蕪村俳句の再認識
       「郷愁の詩人・輿謝蕪村」の著者として
輿謝藤村といふ俳人は、江戸時代には殆んど世評に登らなかつた。蕪村は自ら芭蕉の直系を以て任じて居た
謂▼
が、人々はむしろこれを蕉門俳句の傍流と見た。なぜならその常時は、床屋俳譜的にまで卑俗化した江戸座や
芙浪汲の俳人たちが、却つて自ら芭蕉の直系を以て任じ、且つ人々もそれを認めて居たからである0
 明治になつてから、正岡子規が初めて蘇村を蜃見し、埋れた賓石の償値を世に示した。子規の功績は偉大で
ぁった。しかしながら子規一汲は、誤つて蕪村を畢なる「馬生主義者」「趣味至上主義者」と鰐した○それか
らして蕪村の名は、今日までゑ早なるスケッチ董家として、小細工的、技巧本位的のヂレツタント俳人として
定評されてる。その生前に於て理解されず、その死後に於てまた曲解された煮村の不遇は、眞に同情に耐へな
いのである。僕が頃日一事を著はし、「郷愁の詩人・輿謝煮村」として世に問うたのも、いささかこの不遇の
詩人に関して、義憤するところがあつたからである。
 第一に言ひたいことは、蕪村が畢なる技巧本位の俳人でないといふことである。もちろん技巧といふことは、
奉術に於て重要な表現要素で、すべての書き肇術家が、必然的に皆書きテクニシアンであることは言ふ迄もな
い。もしその意味から言ふならば、芭蕉もまた蕪村以上の技巧家であつた。しかし蕉村を技巧的といふ意味が、h
本質に詩精神をもたない未技的修辞の名人と言ふ意味ならば、これ全く蕉村に封する無理解の妄評である〇一
般に拳術、特に抒情詩の如き文挙が、深く人を感動させる所以のものは、資にその詩精神の電波的な資質によ
るのであつて、畢なる修鮮上の手品的なトリックだけで、異に人を魅力する詩なんてものは、決してせに有り
得る筈がないのである。
 第二に言ひたいことは、蕪村が決して、子規のいはゆる馬生主義者でないといふことである。歌人斎藤茂吉
氏は、近頃子規の説を敷術して、これに資相観入といふ汎神論的哲理を附合した0しかし子規一汲の俳人が構
へた意味は、そんな七むづかしいものではなく、畢に有るままの自然を率直にスケッチするといふことであつ
た。このスケッチ第一主義は、蕉門亜流の月並俳句が、.悪理窟のヒネくつた観念主義に低落して、俳句の純一
2∂∫ 詩人の使命

な詩情性を無くしたことに封し、救済の瞥療的下剤として輿へた虞方で、常時としては確かに必要な啓蒙だつ
た。しかしその下剤の利きすぎた結果として、俳句からイマヂズムの自由を奪ひ、主観の哲学とりリシズムを
殺し、峯想カや想像力を喪失させて、爾後の俳壇を著るしく柴養不良の貧血症にしてしまつた。蕉村がもし、
子規の言ふ意味での馬生主義者であるとすれば、イマヂズムやりリシズムを持たないところの、そして畢に皮
                                                                 一
相な馬生のみを能事としてゐるところの、浅薄な末流俳人だと言ふことになる。
 第三に言ひたいのは、蕪村が決して、子規一浪の言ふ如き趣味至上主義者でないと言ふことである。おょそ
蜃術に於て趣味が極めて重要な個性的肉質であることは言ふ迄もない。すぺての詩人たちは、彼が眞に個性的
であり、天才的であることの度に比例して、より特色の強いユニイクな趣味を高調する√。例へば芭蕉は、枯淡
閑寂の風流趣味を強く掲げ、一茶は特殊の野性的田園趣味を特色とした。蕉村もまた彼等と同じく、一種のユ
ニイクな個性的潅趣味を強く掲げて、色彩の明るい南国風の風景や、平安朝懐古的な俳句を多く作つた。しか
し眞の詩人といふものは、決して単なる趣味性だけで、文拳を遊戯的に弄んでゐるものではない。芭蕉でも一
茶でも、さうした趣味性の内生活には、詩人としての燐烈な人生熱情を持つて居たのだ。煮村がもし、子規の
言ふ意味での趣味至上主義であるとすれば、それはモラルもなくヒユーマニチイもなく、人生への主観的哲学
を持たないところの、遊戯的ヂレツタンチズムの詩人だと言ふことになる。
 所で蕉村は、そんな軽薄なヂレツタントの俳人でもなく、未技的なテクニックの俳人でもなく、りリシズム
を忘れた皮相な馬生主義の俳人でもない。蕪村こそは芭蕉と同じく、眞の燻烈な詩精神をもつたところの、眞
の本質的の詩人であつた。では蕉村のポエヂイが根按してゐる、その第一原理の哲学は何であらうか? これ
僕が近著「郷愁の詩人・輿謝蘇村」に書いたことの一切である。
2l才
、・潮笹井欄題瀾速欄−瀾lや増 し−
 蕪村といふ詩人は、思ふに芭蕉と同じく、人生の寄るべなき孤寂を嘆き、魂の家郷を求めて、生涯を漂泊し
て居た人であつた。芭蕉も蘇村も、共に人生の「旗行家」であつた。ただしかしちがふのは、芭蕉の旗行が文
字通りの旗行であり、▼笠間上の地理に関する漂泊であつたに反し、蘇村の旗行は時間上の族行であり、純粋に
精神上の問題であつたといふことである。芭蕉はその心の寄るぺなき寂しさから、魂の安住するハイマートを
求めようとして、逆に蒲條たる自然の中を漂泊し、西行と同じくその環境の寂しさの中に、自己の心の「寂し
をり」を蜃見し、感傷の涙によつて、自ら慰め楽しんで居た。彼が満目凋然たる寂蓼の自然を愛し旗したのは、
それの寂蓼の哀感からして、逆に漂泊者たる自分のペーソスを慰安しょうとしたのであつて、言はば一種の自
虐的、逆説的の方法だつた。
 これに反して蕪村は、もつと尋常の仕方によつて、魂の楽しい故郷を見出さうとした。彼は芭蕉と反対に、
春光の下に霞む暖かい自然を愛し、冬の墟遽に火の燃える楽しいスヰート・ホームの家を求めた0人生の塞さ
                                      ふところ
に準乙、愛に飢ゑてゐた詩人蕪村は、いつも可憐な孤児のやうに、亡き母の懐抱を夢み探して泣き暮れて居た0

 葱買つて枯木の中を締りけり

と歌つた蘇村は、葱の煮える人生の臭ひをかいで、沌々とした侍しさの郷愁を感じて居た0そして冬の斎保た
る自然の中に、孤濁に寄りそつてる人間の生活を見て、

 木枯や何に世渡る家五軒
2古∫ 詩人の使命
「¶「

                ハイマート
と、そこにもまた、魂の郷愁する家郷を見た。その同じ侍しさの心境は、
河豚の宿火あかあかと灯しけり
易水に根深ながるる塞さかな
古寺やほうろく捨る芹の中
等の句にも現はれ、彼の孤濁な魂が、人生の寒さの中に凍えながら、火桶の炭囲を抱へて夢みるところの、俺
しい抒情詩となつて歌はれてる。
 薮入の慮るや小豆の煮える際
l薮入の■またいで過ぎぬ凧の綿
 薮入やょそ目ながらの愛宕山
と、好んで薮入の子供を歌つた薦村は、その可憐な、子供の姿の中に、彼自身の「孤児」を後見し、昔々しき
りに思ふ、慈母の懐抱を夢みて泣いて居たのだ。そしてこの哀切のりリシズムは、彼の代表作「春風馬堤曲」
によつて最高の詠嘆にまで高調された。
 すべての「家なき人々」等は、彼がまだ母の胎内に居た時の、遠い昔の懐しい記憶の彼岸へ、夢のハイマー
                       むかし
トを幻想する。帝村もまたその一人であり、常に昔々の過去を考へ、侍しい追憶の夢の中に、歴史の郷愁をイ
メーヂして居た。
 「 ■「
2朗
」沖。≠∋一¶すV h。、1

  1遅き日の つもりて遠き昔かな

と、春光の下に詠嘆して、その郷愁を述べた蕪村は、さらに奈良朝や平安朝やの、遠く古い歴史の背後へ、
のリリックの侍しい郷愁を曳いて行つた。

ほととぎす平安城を筋かひに
女供して内裏拝まむ牒月
春雨や同車の君がさざめ言
水仙や塞き都のここかしこ
 かうした平安朝趣味の俳句は、蕪村にとつて他の句と同じく、その魂の故郷を夢み、郷愁を歌ふ所の子守唄
に外ならなかつた。

 白梅や誰が昔より垣の外

 昔床しき垣の外に、だれかが永遠に立つてるのである。それは白い水干を着たところの、昔々の遠い時代の
人であるかも知れない。それは幼年の日の橙人であり、蕪村のイメーヂに浮ぶところの、追懐の思慕の蛮であ
るかも知れない。
薦村の郷愁詩は、明るいロマンチックな詩情を持つてることで、他に比類なく近代的の風趣を帯びてゐる。
2∂∫ 詩人の使命

愁ひつつ丘に登れば花茨
花茨故郷の道に似たる哉
2古古
等の俳句は、これを俳句と言はんょりは、.むしろ「抒情詩」と近代風に呼ぶ方が、ポエヂイとして適切である
やうにさへ思はれる。
陽炎や名も知らぬ患の白き飛ぶ
行ぐ春や白き花見ゆ垣の隙
鮒鮮や彦根の城に雲かかる
 此等の句に於けるロマン性を見よ。宛として西欧近代の抒情詩さながらではないか。すくなくとも日本の昔
の文孝には、こんな明るい青春性のロマン情操は他になかつた。この鮎に於ても、蕪村は日本文寧史中の一異
彩であるャさらにまた、
「▼賢a
君あした去りぬ
夕ぺの心千々に何ぞ悲しき。
君を思うて丘の上を行きつ遊ぶ
丘の上何ぞかく悲しき。
Z瀾周周淵凋つりヨ増∴−づ.一
、。まfu
といふ初聯で姶まる新膿詩を見よ。徳川銑園時代の日本、今より約二世紀も昔の日本で、
こんなハイカラな誇
を書いた人があつたと言ふことは、全く夢のやうに不思議な気がする。そしてこの詩の作者が、質に輿謝帝村
なのである。
 僕が輿謝蕪村論を書いた主旨は、上述したことによつてほぼ表されて居る。僕はこの蓄によつて、子規以来
の定説された蕪村論を駁し、全く新しい一人の蕪村を、世に紹介しょうと思ふのである。その新しい一人の蕪
村は、僕等の時代の若い詩人と、本質に於て魂の共通する蕪村である。今や枯淡的心境を悦ぶ自然主義の時代
は去つて、新たに青年性の浪漫汲文挙が勃興しょうとして居る。この時に首つて蕪村俳句を再認識し、その正
しく新しき償俺を世に間ふことは、僕等若き時代の日本文化を指導すぺく、文学的に使命されてる詩人の職務
であると信ずるのである。
口語詩歌の韻律を論ず
 現代日本の詩歌が、文章語を捨てて口語に移つたことは、時代と言語感覚の必然関係による推移であつて、
動機的には全く官然のことと言はねばならない。しかし官面の問題として、此虞に塊出されてる一つの懐疑は、
2∂ア 詩人の使命

現代日本の日常口語が、果して厳正な意味の詩歌(即ち電文)を構成するに耐へるほどの、具鰹的な音律要素
を持つてゐるか香かと言ふ鮎にかかつて居る。自分はこのことで長い間懐尿をした。そして今日多くの人々に
ょって創作されてる口語自由詩、及び口語短歌、口語俳句の資際作品について槍讃した。その結論として、自
分は「最小限度の肯定」と「最大量度の香定」を得た。自分は悲観的にならざるを得なかつた。
 先年、支那の文士張作人民が来朝した時の話に、今の支那では小説のみが全盛して、詩や戯曲は全く衰微し、
文壇の一隅に寄食してゐるといふ話であつた。そしてこの理由は、今の支部の現代語が、奉術的に洗煉されな
い粗野な自然優生語である為に、詩や竜文の如き純蜃術的完美を要する文蜃に通しない為であると。侍張作人
民の談話によれば、支部の現代語(口語)には韻律的構成がなく、音楽性に映乏してゐる為に、詩が苛文とし
ての形態を取り得ないで、普通の散文と同じやうな文学に鮮慣して居る.ただ大衆向の卑俗な俗詰や小唄だけ
が、口語で韻律のある詩を書いてると。
 かうした支那の現状は、すべてに於て日本の賞状とよく似て居る。現代日本に於ても、口語で韻律のある詩
を書いてるのは、卑俗な小唄作家や俗謡作家ばかりである。なぜなら口語の頚律構成には、初めからさうした
俗詫等に適するやうな特挽な卑俗の調子があるからである。例へば日本の口語詩としては、昔から都々逸のや
ぅなものが存在して居た。今日の僕等でさへも、口語で韻文的な詩を書かうとすると、必然に都々逸や俗詰の
やうなものになつてしまふ。すべての言語は、それを創作使用する大衆の生活を反映し、大衆の気分や感情や
を、そのまま言語の構成する音韻の中に移すのである。故に江戸時代の言語は、昔時の教養なき卑俗な民衆の
情感を、そのまま都々逸等に現れる韻律にした。今日現代の言葉は、勿論江戸のそれとはちがふけれども、大
館に於てその俸統のつながりであり、且つ大衆一般の文化的教養程度は極めて低い。したがつて今日の口語の
本然する頑律住も、江戸俗講のそれと大同小異のものであり、伶未だ極めて卑俗低調のものにすぎない。
2(描
賢y′
「■■■▼「
漆湖夷L√

た卑俗的頚律性を本質する現代の口語で、少しく高級な気品をもつ率術詩を書かうとする時、そこに
〜\ 1湖頭望

  J遥絹』凋湖潤一
根本的なヂレンマが生じて来るのは嘗然である。そしてこのヂレンマを解くために、詩人の決定すべき道は二
っしかない。即ち頚律を捨てて散文の形態を選ぶべきか、もしくはまた口語本来の自然的音律に反則して、別
の人為的な新しい龍律形態を試作するかである。この二つの道の中で、前者はかつて僕等の詩人が選んだとこ
ろの道であつた。即ち僕等は、韻律を捨てて自由詩と栴する散文に移つて行つた。所でこの後者の道は、今日
の新しい歌人や俳人が出優したところの道であつた。例へば少し以前の歌壇に於て、口語短歌といふものが流
行した。これは和歌の規定する三十三日宇の形式と、その固有の韻律とによつて口語を詩文化さうとしたので
ある0
 この後者の方法は、前に言ふ如く不自然のものであり、口語の本然性に反して居るのである。口語の自然的
音律によつて作つた詩は、必然に卑俗な小唄調になるべき筈である。口語で和歌の韻律を学び、蜃術的な高い調
子を出さうとする時、そこに必ず避けがたい無理の破綻が生じて来る。所謂口語短歌が久しからずして廃つた
のは、貴にこの不自然から生じた破綻のためであつた。このことを筒音例について少しく具膿的に説明しょう0

 日蝕が見えるといふので驚いて杢を見たらば鳥が飛んでゐた
これは或る短歌雑誌に掲載された、昔時の所謂口語歌人の作品である卜このセンテンスの字音を数へて見る
と、S・ア・S・7・アであり、正しく和歌の定則形態を具へて居る0だがこの文章には、何の音律的な抑揚
もなく節奏もない。もし款つて人にこれを見せたら、おそらく何人も普通の散文として讃むであらう0これが
歌だといふことを知る為には、一々の字数を数へてみなければならないのである0所でそんな苛文なんていふ
ものは世の中にない。眞の音律構成を持つた文章だつたら、別に歌とか詩とかいふ看板をかけないでも、おの
2古ク 詩人の使命

つから自然的の抑揚や節奏を人に感じさせる筈である。韻文と散文との差別は形態でなく、直覚上に感じられ
る音律感(言葉のメリハリ)に存するのである。詩歌が普通に特挽の定律形態で歌はれるのも、つまりその定
律が言語の自然的音律性に邁つて居るから。換言すればその韻律形態が、言葉の自然的な音楽感(抑揚、調子、
メリハリ)を出すために最も都合が好いからである。形態があつて後にリズムが生れるのでなく、初めにリズ
ムがあつて後に形態が生れるのである。そこで次の例を見給へ。

 横と別れて松原来れば松の露やら涙やら

 この口語俗詰には鮮明の音律がある。「棟と別れて」「松原来れば」「松の露やら」「涙やら」の各句の間に、
はつきりした抑揚やアクセントがあり、おのづから讃者に韻文的な音楽感をあたへる。これはだれが見ても散
文ではない。

 私この頃憂鬱よ。何だか何だか欒なのよ。

 これは西條八十氏が作つた現代口語の小唄である。これは七五調で出来てるけれども、畢に形態上だけの韻
文ではなく、本質上に於てのリズムを持つてる領文である。特に「何だか」「何だか」「攣なの」「よ」といふ
一飯の如aは、おのづから讃者の心に音楽的な飛躍を感じさせるほど、賓に韻文としての完美したメリハリが
ある。(これは飴事であるが、西條氏の小唄に於ける音律の使用法は資にうまい。内容は卑俗で困るが、技巧
上には全く敬服するばかりだ。)
 以上の資例でも鮮るやうに、日本現代の口語といふものは、本然的に俗謡や小唄に通する卑俗なリズムを持
つてるのである。換言すれば俗諮や小唄を作る限り、口語歌は韻文として成立することが出来るのである0然
2乃
「■■■「
るに前例の口語短歌は、この口語の本然する小唄的卑俗調を嫌つて、強ひて人馬的な形式韻律を求めた結果、
無理の破綻によつて全く萌文としての本質を殺してしまつた。その上にも彼等の誤謬は、元来文章語の自然的
報律である和歌の形態を、無反省にも口語で模さうとしたことにあつた。
 前に説明した通り、詩歌の定則する頚律形態といふものは、言語の本質する自然的な抑揚や節奏から、必然
の公約数的因果で出来上つたものである。そこで和歌の定則する韻律は、日本の古語や文章語がリズムする自
然的な節奏(音楽性)から構成されてゐる。例へば次の例を見よ。

                                ふな んど
 朝床に聞けば造けし射水川朝こぎしつつ唱ふ船人  (萬菓集)

 この歌を朗讃する人は、各句の節の切れ目切れ目に、自然的な馨の抑揚、メリハリ、休止、高低、アクセン
ト等の存することを知るであらう。即ち詳しく言へば「朝床に」「開けば」「逢けし」「射水川」「朝こぎ」「し
っっ」「唱ふ」「船人」といふエ合に、各五音・七音の内部に於ても、夫々また語句の一分節毎に句切れの抑揚
節奏が存するのである。そしてこの一つの事賓は、すぺての和歌を通じて一切皆共通である。つまり和歌の規
定する頚律形態には、さうしたエフェクチイブの音楽性が本質して居るのである。それ故に文章語で歌を作り、
この韻律形態に合せて言葉を配列する場合、必然にそれは書架を本質する韻文となつてくる。例へば「朝来れ
ば東より出づる太陽の夕となれば西に沈みぬ」といふセンテンスを見よ。内容的に見れば、こんなものは歌に
もポエヂイにも成つて居ない。明白に言つてただのくだらない散文である。だがそれにもかかはらず、形態上
にはちやんと立汲な音律があり、各句の切れ目切れ目に節奏の抑揚が存するのである。
 然るに現代の日常口語には、かうした和歌の形態する音律性が無いのである。その貨例として、前にあげた
「日蝕が見える」の口語短歌を、讃者自らよく参讃してもらひたい。何一つの別の例をあげてみょう。
2〃 詩人の使命
∃′退潮題
dメー題州還

  高所から跳びおりるやうな心もちで一生を終る方はないだらうか

 これは石川啄木の歌「高きより跳びおりる如き心もてこの一生を終るすべなきか」を、或る人が口語短歌に
銚詳したのである。これもまた前の「日蝕」の歌と同じく、どこにも殆んど報文としての抑揚や節奏がない。
語格だけは短歌の規定形式を守つて居るが、本質上の意味に於ては全く純然たる散文である。これを啄木の原
歌と比較して見よ。次表の長短横線で示す通り、原歌の方では語の句切れ毎に節奏(言葉のハズミ、メリハリ、
休止、アクセントなど)がある。

 高き一よりこ跳び一おりる一如きこ心一もてここのl一生をこ終る一すぺ一なきlかニ

                                                           ヽ ヽ ヽ
 然るに上例の口語歌には、かうした鮮明な節奏が殆んどない。フレーズ全鰹がのべつに平坦な一績きで、律
動の上下する浪がなく、どこにも調子の高いメリハリがない。文章語で歌つた啄木の原歌を讃むと、讃者はお
のづから緊張した悲壮の詩的感動を心に受けるが、口語歌の方は単に日常茶飯の平凡な合議を聞く如く、純粋
にプロゼツタな感じしか受けられない。即ち要するに後者は眞の 「詩」でないのである。「堕もしその味を失
へば後は用なし。捨てられるのみ。」そこで口語短歌は亡びてしまつた。そしてこれに代つたものが、今日前
田夕暮氏等によつて指導されてる口語自由律歌である。
 この所謂口語自由律歌は、すくなくとも口語短歌に比して、逢かに聴明でもあり健全でもある。なぜなら彼
等の意圃する所は、眈成の韻律にロ語を押しはめて作るのでなく、口語の自然態生的表現を進めながら、次第
にその本然する韻律形態の方へと、手探りして間を探つて行かうとするのだから、この一つの意志に於て、彼
等の歌壇は全く僕等の詩壇と一致して居る。僕等の自由詩もまたそれと同じく、口語の新しき報律形態を求め
2ア2
【【FトLト賢−

Z周瀾周周濁声莞当
 ノ凍
る為に、今日やはり闇を手探りで進んで居るのだ。未来もし僕等の詩人と彼等の歌人とが、一づの山頂に於て
出逢つた時、初めて日本語の新しい韻律詩形が創立される日であらう。この意味に於て、自分は前田氏等の作
品に甚大な興味と期待とを寄せ、且つ別汲の同志としての深い友愛を感じて居る。意囲としての自由律歌運動
には、自分は異議なく賛成である。
 しかし批判は感情の外に中立する。今日の所謂自由律歌を作品として眺める場合、正直に言つて僕は不満足
以上に失望して居る。次に掲げるものは、雑誌「詩歌」十二月既に掲載された白日牡社中の自選歌集である。
   ∃
莞 表
食ふだけでもいいと言ふ者が俺の周囲に十指に鎗る程ゐる
俺は大丈夫さと笑つてみせたがすぐに心は何か重いものにひしがれてゐた
東京で学問をした土産はこれ一つと中指の固いペ ンだこを撫でて見せた
 歌の内容のことは此虞で問はない。畢に形態上だけの問題として、此等の作品に音律性が有るか無いかを問
ふのである。詳しく言へば、讃者の心に詩的興奮の躍動をあたへるやうな、何等かな言葉のハズ、、、、抑揚、メ
リハリ、律動が有るかどうだらうか。僕は明白に答へて無いと思ふ。もし歌といふ前置がなく、何も知らずに
此等の文章を讃んだとすれば、何人もおそらく普通の散文として讃過するにちがひない。それほど平坦でメリ
ハリがなく、一本調子のつながつてるセンテンスである。これをしも韻文と稀するならば、世に韻文ならぬ文
畢は一つもない。
 前田氏は言葉の重力感といふことを言ひ、その鮎に自由歌の萌律性を構成しょうとして居るらしいが、前に
言ふ通り韻律は直感によつて訴へられ、直感的に節奏の美を感じさせる筈のものである。リズムが先に生れて
2〃 詩人の使命

形態は後に生れる。観念上の意識によつて解説され、然るのちに粁明されるやうな韻律は、たとへそれが有つ
たとしても虚偽である。むしろこの鮎では、川路柳虹氏の唱へ且つ試作して居る「新律格詩」の方に、僕等の
敬顆すべき重要な意見が含まれて居る。川路氏の説によれば、口語の音律は文章語のそれに此して、一般に問
のぴがして音節が長いといふのである。しかし大慣に於て口語詩は、自由律の場合に於ても、一定の公則的音
敷律を取るべき筈だと言ふのである。これによつて川路氏は、多くの口語自由詩を分析して、最大公約数的音
律を蜃見し、その基本の上に所謂新律椿詩を創見して居る。
 この川路氏の詩畢に就いても、自分は伶多くの納得できない疑問を抱いて居る。だがその詳論は此虞で述ぺ
ない。ただ上述の如き口語自由歌と封此するため、古語で歌はれた別の自由律歌をあげて見よう。
27イ
大和の高佐士野を七行く少女ども誰れをし巻かむ。
尾張にただに向へる一つ松、人に有りせば衣着せましを、太刀はけましを。
 かうした上古の歌が、常時の日常口語であつたか文章語であつたかは此虞に問はない。もし日常口語であつ
たとすれば、常時の新移住民たる上古の大和民族が、いかに雄健豪壮な詩的情操を持つて居たかが解る。なぜ
なち前に言ふ通り、言葉はそれの創造者である民衆の生活感情そのものを音律の上に呼吸づけて居るから。そ
して此等の自由律歌には、相官の緊張した音楽的の節奏があり、高邁な詩的感動を内に資質して居るから。こ
れに反して今日の口語詩や口語歌が、概ね皆眞の詩的本質を持たないのは、今日の日本語が江戸時代の言葉の
績きであり、町人的卑俗の民衆感情以外に、インテリ的の高翔した詩的情操を内包して居ないからである。非
町人的、非卑俗的の貴族的情操を詩に歌はうとする場合に、盲人はその日常口語を捨てて文章語のリズムを選
‥汚梢∵イ・さ、卓−
んだ。そして僕等の今人もまた、殆んどまたそれ以外に良法がない。この場合に、記紀や菌実の古歌が常時の
 →磯題意
て】課題凋川畑
口語で歌はれたといふ理由を以て、直ちに現代の詩人にも口語を張ひるのは非論理的である。況んや現代では、
民衆の生活感情が次第に散文的になりつつある。そして勿論、言葉もまたそれに伴つて行くのである。
 川路柳虹氏は、口語と文章語の比較に於て、口語の特色が間のぴして居ること、音節律が長いことを指摘し
て居るが、音節律の長いといふことが、それ自ら散文的であることを示すのである。口語で新しい韻文を創造
しょぅと欲するならば、何よりも先づ口語の音節律を短縮させて、もつと強い響の出るやうに緊張させねばな
らないのである。そして現に今日、一汲の口語歌人と口語俳人とが、この目的意識によつて創作し、口語の新
しい改造を試みて居る。
烏には巣あり。狐には穴あり。されど人の子は枕する所なし。(文章語)
       ▲             ▲
烏には巣がある。狐には穴がある。けれども人の子
    ▲      ▲
は枕をする所がない。(口語)
 この両者を対比して見よ。文章語の音律が強く緊張してゐるに此して、口語が如何にだらだらと生ぬるく閲
ぇることぞ。そしてこの理由は、口語の方に▲印の附いてる語だけ、よけいな説明的な助鮮(が、を等)が入
つてるからである。
日本人此所にあり(文章語)
     ▲
日本人は此所に居る(口語)
2〃 詩人の使命
「▼

 この簡畢な例でも、やはり口語の方には「は」といふ説明的な助辟が入つてる。そのため口語の方には、音
節と音節との谷間にある休止や抑揚の浪が滑されて、メリハリのない平坦な一本調子になるのである。「音律
に浪のない言葉」それは即ち散文である。そこで口語を韻文化する為には、かうした邪魔物の助節を除き、語
句と語句との問に節律の切れる谷を作ることが必要になる。このことを意識して(或は無意識に直覚して)口
語詩を書いてる人々が諸方に居る。特に俳句を作る人々に澤山居る。次の例は荻原井泉水氏の句である。

                か ら だ
  桂ひきわれる凍る夜の身膿もませる
  二階降りて靴はくに蛙また開ゆ
2ア6
 この前の方の句は、本来ならば「柱がひきわれる」「身膿をもませる」と言ふべき所を、助鮮の「が」「を」
を除いて居るのである。後の句では「二階を降りて」「靴をはくのに」「蛙がまた」となるぺき所を、同じく
「を」「が」等の助鮮を除いて居る。そのため語句と語句との間に音節の切れ目が出来て、韻文的な抑揚感を帯
びるやうになつてるのである。これを若し口語の文法通りにして、

 二階を降りて靴をはくのに蛙がまた聞える

としたら、どこにも韻律の節奏がなく、全く普通の散文になつてしまふ。歌壇の方にも、この同じ行き方で口
語の自由律歌を書いてる人たちが居る。次に示すのはその一例である。

  有楽町ホームの寒さ日がくれて立てば冷々冬の風
『臣医巨r.

王l■暑_一■
l一1一一一り▲nノ
Z周瀾礪瀾 巾.、甥、。
       この類のものは、言はば一種の攣態口語であつて、何か不自然で舌足らずの感じがする。だが今日の問題と
      しては、かうした試みもまた大いに有意義な創作である。要するに目下の急務は、現代口語を基本として別の
     「新しき文章語」「新しき韻文」を創建することの仕事にある○その新しき韻文が出来上つた時、初めて僕等の
       時代のポエヂイが表現の道を見出したのである。
ー隷畑題叩題血
どβ。題叫ぷ
別項「純正自由詩論」を参讃されたし。
俳句の解繹について
僕の近著「郷愁の詩人・輿謝蕪村」は、意外に俳壇の反響を呼び、諸方の俳句雑誌で批評された0特に「草
上」の伊東月草氏と「ぬかご」の姑洗子氏とは、非常に好意のある推賞の批評を書かれ、併せて僕の句解の至
らぬ誤謬について指摘された。本の自序にも書いた通り、僕もとより無学にして文厳に昧く、特に俳句の方は
門外漢に属するので、専門の俳人諸家から見て、所々に笑ふべき妄見があるべきことは漁期して居たが、此虚
に両氏の指摘教育された所を見て、今さら乍ら自分の無知を羞恥赤面するばかりである○
 しかしながら自分は、かうした俳人諸家の説に摸し、この方面のいはゆる専門家が、いかに僕等の詩人とは
2アア 詩人の使命

ちがふ仕方で俳句を賂稗しでゐるかを知り、いささか意外の新知識をも得た。僕もとより諸家に反駁するもの
ではなく、むしろ膝下にひざまづいて教を乞うてるものであるが、二囲また僕の所見をも披浬して、ポエヂイ
に関する彼我態度の相違鮎を明らかにしたいと思ふのである。
2ア8
肝取臣ぎF
肝野
詩といふ文学は、本質的に言つて樽二種のシムポリズムである0詩は音楽と同じことで、讃者の方で勝手に
イメージを構成し、讃者の主観で勝手に意味をつけるのである0それ故詩歌の解繹は、讃者によつて夫々個人
的にちがふぺきで、一定した原稗といふものがある管はない0シミハンの或る音楽を、或る人は雨の鮎滴の描
馬だと言ひ、或る人は戦争の小銃の音だと解挿し、雨汲の問に有名な議論があつたが、詩の方でもさういふ議
論が、時にしばしば繰返されて居るのである0そしてこの場合の裁判は、南方が正しいと言ふ外はない。
 しかしながら詩を「勝手に鰐澤する」といふことは、もちろん或る「限定の下に」を條件してゐる。いくら
シムポリズムだと言つても、原詩の言葉に全く無いやうな意味をコジつけたり、文献季の考謹上で、あまりひ
どくまちがへたりしたやうな鰐滞は、もちろん正しい解稗として許されない。専門の俳人や歌人たちが、詩歌
の愚史的考澄を厳重にし、文献畢の知識をやかましく言ふのは、つまりさうした誤謬をすくなくし、詩句の解
澤をできるだけ安富にしょうとするためであり、全く正富の仕事である。しかしながらまたその為に、詩がシ
ムポリズムとしての本義を失ひ、聯想性の狭く限定された詰らぬ文学に固化することも、往々にして彼等専門
家の犯す害毒である0畢責僕等のやうなアマチュア詩人が、時に局外者の見地から許稗を試みるのも、かうし
た専門家によつて考澄畢的に硬化された詩を、再度本質の水々しいリリックに還元し、失はれたシムポリズム
 者掴硝すろために外ならない。
 さて初めに言ふ通り、詩は或る限定の下に於て、讃者に自由な鮮繹を許すのである0そこで例へば、

  身に姑みる風や障子に指の跡

と云ふ句に封し、作者の千代女が貧乏して、子供持ちの俺住居を悲しみ歌つたものだと停滞する人があつたと
した所で、決してそれを間違ひとは言へない。さういふ解繹も有り得るからである0しかしその牌梓は、他の
普通の解繹であるところの、亡兄への追懐を悲しんだ句だといふに此して、聯想の範囲が狭く、詩情へのシム
パシイが浅薄である。故にこの後の解帝の方が、一般に正しいとして普遍的に認められてゐる0そしてこの場
合に「正しい」といふ意味は、解稗に於ける詩情の汲み方(シムパシイ)が深く、したがつて静説としての
「償俺が高い」と云ふことなのである。厳重に言へば、決してそれは「正」とか「偽」とかいふ問題でない〇

  二人して結べば濁る清水かな

   ′し 爪り 蕉]‖州‖爪り俳・句・′〃1、 江戸ノ時代 爪mり‖正窪什・芳川小等‖は造・農丁・‖氾H けト鉾付廿肌した〇  ∧ノ ⊥・寸ム.・り 一 九‖ハ で行 へ ば叫止椚 い ′∪−/」J山川L− 一一一八 巾し⊥〕†ny
扱 け.ト盟仰M ∧ハノ ′−、一・盟山Wけh・′いd ↑LhV −′し一一」JHH 〉Lj 爪=り 巾し J爪り †∧J O  一 ⊥∩パ イし僕等‖H‖‖は、  r}.れ J・‖>】点叫仙‖打 爪〓り ‖小川叫.一広・・丁・時代 け.ト 山■肘1爪」什り る− 皿山ヨ 爪り 小J・・⊂..い.d付H仰仙Wl川ハ ∧、 ■mり 追
懐・β1、 小川ヰし仙一頴〜山川Jい・h⊥巷仰H爪り H=H・カ〜 へ 爪り、 帖件川しい時間‥田丸卜u肋M仙州愁♪い」1一し席斉し一−・1れける0 γし 仇mり恵m方爪り膚却比冊には1 到・底一致動乱仰
を見出し筍禿いほどのギャップがある¢しかしこの両方共が、決して闊達ひとは言へないのである8
 題
芸.題i
    /
1J ハ〓.藤川〓−付い爪い胆仙川J‖付−↓V一′ }い山ヽRl血M州・・ハH¶‖・川い卜小川・¶州頸訊什・{心m付宰‖引枇艮阜↑=印Hl巾M州叫‥いげhr爪−J l打J o  へ\・〜〜々・爪い11 」 1‖八トノ前川 ハ 割り山山山川.‥V Y J −1J・、uJ− 」 」 人卜J†でnV

ちがふ仕方で俳句を静稗してゐるかを知り、いささか意外の新知識をも得た。僕もとより諸家に反駁するもの
ではなく、むしろ膝下にひざまづいて敦を乞うてるものであるが、二囲また僕の所見をも按摩して、ポエヂイ
に関する彼我態度の相違鮎を明らかにしたいと思ふのである。
2アβ
野野臣ゝ‘
野匪掛臥賢1
詩といふ文学は、本質的に言つて樽二種のシムポリズムである0詩は音楽と同じことで、讃者の方で勝手に
イメージを構成し、讃者の主観で勝手に意味をつけるのである。それ故詩歌の辟稗は、讃者によつて夫々個人
的にちがふぺきで、一定した原稗といふものがある筈はない0ショパンの或る音楽を、或る人は雨の鮎滴の描
馬だと言ひ、或る人は戦争の小銃の音だと鮮繹し、雨汲の間に有名な議論があつたが、詩の方でもさういふ議
論が、時にしばしば繰返されて居るのである0そしてこの場合の裁判は、南方が正しいと言ふ外はない。
 しかしながら詩を「勝手に鰐澤する」といふことは、もちろん或る「限定の下に」を條件してゐる。いくら
シムポリズムだと言つても、原詩の言葉に全く無いやうな意味をコジつけたり、文戯寧の考謹上で、あまりひ
どくまちがへたりしたやうな牌稗は、もちろん正しい鰐繹として許されない。専門の俳人や歌人たちが、詩歌
の嵐史的考澄を厳重にし、文献畢の知識をやかましく言ふのは、つまりさうした誤謬をすくなくし、詩句の解
繹をできるだけ安富にしょうとするためであり、全く正富の仕事である。しかしながらまたその為に、詩がシ
ムポリズムとしての本義を失ひ、聯想性の狭く限定された詰らぬ文学に固化することも、往々にして彼等専門
家の犯す害毒である0畢責僕等のやうなアマチュア詩人が、時に局外者の見地から許稗を試みるのも、かうし
た専門家にょつて考澄畢的に硬北された詩を、再度本質の水々しいリリックに還元し、失はれたシムポリズム
 孝一周贈号冬拒め▼に外ならない。
 さて初めに言ふ通り、詩は或る限定の下に於て、讃者に自由な解帝を許すのである0そこで例へば、

  身に弛みる風や障子に指の跡

と云ふ句に封し、作者の千代女が貧乏して、子供持ちの俺住居を悲しみ歌つたものだと屏辞する人があつたと
した所で、決してそれを間違ひとは言へない。さういふ解繹も有り得るからである0しかしその解繹は、他の
普通の解稗であるところの、亡兄への追懐を悲しんだ句だといふに此して、聯想の範囲が狭く、詩情へのシム
パシイが浅薄である。故にこの後の解稗の方が、一般に正しいとして普遍的に認められてゐる0そしてこの場
合に「正しい」といふ意味は、解稗に於ける詩情の汲み方(シムパシイ)が深く、したがつて静説としての
「償値が高い」と云ふことなのである。厳重に言へば、決してそれは「正」とか「偽」とかいふ問題でない〇

  二人して結べば濁る清水かな

 この帝村の俳句を、江戸時代の註稗家等は道学的に解説した0つまり一人で行へば清いことを、二人でする
故に濁つて悪になると言ふのである。一方で僕等は、これを蘇村の幼年時代に於ける、昔の小さな懸人への追
懐や、小川で遊んだ春の日やへの、侍しい時間的な郷愁だと解澤してゐる0この南方の解澤には、到底二致鮎
を見出し得ないほどのギャップがある。しかしこの両方共が、決して間違ひとは言へないのである0
 そこでこの裁判を開くとなれば、作者の蕉村その人に聞く外はない0そしてこの旬に限らず、すべての詩歌
俳句といふものは、結局作者自身に解繹を聞く外はないのである0そこで近頃の俳壇には、作者以外の人の評
滞は、一切無用だと言ふやうな議論さへも有るやうだが、詩歌の面白味といふものは、讃者によつて異つた別
別の解繹をする所に、そのシムポリズムとしての意味があるので、作者はむしろ註澤せず、一切款つて讃者に
2ア9 詩人の使命

野トド

任す方が好いのである。なぜなら、詩歌の作者といふものは、自分の書いたことに封して、自分で「全膿の意
味」を知らないからである。これは詩歌に限らず、文学といふものは皆さうである。故にアンドレ・ジイドも
日記で言つてゐる。著者は何事も知らない。自分の著書に関する批評を讃む時、讃者が自分よりも多くを知り、
自分の意識しなかつたことまで、常にょく批判して教へてくれるので、益ヒ自分の知らないことを知つて驚く
のみだと0つまり文畢といふものは、作者が書かうと意晒した事以外に、多くの無意識の月牽がかかつて居る
ので、そこに却つて眞の本質があるのである。特に就中詩歌はさうである。詩の最も書き解繹者は、常に作者
でなくして讃者である。作者は夢遊病者のやうなものであつて、自分の書いたことについて、自分で認識を持
たないのである。
 そこでかうなつて来ると、詩の鰐繹の正解について、一人の裁判官も居ないと言ふことになる。多くの場合
に於て、それは大衆の輿論が極めるのである。その大衆の輿論は、前に言つたやうな債値の優劣1鮮澤に於
けるシムパシイの深度、詩情へのタッチの程度、語義に於ける安富性の有無等−によつて決するのである。
つまり言へば詩の許繹では、「まちがひ」とか「正しい」とか直別があるのでなく、畢に「浅薄な解繹」と
「高遠な鰐繹」との許償の判別があるだけである。
 そこでいはゆる専門家の鰐繹といふものは、字義の考澄寧的批判に捉はれ、文法的な安富性のみを重硯する
爵、前言ふ如く往々却つて無償値な低劣の批判になり易い。一例として蕪村の句、

  片町に更紗染めるや春の風

を、成る専門俳人は併読して、帝村が江戸に旗行した時の句だと言ふ。なぜなら片町といふのは、江戸の故事
 にあづた町名であづで、染物鼻が軒を並ぺて居たからだと言ふ。史質的に考澄して、或はさういふことがあつ
2β0
 たか知れない.しかしそれだつたら、この句のボエヂイは牛分以上減殺され、諸味の甚だ浸いものになつでし
まふ。この片町は陶有名詞でなく、漠然たる代名詞である所に、句の面白味が存するのである0

  人無き日藤につちかふ法師かな

 この蕉村の句は、一般に解される限り、田舎寺の閑寂とした董景を赦してるのである。然るに或る俳人は、
これを駁して浅薄な俗説とした。その人の説によれば、「人無き日」といふ言葉の中に、人目を忍ぷといふ意
味が包括されて居るのださうである。なぜなら藤の肥料は酒粕であり、寺に酒粕のあるといふことが、秘密な
問題になるからである。そこで参詣人のない日を選んで、こつそり藤につちかふといふ意味だ皇己ふ0勿論か
ぅした解澤も一説であり、決して間ちがひとは言へないのだが、詩をこんな風にヒネくつて鮮澤しては、りリ
シズムの情趣といふものが死んでしまふ。そして専門家の解繹といふものが、往々これに顆するのである。
 以下、月革氏と姑洗子氏とが、僕の蘇村俳句の解澤に関する誤謬として、親切に指摘して下された各句につ
き、いささか僕の不審鮎を提出し、重ねてまた両氏の御教示を仰ぎたく思ふのである。

 春雨や小磯の小月滞るるほど

僕はこの句を鮮繹して、終日霜々として降り績いてる春雨の中で、磯の小貝が濡れてるといふ情景に解繹し
たが、月革氏はこれを誤蒋であり、小月が濡れるほど、僅かに降つてる小雨だと言ふ。「ほど」と云ふ言葉に
文法上の重心をおいて見れば、月草氏の言ふ通りに解拝されるが、元来春雨といふものは、終日罪々として降
2βJ 詩人の使命

り績くものであり、そこにまたこの俳句の中心的なりリシズムが存するのである。ちょつと降つてすぐ晴れて
しまつたやうな小雨だつたら、この句の春怨的な抒情味は成立せず、意味のない句になると思ふ。終日降り績
いて居るにもかかはらず、磯の小只のかすかに濡れるほどであるところに、各雨のかすかな侍しい詩情がある
のではなからうか。

 白梅や誰が昔より垣の外

 月革氏はこの句を鰐繹して言ふ。「何の都合かわからないが、祝さら立木を垣の外に出してあるやうな場合
をよく見かけるが、この句もそれで、いつ頃から白梅を外に出して垣を結ぶやうになつたのだらう? といふ、
妙にそぐはぬまとまりのつかない感じが、この句のモチーグになつて居るのではないかと思ふ。」と。この月
草氏の鰐揮は、俳壇の方で定説になつてるものか香か知らないが、もしさうだとすれば、いはゆる俳人諸氏と
僕等の新詩人とが、かうした句に対するイマジネーションの相違について、いかに方向がちがふかを驚くの外
はない○月草氏によれば「誰が」「白梅を」「昔より」「垣の外に」出したのだらうと言ふのであり、僕の解帝
によれば「誰が」「昔より」「垣の外に」白梅のやうに件んでゐるのだらうと言ふのであるから、これは似ても
似つかぬ全きり別々の鮮澤であり、むしろ滑稽な位の相違である。前にも論じた通り、詩の鰐蒋は讃者の随意
であるから、あまり文法的に無理なコジツケがない以上、かうした異つた別々の解説に封しても、何れを正邪
と判定することはできない○つまりどつちも正しいのであらうけれども、償値にょつて批判を決定する場合は、
原詩のりリシズムを深く汲んで、聯想の像情を影深く鰐澤したものの方が、秀れた註解といふことになるので
ある0特にこの旬の如きは、蕪村の詩情が特色してゐる平安朝趣味や、幼年時への撥に似たノスタルジアやを
 考へる時、僕の牌辞の方に充分の根嫁があると思ふ。
ガ2
 ■k
什臣−肘
地車のとどろと尊く牡丹かな
革の雨祭の車過ぎて後
ぅら枯やからき目見つる漆の樹

 この最初の句の「地車」は、僕の解したやうに地軸のことでなく、祭事のやうなものを指したのだらうとい
ふ月草氏の指示は、僕も初めから思考したことであつて、充分に懐尿を持つて居たのであるが、結局何れにし
ても詩の註澤には攣りがないので、意識的に新しい字解を選んだのである。第二句の「草の雨」の句で、この
祭が祀園合でなく、加茂の祭であるといふ御教示、及び第三句の「うら枯」に関する俳句の習慣的解繹等は、
すべて僕の無知が致すところの誤謬であり、さすがに専門家の知識をありがたいものに思つた0かうした俳句
の用語上に於ける習慣や作法の顆は、僕の殆んど全く知らない所であるから、文句なしに御高説を敬聴して、
自ら大いに畢ぷょり仕方がない。
 次に「ぬかご」に掲載された姑沈子氏の批評について一言しょう。

  閑古鳥寺見ゆ変林寺とや言ふ

 この句について姑洗子氏は言ふ。「作句人は本官の自然を眺めたい。本官に自然の姿を認識しなければなら
ない着任があるから、閑古鳥といふやうなものに対しても、賓在する鳥か、想像の鳥かも突き詰めて見なけれ
ばならない。」と。それで僕の解稗−杢に閑古鳥が飛んでるといふ解繹Tも、それが賓在しない鳥である
故に、ウソの解帝であつて、作句人の許さない所だといふ。また「変林寺」といふのも、それが賓衣する寺で
ガ∫ 詩人の使命

 ■賢.
あるか香かを、文献について調べない以上、作句人としては許せないと言ふのである。この姑洗子氏の思想は、
詩論としての哲畢上で、僕に根本的の不審を抱かせるものがある。作旬人、即ち一般に言つて詩人が、本官の
自然の蛮を書かなければならないといふのは、議論の験地なく眞音のことであるが、その「本官の自然」とい
ふことは、歴史上の事賓とか、畢なる物象の感覚的存在とかいふことの考澄とは、本質的に関係のないことだ
と思ふ。詩はもとより学問ではないのだから、作句人はそんなことの眞偶について、科挙的の調査をする必要
はないと思ふ。かうした姑洗子氏の思想は、おそらく子規の馬生主義から俸統して、俳壇の一部に深く根を張
つてるものだと思ふが、僕はつまらない偏見だと思ふ。かういふ鮎では、僕は却つて逆に専門家の俳人諸氏を
啓蒙したいと思ふのである。(子規の馬生主義は、句作に於ける「想像性」を排斥して、目前のスケッチのみ
を唱導した。そのため俳句がイメージの廣遽性を焚失して、内容の浅薄な小さなものになつてしまつた。この
馬生主義の詩挙が、今でも俳壇に俸統して居るのである。)

  日の光今朝や鯵の頭より

 姑洗子氏によれば、これは節分の夜、格と顔の頭を戸外に刺したものが、立春の日の旭光と共に流れて来た
印象だと言ふ。これは僕が初めて聞いた註繹であり、まことに卓越な名論であると思ふ。しかし僕の騨澤も、
氏の断定されたやうに、決して間違ひであるとは思はない。僕はこの句を解して、蕪村が子供の時に遊んだ、
イロハ骨牌の檜を聯想したのだと言つた。そしてこの同じ解繹は、かつて子規の編纂した蕪村解繹書中で、た
しかに高濱慶子氏だかもして居るのである。僕はその先説を模倣したわけではないが、それが正しいと信じた
 ので、偶然同じ併読に落ちたのである。子規の縞した「蕉村句集」の解澤は、虚子を初め、数人の門下生が集
 まづて合評的に暴見を述ぺてるものであるが、その一人一人の解澤が皆ちがつて居り、一も同じ符合がな/\、
2βイ
葵…各人赦せ輸鞄を主張して私論して居る。俳句のやうな詩の鮮帝で、一つの辞謀だけが正しく、他はず鳩考課つ
 て居るといふやうな考へは、少しく濁断的にすぎると思ふ。僕は妨洗子氏の屏謀を卓見として推腺するが、何
 時に僕の説も誤つて居ない事を主張したい。

   懸さまざま願ひの綽も白きより

  この句は賓に難解の句で、正直のところ僕にはよく解らなかつた。子規の鮮澤を讃んでもよく鰐らないと言
 ってるし、僕の知つてる限りに於て、或る一人の俳人だけが、やや具膿的の説明をした。その人の説によると、
 懸はもと純白のものであるが、心境によつて色々な色に欒化するといふのである。この説にも僕は大いに不満
 であつたが、姑洗子氏の説明により、それが七夕祭の少女等が掛ける願の綿だといふことを知り、初めて漸く
 納得ができ、すつかり敬服してしまつた。僕の鮮拝もまちがひとは思はないが、姶洗子氏の方が考澄的に根接
 があるので、この句については文句なしに降参する。
 伶「凧きのふの杢の有りどころ」や「薮入の痩るや小豆の煮える隙」の句を、僕の著書に於て冬の部に編入
 したことを、姑洗子氏も月革氏も共にひとしく誹議されて居るが、これは僕に所感するところがあり、わざと
 さうしたのである。北風にうなつてる凧の句を水ぬるむ立春の季に入れるといふことは、今日の暦に於て、全
 く季節的に不合理であり、且つ讃者にも的確な聯想をあたへない。一月と二月の句は、今日の新暦に馴れた讃
 者のために、冬の部に入れるのが正常であると思ふので、故意にさうしたのである。(このことは「生理」に
 連載した時に説明したが、本になつてからは除いた。)
以上、月革氏と姑洗子氏について書いたことは、たまたま両氏を代人として、僕の俳壇人に封する寸感一端
2βj 詩人の使命

を述ぺたのである。つまり言へば僕等の詩人は、俳句といふポエヂイに関する限り、専門の俳人から大いに教
はるべき所があると共に、一方でまた僕等の方から、彼等の専門家を啓優しなければならない所もある。そし
てこの南方の取引する交流鮎に、たまたま僕の近著「輿謝蕪村」が現れたのである。故にこの僕の著書は、一
方俳人諸家によつて、その文献的映鮎を訂正していただくと共に、一方で逆にまた俳人諸家を、高く正しい見
識に指導する所があると信ずる。
2∂β
芭蕉俳句の普欒性について
 俳句と和歌とは、日本の詩の二大分野であり、共に純粋の抒情詩であるけれども、そのりリシズムの表現様
式には、多少趣きの異つたものがある。概して言ふと、和歌の方は主観的態度が強く、心情の嘆き訴へるとこ
ろの感傷性を、そのまま直接に表現して詠嘆する。之に反して俳句の方は、概して皆客観的であり、主観の心
緒そのものを、直接に詠嘆するといふことがない。俳句の場合にあつては、作者の主観とりリシズムが、常に
自然風物の背後にかくれて居り、言はば「止揚されたるりリシズム」「揚棄されたる主観性」となつて居るの
である。もつとも和歌の方でも、常葉の所謂「寄物陳思」のやうに、客観の物にょせて思ひを叙べたり、或は
もつと純粋に馬生的な風物歌もあるけれども、俳句に比してリリックの本質がょり主観的である。といふわけ
は、和歌の形式する韻律格調が、本来リリカルの生一本な音楽性を持つてるからである。そこで例へは、
欄当山′一
彗、`→パづ
 1 ▼「
\ 習ゼリメ3…・;
当ト◆」▲一つノミd〉 、J→一ガW
ノヨ天嫁卜触る夷の長造ゆ樽ひ来れば明石の門より大和島見ゆ
 巻向の檜原もいまだ雲居ねば子松が未ゆ泡雪ながる

、づ∵1′。.1ぺ絹.パ湖崩瀾欄淵棚還
といふ顆の歌は、純粋の客観的風物歌であるにもかかはらず、これを朗吟する人の心に、一種の芳烈なりリン
ズムを感じさせる。なぜなら和歌の律格してゐる調べ (音楽)の中に本質的にさうしたりリシズムがあり、和
歌の構成されてる骨格自身が、主観的の主惰性に富んでるからである。つまり言へば、短歌といふ詩の一形式
は、さうした直情的のりリシズムを歌ふために、本来出饅的に生れたものなのである。(この鮎から観察して
も、客観的馬生主義を以て歌の本道と考へてる今の歌壇、特にアララギ汲の歌壇は邪道である。)
 之に反して、俳句の方は、一般に非主観的であり、りリシズムが常に客観(自然風物)の背後に隠され、陰
に止揚されて居るのである。即ち例へば、


  枯枝に・鵠の止りけり秋の暮

といふ句の如く、表面上の作としては、俳句は単に自然風物を叙するにすぎない。この句に本質してゐる芭蕉
の詩精神は、荒蓼たる魂の孤濁を嘆き悲しんでゐるのだけれども、その詩精神の本質たるりリシズムは、句の
表面には現はれないで、客観の陰に止揚されてゐるのである。稀なる例外を除いて言へば、俳句は和歌の反対
であり、主観の直情的な感傷やりリシズムを決して叙ぺない。稀にさうした俳句があつても、それが讃者に輿
へる感銘は、やはり俳句的の感銘であり、短歌の如き直情的強烈なりリシズムを感じさせない。なぜなら俳句
の詩形式そのものが、和歌に此して非情緒的、非音楽的であるからである。勿論俳句と錐も、本質的に詩の一
種である以上、韻律の構成する必然の書架性は具へて居るが、短歌との此較上で、それがより稀薄であるとい
2βア 詩人の使命

ふのである。
 さてかうした講義を前提したのは、俳句のかかる一般的公式の中で、芭蕉の俳句は最も音楽性に富んで居り、
したがつてまた和歌に近く、主観的、直情的のリリックであることを特に説明しょうとしたからである。先づ
例をあげて見よう。

  この秋は何で年よる雲に烏

 かうした芭蕉の句が、讃者に深い感銘をあたへるのは、勿論その詩想の績紗としたイメージにある。しかし
その最も基調となつてるものは、句の構成されてる調べ (音楽)の魅力にあることを知らねばならぬ。「何で
年よる」といふ言葉の、投げ捨てたやうな深い嘆息は、言葉の意味からくる以上に、その音萌の調子、抑揚の
メリハリに存するのである。さらにまたこれを受けて、三句の「雲に烏」の面白味は、言葉のイメージにある
と共に、一方その音調の諷逸として、軽く唐突に出て、しかもどこか悲しくあきらめたやうな節廻しに存する
のである。
 芭蕉の俳句は、かうした音楽性の高い鮎に於て、すべての俳句中での例外でもあり、またピカ一的の存在で
もある。したがつてまた彼の俳句は、その本質精神に於て和歌に近く、主観の直情性が強烈である。この鮎に
於て見れば、輿謝藤村はもつと純粋に客観的であり、俳句的俳句としての典型でさへある。帝村の句には、一
種の音葡表象によるテクニックが極めて巧みに用ゐられてる。例へば、
∬β
WF町卜
川欝の鳴くやあち向こちら向
倦のあちこちとするや小家がち
本の鮎りひねもすの たりのたり哉
等の句に放て、最初のT一首は篤のチョコチョコする動作を、最後の句は浪の悠々たる動拷を、その「あち向こ
ちら向」「あちこちとする」「のたりのたり」等の言葉の音哉によつて描出してゐる。その意味に於て、蘇村の
句は「音象的」ではあるか知れないが、決して「音楽的」ではないのである。詩に於て「音楽的」と言はれる
ことは、本質にりリシズムを所有し、讃者にそれの陶酔を感じさせるものを言ふのである。然るに帝村の湯合
は、その言葉の音象によつて、或る封象の自然を檜董的に描馬して居るのである。故に讃者は、かうした句か
ら一の檜量的、馬生的の印象を感ずるけれども、決して芭蕉の俳句や人麿の和歌に於けるが如き.、眞の抒情的
なりリシズム (音楽的陶酔)を感じはしない。蘇村の俳句に於て、その詩精神の本質たるりリシズムは、いつ
も必ず句の表面から隙されて居た。
蛸壷やはかなき夢を夏の月
志るなよ薮の中なる梅の衣
 この種の数多き芭蕉の旬を、前提の蕉村俳句と比較せょ。蕪村が「音象的」であるに対して、芭蕉が、「音
柴的」であるといふ意味の言葉の直別が、おのづから分明に解るであらう。芭蕉の句は、それを饗に出して朗
吟する時、初めてその深い詩情が解つてくる。またおのづからして、馨に出して歌ひたくなるやうに、頚律の
調べが出来て居るのである。芭蕉自身も、また常に意識して、調べに苦心し、弟子に向つても「俳句は歌なり。
調べを旨とすべし。」と敦へて居たと言ふ。また俳句の表現に於ける調べ (節奏)は、それ自ら心の節奏の調
2βク 詩人の使命

ぺである故、句の情換する内容の心と、表現の音楽とが一致しなければならないと説き、その例として、

  何にこの師走の市へ行く鵜

をあげ、この種の烈しく突つ込んだ詩想には、この 「何にこの」の如き急迫激越の調べが必要であると説いた。
まことに芭蕉俳句の無限な魅力は、その一つ一つの句に於て、夫々異つた詩想に準じ、夫々また調ぺの風韻を
異にしてゐる所にある。

  しつ
  閑かさや岩にしみ入る蝉の牽

 この句はサ行∽ヂSi.mき∽の、SOの音で規則的に押萌して居る。このため蝉のsi:二=Si=こ=乳=…・といふ鳴馨
がどこかで夢幻的に聴えるやうなグィジョンをあたへる。この限りに於て、蕉村と同じく音象的な句であるけ
れども、全鰹としてほやはり音楽的で、内容にふさはしく静かな閑寂の調べをもつてる。

  あら海や佐渡によこたふ天の川

 デdの句の雄大な詩想については、皆がょく論じて居るが、この句の音龍構成については、あまり人々が論じ
て居ない。初旬先づ「あら海や」とAの雄大な母音で起し、二句を強く引きしめてから、三句にまた「天の
川」のA母音を、初旬と封此に押領し、以て全健に廣表江洋たるエビカルの調べを歌ひあげてる。しかし芭蕉
の本領は、かうした旬よりもむしろ、
2夕0
煽痛も出でょ浮世の衣に烏
蛤のふたみに別れ行く秋ぞ
等のしんみりした感傷のりリシズムにあるのだらう。かうした芭蕉俳句のりリシズムが、どこか本質的に和歌
のそれと通じてゐるのは、芭蕉が好んで和歌を愛讃し、その詩精神を俳句に俸承した為に外ならない。特に芭
蕉は、「新古今集」を最も愛讃したらしく、西行を初めとして、定家や俊成の影響を多分に受けてる。

  唐崎の松は花より腱にて

 この句は定家の「春の夜の夢の浮橋とだえして峯に別るる積雲の杢」と同趣異巧の俳句であぺ「新古今」
のいはゆる繚紗幽玄鯉を俳句に癖取したものである。そしてこの「松は花より牒にて」といふ言葉のなまめか
しき馨調の中に、詩の一切の情想をリリカルに漂紗させてる。かうして特殊の技巧、言葉の音楽的飴哉によつ
て、ボエヂイとしての意味をシムポリツタに表現するのは、定家、俊成等の新古今歌人が得意とする所で、芭
蕉がこれを自家の俳句に換骨縛取したことは明らかである。
寂しさや華のあたりのあすならう
夙に匂ひやつけし辟り花
蝶烏の知らぬ花あり秋の杢
等の詩句、何れも皆「新古今」の象徴主義的幽玄饉を、巧みにそのエスプリに於て横取したものである。平安
朝宮廷文化の末路と共に、一時全く中絶してしまつた園詩和歌の精神は、元線の芭蕉によつて此虞にまた別の
2ク∫ 詩人の使命
匪E臣.aE


新しい形で復活してゐる。それは勿論、多分に町人化し卑俗化した物ではあるが、しかも何年俗牛倍の姿に於
て、中世の 「物のあはれ」や「ほのかなるもの」やが、芭蕉の俳句に息づいてゐるのである。しかもこの上裔
貴族の典雅なりリシズムは、芭蕉以後に於て全く日本の文学から失はれ、鎗はただ町人的な、あまりに野卑で
町人的な文学ばかりが、近世の徳川時代を濁占した。
 すべての主観的な文寧は、それ自ら表現に於て音楽的であり、すべての客観的な文学は、それ自ら表現に於
て檜董的である。所で、「詩」といふ文拳は、本質上に於て例外なしに主観的の文寧に属してゐる。詩に韻律
の約束があつて、散文にこれが無いのもその放である。しかしひとしく詩といふ中にも、比較上に於てより主
観主義的のものと、より客観主義的のものとがある。その主観的傾向の強い詩人は、必然に観念的であり、ド
グマチストであり、ヒューマニストであり、感傷家であり、そして表現上に於ける音欒至上主義者になる。欧
洲外国では、ゴルレーヌがこの型の典型的な詩人であつた。そして日本の俳人では、芭蕉が濁り主観主義者を
代表してゐる。彼の詩句に於て、言葉の調べが重要され、音楽が中心生命となつてるのは官然である。
292
       ′ /

。J男溺つ箋ジ棚1濁憎畑凋憎瀾瀾凋瀾瀾瀾瀾瀾凋瀾柑凋還
無からの抗争