二・二六事件に就て                河合栄治郎



       一

 二月二十日の総選挙に於て、国民の多数が、ファッシズ
ムヘの反対と、ファッシズムに対する防波堤としての岡田
内閣の擁護とを主張し、更にその意志を最も印象的に無産
党の進出に於て表示したる後僅かに数日にして起つた二・
二六事件は、重要の地位にある数名の人物を襲撃し、遂に
政変を惹起するに至つた。

        二

 先づ吾々は〔残酷〕なる銃剣の下に外れたる斎藤内大臣、
高橋大蔵大臣、渡辺教育総監に対して、深厚なる弔意を表
示すべき義務を感ずる。浜口雄幸、井上準之助、犬養毅等
数年来暴力の犠牲となつた政治家は少くないが、是等の人
人が仆れたる時は、まだ反対思想が何であるかが明白では
なかつた、従つてその死は言葉通りに不慮の死であつた。
然るに五・一五事件以来ファッシズム殊に〔軍部〕内に於
けるファッシズムは、掩ふべからざる公然の事実となつた。
而して今回災禍に遭遇したる数名の人々は此のファアシズ
ム的傾向に抗流することを意識目的とし、その死が或は起
りうることを予知したのであらう、而も彼等は来らんとす
る死に直面しつゝ、身を以てファッシズムの潮流を阻止せ
んとしたのである。筆者は之等の人々を個人的に知らず、
知る限りに於て彼等と全部的に思想を同じくするものでは
ない。然しファッシズムに対抗する一点に於ては、彼等は
吾々の老いたる同志である。動もすれば退嬰保身に傾かん
とする老齢の身を以て、危険を覚悟しつゝその所信を守り
たる之等の人々が、不幸兇刃に仆るとの報を聞けるとき、
私は云ひ難き深刻の感情の胸中に渦巻けるを感じた。


        三

 ファッシストの何よりも非なるは、一部少数のものが
〔暴〕力を行使して、国民多数の意志を蹂躙するに在る。
国家に対する忠愛の熱情と国政に対する識見とに於て、生
死を賭して所信を敢行する勇気とに於て、彼等のみが決し
て独占的の所有者ではない。吾々は彼等の思想が天下の壇
場に於て討議されたことを知らない。況んや吾々は彼等に
比して〔敗〕北したことの記憶を持たない。然るに何の理
由を以て、彼等は独り自説を強行するのであるか。
 彼等の吾々と異なる所は、唯彼等が暴力を所有し吾々が
之を所有せざることのみに在る。だが偶然にも暴力を所有
することが、何故に自己のみの所信を敢行しうる根拠とな
るか。吾々に代つて社会の安全を保持する為に、一部少数
のものは武器を持つことを許されその故に吾々は法規によ
つて武器を持つことを禁止されてゐる。然るに吾々が晏如
として眠れる間に武器を持つことその事の故のみで、吾々
多数の意志は無の如くに踏付けられるならば、先づ公平な
る暴力を出発点として、吾々の勝敗を決せしめるに如くは
ない。
 或は人あつていふかも知れない、手段に於て非であらう
とも、その目的の革新的なる事に於て必ずしも咎めるをえ
ないと。然し彼等の目的が何であるかは、未だ曾て吾々に
明示されてはゐない。何等か革新的であるかの印象を与へ
つゝ、而もその内容が不明なることが、ファッシズムが一
部の人を牽引する秘訣なのである。それ自身異なる目的を
抱くものが、夫々の希望をファッシズムに投影して、自己
満足に陶酔してゐるのである。只管に現状打破を望む性急
焦躁のものが、往くべき方向の何たるかを弁ずるをえずし
て、曩にコンムュニズムに狂奔し今はファッシズムに傾倒
す。冷静な理智の判断を忘れたる現代に特異の病弊である。


        四

 由来国軍は外敵に対して我国土を防衛する任務を課せら
れて、国軍あるが為めに国民は自ら武器を捨て、安じて国
土の防衛を托したのである。
 国軍はそれだけで負担し切れぬほど重大な使命を持つて
ゐる。将兵化して政治家となるほどに、国軍は為すべき任
務を欠いでゐるのであらうか。若しその任務たる国防を全
うするをえない事情にあるならば、真摯にその旨を訴へる
べき他の適当の方法がある筈である。日本国民はその言に
耳を傾けないほど祖国に対して冷淡無関心ではない、若し
それが国防の充実と云ふ特殊の任務を逸脱して、一般国政
に容喙するならば、その過去と現在の生活環境とよりして、
決して充分の資格条件を具備するものと云ふことは出来な
い。軍人は軍人としての特殊の観点に制約されざるをえな
いのである。
 軍人その本務を逸脱して余事に奔走すること、既に好ま
しくないが、更に憂ふべきことは、軍人が政治を左右する
結果は、若し一度戦争の危機に立つ時、国民の中には、戦
争が果して必至の運命によるか、或は何らかの為にする結
果かと云ふ疑惑を生ずるであらう。国家の運命が危険に迫
れる時に於て、挙国満心の結束を必要とする時に於て、か
かる疑惑ほど障碍となるものはない。


        五

 一千数百名の将兵をして勅命違反の叛軍たらしめんとす
るに至れるは、果して誰の責任であらうか。事件は突如と
して今日現れたのではなくて、由つて来れる所遠きに在る。
 満洲事変以来擡頭し来れるファッシズムに対して、若し
〔軍部〕 にその人あらば、夙に英断を以て抑止すべきであ
つた。
 国軍の本務は国防に在るか奈辺に在るか、政治は国民の
総意に依るべきか一部少数の〔暴〕力に依るべきかは、厳
として対立する見解にして、その間何等の妥協苟合を許さ
れない。若し対立する見解の一方を採るならば、その所信
に於て貫徹を期すべきである。所謂責任と称してその都度
職を辞するが如きは、真の意味の責任を果さざるものであ
る。事にして此の機を利用して、抜本塞源の英断を行ふも
の国軍の中より出現するに非ずんば、更に〔幾度か此の不
祥事を繰返すに止ま〕るであらう。


       六

 左翼戦線が十数年来無意味の分裂抗争に、時間と精力と
を浪費したる後、漸く暴力革命主義を清算して統一戦線を
形成したる時、右翼の側に依然として暴力主義の迷夢が低
迷しつゝある。
 今や国民は国民の総意か一部の暴力かの、二者択一の分
岐点に立ちつゝある。此の最先の課題を確立すると共に社
会の革新を行ふに足る政党と人材とを議会に送ることが急
務である。二月二十日の総選挙は、夫れ自身に於ては未だ
吾々を満足せしめるに足りないが、日本の黎明は彼の総選
挙より来るであらう。黎明は突如として捲き起れる妖雲に
よつて、暫くは閉ざされやうとも、吾々の前途の希望は依
然として彼処に係つてゐる。
 此の時に当り往々にして知識階級の囁くを聞く、此の
〔暴〕力の前にいかに吾々の無力なることよと、だが此の
無力感の中には、暗に暴力讃美の危険なる心理が潜んでゐ
る、そして之こそファッシズムを醸成する温床である。暴
力は一時世を支配しようとも、暴力自体の自壊作用により
て瓦壊する。真理は一度地に塗れやうとも、神の永遠の時
は真理のものである。此の信念こそ吾々が確守すべき武器
であり、之あるによつて始めて吾々は暴力の前に屹然とし
て亭立しうるのである。


              (『帝国大学新聞』昭一一・三・九)