訳詩について


 先年中、河上徹太郎氏から、ヱルレーヌの訳詩集「叡智」をもらつた。訳詩といふ奴は、一体どれを読んで
も面白くないものだが、この河上氏の訳詩だけは、たいへん詩美が豊かで面白かつた。何よりもりリシズムの
純壷が感じられ、ゴルレーヌらしいものを感得された0しかしそれを讃むにつけても、詳詩といふものの困
難さをつくづく思つた0第一僕等日本人には、悌蘭西語の「叡智」といふ言葉の意味がょく解らないのだ。ゴ
ルレーヌの詩の中には、「叡智の燈灯」とか「叡智の黄昏」とかいふ顆の言葉がょく出て来るが、俳蘭西語の
                ともしび
「智悪」とか「叡智」といふ言葉には、カ吉ツタ敦の古い俸説が慧込んでるので、つまり「紳の癖理」と
か「聖母の愛」とかいふ意味が、陰影に匂ひづけられて居るのださうだ0ゴ〜レーヌがそれを詩集の標題にし
たのも、彼の敬虔なる宗教的辟依を示したものに外ならぬ0そこで、「叡智の燈灯」といふ顆の詩句には、カ
トリックの祭壇に輝く蝋燭の暗い光や、聖母マリアの慈愛深い睦や、紳の棟理にょる宿命の悲しきあきらめや
が、詩句の貪する内容のイメーヂとなつて居るのである0そしてこのイメーヂを表象する故に、初めてその
                    淘
詩句が、革者に詩としてのりリシズムを感じさせることになるのだ0然るに僕等の日本人、特に悌蘭西語を知
らない表人には1少しもさうした言葉のイメーヂが鰐らないので、単に字義通りに牌澤して、概念的な「知
性」として讃んでしまふ○そこで詩が少し島白くなく、詩の本質するりリシズムが、一饅どこに有るかと言
ふことさへ酵らないのだ0僕の或る知人が、すぺての詳詩はチンプンカンプンだと言つたが、正直に言つてす

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 ベての薄韓は、不可解といふ一語につくされるだらう?
 これは事情を反対にして、日本の詩を外国語に辞す場合も同じである。例へば「因果は廻る小事」といふや
うな詩句は、僕等の日本人にとつて、宿命的な暗い情想を感じさせる。なぜなら「因果」といふ言葉から、僕
等は悌敦の厭世思想や宿命観を聯想するからである。然るにその聯想のない外国人等は、文字の概念だけでそ
れを讃んで、畢に原因結果の法則する科挙的宇宙の因果としか鮮繹し得ない。それ故に詩が少しも面白くなく、
詩情の本質するりリシズムそのものが解らないのである。ラフカヂオ・ハーンの小泉八雲は、一生日本に住ん
で日本の詩歌を研究し、遽に最後まで芭蕉の眞諦がわからなかつた。「詩」がわかるといふことは、その人の
骨肉から紳経まで、人種的にその国民に同化し蓋してしまふことである。
 そこで或る人の言ふ通り、詳詩といふ仕事は、眞によく鮮つてる人には出来ず、全く鮮らない人にも出来な
いといふ、一種不思議な仕事である。眞に原詩のょく解つてる人は、初めから翻詳の不可能を知つて絶望して
ゐる。詩の深い妙味を知り、言葉の複雑な意味を知れば知るほど、逆に益ヒ紹望を強めて来る。ところでまた、
全く原詩を知らない人には、もちろん柄謬は不可能である。そこで結局、言葉の表面の字義程度で、洩く六分
通りに理解した人々が、最も適切な翻評者だといふことになる。即ち例へば、ラフカヂオ・ハーンのやうな人
が、日本の詩歌の最も適任した翻詳者なのである。畢に語学だけの知識でなく、その国民の中に住んで、その
国民と長く一緒に生活し、風俗習性を牛ば自家に同化したやうな人は、すくなくとも原詩の妙味を六分通りに
理解し得る。さういふ人々だけが、眞に書き詩の翻評者なのである。上田敏氏の「海潮音」の如きも、この意
味で僕に信用できない。ああしたものは眞の意味の輌諾でなく、むしろ全く文学的な「創作」として、オリヂ
ナリチイの奉術品として、別種の高い・償俺に買はるべきものだと思ふ。
j7J 詩人の使命
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