣を知らざるものな鼻
としイ「是は佐藤氏の老葦と存候、さなくては斯様な不屈は申されまじく候、格物と
云ふも窮理と云ふも只.一の目的は君臣父子の大倫よら外無之候、其君圧の吟味が
右の通らにて候へば、其余は云ふ乙ともなく侯度々聾者が湯武ほきずの付けとも
覆い廻護するしとらがある故に有滋ほ此斗の工面を云ひたがら候しと云竺光線四
年に書ける殉幽操附録故にも放伐の事を攻撃して、
  鴨呼放伐の事一たぴ行はれてよら千萬世無窮め下凡そ乱臣購子君を栽し囲
 む瀦むもの未だ嘗て湯武を以て口資となさゞるなd忠臣義士義に就き・命を致

 すもの又未だ嘗て夷藩を似て自ら慮らざ.るものあらず、士、是に於てか亦揮ぷ所
 む知るペきなり、
と云へら.
  闇粛の門に衰名松雲あみ、其門人栗叶潜錐保建大詑を著はす、完線二年岸に
 ∵=上世皇組、授璽之初日、軍縮之隆芦輿夷壊転勤、其徳之盛、菜之大青王歴々一姓
 綿々可下以欄三日月】以要兎神−以観中方域之外上面固不レ待孝之歌項勤吋之金石上也
と云払蒔世一系、天壊と窮らなき我神州の他邦と同じからざるを述べ、本文、嘉應元
年采明洲刺史上書して物を厭ずるに曹り、稀謂、祀楽し、大外記清原穎菜之を祁けん
としたeも法王聴し給はざらし記事を掲げ、之を許して、
  華夷何常之有▼華両用二夷鵡知夷也、夷高進L準則華d之」古之制也、例嘗論L之ノ失地者天
d 叔之凝=衆干中一也、天乃地気之折二環干外延、天地之間何往而不〔中、又何徒不二天下‥故彼
 此皆自稀日こ中囲】蓋封`外駒乏通稀、而固非r言二此土葬堪輿之正中−也、革衰或為」岬固宜
 海内為夷下論外声夷馬」番則雄エ倶非九九絶域之通言詠各固白梅、彼此無三和尊重以
 淡海公葬政撰ご職員合一掌;超人】謂二玄蕃盲肉多親王寧別姓氏d秦漠之裔牧二之諸畢濾親易
 亦日、彼以数多い東夷奉我以数多西蕃垣琴撃墜季市井女不転季摺神襲乎薔輿論不こ

1a

 之商議以完明高岩中華自革東夷亮発車外観萬世父母之邦南無顔首王憲令之著夷・
 音階主野書日、皇帝恭問顔皇廷臣滑疑衰無準況以エー州刺史上革矢儀乎磨独三瀬業
 之革而納信報答、非翫二以示=固健於混準也。
と云払底儒難の外食内卑の随なるを攻撃す、又壌見網斎ほ聾び、別ほ閤粛の神造詮
を紹げるものに谷秦山あり、栗山潜発の保建大詑を以て祓造を大根とし孔孟を羽
翼としたる名分上の・良書となし、之を義繹す、門人之を録し・て保建大記打聴と稀す−
中、我歯憶上三億神器と皇位との関係に・就きて其凝るべからざるものなるを認め−
書永の乳平家が安徳天皇む奉じて西に落ち給へる後、後鳥羽帝が神器なくして櫛
位・ほ上ら給へるを有るべからざ▼る事として女撃せる如きは、後・南北朝問題の喧潰
せらるゝに蕾むて最も重要観せられたる神器論と相照應するものなみ
 浅見網粛の門に三宅観瀾あり、後.水月義公に召されて英国史篇修地裁となれら・
其著中興撃言は実ほ観瀾の名をして不朽ならしめしものほして専ら我駒膣の由
来を論じたるもの、水月に′於ける図憶寧は資ほ観瀾に負ふ朗最も多し、内−論徳の苛
に於て三種神器と我国家と皇道との閲係を詮く乙と最も詳な多占_
  或云、頚は慈悲なり、鋸は正直なみ、剣は決断な丸と或は云ふ、凌は以て身を修め、

 埠は以て心を正し、剣は以て知を致すと、或は云ふ▼知仁勇に配すと−或は云ふ日月
 星ほ象ると、或は云ふ天地人に則ると、或は云ふ、鋸を以て主と為すと、或は云ふ澄
 む以て本となすと、或は云ふ心に三種あり、と或は云ふ三種は十種ほ分つと.嘗て
 其儀を考ふるに頼拳に腱へず、而して殊に知らず租訓の在る朗、剣も亦可、凄も亦
 可、顔も亦可、之を一ほするも亦可、之を二にするも亦可、特に此三者侃服驚重、8常
 騰親して以て其容む照す、其身の親む所、心の変する所、焉ほ如くは美し、是を以て
 手づから之を授けて日く.猫ほ書を洩るが如」せょと如ち受けて奉ずるもの傷
 然誠教し、聾響戚通し、身、器と輿に在る所に随以、而して租考の精細左右む照し上
 下む盈し、得て蔽ふ可らず、是乃器即人ノ人即天、図版之に由て侍はり、皇道之に由て
 生ず、聖子神孫、臣工黎民むして良保欽仰して自ら墜する事能はず、貴凍上下の位、
 鵡染政刑の施、其叙に遵ひ其度を正し、自ら素る能はざる在ら威れ宣言を喩へ理
 を論ずるを須て為る者ならんや.論者.適々其至易至簡にしt口舌の施す無きを
 以て憂とをす、象に依て類を慣り、繹を授て倖む混し、紛鹿支離、畢に王数精微の旨
 むして歴然として日々に失はしむ、豊敷くに足らざらんやノ其他流れて巫祀精を
 資るの術とならざれば、則ち雑多て浮屠妖を資るの媒と為る、梵典む頸むもの上

1b

 世の神明を指して以て金軟化する朗七をす、漢書を詩ずるもの同系の源流を推
 して以て斑晃の出となす、聖を侮るの罪何如、近世に至て又宋様性命の詮を取み、
 以て之を張皇文鮪し、陽に牽合を忌み陰山に剖瀦を事とす顔に日、理四海に準じ期
  せヂして同、則言誠に似た多雨も言具象・々乳る.
 と、無数の古道を以て我皇道の本領な♭とし、悌意障意合せて郷けたるもの必ずし
 も復古囲尋朕にのみ其功を蹄すべからざるなら。
 三宅偶密の門に加々美櫻鴇あり、其門に山煤大式あみ、幕末尊王討幕論の発願者
 として竹内式部と共に人口に曙噛せる人にし<柳子新論の著あら.其正名篇第
  一ほ、
  ∴我東方の国たるや神皇基を畢め緯照穆々ガめて利用厚鐘の温む作し、その徳
  む」明々ほし四表に光被する者一千有給年、衣冠の制を立て感染の数を設け、周召
 の若きあり、伊樽の若きあら虚今に到て其化む被らざる無し、此よ阜後、昭宣忠仁
 譜公武を聴王の制に准ぎ重々大驚の令に従以綿々共敢日ほ盛ほ月に隆に郁々
 たる文物発と三代の時ほ譲らず、ハ中略)室町氏胎ぎて興り、武威益々盛に、冬牌相と
 稀して箸は南面の位を潜す、然らと錐も先王の明徳深く民心に決治す、則ち強暴
                                           !彊

  の′臣価何忌慌なき乙と能はず、是む以て神器移らず皇統鹿に存す.
とて我国の優秀皇統の千古犯す可らざるを論ず.
 所謂実暦事件の張本人として山株大式と共に討幕運動の魁をなせる竹内式部
も赤間粛流の思想を酌める人にして資暦七年に記したる奉公心得書なるものあ
ら.皇上の神胤ほましまし我飼憶の根本義たる君臣の分の乱す可らざる所以む
論ぜみ.日く、
 夫れ君は上古伊昇格普天日を講受て天照大神を生み給ひ此の図の蒼とし給.以
 しょら天地海山よく治まらて民の衣食住不足なく人の人たる遣も明かに屠れ
 み真の後代々の帝よら今の大君に至るまで人間の種ならず、天照大神の御未な
 れば直に神我と挿し奉み、御位ほ即かせ給ふも天の日を栂ぐといふ乙とにて天
 津日給とい払、又宮づかへし給ふ人を書のうへ人とい以都を天とい払て四方の
 図、東園よみも西囲よらも京へは登るといへり、曹へば今床の下へ物を生ぜざる
 にて見れば天日の光ら及ば氾慮には一向革木さへ生ぜの、然れば凡そ萬物天日
 の御蔭を蒙らぎるものなければ、其の御子孫の大卦は君なり、父なみ夷なり、地な
 れば、此の固に生としいけるものノ人間は勿論、鳥獣草木に至るまで、みな此の君を

1c

 うやま払尊び、各々品物の才能を毒して御用に立て二心なく奉公し奉る乙とな
 り、故に此の君に背くものあれば親兄弟たらといへども則之れを誅して君に錆
 する乙と吾固の大義なら.
と、
 其外垂加減の神道を租越する人々にして」其神造論に閲係して或は我国の神図
たる所以、或は皇統の銅盤なる所以む述べて以て我団憶の普段を孜くもの少から
ず、今是等二三に儲きて其概要む掲げん.
 高屋近文は神温啓蒙牢著はしで■我建国の次第と神遣沓生の由来を詮けら.中に
皇統無窮の一章に日く、
  天地既に割れ神盤其中ほ位してよら以衆、歴代の瀞位其統を失はず、其徳を毀
 たヂ、他の蔑めに侵されず、臣の食めほ奪はれざるは何の謂れぞや、神代巷に日ふ、
 天照大神此図を天津彦火埋々杵蜜に授け、勅して日く」革原千五官秋之瑞穂図は
 是吾が子孫王たるべきの地なり、爾皇孫就て治すべし、行け、驚離の隆光る事、天壊
 と輿に窮なかるべし云々と、且つは神器あるむ以てなり、所謂神器とは、入坂埋曲
 玉、入曜鋸、草薙創是なら.




と、又大山馬鹿は、唯一論の初めほ自ふ、
  開欄以降.首鎗代の天子姓を易へず、8神の血肉を橙ぐは我神国のみなら威に
 君臣の遣亦明なり、神破官を以て諸官の上に置くは是れ神道を重んずるなら由
 は神団、造は神遣人は御薗な→.
と、又伴部安男の神道問答一名和漢問答ほ友人の此国が中興支胡)に劣らたらずや
 との疑問に対して、
  失天地のうちいづれか親なからん、いづれか君なからん、朝むいとあしみ、君に
 ま乙とをつくし、萬代の天地と共にかぎらなくかはらなきにあらざれば、誠の忠
 孝の造祓盤の心にあらヂ、抑日本の国は伊弊諾、伊野カニ柱の神聖天の御社牢立
 給払しは則天地のかたょらず、卒なるの温にして中津図動きなきもとなり、乙れ
 ょら天照大棚あらはれさせ給ひて痴心のめぐみうるはしきひからJハ合の中ほ
 てら徹ら給へば、此固の人永くうつくしみをかふむり、天地と典にかぎらなくい
/ やま以奉らて、天が下の君とならせ給以しょみ、以とつ日嗣の、今日までも動事な
 く此此の御即位までも、かけなくも同じ大神の御心のてらとをらせ給ふものな
 らし、その温の御数は猿田彦大神高盈産蜃革天鬼屋命、太玉命、村雲命、仕へましま
           \

1d

  して、中津図の人を教導き給ふょれ、今ほたえざる御事也、天が下何れの固か着た
 る遣−是に及べるや、子たる慈、いづれが乙れに及べるや、臣たる造、何れか.是に及ヾ
  るや、水土清ければ其乙とはらも亦清くしてノ人の心極めて正直なるがゆへに夷
  地開けはじまらしよら久堅のけふに至るまで、天地あらためかはる乙となきは、
  ひとらパ和の図也、ま乙とに神垂のみ乙とのらのごとく、豊輩原中津図にして茶
 園にすぐれたる事疑なし、此固の外・中国といふ事むしnずさ
 と述べ、之に反して支那は朝の改まる事三十度、且つ近年は牲人に囲む奪はれ、かの
 犬飼の人一人も故人を主人と仰が氾ものなきは如何なる心ぞや、たゞ蛮人十人計
 も生れて其恥ある閲の名を揚て其粧む覆ふのみと、彼此国柄の相違む対照す.
 若林張粛は浅見網粛の門に入ら閥藤沢の朱子撃を畢び儀容者に属する人なる
が、又一方玉木正英ほつきて神遣を撃び、神造大意−巻を薯はす、極めて短篇に過ぎ
 ざれども要を毒しねり、要は我邦の造は神道.君は神孫、固は神南なり、彿徒儒者之を
悟らずして、外食内卑の畢に出づるは顔だ心なき菜ならと小ふにあみ.
 又尾張侯徳川義直の如きも閤粛の流を受けたる人なるが、共著神紙質典良序に−
 我意円の神国なる所以を論じて日▼く▼




   夫れ本朝は神蜃の挺生して棲合する朗なら▼故に推して神国と辞し、英資を神
                                                                 ヨ」y
 器と墟し、其大資を守るを則ち神皇と日払、其征伐するを則ち神兵と日ひ、其由行
  ふ朗を則ち押遣といふハ下略)
 と、
 又別.に青田家の神道む受けて吉川流神道一派を建几たる富川惟足は粂倶の神
遣大意を請じて「央れ我が固は天地上倶に神明薪れ座す盲澤して、
 ・・此日本が萬固の根本の闘也、凡そ三園の中ほも日本は東方也、萬洲の中ほは中
 央なり、東方。は春なら朝なみ、春は四季の始といふのみに非ず、惣じて萬物の始め
 也、故に天地開聞の始めも東方よら開けし.乙と印の普然也、日本と云ふ固就は異
ノ 国よ多名付くる虞と云へども吾固の樽ふる虞に叶ふが故に此方へ用ひてやま
  とゝ云ふ虞へ日本と書く也.
と云以、r故に国を細岡・と云ひ」とあるを滞して、
   天地払らくるとはや固常立尊はあらはれ給ふほどに神明最初出現の固と云
 ふ止ほて神図と頁ぞバ中略)神国と申すに付て意得あら由常立食、伊弊諾食伊界ヰ
 食、天地と倶にあらはれましノ1て天地の道理を立られ君臣上下の甥む授けら

1e

 るゝことも天地を以て書籍とし、日月を以て澄明として全く人心の分別を以て
  数ふる乙となき閲なれば是む細岡と云也.
 と云ひ又「儲が香囲む仰がざらんや」を稗して、
                                      ●
   何れの固に生れ、いか在る人か、此の道理を開きて我日本を仰がざるものあら
 ん.然るに我国に生れて神の子孫たる人」岬団の粟を食み乍り、他邦の造をあがめ
 書免租の遣を知らぎるはたとひ萬巻の書むそらんずるとも一文不通の旨人と
 云ふべし、尤も憐哀すべきか在。
 とて、我日・本が神団として萬図ほ秀でたるを述べ此囲に生れて他の数む命ふもの
 を批難せら。
 是等の異国革巌論に封比すべきは江βに於ける物門一流の人々の図牌論なり、
租彿英人の我国憶に崩する説諭なるものは見る能はざるも、自ら来夷と稀し極端
 にィ支那尊崇者なるが故に其二思想の如きも察すべきのみ、然るに」世に租彿の著とし
 て図畢群現在与もの計侍ふ」其大意は我が儒学者流の動もすれば彼む息び壷Hを卑
 しむ事を不可とし、先づ園畢を撃び君位図憶を群へぎるべからすといふものにし
 て▼




   帯同の遣むあきらめ萬蛮に達したみとも我君位囲の。いは汁を知らず−此方の
  遣わ・きまへねものは愚者と云べし、一句不知の人在らとも君位図のいはれむし
 丸此方の遣むわきまへたふとむ人は智者とす、此方の遣はやすらかにして時に
  か\わらず行ひちかき数なみ、しかるに我者位図のいはれとは天地いまだひら
 け・ざるさきよみ神王ましまし萬物の主に位したまふ、天御中主尊とまふす、忠経
 に主食とまふし祓租と稀するは乙れなみ、朴租よら司命の神に命じたまひ混沌
 むひ・らかしめて天地とす、此租神よら皇統粕漬ましノ1てユハ他の君王の▼時神蔵
 敷萬にして諸図に佳たまふ七世の粛王に至身ては団々の童女定め.たま以、山林
 河港にむよぶ、女尊を儲られて大日登音と申す、こ…此七世の君王までむ天神七
 世とまふし、無為質素の楽土と云ふ女後やうノ1国事以ろまるゆゑに夷親政事
 を二不し、四物をもつて立板とせらる、神思、政禎、倫理、兆民なり、天下を以て一家と左
  したま払兆民む喜一子とせらる.
と云払・論ずる七乙ろ後世の図膿論に近きものあみ、多少採るべきものなしとせヂ、
然れども其詮.租従の根本思想と全く相容れず」恐らくは後世人の慣托なるべし、微
視の門人大宰春毒の如きは亦支邸の所謂蛮人の造む出加拝し或囲を以て夷秋の困

1f

 とするものにして儒教輸入以前の我邦の國體、道徳む殆ど云ふに足らぎるものな
 みとし、又我邦の神道なるものを認めず、其著押遣書には、
   神武天皇よら三十代欽明天皇の頃までは本朝に遣といふ事未有らず、萬事う
  ゐノ\しく候.虞に」二十二代用明天・皇の皇子ほ厩月といふ租明の人生れ給ひ、書
  を凄み畢閏し給以て三十四代推古天皇の時壌政の位に居たま以、官職を定め衣
  服を制し鵡襲を興して囲む治め民を導き文明の牝を施したまひ候.==凡世の
  人、神道む我国の造と思払、儒偽造とならペて是一つの道と心得候事大なる蓼に
 て候、神造は本蛮人の遣の中ほ有之候、周易に観二天之神遣−而四時不レ成蛮人以二神道−
  設y教南天下服奥と有レ之神造といふ乙と始めて此文に見え候、‥こ今の世に神道
  と申候は悌法に辟者の■遣を加入して捷立したる物にて候‥=・日本にては元水
 温といふ乙と無之候、近き頃神道を詮く者いかめしく我国の遣とで高妙なる横
  に中条へ共背後世にい払出したる虞談妄誼にて候、打本に遣といふ乙となき詮
 墟は仁義絶楽章悌の字に和訓なく候=…鵡儀といふ事虜からし故に神代よら
  人豊田十代の頃までは天子も兄弟叔姪の夫婦になみ給払候、其悶に真因と通路
 して中華の凛人の猛此・夙に、行はれて天下の萬事背中華む畢び候.それ1ょら此固


  の人種儀を知り、人倫の遣を覚悟して禽懸の行ひをなゴず.
と、云ひ又蟄尋問答に日本の上代の有様を論じてr姑は母と同じ・姪は女と同じ虚を
妻とし、姪を妻とし、妹を妻とす、是ほ超たる不義やあるべき・公然として此不義む行
 て男女倶に羞る色もなくしと云ひ、又「日本の人は家々ほて天照大神を祭り、歳初には
歳徳を祭り、常ほは篭の神を祭る夷照大神は天子の租神なれば庶民の祭るべき神
にあらず、歳徳は天神なれば天子の祭たまふ神なり、庶民の家にて乙れを祭るは越
祀なり、購祀′ならLといへみ山煉周南も亦租裸の門に出で、我国の上代温なく、聖人の・
造輸入せられて始めて造の見るべきものあるを説く・日く、芯台の世は他の囲も我
囲も神垂の徳乙そ衣しけれ、意文備はらぎれば人倫もさだかならず・男女夫婦の造
も今の世の造よみ見れば、恥かしき事のみぞ多かる、しら拍人は人の温は世の初よ
みむのづからかくあらけんとのみ思ふ、世々の整人たちの造を興し給以虚文を定
め脇以て乙そ人の遣は漸々成定身の、今にてもあれ、頑丈をすて拳闘をいふ事なく
ば虜女の欲よら始め、凡の事支度解夜くならて蝦夷達旦の風俗のやうほなるべき
.はいと安かるべし、ハ周南光生名畢初岡)と即ち我国膣尊厳論者が異口同音に稀揚する
所の我建鈎時代の事傭を以て竜も羨むほ足る絹の無しと稀して支那の盤人の造

20

 懲のみ尊ち推奨せる・もの在り、物門の徒の此思想は昔時の」儒者の多くが有したる
 通弊なるが、此極端なる拝外詮が一部の標準者の反対誼む惹起し、且つ後年破碑せ
 る囲革著聞の排外熟を誘致する動機上なれるは注意すべき事なみ、そは後に詳述
 すべし.
  次に徳川の初期に陽明聾者にして皇団の尊厳を高唱せるもの熊澤蕃川あみ、集
 義和琴集義外軍三輪物語等に共闘膣に崩する見解を見るべし、三輪物語ゼ或年の
 入月十五夜三輪の山本に禰宜、居士及び落ぶれたる公卿等敷人骨合して物語した
 る時の話記に託して図鰹論、道徳論、神道論等を披渥せるものにして或は痢宜の口
 を希わ或は公卿の口を籍みて樟越せる図憶論を抹零するに、
  本朝は三界の瀾源にして神明を以て元租とす、神明は宇宙の宗廟なみ、我開閉
 嗣のはじめ夷坤と共心神明あらはれ給へり、故ほ図を神団といひ、造を神造と云
  ふ、三岡は三光の団也、天竺をば月神のつかさどらまします故に月氏閑といふ、唐
  は盈神の掌らまします故に震旦といl′♪、我国は口癖のつかさどぁまします故に
  日本といふ、月星は日光の分附也、故に二閥は我周の末流也、千界の源萬図の本は
  我囲也、英国に任ては茶園の許ならでは他に常ある事を知らざる事は臣の造也、



 租執の垂線を至食とあふぎ黎る乙とは本よらの義在ら.
と、云以、王子王女の出家すサ[を悲しキ穐染を興し王道を感にすべきを論ぜ丸只我
豊漁は臭太侶の後ならとの誼シこ止てゝ経々説明せる事の可否に就きては世眈ほ
定評あり、此に.論ずるの要なし、其外、集義外事巻四ほr日本は遽士なれども太陽の・出
給ふ図にtて人の来実尤蜃在ら」と云ひ、集義和音審こに、
  「日本は銅闘なり、むかし盛儀いまゼ備らざれ共神明の徳威厳働ならJ享すが
.如く敬を存して恵計なさず、神に詣でゝ利欲も亡び邪術もふ乙らず、天道にも叶
 ひ朝にも拳あらオほも忠あり、たゞ時朗位の異なるなら▼kれ天子ほ直にもの申
 奉る人は公卿侍臣のともがらなみ、それェら下は次第のつかさノ\あらて可L券
 乙とは其つかゴに逢すむなり、まして土民などは具御門内の白砂をふむ乙とだ
 にせぎるに、督覚は.鼓をかけおかせ給ひて農工商によらず直に可】申上−子細あら
 ば此鼓をうて、書出て開むと詔あ卜、↑にて乙・・とゆかヂいきどほらあb者は皆直
 にまいらて其いきどはらむ散ぜしなり、民の心にたゞ父蠍にものいふごと〔お
 もひたり、日本の大神宮御治世の共むかtは神蟄の徳あつく、よべ天下を以て子
 とし玲以、下民にちかくあはしましたる乙と尭舜のごとくならし其遺風なら=

200

 =大神宮は御治世のみならず、粛歳の後までも生々不息の徳明かにおはしせし・
  て日月灯照臨し給ふごとし.
と.述べて我上代の粋美を極誼せ→、又、支部に於て仁義祀知信又は智仁勇の論あら
 て我邦になき如くなるも我ほ於て佃二二種の神器を以て不言の経典となし、すべて
 之等の.諸徳の数は此神器に依りて表象せられたるな打と論ぜらハ集義外書巻十六).
  前述物門儒者の外車内卑論に憤らて起てるもの徳川時代の後年期には頗る盛
 にして揺者として中井竹山、皇聾者として復台図畢派の人々等英数甚だ多からし
 が、前期既に共思想を述べ我皇国の食むべきむ詮けるものあ寸平賀源内之なり、即
 ち風流志遣軒停中に見ゆるもの即ち之なり、日く、
   井月で.育つた蛙聾者がめつたに庸点負に戌つて我が生れた日本を東夷と解
  し天照大神は奥の太侶に達ひはないと附曾の詮を言ひ散らし、文武の造を表に
  かざり、ちんぷんかんの屁むひつても知行の米を周の升オノ計み切つて渡され夜
  ば其時却て蛮人む恨むべし、誰やらが制札の多きを見て固の治まらざるむ知多
 たらと云ふが如く、乱れで後に数は出準病有らて後払留薬あら虐の風俗は日本
  と達つて天子が渡ら者と同然ほて気に入らねば取替へて天下は一人の天下に



  非ず天下の天下ならと、へらず口数言払散らして主の天下むぴづたくる不拷千
 萬なる固ゆゑ蛮人出でゝ数へ給ふ、日本は自然に仁義を守る図ゆゑ蛮人出でず
  しても太平をなす.
 と恵遣軒侍固より源内が戚作に過ぎずと維も昔時朱子寧幕府の官.撃として濁ら
 構成を振払言論の自由殆ど認められざらし際、戯作に託して其除憤む吐露したる
 ものに外ならず.
 心学の徒石田梅巌亦共都祁問答に我皇統の神凝にして唐土と尊卑同じからぎ
 るを述べて「唐土には巻はら我が朝に渦大神宮の御末を艇せたまひ御位に立たせ
 給ふ、依て天照皇大神宮む宗廟とあがめ奉り、一天の君の御先租にてわたらせたま
 へば下萬民に至る迄参宮と云ひて悉く参詣するなり、唐土には此例なし▼」と云へら・
 三宅軌蘭が山崎閤斎の撃統を受けて之を水戸に播植したる事は既に云へり、此
事は我邦に於ける同性論蟹展の上に於ては最も重要なる事資にして、後輩述ぶる
朗の後期水戸撃即ち、水戸畢極盛時代に於ける其岡憶論は資に其紺源を此に発せ
 るなり、観蘭を用ゐたるは即ち徳川光囲にして、光掲打有名なる尊王事蹟は今此に
述ぶるの要なし、抑も水月畢なるものは光囲が大日本史を修むるに相伴払て勃興

201

 せるものにして其大日本史を編みて豊岡の由凍を開明せんと欲したるは、其動機、
 若年の時伯夷樽を凄みて其高義に戚奮したるほあらと云ふと雄も」兄師よら規蘭
 等を碍して事に常らしむるや→闇奔流の同粋思想に負ふ朗少からざるは論ずるま
 でもなし、其薔成るや光囲の子綱条之ほ序して其編成の由凍を明かにし且つ固憶.
 の尊厳に論及す、日く
   人皇基を輩めて二千飴年、神裔相承け列蟄統を揖ぎ、姦購未だ嘗て親究耶の心を
 生ぜず祓器の所在日月と並照らす、碕敗盛なるかな、其原く朗を究むれば塞に租
 宗仁澤、民心を団結し邦基む磐石ほnるに由るなら・
 と、此固鰹の由求む明かにするもの、実に水戸聾の大目的ほして後世水戸聾の隆盛
 も実に此大目的に向つて邁進せるものに外ならず.
  次で第ユハ代の彰考館絶裁安積澹伯は自著列組成績に序して、尊王の大義を詮く、
 日く、                                               t
   春秋の義、王を尊ぶむ大と為す、囲朝神武天皇鼎を橿原の宮ほ定めてより、列撃
 軸承け、天エに代つて高磯を理む、律令格式の設、刑償却捗の典虚列遺す乙となし、
 虚構威的州天叙天秩廃然としで乱れず、中発ほ通人で皇鯛町釦解け威磯下ほ移阜、



… 遂に陪臣をして国命を執らしめ君む洩る乙と非宅の如し.足利氏覇府を京帥に
                                                                      サ
 開くと錐も而も樺臣ほ逼つて其哺乳を仰ぎ身且つ庇ふ乙と能はず、焉んぞ能く
 王を奇ふ乙とを得ん嘘尊ぶ能はざるのみ在らず又従つて之・ど俊敏す盛定を設
 けず、由簿久し」膚す、公卿星散、妃演繹輯衰雑奔雰の款に幾し、而して乳匿勝子踵
 む接して相望む感仁以凍放蕩頼れり、右人臣織田公、繍白豊臣公は粗ぼ王む奪ぷ
  乙とを知ると雄も、而も誠心よみ出づるほ非ず、反つて其私を驚む、皆勤るに足る
 なき在り、神租夷武聞出頭略神の如く四方の胤を哉定し、億兆を焚瀦に趣ふ針勇
 大高攻守に彰はれ大義長俄の野戦に伸いふ、馬上琴を請じ儒撃を興隆す、天下未定
 するに及んでは首として諸臣・をトて王事に服せしめ禁朗を螢繕し、宮垣を修築
 し豪汲む奉じて以て祭舵を豊かにし感興を起して以て薗規を復し、廃線を公卿
 に優にし、揚沐を妃嬢に頒ち、四海燵鎗の警なくしで物爾元枕を泰山の安きに賃
 め、また朗白藤原公と法制む議定し、綱、挙り、H張り、朝廷粛穆遂に永世不易の蟄典
.む為す、王を尊ぶ畢.亦大在らずや.
と女家康の事業を許するの語果して、常れらや否やは論外限らに非ず、只常時徳川
幕府極盛の時に骨身て感て尊王の大義を高潮したるは固民の図憶観念に資する

202

 と乙ろ鮮少なみといふべからず.
 伊勢に於ける固嬰換言すれば、伊勢神道の復興老度合在任は陽復記を著して主
 として神儒習合とも・いふべき神遊説を披渥せるが其、支那の易、陰陽乃至理気の聾
 等と我神遣の数と合せるは必ずしも我彼を取みたらと見るペからず天下の大道
 自ら其理を一にするなろとて、社家儒聾者の我神代侍詮を解樺する態度と後年卒
由篤胤一決の聾者が外図の譜詮を以て悉く我台侍の模倣ならとする内舎外卑の
 思想との中間に立てるものなら.
 別に蘭準に擦る地理学者に西川如見あり、日本水土考を著はし、我国の優琴我邦
 の神岡たる所以を論ヂ、日く、
  我囲の形勢東西に長く、南北ほ独し、少しく反曲して酵寵達首の貌あり、団は萬
 閑の東頭にあ→て朝陽始めて照すの地、陽気藤生の最初なみ、日本と故するは其
 義最も骨るなり、此鈎神国たるの義水土自然の理か、史記に云ふ、東北は神明の合、
 日本老清陽中正の水土なり、故に神明此に合す、最も疑ふべかdbず、瀧図は四時中
 正の囲なり、萬閥虜大と維も四時の正しき我邦の如きは多からず−ハ中略)日本の限.
                                                                                                      ■
 度廉からず、亦狭からず、其人事風俗民情相番く混一にトて治まら易し、是政に日



  本の皇統、閑樹よら骨今に至て襲無きもの蒔図中唯日本あるのみ−是亦水土の神
 妙にあらずや、ハ中略)然らば即ち日本風土要書の好、萬囲最上なみ、揃安の大城に任
 し≠矛の武徳を備て永久天地と窮らなし、此民は神明の凝裔心して此造は神明
  の遺訓在ら▼清洋館白む愛し、質素朴実を築むは即ち仁勇の造にして智自ら足る
  なみ、此固由然の神徳なみ、豊貴からずや.
と、世の俗儒が膚土を尊び蘭学者が西洋を崇め、執れも自図を卑しとするの弊に陥
 ら易きに、濁ら西川如見が聾は蘭撃よみ出でゝ拾其弊を脱し自固尊重の精細を失
 はざるは其志貴ふべく、後年平田一決の隆興に多少の刺戟を輿へたるものゝ如し.