日本の詩人

        現質的ロマンチスト

 原則的に言つて、仏蘭西には ADVENTURE の詩人が多く、独逸には SENTIMENT の詩人が多い。そこで伝説的にも、仏蘭西の詩人は主知派に属し、独逸の詩人は感傷派に属すると言はれるのである。(しかし感傷的ロマンチストの典型人は、何と言つてもトルストイ等の露西亜小説家であるだらう。)
 所で一体、日本の詩人はどつちだらうか。日本の昔の詩歌人たちは、「物のあはれ」のぺ−ソスを主題として歌つて来た。それは一種のセンチメンタリズムであるかも知れない。しかしこの日本的文学感は、明白に独逸的センチメンタリズムとちがつて居る。日本文学のぺ−ソスは、情緒的であるよりも趣味的であり、観念的であるよりも感覚的である。即ちこの点に於て、それはむしろ仏蘭西の詩精神に近いのである。日本人の「物のあはれ」は、独逸語や露西亜語の感傷でなく、もつと仏蘭西語のアンニュイやサンチマンに似てゐるかも知れないのである。
 日本人といふ人間は、民族性の血液から見て、最も仏蘭西人に似て居る所が多いのである。日本人はパッショネートの感激性を持つてるけれども、決して西洋風の意味でのSENTIMENTALIST ではない。SENTIMENTALISTであるべく、日本人はあまりにレアリスチックで、常識的実際家にすぎるのである。すべての感覚的のものは物質的である。そして仏蘭西人が感覚的である如く、日本人もまた感覚的であり、それ故に物質的、実証主義的の国民である。独逸ロマン主義の文学は、過去の日本に於て生育しなかつた如く、現代に於ても発育の見込みがない。日本に昔あつた詩文学は、仏教的ぺ−ソスによつて匂ひ籠められたところの、驚くべくレアリスチックの抒情詩だつた。日本の俳句の如く、モラルやロマン性を持たない反感傷主義の現実的ポエヂイは世界にない。
 日本の詩人は、西洋風の意味に於ての主知主義者ではない。だが同時にまた、西洋風の意味に於ての感傷主義者でもない。これは全く特殊な別世界の存在である。もしロマン的現実人問(現実的ロマンチスト)といふ言葉があるとすれば、日本の詩人は正しくそれに当るのである。過去の歌人や俳人もさうであつたし、現時のいはゆる新しい詩人たちもさうである。
 そこで僕等の意志することは、かうした伝統の詩人であるところの、あまりに現実的にすぎるプラグマチック・ロマン人間の一種属を、現代の日本文化から抛棄することに存してゐる。それは不可能の夢かも知れない。なぜなら僕等自身が、あまりに多く伝統の日本人でありすぎるから。
 しかしながら尚、それを理念するだけでも好いのである。